代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

channel AJERでゲスト出演 「自由貿易神話を解体する」

2014年09月02日 | 自由貿易批判
 AJER(日本経済復活の会)のchannelAJERが運営する、政治経済専門Web放送サイトにゲスト出演してまいりました。私のテーマは「自由貿易神話を解体する」です。AJERのサイトは下記です。

http://ajer.jp/

 その動画はyoutubeで一部紹介されています(下記サイト)。後半部分も含めた全部を観ようとすれば、プレミアム会員登録をしなければなりませんが、前半部分は視聴できます。全4回シリーズ。あとの3回も前半部分は順次アップされていきます。
 第一回の前半部分は以下を参照ください。(ちなみに動画で私の肩書が助教と紹介されていますが、正しくは准教授です) 

https://www.youtube.com/watch?v=isJvTIqC5Tc

 予想はしていましたが、この動画がyoutubeにアップされましたら早速罵声が浴びせられかけておりました。紹介いたします。

****引用開始****

wellcometolivegimさん(9月1日)

なぜ複数の問題を一つにまとめようとするのか?それは勉強不足の素人がゆえ、または意図的な情報操作であろうか?
寄付を募っておきながらこのような有害な番組を放送するならばせめて専門家の反論を放送しなければ公平とは言えない。
自由貿易と失業率は完全に別問題でありソースが民間アンケートなんて本当に学者なのかすら疑うレベル。 


****引用終わり*****

 私は、経済学者が「自由貿易に経済的メリットがあるのは経済学の基本原理である」と主張するのは、単に素人を恫喝しているだけであり、理論的に説明できないにも関わらず恫喝せざるを得ないのは、裏返せば新古典派の自由貿易論が無根拠であるが故なのであると解説しました。

 このコメントもまさにその手の恫喝。「自由貿易と失業が相互に独立した無関係な現象である」などと主張している経済学者が本当にいるのなら、その人とその理論を紹介して欲しいものです。「貿易自由化は雇用を生む」と主張する新古典派経済学者はいると思いますが、その主張だって、「貿易と雇用が相互に関連している」ということを認めているわけです。

 「自由貿易と失業率は完全に別問題」などというwellcometolivegimさんの主張は経済学上の新説(珍説)です。ぜひその根拠を詳細に述べていただきたいものです。
 
 まあ、こうした罵声はたくさん浴びせていただき、この問題に関心をもってくれる人が増えるのはよいことです・ご協力に感謝します。  


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7 コメント

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新古典派経済学を批判するスタンスとして。 (立教大学経済学部3年 塩川)
2014-09-16 17:06:17
 ブログ読ませて頂いております。国際貿易論の講義も、他の教授とは違い、堂々たる新古典派経済学の批判を行っていて痛快です。関先生が紹介されていた塩沢由典先生の「複雑系経済学入門」もこの夏休み中に読みました。とても面白かったです。

 ただ、僕には思うところがあって、今回コメントしました。新古典派経済学や複雑系などについて考えていると、どうしても訳分からなくなるのが、新古典派を批判することは出来ても、それに代わる代替案の提示は極めて難しいのではないかと思うのです。たとえば新古典派は収穫逓減を前提としていて、それが今の実態経済と如何に乖離しているか、という話はよく分かります。しかし、それ以上のモデルを経済学にもたらすのにはどうすればいいのだろうと考えてしまうのです。

 新古典派が現実と異なっているというのはたしかですが、それは新古典派のモデルが確固として存在しているから現実と比較できるのであって、収穫逓増の世界や限定合理性にはどうしても程度差が出てしまう分、その理論を確固として経済学に存在せしめるのは難しいのではないかと考えるようになりました。

 新古典派経済学がなければ、現実との違いを把握することも困難だったはずで、そうしたらあらゆる理論は新古典派の延長線上に生まれるのであって、それを否定してしまうものではないのではないかと思うようになりました。どちらが現実に近いか、といえば新古典の理論ははるかに現実的ではない。しかし、それ以外の領域はすべて写し鏡のように新古典派との対比の中から発生しているに過ぎなくて、それもある意味新古典派経済学の功績なのではないかと最近よく考えます。
 失礼しました。
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Unknown (12434)
2014-09-16 19:49:42
>立教大学経済学部3年 塩川様

