長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

元気にさけぼう、さようなら!!  ~三条会アトリエお別れ公演『ひとりごけ』~

2014年08月13日 22時56分18秒 | 日記
 くわ~い。どうもこんにちは、そうだいでございます~。夏休みもいよいよお盆を迎える段階に入りましたが、みなさま、暑さにも負けずがんばっておられますでしょうか?
 私はここ数年、お仕事のシフトの都合上、朝6時30分に起床するのが常態の生活が続くようになったためか、つい5年前くらいの私が聞いたらビックラこくような朝型人間になっておるようでして、たまにいただける休日でも、基本的にそのくらいの時間には目が覚めてしまう習性がついてしまいました。
 そんでま、久しぶりになんの予定もない本日も朝早くに起きてしまい、しかたなく明日のお仕事のための準備とか、来年1月の引越しに向けた部屋の整理とかをやっていたのですが、案の定、3時間くらい経った10時ごろに至福の2度寝タイム。そしてまた、日が高くなってギュギュギュンと急上昇した室内気温にたたき起こされるかのように、午後にまた起きるという自堕落なタイムスケジュールとなってしまいました。30すぎのおっさんが一人暮らししていると、たまの丸一日フリーはこんな無駄づかい具合になり下がってしまうんですなぁ。もったいねぇけど、そこがいいんだ!!

 今週は、16日の土曜日にわたくしめにとって生涯初の中野サンプラザ&ハロコンという、スッペシャルもいいところなビッグイベントが控えているのですが、それを目前にして貴重な休息日になりましたねい。う~ん、超ドキドキです。
 最近の我が『長岡京エイリアン』の記事の動向をご覧いただいてもおわかりのように、私は2014年に入ってからは、仕事の忙しさとか資格試験のための勉強とか、引越しの準備とかにかまけてハロー!プロジェクトの新曲のほとんどをチェックしていないという不信心ぶりになっておりまして、試験もなんとかしのいだことですし、早急にそこらへんを再起動させてコンディションを整えなければいかんのですが、まぁ~部屋はあっちぃし身体は仕事で疲れてるしで……いやいや、四の五の言わずに、聖地巡礼におもむくための精進潔斎に励みましょう。
 だってよう、8月にはハロコン、9月には℃-uteとBerryz工房の連日武道館、そして10~11月には第8代・道重リーダー卒業記念のモーニング娘。武道館コンサートときたもんだ。せいぜい健康に気をつけて、千葉ひとり暮らし最後の夏・秋にいろどりを添えることといたしましょう。自分の周囲の人間関係でいろどりを添える才覚は、私には、ない!!


 さて、先日、10日の日曜日に私は年に1回の資格試験にのぞんだわけだったのですが、午後1時から開始された1科目の試験を受けるだけで本年の1次試験は終了だったため、私は夕方ごろには早々に帰宅して、ネット上のいくつかの資格取得サイトで速報として公開された予想解答をもとにガタガタ震えながら自己採点にのぞみ、万全の態勢でのぞんだ割にはあまりにもギリギリな点数で愕然としましたが、それでもいちおう合格できそうだという手ごたえを得て、そのまま失神に近いような脱力感のままに眠ってしまいました。うれしいけど、全然うれしくない……10月には2次試験があるわけだし。

 ところが、日も落ちて暗くなった夜7時ごろにハッと目覚めた私は、「1次はなんとか合格できそうです。」という結果報告のために、自転車をかっ飛ばして20~30分ほどの距離にある、千葉市街地の三条会アトリエにおもむきました。


三条会アトリエお別れ公演 『ひとりごけ』(2014年8月2~10日 演出&主演・関 美能留)


