三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

建築のデザイン、暮らしのデザイン

2007年04月27日 05時58分33秒 | Weblog

建築への考え方って、いろいろ多様性はある。
しかし、こと住宅についていえば、
デザインのためのデザインっていうのは意味がないと思う。
住宅はそこに暮らす人があってはじめて成立するもので、
あくまでも、そのひとのくらしへの洞察とか、思いやりというのが
ベースにあって、建てられるべきものだと思う。
どんなに斬新なデザインであっても、その発想の起点において
住む人への心遣いが、背景として、感じられないものは意味がない。
言葉を換えていえば、「用」という絶対条件があって
それをしっかり満足させられる範囲で、デザイン要素は考えられるべきだと思う。

むかし、あるお宅を取材したことがあります。
設計は、東京の高名な建築家で、家は札幌にありました。
行くと、玄関前に大きなコンクリート剥き出しの、平滑でフラットな平面がありました。
大きさで10畳ほどもあるような、広さ。
玄関の三和土が外化したようなもの、ともいえるのでしょうか。
これがどのような「用」を果たしていたのかは不明なのですが、
たぶん、デザイン的な意味が強いものなのだと思います。
取材して、住んでいる人からそのコンクリート平面の意味の説明が語られませんでした。
で、奥さんの率直な意見として、
「冬になると困るのよね、凍っちゃって。玄関まで恐る恐る、ね・・・」
というご感想。
たぶん、零下の気温が続く冬の北海道の気象条件を把握していなかったのか、
いや、それ以上にデザイン的な直感性を優先させたのか。
いずれにせよ、結果としては
冬の間、住んでいる人は買い物荷物を抱えながら
転ばないように、慎重になってわが家に帰り着く生活を強いられていたのです。

敷地の条件とか、いろいろ把握する機会はあると思うのです。
そこに建てられれば、相当長期にわたって、
建物は使われていくもの。
そのときに、いろいろなシーンを想定してプランは考えられねばならない。
建築としてのデザインの、もう一方で、
もっと大きな意味合いの「暮らしのデザイン」が
しっかりと意図されていなければならないと思うのです。
だからといって、デザイン的な試みを否定するのではありません。
しかし少なくとも、そのように作られた意図は、建て主に明快に理解できなければ、
あんまり意味を持たない試みなのではないでしょうか?

最近、ある高名な建築の先生が寒冷地で建てた公共住宅で、
お風呂まわりの水道管が凍結して被害が出たということ。
「寒さは、我慢すべきものだ」という考えの持ち主ということで、
まぁ、そういうご意見をお持ちの方たちが、
日本のアカデミックな建築界の多くをリードされているようなのですね。

写真はきのうに引き続いて、能代・西方設計さんの社屋。
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