はじめまして。12434と申します。私は北海道の酪農学園大学の農業経済学科を卒業して今は農家をしています。関先生のブログはいつも興味深く拝読させて頂いています。

確かに新古典派のそれに代わる新しいモデルを作っていくのは難しいですね。冷静に考えてみたら、ミクロ経済学の理論にも欠点があるのは明白ですが。
ただ個人的な意見ですが、新古典派のモデルにあまりこだわらなくてもいいと思います。経済学はなにもそれだけではないですし。
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新古典派との対比ではない別モデルの可能性 ()
2014-09-17 15:07:25
塩川くん

 真剣に勉強し・思索しているようで何よりです。この探究心を維持していってください。いつか視界は開けてくると思います。
 しばらく中国の山の中で調査していたもので、返信おくれてしましました。

>それに代わる代替案の提示は極めて難しいのではないかと思うのです。

 その通りだと思います。複雑系経済学は、現実の経済現象が動学的に進化発展するものであるということを説明するための理論を提供するもので、政策的代替案を提示するための理論ではありません。その点、彼らの課題だと思います。

>それは新古典派のモデルが確固として存在しているから現実と比較できるのであって

 新古典派にまったく依拠しない別モデルは可能です。たとえば、市場競争の基本モデルとしては、生物学の個体群動学モデルが経済現象の実態をよく説明できます。この点に関して、私の過去記事ですと、以下を参照ください。 http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/4b3d047b9e1110e74489b3034eef0118
 
 また、以前、このブログで紹介した塩沢先生の『リカード貿易問題の最終解決』(岩波書店)はおすすめです。
 新古典派とは違う別のモデル(いわゆる「限界革命」以前の古典派経済学の延長モデル)の方が、経済現象の見通しははるかによくなることがわかるかと思います。

 さらに多くの本を読んでいってみてください。本はいくらでも紹介いたします。

12434さま
 適切なコメントありがとうございました。
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お返事ありがとうございます。 (塩川)
2014-09-17 16:59:41
12432様、関先生

お返事頂きありがとうございます。
僕は新古典派を批判したくても、それに代わる案というものに限界があるんじゃないかと手詰まりなところがあったので、こうして新古典派以外の理論で示唆が頂けたこと、とても嬉しいです。

12432様が仰るように意固地になって、逆に新古典派に執着してしまっていたところもありました。また、関先生の提示してくださった生態系の点も非常に興味深かったです。過去記事の点で気になる点があったので、恐縮ではありますが確認させていただけますでしょうか。

>現実世界では、つまり利潤最大点なるものがない収穫逓増の現実における完全競争では、多くの場合、どちらかが完全に打ちのめされ、一社独占が出現するまでに競争は続くのです。

ここの点ですが、これはどういう統計や資料から分析することが可能でしょうか。

また、塩沢先生の書籍に至っては荒川先生も書評をしていて、大変関心があります。11月までは簿記の資格試験に向けて時間を割くので、ゆっくりではありますが読んでみたいと思います!

経済学にまだまだ未熟でおこがましいコメントで申し訳ありません。返信頂きありがとうございます。
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お名前、間違えてしまいました。 (塩川)
2014-09-17 17:11:12
12432様ではなく、12434様でした。
大変失礼しました。
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競争排除の法則 ()
2014-09-20 13:56:39
塩川くん

>ここの点ですが、これはどういう統計や資料から分析することが可能でしょうか。

 統計や資料というよりも、収穫逓増モデルを受け入れると、独占が発生するのは理論的に導けます。

 生態学で、「ガウゼの競争排除の法則」というものがあります。ロトカ=ボルテラ競争方程式から導けます。同じニッチで競争する二つの生物種の競争は、最終的にどちらかの種がどちらかの種を排除するまで続いてしまいます。アメリカザリガニがニホンザリガニを駆逐するとか、セイヨウタンポポがニホンタンポポを排除するとか、生物界では現実にいくらでも確認できます。

 経済現象でも、同じニッチで競争する二つの製品の工業生産統計を調べれば、いくらでもこの手の事実を確認できます。
 紹介した記事であげたのは、ドイツ製カメラと日本のメーカーのカメラの競争の例です。統計的にはドイツ制と日本制のカメラの生産台数の統計を調べれば解析できます。
 
 同じ競合する技術での競争排除の法則では、たとえば昔のビデオデッキのVHSとベータとの競争で、VHSがベータを排除したという例がよく分析されていました。より最近ですと、ビデオがDVDに駆逐される、現在進行中の事態だとDVDがブルーレイに駆逐されていく・・・・その手の現象です。

 統計的には、個々の製品の工業生産統計を調べていかねばなりません。
 生産台数の動態的変化は、新古典派モデルでは分析できませんが、生態学のモデルですとよく分析できることがわかるでしょう。
 
 独占にならず、寡占状態で均衡が成立する場合も多いです。これは共倒れにならないような暗黙の価格カルテルを結ぶとか、関税障壁とか、地理的棲み分けなど、どこかで同業者間の妥協が成立するからです。
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新古典派モデルの規範性とその代替について維新論仮説とのほど遠い関連で考えましたこと。 (薩長公英陰謀論者)
2014-10-01 16:05:27
立教大学 塩川様:

 まことに間延びしたタイミングで、資格検定のご準備のところに、市井の片隅での勝手な思いつきを、誠に恐縮に思います。9月16日塩川様ご投稿の(以下に勝手に要約して申しわけありません)「新古典派経済学のモデルによってはじめて現実とモデルとの相違が明らかになり、あらゆる理論は新古典派経済学の延長線上に新古典派経済学の写し鏡のように生まれる」というご指摘がまことに衝撃的で爾来2週間考えておりました。

 「自由競争による市場経済モデル」が明治維新以降の近代化とどう交叉するのか、勝手に悪戦苦闘している明治維新仮説の導きの糸になるのではないかと、ついあらずもがなの投稿に至りました。

 稚拙な明治維新弊作業仮説を煮詰めますと、江戸期に社会の下層を含めて内発的に形成された市場経済と、それに呼応する民衆土着の政治的自覚や主体的運動が相俟ってナショナルな変化に発展してゆくことに対して、相反する経済的社会的利害を持つ複数の勢力がその展開を軍事的政治的に阻止し日本社会の内発的自由市場化、民主主義化を根こそぎ削いで、いわゆる開発独裁による上からの非市場的かつ強権的で偏ったいびつな近代化=欧化に置き換えたものが明治維新ではないか、ということになります。

 この流れは戦前の挙国一致、軍・官・財閥・地主支配の全面的な戦争経済によるどぶ板までの圧政に行きつき、敗戦を経て米占領支配によって地主は没落し、軍部は在日米軍ないし21世紀になってからはそれを含む米「ネオコン」に置き換わったわけですが、なお戦前のフォーマットそのままに、ただし米国・米軍産複合体を後ろ盾とし代議制度をこもかぶりにした官僚と財界による統治が続いたわけです。
 朝鮮戦争を奇貨とした戦後復興から東西冷戦下での米国の傘の下で日本経済は、高度成長時代の混合経済、市場的経済と公共建設投資・原発建設投資を核とする統制経済との複合体に順当に転化して、ベトナム戦争を奇貨としての西側陣営の一員としての経済的成功を謳歌することになりました。

 しかしこの時代の日米の主役、ケインジアンの落日とともに米英の経済的凋落に対応するかたちであらわれた1980年代以降の新古典派経済学のモデル化と東西冷戦崩壊後の米国の一極軍事覇権の成立のもと、米国経済は膨大に肥大した軍事産業への依存の継続とともに、情報産業と金融産業への一点集中により常時バブルを内包するようになり、他方で米国内産業は空洞化しバイオ産業に支配される農業経済と化しました。日本はこれに呼応するようにして、バブルとバブル崩壊を契機に一転して米欧の新自由主義政治経済を追うかたちで国と社会ならびに国民生活全体の激烈なリストラに追い込まれ80年代中葉までの「総中流・平等イメージ」がほぼ一瞬にして吹き飛んで、そのまま現在に至るということになったと考えます。

 市場原理の全社会的貫徹という新自由主義は、まこと「明治維新」とまったく同様に強大な外圧ないし市場開放要求という名の内政干渉にドライブされて非内発的・非自発的に日本を席捲しました。官邸が官財学メディアを動員する従米的開発独裁であった「小泉・竹中」独裁の強権的「グローバル化」が日本全体を激烈に変化させたわけです。「合理的経済人による需給均衡原理にもとづいた自由な市場経済」という新古典派経済学のパラダイムがそこで一体何であったのか、いま現在のアベノミクスを含めて憮然たる思いでおります。

 おそらくは市場のメリットとは需要者(消費者)が必要なもの、欲しいものを自由に求めて得ることができる、ということであったはずですが、かのTPPにいま典型的にあらわれているように、市場主義・自由主義は「強者の自由・サプライサイドの自由の貫徹」となっています。消費者にとっての市場の自由が、感性的なまた知的な自由とともに失われるだけではなく、すでに新自由主義の精華と言える株主価値経営のもと激烈なコストダウンと途上国生産への傾斜によって日本の消費者の勤労収入、購買能力が極端に絞られるという悪循環を新古典派経済学モデルが絶えることなく生んでいるというのが現実ではないでしょうか。

 そこで代替案はおのずから、市場原理をサプライ・サイドからデマンド・サイドに転換することとなり、さらに貨幣的資本の増殖を原理とする市場と社会を、関良基先生がそうお考えであるように、自然の生態系を含めた生活を(人間だけの生活ではなく)第一義的原理としたものに変えるということを源泉として生まれてくるように思えます。戦前の行使に制約のない軍事力を背景とする帝国主義的対外支配原理という問題は措くとして、この経済原理の代替は明治維新以降いま現在までの一貫した支配統治パラダイムを転換することになるのではないかと思います。

 新古典派経済学のパラダイムである「需要と供給の均衡=合理的経済人が演ずる市場価格メカニズム、による経済運営」は唯一、貨幣以外の何ものも直接には生み出さない株式市場において成り立つものであると思えます。奇しくも、新古典派経済学的アベノミクスは貨幣を株式市場に大量に供給することによって株式購入需要を膨らませて株価をあげることを経済全体の活況であるとしています。

 思いますに、古典派経済学(マルクス経済学を含めて)は実体経済、産業主導の経済に対応するもの、新古典派経済学は金融経済、金融主導の経済に対応するもののようです。新古典派経済学モデルの圧倒的な規範性は思想的・理念的な優位によるものではなく、その理論的空疎さが幾度となく暴露されても新古典派モデルが現実的規範性を持ち続けているのは金融経済の現実的支配力を源泉としているゆえであろうと思います。

 経済学者ではない田中宇氏がアベノミクスについてごく最近以下のように言っています。きわめて的確な把握であると思います。理論的・思想的な代替案の重要さとともに、金融経済に対する制約をかけること、ドイツやG20新興国による政治的な努力がなされているように国際金融資本に対する規制が、現在の経済モデルの極度に脆弱なアキレス腱を突き、おそらく自壊となるであろう新古典派経済学モデルの現実的規範性の凋落を導くであろうと期待します。

 ・・・QEは、デフレ対策や景気対策を口実として金融界を救済するための、通貨の過剰発行による債券買い支えだ。米政府がこれ以上財政赤字を増やせなくなり、ドルの過剰発行(QE)も連銀の勘定が肥大化して限界になると、米国は、自国の言うことを何でも聞く対米従属の日本に、QEと財政赤字拡大の策を命じてやらせた。安倍政権がQEや赤字拡大を始めると、国際マスコミはこれを「アベノミクス」と礼賛した。 米国は、自国のドルや債券を延命するために、日本に自滅的なQEをやらせ、それを国際プロパガンダ機関が「良いこと」と歪曲喧伝してきたが、日本のQEも限界にきている。日本人の多くはこの先も自国に何が起きているかわからないまま、経済崩壊が進むだろう。日本は人々の単一性が強く、社会的に崩壊しにくいので混乱が少ない。粛々と衰退していく。日本では安倍政権が、米国に命じられてQEを開始する際、自滅的なQEに反対していた日銀総裁らを更迭し、安倍をあやつる官僚機構の主導力の一つである財務省から黒田東彦が日銀総裁に送り込まれてQEを開始した。だから黒田は何でもやれる。
http://tanakanews.com/140915eu.php 田中宇「欧州中央銀行の反乱」2014年9月15日記事から抜粋して構成)

 資本市場の「需給&価格」はあくまでメカニズムで、資本市場を動かすのは情報であると思います。人より先に情報を入手して他者がまだ持っていない認識(思惑)を形成すること、根底的には情報の流布を操作し支配すること、という二つの意味においてです。

 高度成長後バブル崩壊前に物心のついた世代のなかで関良基先生同様に稀有の天才である経済学者の安冨歩氏は「情報とそのボトルネック」に注目しています。同氏著『ドラッカーと論語』(東洋経済新報社、2014年;p196~p206)『経済学の船出』(NTT出版、2010年;第5章、p135~p172)をご参照ください。情報、知性・感性を自らの足で地に立つ人びとの手に取り戻すことが、同氏があわせて注目している「商品にかわるブランド(消費者とのコミュニケーション)」とともに日本の国と人びとの生存と心身の自由、99.9%の貧窮からの脱出のための「代替案」のカギとなると考えています。塩川様に触発されて2週間あまり考えましたことを整理できぬまま記しました。ご容赦ください。
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