 この日、三条会のアトリエ公演は最終日を迎えていたのですが、最終公演は午後3時開演だったので、もともと私は観劇することはできませんでした。
 それでも私が終演後のアトリエに向かったのは、それ以前の8日金曜日にこの『ひとりごけ』を観劇した際に、「10日の試験の結果が良かったら……まぁ、良くなくても終演後の打ち上げには顔を出します。」という約束を三条会の皆さんと交わしていたからだったのでした。そんでま、まぁまぁ、ショックで寝込んでしまうほどの結果ではなかったということで、「合格しそうです……ギリギリですけど。」という実に微妙な表情を浮かべながら、再びうかがうことになったのでした。「そりゃもう、3年も勉強してたんスから、100点満点ですよ、100点満点! ッたり前じゃないっすかぁ!!」と、お寿司でもつまみながら左うちわでガハハと大笑したかった……

 昼公演の打ち上げということで、私が着いた夜8時ころにはすでに座も落ち着いていたようで、アトリエには三条会の皆さんと、東西無双の「三条会『ひかりごけ』ウォッチャー」としても著名な、劇団「百景社」主宰の志賀亮史(あきふみ)さんを含めた数名がいるといった状況になっていました。

 その場では、今までがそうであったように、終電に間に合う時間まで明るい会話に花が咲くといった流れになり、そして「それじゃあ、また!」という挨拶が交わされてみなさん解散ということになったのですが、こういった「みんなが集まる場」としてのアトリエ、もっと言えば、「みんなを集めるエネルギーの集結点&起爆点」としての三条会アトリエに、正式に終点を打つのが今回のお別れ公演だったんですよね。

 思えば、私も三条会の劇団員として、この三条会アトリエの開設された2005年から2011年まで、ず~っとこの日のように、自転車をかっ飛ばして20~30分かけてこの場所に通っておりました。その後も、公演のお手伝いをしたり、あるいは完全な客としてアトリエに行くことも多かったのですが、やっぱり、ほぼ毎日のようにアルバイトを終えた夕方に集合して、笑ったり汗を流したり悩んだりしながら数時間、10人くらいの男女が集まってドカンドカンと常軌を逸した衝突実験を繰り返していた日々。その全身で記憶している空気は、やはりそう簡単には忘れられそうにありません。セリフはけっこう確実に忘れつつあるんですけどね……

 もちろん、この場ではほぼ毎年のように、アトリエにお客さんを招くアトリエ公演も企画されていたのですが、やはり私にとって印象深いのは、どれをとっても本番の公演そのものではなく、そこにいたるまでの稽古の風景のほうですね。
 特に、アトリエでは上演できないような大きめの規模の公演(東京での劇場公演とか野外公演とか)に向けての稽古のために三条会メンバーでない客演の俳優の皆さんも加わって、各人のカラーもキャラクターも新鮮だし物理的に空気もうすくなってるような気もするし……といった熱気ムンムンの状態で展開される通し稽古には、自分も出演者なのにお客さんのようにワクワクしてしまう空気に満ち満ちていました。私が記憶するかぎり、この「なにか、すごいことをしでかすぞ!」感は、当然、本番会場や別の稽古場でもそれに近いものが生まれていましたが、三条会に客演の皆さんという強力なブースターがついて発射されるということがいやおうなしに実感できるアトリエがいちばん楽しかったですよね。
 これは、残念ながら、その公演に当事者として参加する人間にしか味わえない楽しさだったと思うんですよね。一般のお客さんには提供することができない、漁船の上で漁師さんだけが味わえる料理みたいな鮮度勝負なうまみが、この約10年の歳月を経て壁にしみこんだ空間、それが私の知っている三条会アトリエなのです。そりゃあ壁に穴もあきます、置いてあるぬいぐるみも激シブな色に変わっていきます!


