歴史ディープ旅続篇であります。
わが家系(「かけい」です。「いえけい」(笑)ではありません。)伝承では
どうもこの「英賀」が大きなポイントになるのです。
ご先祖さまは戦国の頃にここを拠点にしていたらしい。
司馬遼太郎さん本名の福田さん家系ご先祖さまともここでご縁があったようです。
司馬さんの文章を読み続けていて、その文体や思考の流れなどに
いつも親和性を感じさせられるのですが、実はこうした「発見」が与ってもいます。
司馬さんの「播磨灘物語」では、この英賀のことはほとんど触れていないのですが、
あとがきの部分でその経緯について司馬さんも書かれている。
どうもあまりに血肉すぎて書けなかった、というように。
戦国末期からずっと播州、そして関西圏で生き続けてきた司馬さん家系として
体験温度感が継続し続ける部分があるのだなぁと感じた次第。
その後、広島県に移りさらに明治期末に北海道に移住した家系のわたしには
この寒冷地移住「体験記憶」の方が大きくなって、
それが一段落してようやく、こうした故地のことを考えられるようになった。
そういった「違い」を大きく感じているところです。
で、ときどきこの「故地」に足を向けるようになっている次第。
そのなかでも「英賀神社」は、こうした時空間が長く保全されているので、
かならず訪れるようにしていた場所であります。
で、この建物は本殿よりもその前に建っている「拝殿」の方が特徴的だった。
拝殿が異常に広大で、お祭りの時にはこの拝殿に各町の「神輿」が「練り込む」。
ようするに大人数が神輿を担いで乱入するほどだった。
この英賀というのは、戦国期には石山本願寺の後方支援拠点だったようで、
一向宗の「英賀御堂」という宗教拠点もあった。
秀吉軍との話し合いで戦火にさらすのを避けるために亀山に移設した経緯もある。
ただ、この神社での「拝殿」のありようを見ていると、
一向宗独特の、まさに民衆「決起集会」場的な雰囲気を強く感じていた。
「仏敵織田氏を粉砕するぞ!」という掛け声もこだましていたように思える(笑)。
たぶんわたし自身の学生時代の学園政治闘争の空気感が、そのまま
この「拝殿」のありように感じさせられていたのであります。
このあたりはごく個人的な「感じ方」ではあるのですが(笑)、
「場の雰囲気」というモノが伝わってきて、強い共感を持っていた。
建築というものの持つ「磁場」のようなものが時間を超えて感じられたのです。
という次第で、個人的に大好きな建築空間であったのですが、
今回訪問したら、その拝殿が建て替え工事中。
神社の社務所で聞いたら、神輿の練り込みなどで土台や基礎の耐久性が
きわめて怪しくなってきて、今次計画になったということでした。
はるかな時間を経て「地縁」に繋がる者としては
失われた空間への残念感はあるのですが、地元のみなさんが神輿練り込みなどの
建築の機能性それ自体に大きく価値を認められて、
その継続を担保すべく、工事を決断されたことも深く理解出来る。
建物の写真は、2014年に訪問したときに撮影したものの一部であります。
内部には実にキッチュな掲額などがあって、いかにも民衆的な場の空気があった。
再建に賛同しつつ、以前の建物への郷愁も再度、呼び覚まされた次第です。
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