くらげのごとく…

好きなことを考えてふわふわ漂ってるような
時間が心地良かったりする。
たとえ時間の無駄遣いだったとしても…。

愛とエロスと盲目と…

2010年12月11日 | 観劇



谷崎潤一郎の名作「春琴抄」は、その昔、まだ10代だったころ、百恵&友和で映画化されたのをTVで見た記憶がある。春琴は美人なのに、無愛想で嫌な女性だったのと、佐助も最後に盲目になってしまう場面が印象的だった。伊豆の踊り子から始まって、潮騒、絶唱、風立ちぬ、古都など、このゴールデンコンビはすごい名作を次々と映画化してくれたもんだ。

舞台「春琴」を観に行った。当たり前だが、映画とはまるっきり雰囲気が違い百恵&友和のイメージが見事に崩れ去った。英国人のサイモン・マクバーニーさんが演出を手掛けている。英国公演などを経ての再演で、数々の演劇賞を総なめにした作品だ。評判通り、素晴らしかった。日本文化に対する異国人の視点と切り口がとても斬新だ。畳、三味線、鼓、筧、蝋燭、着物、人形浄瑠璃等が、舞台空間の中に、あますところなく使われて日本の美を表現する。1本の棒が、卒塔婆になり、襖になり、三味線になり、木になりと観客の想像力をふくらませる英国式演出、ひとつひとつの場面で細部にまでこだわりが見られ流れるような場面転換が見事だった。サイモンさんって、“日本オタク”なんじゃなかろうかと思わせるほど日本人以上に日本を調べて理解しているようだった。

盲目の春琴はある意味、人格破綻者だと思う。思わぬことで視力を失い、踊り手への目標が絶たれて音曲の道へいかざるを得なくなる。両親も彼女を過保護に扱い自立させなかったから、どこかで歪んでしまっている。そんな女に一目ぼれして尽くす佐助はいたぶられても、侮辱されても付いていく。二人はSMチックな関係でもある。主従関係から子弟関係、そして夫婦関係へと佐助は影のように一生を連れ添う。やがて、恨みを買うことも多かった春琴は、弟子の一人から顔に熱湯を浴びせあれ、美貌を失った。誰にも顔を見られたくないという彼女の願いを果たすべく、佐助は自分の両目を針で突く。

それを知った、春琴は告げるのだった。

「ほんとうの心を打ち明けるなら今の姿を他の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました」

佐助の愛は献身的で究極的のようだが、彼自身もまた歪んでいる人間だ。Mの自分をいたぶってくれる強くて美しい春琴が欲しかったからこそ、目を突き記憶の中に春琴を封印したとすると倒錯している愛になる。佐助は春琴を看取った後、83歳までの長い余生を盲目で生きる。美しい彼女との想い出を深めながら…。愛にはいろいろな形があるのだ…。

舞台では、物語が実はラジオドラマとして、現代にリンクしており、最後に観客に問いかけられる。

「あなたはどう思われますか?」

静寂な暗闇の中で、営まれる耽美な性愛。曖昧でぼやけているからこそ美しい。昔の日本にはこういう美があった。最後に舞台とは対照的な渋谷の雑踏の音が流れて幕となる。時代は、日本は変わってしまったんだなあ…。

改めて、谷崎潤一郎さんは凄いと思った。日本が誇る文豪だ。なんで、ノーベル賞、とれなかったのかなあ。