 今回のお別れ公演『ひとりごけ』は、タイトルを見てもわかるように、三条会が2001年の初演(第2回利賀演出家コンクール出場作品)から昨年2013年の岡山県公演まで、常にそのスタイルを変えて上演し続けてきたタイトル『ひかりごけ』(原作・武田泰淳)の最新ヴァージョンであると同時に、「ひかり」じゃなくて「ひとり」ということで、再演のようで再演でない、おそらくは三条会アトリエでしか成立しえない、つまりは最初で最後の上演となることが容易に予想できる特別な空気をもって、8月2日に公演が開始されました。

 そして、この公演は「ひとり」と言いつつも主演の関美能留さん(主宰にして演出です)のひとり芝居ではなく、日替わりで三条会の俳優3名のうちの誰かが1人出演するという形式にもなっていました。つまり、今回で一挙に3ヴァージョンの上演となるわけか! なんという大盤振る舞い。
 結局、私は8月4日と8日の2回しか観劇することができず、全ヴァージョンを観ることはかなわなかったのですが、今回の『ひとりごけ』は、どうやらその『ひとりごけ』という作品の性質から、共演者が変わるということ以外にもさまざまな要因が重なって、「毎日がそれぞれ1ヴァージョン!」というものすごい日々になっていたようなのでした。

 それはやっぱり、主演の関さんが「自分が俳優でないことを深く自覚した上で俳優になっている」という異常性のなせるわざなのではないのかと。こんな人が逃げも隠れもせずに舞台の中心に立ち続けているお芝居なんですよ!? これが異常でなくてなにが異常なのでしょうか。俳優でない人間が俳優になろうとしているのではありません。俳優でない人間が、「俳優でない状態をキープして」お芝居を続けているのです! ジャンプして空中にいるまま静止してるようなもんよ、これ!? それ、飛んでますよー!!

 私が今回、2つの回を観くらべて心底ビックリしたのは、公演スケジュール前半の4日の回よりも、終盤にさしかかった8日の回のほうが関さんに明らかに体力的な疲労の色が濃かったというのに、その8日のほうが圧倒的におもしろかった、という事実でした。

 『ひとりごけ』の物語の流れは、三条会版『ひかりごけ』の、特に2001~08年の「旧ヴァージョン」に準拠したものとなっており、原作小説で戯曲形式になっている部分を、関さんがひとりで旧ヴァージョンの演出プランを再現しながら舞台化していく、という形式をもって始まっていきます。物語の主人公格である船長と、難破した輸送船の3人の船員をあわせた「4役」をこなしながら進行させていくわけなのですが、舞台上では、旧ヴァージョンを上演するための稽古をするにあたって、さしあたって出演者がいないアトリエで、一人の演出家(関さん)が演出プランを自分で実演しながら進めていく、といった外観になっていました。ただし、演出家は自分の演じている役の相手には、まるで本当にそこにいるかのような意識をもって会話を試みているので(「好きな食べ物なに?」とか)、もしかしたら、演出家の眼には確かに、アトリエにならべられたいくつかの教室机に学生服姿で座っている役者の残像というか、「残留思念」のようなものが見えていたのかもしれません。残留思念って、それ、「幽霊」なんじゃ……まだ本物は生きてますけどね、客席でニヤニヤして。

 旧ヴァージョン『ひかりごけ』(最近の2013年ヴァージョンもそうでしたが)において、誰しも普通ならば積極的に食べたくはないものの、自身の生存のために対峙せざるを得なくなってくる重要な存在「死んだ船員の肉」という要素は、「おなかのすいた学生服姿の人間が見たマクドナルドハンバーガー」という絶妙な小道具に置換されていたわけなのですが、今回の『ひとりごけ』でもそこははずされておらず、その結果、「ひとりで全部の役を演じるんだったら、まぁそうなるよね。」といった帰結によって、演出家は誰に強制されるでもなく、無人のアトリエでばくばくとハンバーガーを3個たいらげていくこととなります。おぉ、これが、演劇をしなければ生きてゆけない芸術家の「業(ごう)」というものなのか……バンズも肉もぱっさぱさ!!

