代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

ポスト・グローバル時代の構想 -ケインズのバンコールの復活

2019年01月06日 | 自由貿易批判
 新年あけましておめでとうございます。
 遅れましたが、今年はじめての書き込みをします。
 
 年末の株価下落で、年金基金を運用するGPIFが14兆円の損失を出したと『しんぶん赤旗』で報じられている。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2019-01-05/2019010501_03_1.html

 GPIFの資金には限りがある。しかし、日銀マネーには限りがない。日銀は必死になって株価をもたせようと際限なく上場投資信託(ETF)に資金を注ぎ込んで、株を買い支えている。
 日銀の無制限介入という「生命維持装置」でかろうじてもたせている状態・・・。もはや日本経済はサイボーグ状態と言ってよいだろう。生命維持装置を外せば死亡する。
 生命維持装置のスイッチを入れ続けた場合、最後には円の暴落と悪性インフレが待っている。進むも地獄、引くも地獄だ。
 
 最悪なのは、安倍首相が政権を放り出し、野党にでも政権を押し付けたのちに円の暴落が起こり、その政権に責任を押し付けられることだ。この事態を招くのは安倍政権の責任なのだから、ちゃんと自分の任期中に破綻を迎え、自分の責任を認めた上で退陣してもらいたい。

自由貿易体制を終焉させること

 新自由主義のグローバリゼーションはもうじき終わる。カタストロフィの後の経済再建を考えることが、いまやるべきことだろう。

 年末にやっていたTBSの「報道の日2018」はすばらしかった。日米構造協議、日米包括経済協議、そして年次改革要望書と、米国のジャパンハンドラーたちの「日本破壊工作」を詳細に報じていた。
 ついにジャパンハンドラー問題が、マスコミ業界でタブーではなくなったようだ。本当は25年前から全力でこの問題を報じるべきだった。もはや手遅れであるとはいえ、それでも、歴史を総括し、次の時代を切り開くための意味はあろう。
 番組の中で、とくに印象に残ったのは細川連立内閣崩壊の真相である。当時、細川内閣は、アメリカから次の二点を要求されていた。
 
 (1)アメリカからの輸入額に数値目標を設定せよ
 (2)所得税を5兆円減税せよ(⇒ 金持ちを優遇して消費税を増税せよ)

 細川政権は、(2)を受け入れる代わりに、自由市場に反するとして(1)を拒否した。アメリカは(1)を拒否されたことで細川政権を切りにきて、また(2)による「国民福祉税」と銘打った増税政策に、国民が反発し、連立与党の一角だった社会党が離脱し、あえなく細川政権は崩壊に至った。アメリカの干渉がなければ、細川政権がもう少し延命できたはずであり、自民党政権が簡単に復活することもなかっただろう。本当に残念である。

 今更言っても仕方ないが、細川政権は(1)を受け入れて、(2)を拒否するべきだったのだ。アメリカからの貿易黒字なんて、所詮は米国債購入などでアメリカに還流するだけで、まったく国民生活の向上に寄与しない。
 
 日本政府が頑迷なまでに自由貿易に対する原理主義的な信仰を維持し、それを守るために、米国の他のすべての干渉を受け入れ、日本経済がもっていたすべての強みを失ってきたのが、プラザ合意以降の日本経済の流れである。
 
 貿易収支は均衡させるべきなのだ。たとえ、総量規制をしてもである。
 それさえ実施していれば、他のすべての米国からの干渉を跳ねのけることができたのだ。
 元外務官僚の藪中三十二氏は番組の中で、「日本の仕事のやり方、あるいは最終的には生きざままで変えろと、こういうのが向こうの(アメリカの)要求だった」と語っていた。
 「生きざま」の否定を受け入れても、貿易黒字が欲しいというのが日本の外交姿勢だった。 本来、日本の政治かたるもの、貿易黒字を捨てて、「生きざま」を守るべきだったのだ。

ケインズのバンコール構想を復活させる

 自由貿易体制は必ず貿易不均衡を累積させる。不均衡は、貿易摩擦を激化させ、恐慌の原因を生み、ひいては戦争の原因になる。
 第二次世界大戦のカタストロフィの後、イギリスのケインズが提案したのは管理貿易体制だった。国際精算同盟(The International Clearing Union)を設立し、国際的な輸出入を管理する。ケインズ案において、多国間の貿易決済は、すべて金とリンクした帳簿上の国際通貨バンコールで行われる予定であった。

 バンコールは帳簿上の仮想通貨であり、蓄積することはできない。よって貿易黒字のみに価値を追求しようという発想は生まれない。貿易黒字国にも赤字国にもペナルティが課せられ、過度な黒字や赤字を累積させることは不可能にするシステムであった。

 来るべき世界大恐慌の後、新自由主義のグローバルシステムは崩壊する。その後に構築すべきモデルは、貿易不均衡の累積を許さないケインズのバンコール構想なのだ。

 


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3 コメント

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Unknown (12434)
2019-01-07 13:30:42
あけましておめでとうございます。2019年以降は良い時代になることを祈ります。
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Unknown (12434)
2019-01-14 18:25:53
武田教授が警告。日本の「食料自給率の低さ」が世界に迷惑な理由
https://www.mag2.com/p/news/379581
まぐまぐニュース!

武田教授は「日本が食料自給率が低いせいで発展途上国は、外貨を稼ぐために飢餓で苦しむ自国民を犠牲にしてまで、日本に農産物を輸出している。日本はモラルがない」といいたい
らしいです。その点については確かに一理あると思います。他のところはあまり参考にならないと思いますけどね。
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自由貿原理主義とアダム・スミス「見えざる手」について。 ( 睡り葦 )
2019-01-14 18:30:02

 ネガティヴ名札とされてしまった保護主義に、日本において貿易黒字物神信仰となった自由貿易原理主義を対置することに非常な抵抗感と疑問を持ってきまして、関さんのお考えに強く肯きました。自由貿易の自由とは強者すなわち勝ち組グローバル大企業のみの自由であることは明らかです。

 アダム・スミスが畢生の主著として没年まで大幅な改訂を繰り返した『道徳感情論』よりはるかに有名になってしまった、じつはその各論的副産物としての政治経済論であった『国民の富の本質と原因の探究』において、ちなみに和訳名は『民富論』とすべきだったと思いますが、貿易に対する議論、すなわち特権的独占による重商主義に対する批判である、第四編第一章は次のように始められています。

 富とは貨幣すなわち金銀のことだという考え方は、貨幣が、商業の用具として、ならびに価値の尺度として、二重の機能をもつことから、自然に生じた通俗の見解である。(中公文庫、大河内一男監訳『国富論』Ⅱ、p76)

 THAT wealth consists in money, or in gold and silver, is a popular notion which naturally arises from the double function of money, as the instrument of commerce, and as the measure of value.

 ・・・としたあと、アダム・スミスは、富とは国民の消費を増大させることであると述べ、そのために国内の産業と市場を豊かにするための貿易の意義について論じています。

 これを受けて、この著作ではただ一箇所あの高名な「見えざる手」が出てくる議論になるわけですが、アダム・スミスは二つの前提条件を置いています:

 第一に、だれでも、通常の利潤が得られる限り、自分の資本をできるだけ手近な場所で、したがって、できるだけ自国内の勤労活動の維持に、使おうとするものである。

 First, every individual endeavours to employ his capital as near home as he can, and consequently as much as he can in the support of domestic industry; provided always that he can thereby obtain the ordinary, or not a great deal less than the ordinary profits of stock.

 第二に、国内の勤労の維持に自分の資本を用いる人はみな、その生産物ができるだけ大きな価値をもつような方向にもってゆこうと、おのずから努力する。

 Secondly, every individual who employs his capital in the support of domestic industry, necessarily endeavours so to direct that industry, that its produce may be of the greatest possible value.

 そして、「見えざる手」論は以下のように展開されます。

 もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。(中公文庫、大河内一男監訳『国富論』Ⅱ、p120)

  He generally, indeed, neither intends to promote the public interest, nor knows how much he is promoting it. By preferring the support of domestic to that of foreign industry, he intends only his own security; and by directing that industry in such a manner as its produce may be of the greatest value, he intends only his own gain, and he is in this, as in many other cases, led by an invisible hand to promote an end which was no part of his intention.

 アダム・スミスの言葉としてもう一箇所「見えざる手」が出てくるのは、主著『道徳感情論』においてですが、そこでは富者は収穫物を自分ですべて消費することができず、その上澄みである一部を取るだけで、「見えない手」に導かれて、人々に平等に分割するということを言っています。(水田洋訳、岩波文庫『道徳感情論』下p24)

 経済学者たちはスコットランド人アダム・スミスの声は聞かずに、そこだけフランス語で「レッセ・フェール」を唱えているのでしょう。

 英国帝国の自由貿易帝国主義のパペットとして明治維新クーデターを演じ、開発独裁的近代化を遂行した長薩勢力の後継者たちが敗戦後に輸出経済によって米ドルを稼ぎ米国債を溜め込むことに血道をあげたあげく、国内大衆窮乏化が時とともに激烈に加速しました。
 輸出経済から金融的バブルとその崩壊を経て、勝ち組大企業のために国内空洞化グローバル経済に転じる時期の非自民細川時代にアダム・スミスに還ろうとすることはなかったわけです。
 そしてコイズミ時代から現アベ時代に至って日本は、中国ドラマと韓国ドラマで視る腐敗をきわめる古代奴隷制国家と化しています。

 関さん、思いますに、国民経済の根本指標を「国民総生産GNP/国内総生産GDP」から、企業の投資や投入を含まない文字どおりの国民総消費に変えるのはどうかと思います。
 アダム・スミスは、いわゆる『国富論』の冒頭で、「富とは国民の生活必需品と生活手段である」という彼の基本的趣旨を明確にしているわけですから、それに倣って。

 そこからさらに思いますに、アダム・スミス以降の経済学は、知る限りヴェブレンを特異な例外として一貫してサプライサイドであり、生産経済とそのための交換市場をテーマにしてきたと思います。資本主義という認識を確立したマルクス経済学を典型として。

 そこにパラダイム変換をはかり、遺伝子組み替えと放射線被曝を含めた自然及び社会環境問題を含めて、アダム・スミスの言う富、すなわち国民の生活必需品と生活手段、the necessaries and conveniencies of life を追う、真の富の経済学をつくりだす歴史的な時期に来ているのではないでしょうか。
 これを経済学者に期待するのは木によって魚を求むのたぐいですから関さんに、というわけにはいかないでしょうか。現代の「見えざる手」によって、われわれ民衆をさまざまな飢餓から救うために。
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