 そういえば、舞台上に最初からいる人間は確かに演出家だけなのですが、並べられた教室机のひとつには、常に座高50cm ほどの大きなクマのぬいぐるみが腰かけており、演出家は彼のことを「ごうちゃん」と呼んでいました。
 この「ごうちゃん」は、三条会版の歴代『ひかりごけ』のどのヴァージョンにも、原作小説にも登場しない『ひとりごけ』オリジナルの存在なのですが、最初から最後までまばたき一つせずに演出家の生きざまを見つめている「くされ縁」のようなその寄り添い感からするに、明らかにこのごうちゃんは、演出家の「業」が凝縮して形を持った、洞窟の鍾乳石のような結晶なのだなぁ、と感じ入ってしまいました。業ちゃん。
 いや、ぬいぐるみのごうちゃんは三条会公演、特にアトリエ公演を観に来たお客さんにとってはなじみの深い最古参の劇団員で、その名前も由来に忠実に準拠すれば漢字は「郷ちゃん」なんですけれども(2006年の野外公演『レミング』で命名)、今回の『ひとりごけ』でのごうちゃんのまなざしは、明らかに神か悪魔に近い高みにあったってわけです。首も手足も、長年の活躍で関節ぶらんぶらんなわけですが、それもまた、ただ座っているだけのぬいぐるみという肉体をとっくの昔に解脱しているあかしなんですよね。やはり、多くの人間の念がこもった人形(クマぎょう)には魂が宿るものなのだなぁ。

 話を戻しまして、『ひとりごけ』最大の脅威となった「ハンバーガー3個」ですが、私が観劇した4日の時点では、演出家はまさにそれこそ涙ぐましい熱闘をもってどうにかこうにかたいらげていました。また、この「食いたくないものを食わなければならない」というリアリティたっぷりの対決が、原作の船長にとっての人肉のイメージをいやがおうにも補強していて、セリフだけを聞いていれば強欲な悪人のようにしか見えない船長の、それとはうらはらな孤独と苦しみを力強く語ってくれています。

 そこなんですが、実はその後、演出家を演じる関さんの身になんらかの変化があったらしく、私が再び観劇した8日では実にたくみに、「演出家が3個ぜんぶ食べる」という選択肢ではない回避策がとられていたのでした。

 いや~、これがすばらしかったわけなんですよ! そこはそれ、つまらないネタばらしはせずに、実際に観たお客さんだけの楽しみにしておきたいので説明はしないのですが、あっさりとこの策に舵をとった演出の身軽さこそが、私が4日よりも8日に観た『ひとりごけ』のほうが断然おもしろいと感じた要因だったんですね。

 序盤、通常の『ひかりごけ』よりもだいぶゆるい雰囲気で「さて、と……誰もいないけど、ちょっと始めてよっか。」といった演出家のつぶやきとともにおもむろに始まる『ひとりごけ』ですが、極寒の岬で難破した船員たちという深刻なストーリーに拍車がかかるにしたがって全役をこなす演出家にのしかかる肉体的負荷もかなり重いものとなってきて、めまぐるしく立ち位置を移動して「死ぬ者」と「取り残される者たち」の両岸を行ったり来たりするうちに、中盤では息もたえだえといった苦境におちいってきます。
 そこへ例のぱさっぱさハンバーガーラッシュなんですから地獄もいいとこなわけですが、そこをひたすらストイックに一人でのりきる4日の演出家と、絶妙な「ちょっと休憩!」タイムをさしこみ窓を開けてタバコを吸う8日の演出家とで、どちらが『ひとりごけ』のオリジナリティである「アトリエお別れ公演」にふさわしいのかといえば……そりゃもう、間違いなく8日のほうなんですよねぇ。

 要するに、『ひかりごけ』の物語を一気にダッシュで走り抜けるか、ちょっとひと休みしつつも自分のペースを維持しながらゴールを目指すのか。果たしてどちらが、より「演出家がアトリエでひとりでやっている」という『ひとりごけ』らしいのか。確かに演じるのならば前者をやりたくなるのが人情なのかもしれませんが、それは今までの俳優が出てくる『ひかりごけ』で長いあいだ上演されてきたものでもあるのだし、そうなんだったら、「そりゃ休みもしますよ、俳優じゃないし!」といった実にナチュラルでありながらも、そうそう舞台上では堂々と見受けられない展開を切りひらいた8日の『ひとりごけ』に、私は「新しい! でも、そりゃそうだわ!!」と、やたらとハッとしたわけだったのでありました。

 また、私自身も含めて、「今回はタイトルも微妙にちがうし主演は演出家だし……いったいどんなお芝居になるんだ!?」という緊張感もお客さんの中にはあったかと思われたのですが、特に8日の関さんは、自らの疲労感や「この回、乗り切れるのか?」といった危険な空気を、ほんとにそんなに危なかったのかどうかは別として、実にたくみなノーガード戦法で包み隠さずお客さんにぶっちゃけて、それをお客さんの固さをほぐす特効薬に転換するという大技を「しれっ。」と展開させていました。これ、たぶん凡百の俳優にはできないことですよね、「疲れたところなんか見せられない!」とかいう、意外とお芝居そのもののおもしろさとは関係のないプライドが邪魔をして。
 そうそう、何百年もかけて型のガッチリ決まった古典芸能じゃないんですから、現代演劇の俳優は、「疲れ」や「セリフとちり」さえも、出てしまったその瞬間に上手に武器にできる柔軟性こそが身上だと思うんです。そこであたふたしちゃうと一瞬で底を見透かされちゃうもんなんですよね。もちろん、そんなにしょっちゅう出してほしくはないですけど。
 当然、「いや~、おれ疲れてるんですよ!」なんて誰も聞いてないのに前面に押し出すなんてのは問題外の0点です。その差し引き加減は、まさしくその回のお客さんの空気次第。そこを舞台上で演じながらバチコーンと読み取って、イヤミなく利用できる関さんの自由自在さに、改めて「演出家だなぁ~!!」と感じ入ってしまいました。

 そうそう、せっかくアトリエお別れ公演で、せっかく演出家が主演しているんですから、その自由さを盛り込まずにどうするんだと。もちろん、その自由さとは、「俳優」という立場を避けつつも、俳優と同じかそれ以上の重力を自らに課しながら舞台に立ってお客さんを相手にする努力と根性があってこそ効いてくる「緩和」でなければならないのでありまして、そこをしっかり心得ている関さんが繰り広げる『ひとりごけ』の世界に、「演出家の息抜きお遊び企画」などというぬるい温度は存在するはずもなかったのでした。あたり前田の太尊よ!!


 さて、『ひとりごけ』という新たな形式をとりつつも、今回もまた、原作者の武田泰淳と、それを21世紀に舞台化する三条会(関美能留)との「喰って、喰われて」の死闘は健在で、演出や出演者はいくど変われども、この『トムとジェリー』や『アンパンマン』にも似た「決着がつかないことが本質の闘い」があるかぎり、三条会の『ひかりごけ』は普遍的な魅力を持つことになるんだろうな、と私は改めて認識したのでありました。

 今回の場合は、まずタイトルが『ひとりごけ』になっていることもそうなのですが、上演するにあたって、物語中のごく一部のセリフがあえて改変されていることがありました。これは、長い作品が原作の場合はシーンをまるごとカットするという処置もあるものの、上演するとなったら原作にある文言は一字一句手を加えずにセリフにすることを遵守していた三条会としては、かなり異例なことだと私は感じました。俳優がアドリブをまじえてセリフの内容を補足解説するというパターンはありましたけど。

 とはいえ、『ひとりごけ』において改変されていたセリフ中の単語は、たった2つだけでした。
 ひとつはタイトルのとおり、「ひかりごけ」の「ひかり」が「ひとり」になっていること。そしてもうひとつは……
 いや、これはいちいちブログで説明しても、もはやそのおもしろさは全く効力を発揮しないかと思われますので、これもここでは明かさずに、あの公演を観たお客さんがただけの楽しみにしておきましょう。でも、この改変のおかげで、後半の「船長が裁かれるシーン」は、かなりはっきりした臨場感をもってお客さんの身に迫ってきたのではないのでしょうか。『ひかりごけ』における船長に匹敵する真剣さをもって、「違います! 私はただ、我慢しているだけなんです!!」と訴える「ほんとうの」生きた人間がそこにいる、と多くの方は感じたのではないのでしょうか。
 もう……これは二度と再演されることのないお芝居なんでしょうねぇ。『ひとりごけ』は。そりゃあ、「アトリエお別れ」なんですからね。


 アトリエお別れ公演『ひとりごけ』は、もちろん三条会アトリエが10年の歴史に幕を閉じるにあたって、このタイミングでしかできない特別なお芝居の上演をもってしめたいというしんみりした動機も大きかったかと思います。アトリエ開設の初年の夏からフル稼働している大型エアコンも、まだまだ現役でピンピンしてましたねぇ。
 しかし、その内容はそんな「このアトリエも最後か……」という気分に落ち込むことをまったく許さない楽しさとスペシャル感に満ち溢れており、実際に私も、終演したあとになって「あっ、お別れなんだった!」と思い出してしまうほどの、息をもつかせぬひとときとなっていました。

 また、今回は『ひとり』と言いつつも、最終的には「ひっとり~じゃな~いってぇ~ たっのし~いこっと~ねぇ~♪」という先人の至言を激しく想起させるハッピー感をもって、出演者とお客さんがいっしょになる一体感があったのではないかと思います。それもまた、決して広くはないアトリエでの公演ならではの味わいでしたね。

 ただ、私が劇団アトリエとのお別れという特別な事情をのぞいても強くあると確信したのは、「たまにはこういう公演もやらないといけない」という演出の関さんのバランス感覚上の必然のようなものでした。
 今現在、関さんは三条会の活動以外にも、さまざまなお芝居の上演のために東京をはじめとした日本全国の各都市で演出を務めているわけなのですが、公演の規模自体はこれからますます拡大して華やかになっていくのだとしても、その公演のために集まった俳優さんがたとお仕事をしてまた解散、という形式が多い昨今の演劇事情、いろんな緊張感の耐えない「スタート、ゴール。スタート、ゴール……」の繰り返しの日々なのではないのでしょうか。でも、それは現代に生きる芸術家、いや、芸術家でない人でも、自立して生活するたつきを得ている大人ならば、だれでも感じている消耗感の本質なのかも知れませんが。

 そんな中、自分の気心の知れた、全幅の信頼を寄せることのできる人間や場所で羽根を伸ばすことのできる、あたかも夏休み中に遠出して豪華なホテルに何泊かしてから自宅に帰ったお父さんが、「あぁ~、やっぱ家がいちばんだよなぁ~。」とうなってしまうような空間が必要な瞬間が確かにある。それが今回のアトリエ公演だったのではないのでしょうか。
 小説家のエッセイしかり、葛飾北斎のスケッチ画しかり、ビートたけしのオールナイトニッポンしかり、松本人志の『一人ごっつ』しかり。この際、商業的なもうけとかはどうでもいいから、世間の評価を無視した場所で自分の「いまやりたいこと」を見つけてとことんやってみたい。こういう欲求がスタート地点でありながらも、結果としてはしっかり世間の高い評価を得られる作品にしてしまうのが一流のプロだと思うのですが、今回の『ひとりごけ』こそが、まさしくそれを雄弁に証明する公演のひとつだった、というわけなのでした。

 無論、「そんなことはとっくの昔に知ってますよ。」というお客さんが集まって『ひとりごけ』は連日上演されていたわけだったのでしょうが、やはりそうなると、そんな貴重な場だった三条会アトリエがこれで最後になってしまうということが、どれほどもったいないことなのか、という思いにいたってしまいます。

 ひるがえって思えば、「われらがホーム」であるアトリエと、自分のやりたいことを見つめるアトリエ公演がいつでもできることの幸せを感じる余裕を持てなかったことが、かつて私が自分を俳優に向かないと判断した理由の本質だったような気もします。まさしく、疲れさえも楽しんで人に提示できる余裕……今さらながら、舞台上の関さんに改めてそれを教えてもらった思いでした。


「さよならは別れの言葉じゃなくて」


 三条会アトリエ、ありがとう! そして、さようなら!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする