ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

アメリカ東部のサマーキャンプ

2014-07-11 | アメリカ

ボストンに到着して早くも2週間が過ぎ去りました。
いつもいつも来たと思ったらあっという間に帰る日が来て、
さらに帰国したと思ったらあっという間に次の年が来て・・。

つまり月日の経つのがこのアメリカ滞在によって
さらに早く感じているのではないだろうかと思う今日この頃。

息子のサマーキャンプも最初の週が終わり、
次のキャンプを控えてホテルを移りました。

 

キャンプを行う学校はボストンの東部にあるウェルズリーで、
ホテルは車で20分くらい離れたウォルサムという町にしました。
キッチン付きのホテルというのは、アメリカでもありそうでなかなかないため、
場所とホテルの種類も限られてきます。 

今年はハイアットハウスという、ハイアットリージェンシーのコンドを
初めて利用してみることにしました。
本家のハイアットと比べると長期滞在客をターゲットにしているので
宿泊料もかなり安めです。

部屋は二つのコンパートメントに分かれており、このソファは
シートを取って下部を引き出せばベッドになるというもの。



メインの寝室には大きなキングサイズのベッドがありますが、
息子が大きくなってからはソファベッドを使っています。

日本の宿泊施設ではまず望めないこの広いキッチン付き。
下手したら分譲マンションのキッチンより広かったりして。

レイアウトも大変使いやすく、使いやすいキッチン。
手前のカウンターテーブルは
息子が勉強&パソコン机に使うことにしました。



アメリカのホテルは程度の違いこそあれ、モーテルでなければ
朝食がついてくることが多いです。

ここは、アメリカ式のバッフェ式朝食と、
月曜から金曜日までの毎夕、ちょっとした食事が出されます。
チキンブリトーとか、ピザとかをメインに、スープとサラダ。
どうしてもその日のメニューがいやなら部屋でご飯も炊けますし、
オーガニックスーパーで材料を買ってくれば味噌汁でも何でも作れます。
というわけで、食生活に困ったことはまずありません。

この写真は最初の朝、学校に行く前に朝ごはんを食べているところ。

向こうのテーブルに座っている母親と二人の女の子ですが、
ティーンエイジャーの長女はすらりと背が高く素晴らしいスタイル。
思わず見とれてしまうくらいなのに、お母さんは典型的な
アメリカの中年体型で、前から見ると顎もないくらい太ってしまっています。

でも、よく見ると二人はそっくりで、つまり30年くらい前は
お母さんもこのスタイル抜群の娘みたいだったのだなあと・・。
逆にいうと、この娘30年たてばこうなってしまうのか、と思われます。
ああ諸行無常。
なんともやるせない「ビフォーアフター」です。

アメリカ人ってある年齢から極端に太ってしまうんですよね。
まあ、食生活が食生活ですから、逆に言うとあんなものを毎日食べていて、
この娘さんのようなナイスバディを(瞬間とはいえ)
キープできるというのもすごいなあとも思ったりするのですが。



ラウンジの壁にあった飾り皿。

さて、今日は来週から始まるキャンプを前に、
オリエンテーションが行われるのでそれに参加します。



ホテルの周りは企業が多く、ホテルも乱立といった感じで立っています。
I-95というフリーウェイは文字通りフリー、無料です。
5車線ある広大な高速道路ですが、午後にはよく混んでいます。

高速脇に池があるので、このあたりにはガチョウが住んでいて、
よりによって朝の通勤ラッシュの時間、団体で道路を横切ったりします。

アメリカでは都市部でない限り結構よく見る光景ですが、
リスやタヌキが轢かれているのはよく見ても、
ガチョウが轢かれているのはいままで見たことがありません。
皆ガチョウの行進の時にはおとなしく通り過ぎるのを待つのです。

おそらく、故意に轢けば犯罪として罰せられる州法もあると思います。

かくいうわたしは今までリスが飛び出してきてブレーキを踏んだことが
2回ありますが、なぜか同じ日の20分違いの出来事でした。




冒頭写真は今回のキャンプ会場、ウェルズリーカレッジ。

この名前に皆さん、覚えはありませんか?

そう、あの蒋介石夫人、宋美齢が留学した大学ですね。
東部セブンシスターズといわれる女子大学の名門の一つで、
このシスターズがいずれも1800年代に創立されているように
ウェルズリーも創立は1875年。
いまだに合格率28パーセントの難関大学でもあります。

ちなみに全米最難関といわれているのはバーナード・カレッジで、
コロンビア大学と提携しています。

「ある愛の詩」で、主人公のハーバード大学の学生の恋人は
ラドクリフ卒でしたが、これもセブンシスターズの一つです。



息子には将来も全く関係のない大学ではありますが、
今回興味のある内容を備えたキャンプがたまたまここにあったので、
去年までのキャンプを1週間で切り上げて、こちらに
3週間参加することに決めました。

以前の学校からはボストンに向かって20分ほど戻ったところにあります。

なんといっても、この町はわたしの行きつけのブティックが
2軒もあり、滞在期間必ず立ち寄っていただけに嬉しい(笑)



歴史の古い町なので、町全体が「東部アメリカ」の矜持を感じさせるような
一種いかめしい雰囲気を持っています。
わたしはこういうのが好きですが、息子は西海岸の自由な雰囲気が好きで
こういうところは

「辛気臭くて好きじゃない」

そうです。

この石造りの立派な建物は、大学わきにある消防署。
左に回れば消防車の車庫があります。
昔の設備をそのまま使っているので、消防車はぎりぎりの大きさで、
ここの「ファイアーファイター」は、まずこの車庫に消防車を
こすらずにいれることが試練の第一歩ではないかと思います。



構内に入りました。
このロータリーに車を走らせ、子供をドロップオフ、
ピックアップします。



オリエンテーションの日は、いたるところでスタッフが待ち構えていて、
いちいち大げさな挨拶に始まり、握手をして、
手続きが行われる建物を案内します。



どこまで続いているのか、広大な緑のキャンパス。
どうも向こうの方には湖もある模様。



ホールには、貢献のあった卒業生の写真が掲げられていました。
1930ごろ卒業した日本女性の、着物姿の写真があり、
日本人として感動しました。



キャンプ期間中胸に下げるIDの写真を撮ってもらう息子。
当キャンプのイメージカラーはオレンジと紫のようです。



インターネットでメディカルレポートも送ったはずなのに、
なぜか「スクールナースに話を聞いてください」と
隣の部屋に行かされました。

「アレルギーがあるということだけど、どうやって日ごろ避けてます?」

みたいな当たり前の質問をされたので息子は

「食べない」

と当然の答えをしています。
それから、コンピュータをぱこぱこと叩いて、

「昨年、DPTの予防接種受けました?」

受けていない、というと、

「当キャンプは世界中から参加者がいるのですが、
それぞれの国の予防注射の規定と、マサチューセッツのは
少し違っていることもあります。
それでいうと、これは受けていないといけないのですが」

えー、今更そんなこと言われても。

「ここに、万が一のことがあったら責任を負う、
という文言を書いてサインしたらそれでいいですよ」

万が一って何かしら。
まあ、それでキャンプに参加させてもらえるのはわかった。
しかし、英語で教育を受けていないものの悲しさ、
こういうときに何をどう書けばいいのかわかりません。

「あの、何て書いていいのかわからないので書いてもらえます?
サインだけしますから」

白紙にまずサインをしてナースに渡すと、息子が情けなさそうに

「文章書く前にサインすんなよ・・・」

情けない母親でごめんよ息子。
でも、わたしの英語力でこれは無理だわ。



なんとかスクールナースから解放され、外に出ました。

 

このキャンプはウェルズリーの施設を利用して、オーバーナイト、
あるいは9時半終了のコースもあるのです。
9時半まで何しているんだろう・・・。

テーブルに、それらのコースへの短期参加に必要な
申込用紙が備えてあり、皆取っています。

オレンジのテーブルではスナックやフルーツが振る舞われていました。
小袋に入ったポテトチップスやクッキーなどです。



そして、この円形劇場のようなところで待機。
親はここで説明を聞くようです。
その間、息子は泳力テストを受けに行きました。





日陰に人が集まり、説明開始。
東部の学校なので、西海岸と違って圧倒的に
コケイジャン、白人の家庭が多いです。
西海岸ではうじゃうじゃいる中国人も、さすがにここにはあまり来ていません。

キャンプではどのようなことをやるかとか、ピックアップの方法とか、
だいたいそんな説明でした。

週末も希望すればトリップに参加することもできます。
ニューヨークに一泊して「オペラ座の怪人」を観る、というプランだそうです。

また、独立記念日の前夜には花火も行う、ということで、
息子に「行きたい?」と聞いてみたところ、

「別にいいや。俺アメリカ人じゃないし、どうせしょぼい花火でしょ」

しょぼいって・・。
まあ、世界一と言われる花火大会に毎年参加している我々としてはね。
っていうかそういう問題じゃないんですけど。


説明は早々に終わりましたが、そのあと「質問タイム」になりました。

皆さんにもお見せしたかった。
アメリカの親というのが、こういうときいかに張り切るか。


些細なことでも聞かずにいられないのか、もらった書類に書いてあることも
わざわざ手を挙げて聴く聴く。
一人の人が何回も手を挙げて、しかも手を挙げる人が一向に減りません。

せっかくの機会にできるだけ聴かないと損!という感じでしょうか。
こういうのを見ても、日本人とは違うなあと思います。




これだけ抑えていれば情報としては十分だと思われるのですが・・。

なんと、みんなと朝ごはんを食べるコースもあるようです。

子供のためというより、忙しい親のためにあるコースですね。

さあ、ここで息子はどんなキャンプ生活を送るでしょうか。
初日にピックアップした時、どうだった、と聞くと

「面白かった」

それだけ?ほかには?

「ご飯がおいしかった」

それは・・・・よかったね。 




 


朝霞駐屯地訪問記~殉職隊員慰霊碑

2014-07-09 | 自衛隊

わたしが車を運転してK1佐が助手席に乗り、
朝霞駐屯地内のざっとした見学が始まりました。
輸送学校の前を通り過ぎたとたん、話が集団的自衛権になってしまい、
そこで終わってしまったわけですが、続きと参ります。



建物の周りをパイプがぐるりと取り囲んでいる実用的すぎるデザイン。
これは給水パイプで、この建物には浴室があるそうです。
たかが浴室と言ってもこの朝霞駐屯地に勤務する全隊員(3924人)が利用する施設、
25mプールみたいな浴槽があるのではないでしょうか。予想ですが。

手前に立っている鍵型の道路標識には

「メディカル朝霞」

という表示と赤十字が書かれています。



と思ったら、東部方面衛生隊の建物がありました。
衛生隊、というのは英語だと「メディカルサービス」で、
いきなりカジュアルな感じになるわけですが(印象です)
つまり医療部隊のことです。

 方面隊直轄部隊の衛生業務を任務とするほか、災害派遣や民生協力、
国際貢献活動も行っています。

海外派遣で、現地の人々の医療に当たる医療隊の姿を見ると
わたしなどつい涙をこらえるくらい感動するのですが、
こういった医療貢献はもとより、たとえば「イラク以前」「イラク以降」
で、それまでの日本に対する国際的な評価が180度と言っていいほど
大きく変わったということを国民のどれほどが認識しているでしょうか。

イラク派遣のときも、左翼はマスコミなどを巻き込んで
大変な反対をしていましたね。
当時の学者が書いた反対声明文の一部です。

「 自衛隊はイラク国民の切望する平和や復興のためよりも、
アメリカ軍によるイラク支配を支援しに行くことも明白である。
このまま自衛隊が派遣されれば、それはアメリカ軍と一体の
軍事組織とみなされることは不可避である。
そして、自衛隊はアメリカ軍支配に反発するさまざまな勢力による
武力攻撃の標的となる危険性はきわめて高い。
また、それに対する自衛手段とはいえ、
自衛隊が現地の人々を殺傷する可能性も大きい。

日本国憲法制定以来、憲法第9条のもと、国家の行為として
他国民を殺傷したことがなかったことこそ、日本人の誇りだったはずである。
この誇りがいまや打ち捨てられようとしている。
小泉政権は、国民の反対を無視し、国民に対する十分な説明もなしに、
憲法を踏みにじろうとしているのである」



んー、なんだか集団的自衛権の反対派と全く同じ論調ですね。
こういう人たちは、イラク派遣において自衛隊が現地の人々を殺傷どころか、
「帰らないでくれと請願するデモ」
まで起こされたほど感謝されたことについて今どう思っているのでしょうか。

なにより、「イラク以前」「イラク以降」で、日本に対する
国際評価が全く変わったという厳然たる事実をどう見るのでしょうか。

現在の集団的自衛権についても、反対しているのは2カ国だけで、
世界中が賛成しているのをどう思っているのでしょうか。

いや、わたしにいわせれば賛成じゃないですね。
世界中の二カ国以外と日本のマスゴミ以外は

「日本ほどの大国が、そんなもん当たり前のことだろJK
(常識的に考えて)」


って論調ですよ。


朝日新聞始め、「徴兵ガー」「戦争ガー」と不要のアジテーションで不安を煽り
反対している論陣を見ていつも思うのですが、

「もし何かあったときにはアメリカ人の若者が血を流し、そして
日本国民を守るため敵国民を殺してくれるだろう。
だが自分は手を汚したくない。絶対にだ」

って言っているだけで、ゴミ集積所が自宅の近くにあるのを

「臭いし汚い!どこでもいいからここ以外の別の場所に移せ」

とゴネる人を見ているような気がするのですよ。
どうして自分の国を自分で守るという基本的な「国際常識」についてだけは
全く知らん顔で触れもしないのか、そっちがフシギ。





話を衛生隊に戻します。

この衛生隊の隊長は医官たる1等陸佐ですが、
歴代衛生隊長の前歴を見たところ、防衛医大出身が
2002年の編成以降7人中2人しかいません。

ときどき、防衛医大卒の医師ばかりが勤務する医院があり、
これは退官後の受け皿として防衛医大卒医師が開業したらしい、
とわかるのですが、逆に、衛生隊の医官になるのには
防衛医大を出ていないといけないと思っていました。



広々とした敷地にさらに広大な緑のグラウンドが広がっていました。
ほぼ全員お揃いの体操服を着た一団がサッカーをしています。

「これは自衛隊体育学校です」

おお、これがオリンピックのレスリングでメダリストを産んだ
自衛隊体育学校でしたか。
でも、自衛隊体育学校って陸自にしかないんですか?

「陸海空の共同組織です」

所属を問わずここで一緒に訓練を受けるということですか。
しかし、学校長等指揮統制は陸自が受け持っているようです。

自衛隊体育学校出身の選手は、

マラソン・ゴルフ・重量挙げ・レスリング・射撃
ボクシング・近代五種・柔道・水泳・アーチェリー 

などの分野に有名選手を輩出していますが、中でも
最近最も話題になったのは、ロンドンオリンピックで金メダルに輝いた
米満達弘3等陸尉でしょうか。



室内で撮ったため画像がブレてしまいましたが、
これは世界選手権にむけた国内予選で、自衛隊体育学校が
4階級を制覇したというお知らせ。


音楽隊の存在は

「音楽によって自衛隊員の士気高揚を図る」

というのが目的の一つになっていますが、この体育学校もまた
自衛隊員の士気高揚が目的となっています。
オリンピック出場は体育学校の最終目標です。

米満三曹は、オリンピックで金メダルを取ったとき、
それが日本がこれまで取って来た金メダルの通算400個目だったことや
現役の自衛官で初めて紫綬褒章を授与されたことで、
自衛隊の士気は勿論のこと、自衛隊のイメージアップにも貢献しました。

体育学校には教員課程、スポーツ科学課程などがありますが、
いわゆるオリンピックに出られるような選手を育成するのは

第2教育課 特別体育課程

というコースです。


ところで、体育学校で給料をもらいながらスポーツをする限りは、
「プロ」のようなものだとお思いでしょうか。

実は違うのです。

彼らの身分はあくまでも自衛官であり、スポーツはアマチュア、
(でないとオリンピックに出られませんから)
となっていますから、彼らはまず教育隊を終えて自衛官になってから
初めて入校を許されるのです。

入校志望者は陸海空全てでこの自衛官の身分となり、
その中から集められて選抜されてのち、
初めて体育学校の生徒となることが出来ます。

元自衛官である作家が描いた漫画「ライジング・サン」では、
自候生仲間の一人が体育学校志望で、選手(ボクシング)になりたいのに
自衛官の訓練をせねばならない焦りと苛立ちから、
周囲に溶け込むのを拒否し孤立する、というストーリーを展開しています。

しかし、これも「ライジング・サン」で語られていましたが、
体育学校に入れたからといってその中で一流選手になれるのは一握り。

「ライジング・サン」によると

「壊れるか 強くなるか どちらかで
 ほとんどは 壊れる」

ということになります。

オリンピックで優勝し、栄光を手にしたのにもかかわらず
その後、国民の過剰な期待に押しつぶされ自ら命を絶った
円谷幸吉選手も、ここ自衛隊体育学校の出身でした。

いずれにしても厳しい世界ですが、自衛隊が
そういう可能性のある若者を育てる組織を有しており、
元々優れた能力の選手が国家公務員として生活を保障され、
その上で練習に励むことが出来るということでもあります。

現在の「国や企業がスポーツにお金を出さなくなった」日本においては

日本のスポーツ界にとって得難い存在であるとも言えるでしょう。




車の中から撮ったので分かりにくいですが、この
駐屯地内にある池を「琵琶湖」といいます。
実際の琵琶湖に形状が似ていることから付けられたそうです。

朝霞駐屯地は、もともと「東京ゴルフ倶楽部」というゴルフ場でした。
駒沢にあったのが土地問題でこの地に移転してきたのが昭和5年。
以来10年間ゴルフ場として使われ、昭和15年になって陸軍省が買い上げ、
陸軍予科士官学校(蒋介石がいた、あれですね)が置かれました。


この池は人造湖で、三番ショートホールの池越えのために造られ、
現在その唯一の遺構として姿をとどめています。

K1佐によると、たまに底をさらったりすると、
今でもときどきゴルフボールが出てくるのだそうです。

勿論昭和5年からの10年間にゴルファーが池越え失敗し
水中に没したものですよね。
これはある意味大変貴重な歴史的資料ではないかと思うのですが、
朝霞駐屯地としてはこのボールをどう扱っているのでしょうか。
気になります。



冒頭写真は「振武台記念館」
こういうところに展示すればいいんじゃないかな(提案)

振武台記念館は1978年(昭和53年)陸軍士官学校跡から
旧皇族舎を移築して、予科士官学校時代から伝わる資料を
展示・保管している建物です。

ぜひ中を見学してみたいものだけど、今日はダメみたい。
年に何回か一般公開の機会があるそうなので、
まめにHPをチェックして今度行ってみましょうかね。

馬も見たいし。
この日は見られませんでしたが、体育学校には厩舎もあって、
近代五種の乗馬のために馬が飼育されているそうです。

ところで近代5種って、一人の人間が

射撃(エアピストル) フェンシング 水泳(200m)
障害馬術 3キロランニング

をやってその総合点を競うという競技。
自衛官くらいしかこんなのできる人っていないんじゃないか?
障害馬術だけで十分特殊な競技なのに・・・。



さらにグラウンドの横を走っていくと、でた!
芝生の上とはいえ、地味に地面を這っている一団が。

勿論レンジャーや第一空挺団ほどではないにせよ、
このような訓練を毎日毎日毎日毎日、朝日が昇ってから落ちるまで
倦まず弛まず(倦んでるかどうかは個人の感想だけど)
続けているのが自衛隊。

遠くにまるで景色の一部のように見えていたので、
激しさのようなものは全く感じませんでしたが、もしかして
近くに行ったら班長の怒号が飛び交っていたんでしょうか。 


さて、そして車はこの碑の前に差し掛かりました。 



埼玉県、つまりこの朝霞駐屯地も含み、この一帯の
基地駐屯地(陸空海問わず)の所属で、殉職した自衛隊員の慰霊碑です。

朝霞駐屯地で殉職した、と言えば有名な

「自衛隊員殺害事件」

で、警備に立っていた21歳の士長が、幹部自衛官に変装し
駐屯地内に侵入した左翼の大学生によって刺殺された事件を思い浮かべます。

この事件ではマスコミの人間が犯人に協力し、逃走資金を渡していました。
現在に至るマスコミと左翼のなれ合いというか癒着が
最も先鋭化したといえる経緯だったのですね。

もしこの事件が
現代に起こっていたら、おそらくマスコミはあの手この手で
犯人を庇ったり、共犯となった記者の正当性をでっちあげたと思われます。


「車を停めてもいいですか」

わたしはそのまま通過することができず、車を降りて
石碑の正面に立ちました。

「一番最近の殉職隊員は、大宮駐屯地のタイヤの爆発事故で亡くなった
女性の隊員です」

K1佐の言葉。
わたしは即座にその事故を思い出しました。


20歳の女性1等陸士が、ダンプから外した直径1メートル20、
重さ約100kgのタイヤに空気を補充していたところ、チューブが突然破裂し、
作業中の隊員2人の頭などを直撃したという事故で、このうち、
女性隊員が事故による「外傷性くも膜下出血」で亡くなったというもの。

20歳。

刺殺事件の士長は入隊して2年目だったそうですが、彼女も
ちょうどそれくらいでしょうか。
希望に燃えて自衛隊に入隊し、すべてこれからというときに・・。

どんなにか無念だったことでしょう。

朝霞駐屯地では毎年10月に駐屯地司令が執行者となって

殉職隊員のための慰霊祭を行っています。
平成25年8月現在、ここに顕彰されている御霊は79柱。

この中には1999年、入間基地を飛び立った後操縦不能となった練習機を誘導し、
河原に墜落させ自分の命を犠牲にして住民を守った、航空自衛隊のパイロット
2人の名前も刻まれています。
(航空自衛隊の開隊以来の殉職者は400名を超える)


わたしもTOも、どちらからともなく碑に向かって手を合わせ、
そして、志半ばに愛する人たちを残し斃れた殉職自衛官たちの
尊い犠牲の上に現在の日本の平穏は守られているということに
深く感謝し、彼らの霊のやすらかなることを願って祈りを捧げたのでした。




続く。


 


朝霞駐屯地訪問記~「輜重は要らず」と集団的自衛権

2014-07-08 | 日本のこと

朝霞には去年の秋、観閲式とその予行演習のために来ています。
わたしにとって最初の訪問だったわけですが、
そのときには駐屯地とを挟んで隣にある演習場で行われたため、
こちらの駐屯地に足を踏み入れるのは初めて。

なんでも埼玉県の朝霞市、和光市、新座市(しんざじゃなかった)
三つの市にまたがっているそうです。
たまたま三市の境目にうまいこと位置するということですが、
それにしてもこれだけでどれだけ広いかがわかろうというものです。

広いだけあって、この基地には陸自の主要な隊が、
Wikipediaの区分によると21も存在しており、その中には

女性自衛官教育隊

中央音楽隊

陸上自衛隊輸送学校

自衛隊体育学校

などもあります。




K1佐の机の後ろにはロッカーの上にだるまがありました。
写真がぶれてしまってだるまに何が書いてあるのか分かりません。
聞いてみたところ、年末の「目標達成」のときに
目を入れるのだそうです。
何の目標だったのかは・・・・忘れましたorz



ここは「総務部」。
総監部の中の総務部ってことでよろしいでしょうか。
不思議な張り紙を見つけました。

脱衣許可 

総務部内での脱衣を許可する」

どうして脱衣にいちいち許可がいるのか。
しかもその許可がハンコ付きの貼り紙になっているのか。

これは、自衛隊の被服着用についての規則に関係しています。
K1佐によると、自衛官と言うのは基本的に

「いつも制服を着ていなくてはいけない」

と決まっているのだそうです。
それは公の場ではいつも、と言う意味です。

「しかし街中で自衛官の制服を着ている人なんか
見たことないぞ。やっぱり外では着てはいけないのでは?」

とおっしゃる方、あなたは正しい。
確かに自衛官の制服で電車に乗る人はいませんね。
しかしこれは、Kさんのお話によるとですが、

「私服を着る許可を得ているだけで本来は着ないといけないもの」

なのだそうです。びっくりですね。
しかしながら迷彩服で電車に乗ると文字通り軍靴の足音ガー、
と騒ぐ「市民」がいるのでそちらに「配慮している」ということらしい。
(これはわたしの想像)

「どこにいても制服を着ていなければいけない」
=「脱衣するときには許可がいる」
=総務部内で脱衣することが多いので、脱衣許可が貼ってある

ということなのですね。
自衛官ってつくづく大変だなあ。

でも、朝霞基地周辺では街中を制服で歩くことは常態化しており、
コンビニくらいなら普通に入るし、ときには

「飲み屋にも制服のまま行くこともあります」

だそうで・・。
しかし、その辺りも「この店は大丈夫」とか、「ここはやめた方が」
みたいな申し送りが出来ているといいます。

K1佐は前任地の岡山ではどこでも制服で行ったということで、

「横に女性が座るような店もあった」

そうですから、基地周辺とかあるいは地方などでは結構
その辺がゆるいのかもしれません。
まあ、こちらが普通だと思うんですけどね。


さて、建物から広報館、愛称りっくんランドまで移動です。
わたしの車にK1佐をお乗せし、運転していきました。

最初、基地に訪問するのに車で行ってもいいものだろうか、
と心配していたのですが、もしわたしたちが徒歩ならば、K1佐は
移動のために公用車を出さねばならなかったはず。
そういうお手間をかけさせないためにも、車で行って良かったと思いました。

移動しながらK1佐は基地や建物等を説明して下さいました。
どうやら中を案内するためにわざわざ大回りしたようです。



これは東部方面情報処理隊の入り口。

陸上自衛隊の情報専門部隊で、連隊以下の部隊で収集した情報を
データベース化し、陸自指揮システムを介してリアルタイムで配信しています。

隊員になるにはまず語学能力に長けていることが第一条件だそうで、
地史についての知識も必要となります。
「地理」ではなく「地政学」というものかもしれません。

指揮官である隊長は駐在武官、つまり防衛駐在官の経験を有する
1等陸佐が充てられるそうです。



見るからにオールドタイプの輸送トラックが飾られているのは

「陸上自衛隊輸送学校」。

英語で言うとtransuportion schoolでそのままです。
輸送科隊員として必要な教育訓練の実地を行っています。

輸送科というのは旧陸軍でいうところの「輜重」。
戦闘行動における「兵站」に携わる隊で、水食料・武器弾薬・
各種資材など様々な物資を第一線部隊
に輸送して、
同部隊の戦闘力
を維持増進することが主任務となります。


ところで「歩兵の本領」という軍歌がありますね。
現在でも自衛隊ではこの軍歌が歌われているそうですが、

この7番の歌詞(別バージョンも有り)は

♪携帯口糧あるならば輜重は要らず三日四日
曠野千里にわたるとも 散兵戦に秩序あり♪

というものなのです。
前にも書いたことがありますが、自衛隊ではこの7番は歌われません。
その理由とは「輜重は要らず」の部分が

「輸送科に対して失礼だから」

なのだそうで・・・。

さらに、自衛隊的にカットされているのはこの部分だけではなく

♪千里東西波越えて  我に仇なす国あらば 
横須賀出でん輸送船 
暫し守れや海の人♪

という、旧軍的には海軍にも配慮した4番なのだそうですが、
これは「波超えて」「仇なす国」が、

「海外派兵を連想させるから」

という理由です。

こちらは「専守防衛」のモットーにそぐわないということらしいですが、
これもどうなんでしょうね。

「我に仇なす国あれば」

つまりここの部分だけなら完璧に専守防衛。
しかし、「波超えて」つまり派兵ということは、

「たとえ我が国を守るためでも海外派兵は許されない」

という、つまり今論議となっている集団自衛権に係っていたがために
自粛されていたと考えられます。


話がそれついでに、この際ですから簡単かつわかりやすく説明しておきます。
皆さんにはもう周知のことかもしれませんが。

集団的自衛権というのは元々日本が国連から認められている権利です。
「個別的自衛権」とともに国連加盟国が権利として持っています。

しかし、日本の場合、この集団的自衛権を行使する権利を有しながら
憲法の縛りでその行使を放棄していたというのが現状です。
念のためにいうと、こんな国は日本以外にどこにもありません。
日本だけが、勝手に自粛して「行使しない」と宣言していたわけです。


よく左翼が「戦争が出来るようになる」というのを
集団的自衛権行使の反対理由にしていますが、実はこれ、
「戦争が出来る国になる」というのは本質として大きく間違ってはいません。

ただ、左翼の懸念とやらと現政権の目的は全くベクトルを異にします。
現政権がもっとも期待しているところは、

「戦争が出来る国になったと宣言することで他国への抑止力とする」

ということなのです。

たとえば、中国・韓国と言う国は日本の集団的自衛権に反対しています。
中国は当然反対でしょう。

逆に中国の脅威にさらされているアジアの国々は
なべて日本の集団自衛権行使を歓迎しています。
これが南沙諸島などにおける中国への大きな抑止力となる
知っているからです。

現在どうなっているのか分かりませんが、尖閣に中国海軍が
軍艦を2隻向けてきたのも、集団的自衛権の行使が可能になりそうだという
予測を受けてのことであろうと思われます。



それでは韓国はどうでしょうか。
この国に関してはわたしも首を傾げざるを得ません(笑)

実際問題として、日本がこれを行使できるということになれば
もし停戦中の北朝鮮が韓国に対し武力攻撃を行ったとき、
本当にするかどうかは別として、
理論上は、日本は同盟国側である韓国を援助することが出来るのです。

日本が援助に出て来る可能性があるとないとでは、北朝鮮に対して
大きな抑止効果の違いとなって来ることが期待されるわけですが、
かの国はただひたすら

「日本が戦争できる国になったら我が国が危ない」

という観点に立って反対を叫んでいるのですね。

彼らが竹島を不法占拠したのは、戦後日本が占領下で武力を持たず、
自衛権もない瞬間を狙っての計画的犯行でした。
現在でも居座って、時に挑発的行動に出るのは他でもない、
日本が九条の縛りで海を越えて来ないと思っているからです。


本来、その行使は自分たちを守ることにもなるはずだから
行使できるようになることは歓迎すべきなのに、
竹島占拠を始め、日頃自分たちが日本から攻撃されるようなことをしている、
という自覚があるから、反対しているわけです。


先日、やらせくさい抗議の焼身自殺が起こりましたね。
借金で首が回らなくなった活動家を生け贄にするつもりだったのかな?
記者会見で「火病」を起こし泣き叫ぶ怪しい市議登場のインパクトで
全て吹き飛んでしまった感がありますが。

これもおそらく「抑止されたくない」国の下部組織が、
成立の動きに焦って、テロまがいの騒ぎを仕掛けてきたのだと思います。
この組織には「脱原発」「米軍基地反対」「河野談話検証反対」
につながっていることは明らかです。

わたしはいつも、こういう世論の対立があるとき、簡単な判断基準として

「デモ隊が日の丸を持っているか」

でそれをはかることにしています。
田母神氏が

「中国と韓国が反対しているから日本に取っていいことだ」

とこの集団的自衛権について発言し、一部ではそれを叩いていたようですが、
それよりもむしろ、彼らが「日本のためを思っている」のならば
デモ隊が日の丸を一本も持たないどころか、ハングルや中国の簡体字の看板を
持って抗議するはずがない、と判断した方が簡単でしょう。


つまり、集団的自衛権の行使はそれだけ日本を侵略したい国に対して
「効果がある」ということなんですよ。



さて(藁)

輸送学校の話が途中でした。
輸送学校は輸送科の任務に必要な各種技能を学ぶ教育機関です。

大型車両などによる人員・装備品の輸送のほか、輸送統制、ターミナル
業務、
道路使用規制等を行います。

また、陸上輸送(自動車・鉄道
)、海上輸送及び航空輸送全般を担当。

部隊内には自動車教習所があり、各種免許取得のための教習が行われています。
ここでは大型免許もとれますが、自衛隊の車両に限られ、
一般の大型免許を要する車は運転できないそうです。



旧軍時代から、輜重・輸送兵は兵科としても下に見られがちで

「輜重輸卒が兵隊ならばチョウチョトンボも鳥のうち」

などと揶揄される傾向にありました。
輸卒を統括する士官にしても、士官学校の成績が悪かったり
素行に問題がある者が振り分けられる傾向にあり、
決して優遇された地位ではありませんでした。

たとえば各兵科にはかならず「兵科の歌」があったのですが、
輜重兵科だけはその歌が作られることは最後までありませんでした。

士官学校で振り分けられた者の落胆も大きなものだったそうで、
そんなことからデスペレートな雰囲気が満ちていたのかもしれません。

しかし、この兵站軽視の考えは、大東亜戦争において重大な局面、
たとえばインパール作戦やガダルカナルでの補給の失敗に繋がり、
日本の敗戦を後押するという弊害を産みました。


というわけで!

戦後の自衛隊においては決して輜重輸卒、いやさ輸送科を
徒や疎かにしたり軽視することは厳に慎んでいるのです。

「輜重は要らず三日四日」

の一言に自衛隊が敏感に反応し自粛しているのも、
全ては敗戦に繋がった輸送軽視へのふかーーーい反省がこめられているのです。


たぶんですけど。




続く。



 









 


 


朝霞駐屯地見学記~陸海「文化の違い」

2014-07-07 | 自衛隊

この3月、わたくしこと不肖エリス中尉は、岡山県にある
三井造船玉野造船所にて、護衛艦「ふゆづき」の引渡式を見学しました。

その際、同じテントのちょうど前の席に陸自の一佐が座っており、
周りが座っているのに、一人だけ立って自衛艦旗に敬礼していたり、
あるいは周りの人に傘を勧められて断ったりしている様子を
非常に興味深く観察させていただきました。

その後、祝賀会会場でも近くでお見かけし、さらには
その約2ヶ月後、
元陸幕長を囲む個人的な酒席が持たれた際には、この1佐が

なんと元陸幕長の元副官として出席されていたのにまたもや遭遇。
そのとき、


「お会いしていますよね?」

と聞くと、はい、と普通にお答えになったので、てっきりわたしは
向こうも引渡式でこちらを視界に認めていたのだろう、と
勝手に思い込んでいたのでした。

ところが。

岡山での宴席で名刺交換をし、「朝霞に転勤になったら遊びにきて下さい」
と言われたのを真に受けて、基地訪問の約束を取り付け、
手みやげなどを準備しながら楽しみにその日を待っていた頃のこと。
TOが


「赤☆さんの講演会のときに写真を撮っていた人がこれ送ってくれたよ」

とたくさんの写真を持って帰ってきました。
それを何気なく見ていたわたしは、なんと驚くべきことに、
その中にK1佐その人が写っているのを発見したのです。


「ちょっとちょっと!これ・・・・・Kさん?」
「・・・・・あ、Kさんだ」
「あのときに会ってたんだわたし・・」

つまり、引渡式のとき、わたしはK1佐とすでに初対面ではなかったのでした。
これは、もうなんというか運命の出会い。
今までのご縁はこういうブログをやっている関係上海自関係が主でしたが、

もしかしたらK1佐は、今まで未知だった陸自の中の世界にわたしを誘ってくれる、
迷彩服を着たガーディアンエンジェルかもしれない!


そんな過剰で突拍子もない期待を勝手に抱きつつ、6月のある午後、
わたしは愛車を駆って
今しも朝霞駐屯地の門をくぐろうとしていました、
約束は朝霞門との連絡を受けています。

「ここってその朝霞門?」
「はて」

てなことをいいながら車を門のところに入れるような入れないような、
つまりいつでも離脱できるような中途半端な停め方をし、
中を窺う間もなく、光の速さで警備の隊員が飛んできました。

「あの~、じんじ」
「ここに停めないで、中に車を入れて下さい♯」

取りあえず邪魔だってことですねわかります。
帰りにわかったのですが、ここは陸自の保有する、装甲車だのトラックだの、
場合に寄っては戦車や自走砲が列をなして出入りする門だったのです。

実は帰りにも脇に車を寄せてカーナビに入力していたら、
横をばんばん迷彩色のイカツい車両が通っていくなあと思う間もなく、
またしても光の速さで飛んできた警備の隊員が

ここは邪魔になるのでもう一度中に入って下さい♯」

とにかく入り口付近に停まっちゃだめ!というのはよくわかりました。
しかし警備の隊員さんも内心

「あーもうこれだからパンピー(一般ピープル)は・・・」

とかイライラしてたんじゃないかしら。すみませんね。

車を受付の横にある駐車スペースに停めたところ、
年配の自衛官が近寄ってきました。

「お迎えにあがりました」

おお!陸上自衛隊、ちゃんとエスコートを用意している。

「すいませんが遠いので一緒に乗せてもらっていいいですか」

なんかわかんないけどエスコートが助手席に乗り込んできたぞ。
というか、それくらいK1佐のいる建物は遠いのね?
それにしてもこのエスコート隊員はここまでどうやって来たのかしら。

「えーそこのロータリーを曲がってー」
「はい」
「そこ左です」
「はい」

などとエスコートに指示されつつ車を運転し、
ビル近くの駐車場に到着。



ここに来て思い出したように初めて写真を撮るエリス中尉。
というか今まで運転していましたのでね。
それにしてもさすがは日本国自衛隊、お掃除しているのは現役自衛官です。

右側にTOが写っていますが、下げ持っている紙袋には
お土産の一升瓶が入っています。

うわばみのように宴席でお酒を吸引していた元陸幕長が

「もう最近はどこそこの何々(名前忘れた)しか飲まない」

とおっしゃっていた(というかTOがさり気なく聞き出した)
その名酒です。

元上司に遠慮してか、控えめとはいえよく飲んでいたので、
K1佐もかなりお好きであると判断してのお土産作戦です。

それにしてもこの陸自2人組、あとから、出席者同士で

「2人ともものすごい飲んでらっしゃいましたね~」

と感嘆しあったくらいの酒量で、やはり陸自で出世するには
お酒が強いことも条件の一つなのでは?と思ったくらいでした。

現に元陸幕長もそんなことを言ってたしな。




もう一人のお掃除隊員がおもむろに担いでいる装備は、
アメリカ人がよく使う、吸い込むのではなく「吹きとばす掃除機」。
海自艦艇も「掃除ばかりしている」というだけあってどこもかしこも
舐められるくらい綺麗でしたが、この朝霞駐屯地内も広大な敷地の
どこを見ても清浄そのもの。
掃除するところもなさそうなのに毎日掃除しているという感じでした。

何しろ泥だらけで当たり前の戦車を毎回洗車する陸軍だからねえ・・。



エスコート隊員について建物に入っていきます。
そして・・・・・

ー1時間経過ー


あ、皆様すみません。
この間わたしたちは何をしていたかというと、K1佐の執務室で
コーヒーを戴きながら(カップには別に陸自マークとかは無し)
K1佐とすっかり話し込んでいたのです。

お会いして早速手みやげを渡したところ、
K1佐は社交辞令ではない喜びの表情を浮かべたので、
仕事上飲むというより本当にお酒好きなのだと確信しました。

それに、組織の長になったからにはそういう場で皆に振るまう、
ということもしょっちゅうあるでしょうし。

 
再会の挨拶に続き、話題はわたしたちの「出会い」に移りました。

「ふゆづきの半年前に元海幕長の講演会ですでにお会いしていたんですね」
「防衛協会の主催でしたので行かせていただいたのですが、
H社のH社長から(わたしの)お話は聞いていました」

な・・・・・なんだって?・・・・なんて?

「大変防衛問題に関心をお持ちの方だと・・・」

なんだ、その程度か。
変人扱いされてなかったらしくて良かった。

(掃海艇の元艦長とお会いしたとき、その奥方に
思いっきり『変わった人』扱いされた経験がありまして)

その後、話は途切れることなく弾みました。

わたしたちが晴海の「かしま」の艦上レセプションに参加したこと、
K1佐の副官時代の思い出・・・。


「ところで」


やっぱりここは疑問に思っていた点を明らかにしておきましょう。

「陸幕長の副官ってどうやって決まるんですか」

陸幕長は「名簿が回ってきたから一番右を指して適当に」
決めた、とおっしゃっていましたが?

「人事の決めることなので、としかいいようがありません」

ふむ、やっぱり人が人を選ぶのね。当たり前か。
でも勿論優秀な人間が選ばれるんだろうと思う。

ちなみに、海自の副官業務は、わたしもこのブログでお話ししたように
「練習艦隊」「幹部学校」など、「役職に付随する任務」であるため、
場合によっては一人の副官が任期中に2人、あるいはそれ以上の上官に
仕えると言う可能性もあるわけですが、

「陸自では陸幕長ならその陸幕長と言う人に付くので、
2人の上司をまたぐことはない」

とK1佐はおっしゃっていました。
逆に、副官を「2人またぐ」陸幕長はたまにいるそうです。

「そっ、・・・・・それはもしかして」

身を乗り出すエリス中尉。
やっぱりこいつどうしても気に入らんから変えてくれ、みたいな?

「そういう将官も・・・・まあいないわけではありません。
というかたまにはいますよ。
でも、逆に副官業務は1年やれば十分だから、と、
多くの幹部に経験を積ませるため
あえて副官を変えるという方もいます」

それってそういう表向きの理由なんじゃ・・・いやなんでもない。
いくら馬が合わなくても「合わんから変えてくれ」じゃ
言われた副官も傷つくからこう言っているのではないか。
と考えてしまうのはわたしの心が汚れているからでしょうか。




「門の近くの資料館はごらんになったことがありますか」

話が一区切りした頃、K1佐こう提案してくれました。

資料館と言えばレンホーの急襲で有名になった「りっくんランド」。
ここは一度来てみたいと思っていたんですよ。
しかも現役の1佐にご案内いただけるなんて光栄です。

「じゃ行きましょうか」

言われてあわてて部屋の写真を撮り出すエリス中尉。



といってもあまり撮るところもないのよね。
取りあえず面白そうな予定表を。

定期昇任(自衛官)

駐屯地朝礼

セキュリティフォーラム

定期異動(自衛官)

新着任者教育

援護担当者訓練

射撃検定

師団長等会議

このような、一般の会社には見られない予定が書き込まれています。
因みにこれで分かったのですが、7月16日(水)には駐屯地の納涼大会、
(盆踊りとか?)、翌日が予備日であるそうです。

あまり大々的に宣伝していないようですが、
自衛官との綱引き大会や音楽隊の演奏もあり。
日本にいたならぜひ参加したいところです。


 ところでこのK1佐とここまで因縁があるとはつゆ知らぬ頃、
わたしは後ろの席から撮ったK1佐の写真を当ブログに挙げて

「陸将補」

などと階級を間違えて紹介するという無礼を働いたことがあります。

このときわたしは、海自の行事で陸自幹部がどのように振る舞っているか
興味深く観察し、皆様にもそれをご紹介させていただきました。

ご本人にこの日のことをお聞きすると、まず陸自の隊員が
このような行事に出席することは(将官にならない限り)あまりなく、
従って佐官であるK1佐にとっても滅多にない体験であったようです。

「陸自でたとえば戦車ができたって、いちいち式典やらないですからね。
それを海自は1隻船が出来るたびにやるんだなあ、と・・・。
まあ、戦車より護衛艦は作るのに時間も手間もかかるんですけど」

と、ものすごーく基本的なことに感心していたのにこちらが驚きました。

「海の文化だなあ、と・・・」

旧軍の昔から陸軍と海軍は違う成立をしてきて別の組織だったため
文化が違う、ということは言われてきたことでしたが、
同じ一つの自衛隊となって、士官学校である防衛大学では
共通の教育を施されてきた幹部が上に立つ組織であっても、
「海自の文化」と「陸自の文化」は全く違うものであるということですね。


何人かの陸上自衛官が

「海さんのことは本当に分からない」

と言っていたのを聞きましたが、これはたぶんに海上自衛隊が
旧海軍の体質を最も強く受け継ぐ組織であることから来ているようです。

戦後初めて組織された空自はどちらかというと機能的な部分は
陸の流れを汲み、気質的には海を引き継いでいる、
と言った人もいますが、こういった陸空海の「気質の違い」に
こだわって掘り下げていくのを本ブログのサブテーマにしてもいいかな、
とちらっと思わされたK1佐の一言でした。





 


女流パイロット列伝~パク・ギョンウン「日本人・朴敬元」

2014-07-05 | 飛行家列伝


このパク・ギョンウンの情報は今回見学したヒラー博物館にあったわけではなく、
中国女性で初めて飛行免許を取ったキャサリン・チャンのことを調べていて、
ふと「日本最古の女流飛行士は誰なのだろう」と思いつき検索したところ、
何人かの日本人名のなかに彼女の名前を発見したのです。

彼女がパイロットの資格を取ったのは1927年。
日本最初の女流飛行家兵頭精(ただし)は、1921年に日本に航空取締り規制が布かれ、
操縦免許性になった一年後の22年に免許を取っていますから、その5年後です。

当時朝鮮半島は日本に併合されており、パクもまた「朴敬元」という日本国民であったわけですが、
朝鮮半島出身者の女性としては彼女が先駆となります。


パク・ギョンウンは、1901年、日本併合下の韓国、大邱(テグ)で、家具屋を営む家に生まれました。
韓国ではアメリカ人の経営するミッションスクールを卒業し、卒業後の1917年、来日します。

日本に到着したパクは横浜市の南吉田に居を構え、そこから笠原工芸研修所に2年半通いました。
ここで彼女は養蚕についての職業訓練をしたようです。
この期間、横浜の「韓国キリスト教教会」に通って、クリスチャンになっています。

この日本での日々に何があったのかはわかりませんが、どうやらこの間に
彼女は「飛行士になって空を飛びたい」という夢を持つにいたったようです。

彼女はいったん大邱に帰ってそこで看護学校に入りますが、それは、
飛行士になるのに必要な飛行学校の学費を調達するのが目的だったといわれています。
この看護学校は、日本の慈恵医大が大邱に創設していたものです。

1925年1月。

彼女は蒲田にあった飛行学校に入学するためにまた戻ってきます。
同胞である韓国出身の男性パイロットがここで教官を務めており、
彼女はこの男性に指導を受けることを希望していたようです。

もしかしたらこれが彼女の飛行士を目指した動機だったのではないかとも思われるのですが、



この、韓国人で最初に飛行士になった人物であるチャン・ヨンナムもまた、
当時江東区の須崎にあった飛行学校を優秀な成績で卒業し、
非常に卓越した技術を持っていたと伝えられるパイロットでした。

しかし、彼女が戻ってくる2年前に、彼は韓国経由で中国に亡命してしまっていました。

この人物についてのウィキペディアは韓国語と英語しかなく、したがって
亡命の原因を

「関東大震災で朝鮮人の虐殺を目にし、日本と戦うことを決意した」

とし、彼は北京に住んで韓国独立運動をした、ということになっていますが、
この一文を読んだだけで残念ながら本当はそうではなかったとわかります。

そもそも、朝鮮人が虐殺されている現場を、朝鮮人である彼は
どこでどうやって高みの見物を決め込んでいたのか。


とかね。

独立運動家としての彼の名前は無名ですし(おそらく韓国人も知らないのではないでしょうか)
後に墜落死した時には、彼は若干29歳で中国の飛行学校の校長をしていたといいますから、
「独立運動」はあまり現実的なものという気がしません。

これもまた「韓国人から見た」歴史であることを割り引いて考えた方がよさそうです。


さて、蒲田でチャンの指導を受けようとしていたパクの目論見は外れましたが、
彼女の資金を募るために、東亜日報が記事を書き、それによって集まった募金で
彼女は飛行学校に入学することができ、二年後に三等免許、
さらにその一年後に二等飛行免許を取得することができました。


ところでこの東亜日報というのは日本統治時代の1920年に創刊されています。

現在の韓国人というのは日本統治時代を否定しなくては精神が立ちいかないくらいの
峻烈な反日教育を受けていますから、統治によって

「民族のすべての固有の文明が奪われた」

くらいのことを学者であっても平気で言ってしまいます。
実際、2013年9月24日付のニュースで、

「日帝は朝鮮を強制的に併合した際、1911年までの一年間の間に
初代朝鮮総督の寺内正毅が軍警を動員し、全国の20万冊の史書を強奪したり
燃やしたりし、さらにその中から珍しい秘蔵史書を
正倉院や東大秘密書庫のようなところ

奥深く隠した。
つまり日帝は古朝鮮以前の古代史を根こそぎ奪ったのである」 

などという(発言者は正倉院がなんだか全く知らないのではないかと思われる)
都市伝説レベルの発言を考古学者がしているのを知り、
あらためてそれを確信する気になったわけですが。

しかしこのブログを読んでおられるような方であれば周知の事実ですが、
実際は歴然と証拠として残るダムや鉄道のほかに、
ソウル大学はじめ教育機関や(パクの通った慈恵医大の看護学校もそのひとつです)
新聞社、しかも朝鮮人の有力者が後押しして、モットーの一つが
「民族主義」であるような言論機関を朝鮮人は作ることができたということなのです。



というか、百の言葉を尽くさずとも、

「現地民のための学校があり、現地民経営の新聞社があった」

これだけで、日本の統治がどんなものであったか一言でわかるではありませんか。


去年韓国で、統治時代当時を知る95歳の老人が


「日本の統治時代はよかった」

と言ったところそれに激昂した若い男が老人を殴り殺し、
それに対して国民が「よくやった」と喝采を送るという事件がありました。
実際、

「過酷な日本の植民地支配で何万人もの人が虐殺された」

などというトンデモ話を子供のころから信じ込まされているのが今の韓国人です。


今回パクについて書かれたいくつかの記述を見ましたが、皆お約束のように
「偏見」「差別」を跳ね返して、などという文章を必ず付け加えています。

しかし、実際に統治下の朝鮮人が偏見や差別と闘い続けなければ何もできないような国なら、
そもそもパクのような朝鮮半島出身の、しかも女性が飛行士になることなどできたでしょうか。

朝鮮半島生まれの若い女性がわざわざ日本に来て職業訓練を受け、
さらに日本で飛行機の免許を取って、飛行競技大会にも出場し三位になり、それで
陸軍の中古とはいえ、サルムソンを購入することすらできたのです。

つまり、現在の韓国人の言う「峻烈な差別と虐殺」というのは、「被支配」側の被害妄想、
よくて少なくとも何か特殊な事件の拡大解釈に過ぎないとしか思えません。

(当時の日本に差別がなかったとは言いません。
いつの、どこの国にも差別があるように普通にあったことは確かです)


彼女が憧れていた(らしい)朝鮮人のチャン・ヨンナムも、やはり日本で免許を取り、
日本の飛行学校で教官を務めて日本人を教えていたわけです。
これも彼らが言うほどの差別があればありえないことでしょう。


さて「最初に飛行機に乗った自国民」は文句なくその国にとって英雄のはずです。
現在の韓国人というのは、反日から来る歴史認識を拗らせて、
こういう人たちを
民族の誇りとすることすらできないジレンマに
自らを追いこんでしまっているように見えます。


彼らを誇ると、「日本」がその「名声」の形成において大きな意味を持ち、

さらに、日本で彼らは必ずしも迫害されていたわけではなかった、
ということを語らなくてはならなくなってしまうからです。

その挙句、日本の総理大臣を殺害したテロリストが自国の誇る
もっとも偉大な英雄になってしまうという歪んだ価値観しか持てないのが、
「韓国という病」における最も憂うべき後遺症だと言えましょう。



パクはつい最近まで「韓国初の女流飛行家」であるということになっていました。
しかし、その「初めての飛行家」が、当時「日本人であった」というのは、
そんな「韓国病」の彼らにとっては耐え難い屈辱であったようです。

そこで韓国は、彼女ではなく、「中国軍で飛行免許を取った」という
キ・オククォン
いつのころからか「初めての韓国人女流飛行家」
のタイトルを与えることにしたようです。


「与えた」
というのはあくまでわたしの想像です。
2005年に「青燕」というタイトルでパクの人生が映画化される前までは
まだ「初の女流飛行家」はパク・ギョンウンであるということになっていたからです。
しかしなぜか「急に」キの方が先であったという説が生まれ、wikiもそうなりました。

そのため映画の興行元は「韓国で初めての女流飛行家」というパクのキャッチフレーズを
全ての媒体から削除しなくてはならなくなってしまったそうです。


もちろんわたしは観ていませんが、どんなに映画上でパクの人生を

「虐げられた民族の苦しみを跳ね返し飛んだ」

と言おうとしたところで、現実にに日本で免許を取り、日本の人たちに見送られて、
日本の国旗を振りながら最後のー彼女が命を失うことになるー
最後の飛行に飛び立ったという事実がある限り、
日本を悪く描くにも限界があったのだと思われます。


そしてやはり「親日的である」の烙印を押され、映画の韓国での興行は失敗しました。
パクの名前もまた、全くと言っていいほど今日に至るまで祖国では無視されています。


1933年。

32歳の彼女は、親善を目的とした訪問飛行のため、羽田を飛び立ちました。
日韓関係なく、成功すれば彼女は初めての日本海横断飛行した飛行士となるはずで、
羽田での見送りは官民多数の大変盛大なものであったといわれています。

ところが、この飛行に関しても、英語(つまり韓国側の記述)によると、

「日本政府のプロパガンダにより計画された、
満州への飛行であった」


となってしまっています。

まったく・・・・・(笑)

満州国をだけ対象に日本がプロパガンダをするのなら、普通に考えて
何もわざわざ韓国人の女性パイロットを飛行させる意味がありますか?


・・・・日本を悪者にするのも大概にしていただきたい。

東京―ソウル―満州をつなぐ線を、朝鮮民族である彼女が飛行することで
政府が「八紘一宇」「五族協和」のシンボルとしようとしていたのは確かです。
尤もどんなことも悪意一本で解釈すれば「プロパガンダ」でしょうけどね(投げやり)


さらに穿った見方をすれば、この件で韓国人は、日本ー韓国間の「親善飛行」、
そして(こちらが主な理由だと思いますが)彼女がこのとき挑戦したところの

「日本海横断」という言葉を何が何でも使いたくないのだと思われます。

韓国は歴史的に日本海は存在せず東海であったと主張しているからですね。


まあ、国民が最も熱狂する国威発揚が「日本に勝つこと」という国ですから
これもまた致し方のないことなのかもしれませんが、
そうやっていちいち自分たちのプライドのために歴史を「修正」していると、
必然的に矛盾が生じ、そのうち歴史そのものを見失ってしまうのに・・。 


さて、パクの話に戻りましょう。

冒頭画像はこのときに見送りの人に向けて日本の旗を振るパク・ギョンウン。
おそらく、これが彼女が生きて最後に撮られた写真であったと思われます。
彼女はこの日のために飛行服も、飛行帽も、すべてを新品に買い整え、
希望に満ち溢れて羽田を発ちました。

その日は羽田から大阪に立ち寄り、そこで在阪朝鮮婦人会や有力者の激励を受け、
ソウルに出発する予定になっていました。

しかし、花束を持って正装で彼女を迎えようと飛行場に詰めかけた人々の前に
彼女の飛行機「青燕」はいつまでも姿を見せませんでした。

そして、翌日の捜索で彼女の飛行機が、箱根山中、熱海の玄岳山に
機首から墜落しているのが発見されたのです。



彼女が身に着けていた時計の針は、彼女が飛び立ってから
わずか42分後に「青燕」が墜落したことを示していたそうです。

内外の新聞はその事故死を大きく報じ、彼女の死の一年後、
1934年の8月7日には、追悼飛行が行われています。
この飛行には、飛行学校の後輩であった正田マリエ(豪州から日本人と結婚し帰化)と、
やはり朝鮮人の李貞喜が務め、正田が空中から現場に花束を投げました。

それだけではありません。

日本と韓国の両国にはそれぞれ女性飛行士の協会があるそうですが、
その韓国側が30年前に

「わたしたちの先輩パイロットであるパクの遭難場所を教えてほしい」


と訊ねてきたということがありました。
しかしあらためて探すまでもなく、彼女の飛行機が墜落した村の人々は、
墜落現場に自然石の碑を立て、ずっと供養を続けていたのです。

それ以来、両飛行協会は姉妹提携を結んで交流しているという話です。


彼女の死後しばらくして、新聞にこんな記事が載りました。

「申栽祐君は 朝鮮女流飛行家朴敬元嬢が 郷土訪問を兼ね
日満間の大壮途を
決行せんとし途中 惜しくも墜落惨死したのに発奮し、
法政大学法科を棄てて、
昨年八月千葉第一飛行学校へ入校、
亡き朴嬢の意志を継いで
 
一日も早く内鮮満飛行を決行し
朴嬢の霊を慰めんと努力しつつあったが、
去年操縦試験に見事パスし 
次いで学科試験にも合格し 二等飛行士の免状を
下付され 
いよいよ念願かない 機材購入の準備のため帰鮮の途に就いた」




「日本の統治は正しかった」

95歳のかつて日本人だった韓国の老人はこう言って殺害されました。

今の韓国人には信じられない、それ以前に認めたくないことでしょうが、
これが、日本の「統治民に対する扱い」だったのです。

同じ飛行家以外には祖国ではその存在すらなかったことにされている朴敬元。
日本軍の兵士となって特攻戦死を遂げた朝鮮人同胞に対してさえ、
「日本の手先となったのであるから敵である」と言い切るような民族ですから
それもむべなるかなというところでしょう。


その後、日本女流飛行家協会が主導して、熱海梅園の中にできた「韓国庭園」
朴飛行士のレリーフと「思いは遥か故郷の大空」と題した記念碑が設置されました。

その竟の地が日本でなければ彼女はこのように祀られることもなかったでしょう。

勝手に死者の魂を忖度する不遜を許していただけるならば、
当時日本人であった彼女の霊はこの地でせめて安らかに眠っているのではないでしょうか。




 


パシフィックコースト航空博物館~「ファイナルカウントダウン」盗作問題

2014-07-05 | 航空機

サンフランシスコを北上、ワインカントリーであるナパ、ソノマ地域に
ある民間空港、チャールズ・M・シュルツ・ソノマカウンティ空港。

その一角にこの航空博物館はあります。

外に置きっぱなしの展示といい、寄付だけで賄われている感じといい、
いかにも退職老人の再就職先になっていそうな感じといい、
空港の片隅にある博物館にありがちな手作り感満載の小さなものですが、
いずれにせよわたしはキャリー・ブラッドショーが(今テレビでやってる)
マノロブラニクのバーゲン会場を目の前にしたような気持ちで
この宝の山に脚を踏み入れたのでした。



マクドネルダグラス F−15 イーグル

前回911現場であるNY上空に航空機突入の時間駆けつけていたとして

「彼らは英雄かもしれないが、却ってこれは陰謀説を裏付けないか」

と書いてみたのですが、まあ、この話は軽く受け流して下さい(笑)
それより、このイーグルがどこから飛んで来たかと言うと、
バージニア州のラングレー(ヒバリ)空軍基地。

F−15はその後退役が進んでおり、現在軍使用されているのは
ネバダ州のネリス空軍基地のみ。
そもそも高価すぎてサウジとか日本とか、お金持ちの国にしか
買ってもらえなかったという戦闘機なんですね。



元々のペイントがうっすらと透けて見えています。
「ケープコッド」とあるのですが、F−15イーグルの名前としては
あまりイメージが合っていないような・・・。

パイロットがボストンのこのペニンシュラ出身でしょうか。



 コクピット下にはパイロットの名前を書く慣習がありますが、
ここに書かれた名前には軍階級がありません。

F−15は過去の空戦で撃墜されたという記録がなく、
現地の説明によると「100以上の空戦に勝利している」そうです。 



実はこの航空機には案内板がありませんでした。
展示マップにも該当場所には何も書かれていないので、
おそらく最近導入した展示ではないでしょうか。

しかし、今のわたしには機種がわかってしまうのだった(笑)

まずこの無理矢理な翼のたたみ方。
これは間違いなく艦載機の特徴ですね。



海軍所属で、おまけにホーネットの艦載機、と書いてあります。
これは

Grumman S-2 TRACKER

だと思われます。
去年の夏空母「ホーネット」を見学し、ハンガーデッキにこのトラッカーが
非常に肩身の狭そうな様子で展示されていたのを思い出しました。

そのときも書いたのですが、空母艦載機として運用することを大前提にしすぎて、
装備を小さな機体になんでもかんでも詰め込んで居住性を犠牲にしたため、
このトラッカー、搭乗員たちからは不満続出だったということです。

ところでたった今画像を見て気づいたのですが、このトラッカー、

MADブームがついていません。



お尻の部分を拡大してみると取り外されたように見えないこともないのですが、
このトラッカーは対潜用に作られたので電子戦の装備があり、
必ずブームをつけているのだと思っていたのですが・・・。

もしかしたらこれ、トラッカーじゃないかも?


トラッカーの尾翼裏にあったスコードロンマーク。



Grumman A-6 IINTRUDER

これも実は説明看板がありませんでした。
しかしこの角ですぐ分かってしまいますね。



海兵隊の所属となっています。
このイントルーダーはベトナム戦争、湾岸戦争など、海軍の艦載機として
アメリカのかかわった戦争ほとんど全てに投入された、とされますが、
海兵隊については説明がないのでわかりません。



お腹の部分に突き出ていた透明のケースのなかの物体。
これはなんでしょうかね。
目標探知攻撃複合センサー、TRAMというものではないかと思ってみたのですが、
どこを探しても画像がありません。

たとえば、モデルメーカーのハセガワは1:72スケールのイントルーダーを
10000円(消費税別)で販売しています。
いまどきのプラモデルってこんなにするんですか!
それはともかく、その説明に

A-6Eは、A-6Aの電子機器の能力向上型で、
レーダーも強力なものに換装されています。
なかでもA-6E TRAMは、目標探知攻撃複合センサーを機首下面に装備して、
攻撃精度の向上がなされています」

とあったりするので、おそらくこれはTRAMではないかと思われます。
が、ハセガワのモデルイラストを見たところ、この部分には
レドームのようなこぶができているだけです。

この透明の部分がTRAM本体なのかどうか、どなたかご存じないですか。



スコードロンマークはバイキングと剣、そして稲妻。



Mk82にたくさんサインがあります。
AM2(AW)とか書いている人が多いのですが、これで検索すると
どうやら階級で、

 Petty Officer Second Class AD2 (AW)

などと表記するようです。

AWとは

Aviation Warfare System Operators

のことのようなのですが、いまいち確信がありません。




Sikorski H-34 CHOCTAW

アメリカ陸軍のカーキーグリーンは、自衛隊のOD色よりも
かなり明度が高いように自称「絶対音感と絶対色感」
を持っているところのエリス中尉には思われました。

このチョクトというのは何度も同じボケですみませんが、
菅直人のことではなく、北米ネイティブアメリカンの部族名です。

日本でも現地生産して調達されていた機種で、
世界的には2261機が生産され、この台数を持って
ベストセラーとされているようです。

というか、軍用ヘリってこの程度生産されればベストセラーなんですね。




こういう説明のボードがちゃんとついているとは限らないのですが、
このヘリに関してはスポンサーが大物(ヒルトンホテルとソノマワイン組合)
のせいか、ちゃんとした説明板があります。
このように、この博物館、地元企業が何社かで一機を受け持ち、
そのメンテナンスのお金をスポンサードして、企業イメージ
と共にこういうところで宣伝をするわけです。

これ、いいシステムだと思いませんか?

何度もしつこいですが、鹿屋の二式大艇、それからこの間お話しした
海洋大学の明治丸も、企業のスポンサーを募ればいいのでは?
その代わり、そのことを現地の案内やHPに明記するというのは?
匿名の篤志を募るより、効率がいいと思うんですがねえ。



陸軍ヘリのチョクトー部隊のマークは凶悪面のブルドッグ。
ご丁寧にイガイガの首輪までつけています。
頭と尻尾になにやらついているのですが、これは画力が残念で
何か分かり難いながら、どうやらローターらしいですね。

たしかにこのチョクトーはずんぐりしていてブルドッグのようなシェイプ。
みずから「ブルドッグ」と名乗るのはこの機体のイメージだったのです。



ここはテールが持ち上がる部分。
排気のためにメッシュの窓がはめ込まれています。


自衛隊にも17機が導入され、そのうち1機は海保に移譲されて
南極観測船「宗谷」の艦載機として昭和基地と宗谷の間の
輸送に活躍したそうです。




使われることがなかった爆薬の類いが、ケースごと。
手前のは完璧にさびています。



 NORTHROP F−5E "FREEDOM FIGHTER " TIGER II

トルコ空軍の曲技飛行隊はこの機種を使っています。
小型軽量で大変運用しやすかったので、このトルコ始め
発展途上国に大量に輸出されたそうです。


もともとアメリカ空軍では使用する予定がなかったのですが、
供与された国も

「アメリカで使ってその実績を教えてくれなきゃー」

とごもっともな要求をしてくるようになったため、(たぶん)
アメリカはこれをベトナム戦争に対地攻撃用として投入しました。

この際、F−5が参加する作戦は

「スコシ・タイガー・オペレーション」

と名付けられています。
「スコシ」って何だと思います?
そう、日本語の「少し」なんですよ。
なんだかすごく間抜けな響きがするような気がするのは
わたしが日本人だから?


なぜわざわざ日本語を投入したかと言うと、外国空軍への供与、
並びにその実績説明というのがその第1目的だったため、
何となく外国語を使ってみたようです。

供与先が日本ではなかったので、まさかの日本語だったみたいですね。 



そうと知ってみると、とたんに親近感が湧いて来るではないの。
やたら羽が短くて、こんなので大丈夫か、なあやすい雰囲気が漂ってますが。



これはアメリカ海軍所属なんですか?
この赤い星・・旧ソ連のマークのような気もするのですが・・。



グラマン F−14A トムキャット

グラマンの猫戦闘機、トムキャット。
冒頭の写真は正面から撮ったものですが、ウィングが可動式で
肩をすくめた状態になっているので、あまりかっこよくありません。
(感想には個人差があります)

なんだか変な色にペイントされてしまっていますが、これは
メインテナンスの途中なのだと思います。
毎日必ずどこかを補修しても、航空機が多いので一巡することには
最初の航空機はもうすでに補修が必要になっています。

サンタローザは夏の暑さは強烈ですし、雨も降りますから
外に置きっぱなしの展示は劣化しやすそうです。



オークランドのエアミュージアムではこの部分が旭日模様の

「サンダウナー仕様」

つまり「日本をやっつけ隊マーク」になっていたわけですが、
このトムキャットは第84戦闘機隊の所属マークがつけられています。



海軍第84戦闘機隊は、このスカル&クロスボーンのマークと共に、
1980年の映画

「ファイナル・カウントダウン」

に原子力空母「ニミッツ」と共にに出演したことで知名度の高い航空隊です。
航空隊のニックネームは

「ジョリーロジャース」。

英語圏では一般的に海賊旗をこう称することからです。



翼の下の配線もこのように展示してくれています。
ここの展示も手で触れることを禁止していません。


「ファイナル・カウントダウン」はこういう話です。

1980年、真珠湾を航行していた「ニミッツ」が竜巻に遭い、
それが去った後、偵察に出た艦載機トムキャットが発見したのは
日本海軍の零戦だった。
「ニミッツ」がタイムスリップしたのは1942年12月6日、
つまり真珠湾攻撃の全日であったー。




ちょっと待て、それはまるで「ジパング」ではないのか、
と思ったあなた、あなたは正しい。
残念ながらこの映画は「ジパング」に先立つこと20年前に
すでに公開されており、この「タイムスリップ戦史もしも物」の
原型においてはこちらがオリジナル、つまり「ジパング」は
アイデアにおいてはこちらの二番煎じだったんですねー。

おまけに、このテーマソング、聴いて頂けます?

The Final Countdown 1980 theme John Scott

お時間のない方は4分20秒からだけで結構です。

「こりゃーあれじゃん!」

と思った方、その通り。
業界では有名なパクリなんですね。
映画公開の2年後にヒットした曲なので、言い逃れできません。
今この曲のクレジットを見ると「ジョン・スコット」という名前が
「あれ」の作曲者「大森某」の名と共に併記されています。

これは、なんとファイナルカウントダウンの音楽担当、
ジョン・スコットが、わざわざ盗作を指摘するために来日し
さらに大森某も盗作であったと素直に認めたため、
作曲者として名前を連ねることにしたのでした。

うーん。恥ずかしい。
これは恥ずかしいぞ日本。

パクリがどうのこうのと某国や某国を日夜馬鹿にしていても、
実はわずか3~40年前にこんなことがあったというのは恥ずかしい。

このころはインターネットは勿論ビデオさえ一般的でなく、
従って映画は映画館かテレビで放映された物を見るしかなかったんですね。
ましてや映画音楽は、よほどヒットした場合を除き、
一般の耳にほとんど触れることなく終わってしまったのですから、
大森某はばれないだろうと思って盗作に走ってしまったのでしょう。

まあ「ジパング」はアイデアをパクりながら色々と展開させているので
著作権的にはセーフ(道義的にはアウト)なのかもしれませんが。

音楽といいストーリーといい、このファイナルカウントダウン、
日本人の「これをやってみたい!」という琴線に触れるものがあったみたいですね。






何の説明もなく展示されていたエンジン。
せめて包装を外そうよ・・・。



続きます。
 


古都ボストンにて

2014-07-04 | アメリカ

Happy 4th!

この時期街に出るとそこここでこんな会話が交わされます。
今日7月4日はジュライ・フォース。独立記念日です。
毎年この日にはアメリカに関することをお話しするのが常ですが、
今年は先週までいた古い町と息子のキャンプのことを書いてみたいと思います。


夏の間、我が家は1ヶ月をボストンで過ごします。

今年も6月下旬から10日間の間ボストンの西部にある
ウェストボローという古くて小さな町に滞在しました。

ここはもう10年以上夏になると訪れており、第2の故郷というくらい
なじみの深い一帯です。



滞在していたキッチン付きスイート。
安いので前半は必ずここに泊まっていますが、
来るたびに経費縮減の痕跡があちらこちらに見え、
なかなかアメリカのホテル業界も大変そうだと窺い知る
基準のようになっています。

たとえばコインランドリーの値段。
最初に来た年はクォーター3つ、75セントで洗濯できたのに、
だんだん25セントずつ上がって行き、今年はついに2ドルになっていました。
洗濯して乾かしたらそれだけで4ドルです。
しかも、3つあるうちの洗濯機の2つは「アウトオブオーダー」
の貼り紙が10日間貼られたままでした。

キッチンに備えられた食器は最初に比べると半分以下になり、
鍋に蓋も付いていないありさま。
キッチンのコンセントから電気は来ないし、インターネットは
無料だけど(アメリカでは必ず無料)異常に遅いし、
1ヶ月いるのなら気が狂いそうなところですが、所詮
何日間と割り切っているので、わたしはそれも含めて楽しんでいます。



車はこのときボルボでした。

当初オンラインで「GPS付きのプリウス」と頼んだのに、
やってきたプリウスにGPSが付いていません。

「プリウスにはGPSは付けられない」

というのが向こうの言うその理由。
そんなこと言われなかったら分からないんだから、
配車のときにちゃんと説明してくれるかな。

「1日14ドルプラスでこれを貸します」

と、携帯用の玩具のようなGPSを持ってきたので、

「いや、GPS付きの車にスウィッチしてください。
アップグレードでいいから」

(こういうときにはチェンジではなくスウィッチというようにね)
と可能な車種を聞いてみると、

「ニッサンアルティマ(ティアナ)、トヨタカムリ、シェビー、
ボルボってとこですかねー」
「ボルボは乗ったことがないから、じゃあボルボで」
「へいボルボ一丁!」

という流れでボルボに乗ることになりました。
インテリジェントキーだし、走りも悪くはないけど燃費が悪い。
1週間でガソリンが無くなってしまいました。
おまけにアメリカでもガス代の高騰は凄まじいもので、
20ドルいれても3割くらいしかタンクを満たせません。

これは失敗だったかも。




ちなみにこれがアメリカのいわゆる「ETC」、
E・Zパスの機械。(一応説明しておくとイージーパス。
先日雷蔵さんに聞いた84=AT−4みたいなノリ)

ゲートを通過するときにはこの引き出しをスライドして
このように開けた常態で通過します。


わたしが最初にアメリカに来た頃には、料金所には
大きな籠があって、そこにクォーターを2枚投げ込むシステムでした。
一度手元が狂って入れ損なったまま通過したとき、
後ろからパトカーが追って来るのではないかと怯えたのは
もう遠い昔の想い出です。




無人ゲートは紫です。
ボルボにスイッチして最初にゲートを通ったとき、
信号が黄色に点滅したので慌てました。

何と、引き出しの中にリーダーが入っていなかったのです。
車をUターンさせわざわざもう一度ハーツに戻し、そのことをいうと係員は
だまってダッシュボードからリーダーを出して取り付けました。

・・・・・・すみません、は?
ごめんなさいもなしですか?

接客業としてどうなのよその態度は。 

まあ、アメリカ人は絶対にこういうとき謝らない、
というのは知っていますが、(本当に謝らないよね)
やっぱりこういうことがあるといらっとせずにはいられません。

でも、取り付けて「これでOKだよ」にっこり笑った係員に、
ついつい
サンキュー、などと条件反射で言ってしまう、
美しい日本のお人好しなわたしです。



さて、高速に入りました。
前を走っているのは「ペン助」という名前の(漢字は当て字です)
トラックレンタル会社のトラック。
アメリカでは引っ越しのときにトラックだけ借りて
あとは全部自分たちでやってしまう人が多いのです。
 
走っているのはマサチューセッツターンパイク、通称マスパイクです。 



今日は1ヶ月だけ借りられるシステムでチェロをオーダーしたので
それを取りにいきます。
しかし、合流地点で急に渋滞が始まってしまいました。

週末渋滞です。

アメリカでは金曜になると皆午後の仕事を適当に切り上げて
そのまま週末のバカンスに出かけてしまううちが多いので、
この時間(3時過ぎ)になると幹線の高速はどこも大渋滞になります。

もしかしたらアメリカ人は金曜の午後、全く仕事をしないのではないか、
そう思われるくらいこの現象は全米どこにいっても同じで、
サンフランシスコなどは皆が同じ時間にブリッジから外に出ようとするので
街中にまで渋滞の尻尾が出来てしまうくらいの阿鼻叫喚となります。

そんなにしてまでバカンスに行くのかアメリカ人・・。

何時間か走れば保養地や海岸やキャンプ場など近隣にいくらでもありますから、
週末はとにかく町を出てそこで過ごすもの、とみんなが思い込んでいるようです。



合流地点の先はさらに渋滞が激しくなりました。
こんなとき大抵前に追突して事故を起こす人がいるのは
車社会のアメリカでもよくある話。
「脇見渋滞」で対向車線が混むのも日本と同じです。



高速を降りると、ちょっと気になる通りの名前が(笑)



到着しました。
このジョンソンミュージックという弦楽器専門の楽器屋は、
去年まで小さいところにあったのですが、引っ越しして
広いスペースで営業を始めたようです。

雰囲気のあるれんが造りの家は、おそらく築100年は超すでしょう。
地震のないボストンではレンガの古い建築物が多く残っています。
アメリカ人の常として、建物は決して取り壊さず、中だけを
リノベーションして使い続けるのです。

テレビの番組には、古いうちを購入し、全てを取り壊して
まるで新築のように内装を変えてしまう(階段さえも壊す)
「ビフォーアフター番組」が毎日放映されています。



チェスナット通り。
名前もおしゃれです。



商談室や練習室、楽器調整室などがいくつも設けられていました。
チェロは息子が小さくて分数楽器だったときには持っていき、
飛行機ではクローゼットに入れてもらっていましたが、
フルサイズになってそれが不可能になってから、夏の間だけ
月単位で借りています。

 アメリカならばこのようにオンラインで簡単に、
しかも楽器のグレードも「マスター」「エクセレント」「スタンダード」
と松竹梅とお好きなものを選ぶことが出来るというわけ。
こういうのがアメリカと言う国の合理的かつ文化的なところです。

ちなみに日本は文化的な国なので楽器を借りることは出来ますが、
お値段は大変高く付きます。
こちらで2ヶ月上級チェロを借りても140ドルくらいですが、
日本で2ヶ月借りればある楽器屋のサイトによると7万円くらいだそうです。

さて、楽器も手に入ったし、息子を迎えにいかねばなりません。
渋滞も始まったことだし早めに出発せねば。



信号待ちで停まったときの前の車。
よくメッセージを後ろの車に向けて貼っている車がありますが、
この人のメッセージは

「予防注射を強制しないで」

だそうです。
日本でもよくいわれていますね。
子供を持つ親なら一度は悩んだことがあるのではないでしょうか。
予防注射で子供を亡くした親が中心になっているグループと思われます。



この日の渋滞は、対向車線で事故を起こした人がいて、
その脇見渋滞でもありました。



隣の車から視線を感じてふとみると、見られていました。
まさか、シートベルトしている?

 

高速を降りるところにボーズの本社があります。
ボーズはボストンのMIT出身の科学者が作ったそうです。
武器製造会社のレイセオン(ファランクスを作っている)と並んで、
ボストンの企業としては最も有名です。



渋滞していたので道路脇の「不要品ポスト」を
撮ってみました。
アメリカにはところどころにこういうポストがあり、
洋服と靴だけを入れるようになっています。
わたしも過去このポストに買い替えて不要になった息子の靴や、
Tシャツ等を入れたことがあります。

教会等を通じてホームレスや施設の子供たちに配られるようです。



日本でもそうですが、いつも混雑する場所は同じです。
ここはこの先で2車線になるのでいつも混んでいます。





この辺りは湖が多いのですが、湖畔にこんな看板があります。
宗教団体だと思うのですが、自殺志願者に向けて

「自暴自棄ってやつですか?」

と聞いた上で(ちょっと違うかな)あなたの悩みを聞かせて下さい、
わたしたちが聞いて差し上げます、とあるのはいいのですが、
すぐその下で

「ボランティア求む」

悩みを聞く人、足りてないのかいっ! 

「あの~サマリタンズですか?」
「はいこちらサマリタンズ。声が暗いですね。お悩みですか」
「はあ、いや、仕事を首になって・・」
「気を落とさないで下さい!早まらないで!」
じゃなくて暇になったからボランティアでもしようかと・・」

同じ電話番号だとこんなやり取りにもなったりして。




はい、というわけで学校に到着。
ここは下級生の送り迎えに使われるロータリー。
息子も昔はここでした。
屋根のあるガゼボのような建物は、ロータリーを親の車が
ピックアップのために通り過ぎるのでそれを待つ場所です。 



遡ること一週間前の写真。

キャンプ開始の前の週末には恒例のバーベキューが行われます。
土曜日のお昼に学校に行けば、キャンプのスタッフが名簿を確認し、
その年の特製Tシャツが配られます。
息子はもうすっかりキャンプのディレクター(校長先生)とも
顔見知りで、むこうから声をかけてきてくれました。



アメリカ人は日向が平気なのですが、わたしたちは
迷わず日陰のベンチに場所を取ります。
日本のように湿気はないので、日陰に入るとひんやりしますが、
陽射しが強烈なので日向にいると肌がいたく感じるほどです。

向こうに見えている建物は、前にも一度このブログで紹介しましたが、
1867年に建てられたもの。
日本で言うと江戸末期ですね。
勿論今でも現役で学校の施設として使われています。




ここはボストンの中でも特に歴史があり、
全米でも最も古い学校の一つです。




この前で生徒達がカウンセラー(バイトの先生)と一緒に
親の車が来るのを待っています。



この学校に行くのは今日が最後。
最後のピックアップになります。
手前のアフリカ系は去年からのおなじみ。
車の中を覗き込んで、親のわたしにも「良い一日を!」
というのを欠かさない感じのいい青年です。



最後なので、息子にこの町の史跡を見せてちょっと歴史の
話(わたしが知っていることだけ)をしてやることにしました。

学校の裏には、この町の創設者の記念碑があります。



1727年にサウスボローは町として成立したという碑があります。
向かいに見えているのは学校の校舎。



これについても前に書いたことがあります。
「ハウイッツァー」と読むのだと思い込んでいたところの
「ハウザー砲」(Howitzer)。
日本語で言うところの榴弾砲です。 

学校と教会の間にさり気なく置かれています。




教会の前には町が出来たときからの古いお墓がそのまま。



アメリカの13独立州の☆がついたの国旗が立てられている墓石は、
独立戦争で亡くなった戦士のお墓で、墓石には
ヴェテラン、と書かれています。
もう字がすり切れて、読めるものの方が少なくなっています。



この一帯には墓所がたくさんあるのですが、そこに
新たに葬られる人はいても、この場所には
死者をふやすことはないようです。

200年前の死者の霊を祀るため、この一角は
おそらく永遠にこのままなのに違いありません。

 

学校のあるところはサウスボローという町で、
アメリカでも古い町の一つですが、この町のヴェテラン(戦争従事者)が
独立戦争の戦死者を顕彰して建てた碑です。 

1778年、というのは独立戦争も終結に向かっていた年ですから、
この近くの「レキシントンの戦い」や「タイコンデロガ」
で亡くなったのではないことは確かです。

こういうとりとめのないわたしの説明を、
実に気のない様子で聞いていた息子ですが、


「じゃ、最後だからウルマンズのアイスクリーム食べて帰る?」

と聞くと、急に元気になって

「食べる食べる!」



学校からホテルまでの道中においしいアイスクリーム屋さんがあるのです。
最後の食べ納めをしたいということで、お金を持たせて買いにいかせました。

この日はミントチョコと無難な選択でしたが、



別の日に買ってきたアイスクリーム。

なんなんだよこのいろいとりどりの物体は・・・。
文句の一つも言いたいところですが、我慢です。
お金を持たせて一人で買いにいかせたからには選択を尊重してやらねば。

ちなみにこれは「キディサイズ」つまり一番小さい子供用で、
4ドル25セント。
サイズも大きいですが(大人用はこれの2倍くらい) 
結構お値段もアメリカにしては高いことに気づきました。

でも、このアイスクリーム屋さん、いつ行っても大繁盛。




ちなみに、現金しか使えないのでATMがあります。
しかしトイレはありません。
テイクアウトも出来ません。



皆、車で食べるか、ここにあるテーブルに座って食べます。
ゴミ箱がホルスタイン柄ですが、



隣の牧場にいる牛はニュージャージー種です。 



町創設以来建っている町の教会。
アメリカの歴史とともに、あらゆる祈りが捧げられてきました。
独立戦争に始まり、あまりにも多くの戦争を戦って来た国。


その度、その戦いに身を投じる「ヴェテラン」を生み、
その度、碑石の言うところの


『Supreme Sacrifice』

最高位の犠牲、つまり命を賭けて戦った者への栄誉が与えられてきました。
その栄誉の影には、常に愛する者を失った涙と祈りがあり、
この古い教会は、200年以上もの間、それらの人々の祈りを受け止めてきたのです。 

それを今現在、目のあたりにしているという不思議・・。
こういう瞬間、わたしは今立っているまさにその場所を行き交う
いにしえの人々の姿を想像し、感慨に耽ります。

そして今、このときも、いずれは誰かの想像の中にのみ存在する過去となるのだ、
という想いに、しばし呆然と立ちすくむのです。



学校の近くの家ですが、去年は見なかったこのポスト、
白地に赤い丸がつけられ、玄関から見えるポーチには
漢字の額が飾ってありました。

新しく越してきた住人は日本人かもしれません。





 


空挺レンジャー~「状況終了!」

2014-07-03 | 自衛隊

空挺レンジャーシリーズ、最終回です。
今や空挺レンジャーのバッジを獲得するための訓練は最終局面を迎えました。

生存自活訓練で極限下にも生き延びられるだけの術を、

というよりその覚悟を学んだ訓練生たち。
最後の試練に向かって出発します。



赤銅色に陽焼けした顔とはまるで別の体のような彼らの足。

おそらくバディ同士だと思いますが、テーピングをし合います。
いわゆる「サロンPス」状のものです。
ごつごつした軍靴の中で
痛めつけられっぱなしなのでしょう。

自衛隊員はほぼ確実に「水虫」持ちだという話もありますが、
彼はバディの足をまるで慈しむように丁寧に包帯を巻いていきます。

そして、汗で流れた偽装メイクを「お化粧直し」してから出発です。



山中をただ黙々と歩き続ける学生達。

明らかに傷みをこらえてか、脚を引きずっている人もいます。


しかしふと思ったのですが、これを撮っているカメラマンは
ずっとこの山中彼らと行動を共にしているわけで・・・。

おそらくカメラのための「やらせ」などは絶対にしないでしょうから、
撮り直しのきかないシーン含め、スタッフは大変な苦労をしたでしょう。



撮影はライトの全く使えない山中の闇の中でも行われます。
眼だけを野生動物のように光らせて地面に座り、休憩する隊員達を
赤外線カメラが追います。

これもまた想定の邪魔をしないようにという配慮でしょう。 






そしていよいよ最終想定が始まりました。


銃の点検をする「~~良し、~~良し」という確認の声だけが
朝の想定拠点を賑わせます。



腕に赤十字の腕章をした陸曹が、皆にテーピングを行います。

装備の余りの重さに首肩をやられてしまったのか。



もう今やどこかにテープを巻いていない隊員はいません。

膝もやられているものが多く、満身創痍といった様相を呈しています。




そして偵察が開始されます。
偵察員、斥候は4人の模様。



そして途中経過は省略して(笑)夜の飛行場に走る火花、
爆破成功です。

 

画面が明るくなると同時に音楽の調子が変わりました。

ぱっぱぱぱー」(どっどどそー

というブラスのこれでもかって感じの晴れやかな響き。
そう、これで終わったのです。
全て想定が終了したのです。

このファンファーレ風のかっちょいい音楽は、彼らの健闘と、
そして苦難の果てに得た栄光を讃えて高らかに鳴り響きます。

しかし、山中を行く彼らはまだ表情をこわばらせたまま。

全員で無事に山を下りて初めて想定終了です。
皆さんも学校時代遠足のときに言われませんでしたか?

「家に帰るまでが遠足」

って。
え?一緒にすんな?




群馬から習志野に帰るヘリコプターの中で

「任務終了」


の紙を見せられる瞬間まで、彼らはまだバッジをもらうことが決まっていません。
しかし・・・・。

山から降り、宿舎に向かうトラックに乗り込む瞬間、
迷彩に彩られた学生の頬が緩み、歯が見えます。

 

バディ同士、しっかり握り合う手と手。



こんなときでも、いやこんなときだからでしょう。
あくまでも彼らは寡黙です。
しかし、トラックに乗り込んだ後、

「やっと終わったよ」

そういう隣の学生の言葉に顔を綻ばす隊員。(冒頭写真)



宿舎に帰ってきた彼らを迎えるのは、紅白の煙幕です。
降下始めの訓練展示で「炎」として扱われるあれですね。

「自衛太鼓」のメンバーも来ているのか、派手な太鼓の音も聴こえます。



駐屯地のメンバーに拍手で迎えられ、
今や真っ赤になってしまったスモークの中に整列する学生たち。



状況終了の報告です。

「任務完遂し、異常なく帰還しましたああ!」
「はい、おめでとう、ご苦労さん!」


これだけです。


ていうか、やっぱりこの世界、言葉は要らないよね。

建物の前に女性が二人立っていますが、これは既婚者の学生の妻が
わざわざ状況終了の儀式を見届けるために馳せ参じたものと思われます。



wikiからの転載。
ほとんど黄緑に迷彩メイクを施した隊員は、
アップにすると分かりますが、涙を流しています。



隊長を輪の真ん中にして乾杯。
何の乾杯だろう。
やっぱり水?

と思ったら、後ろに立っている隊員が日本酒の酒瓶を持っていました。
こんな空きっ腹に日本酒飲んで大丈夫なんですか。



「乾杯!」



折りに付けて感動がわき上がって来るらしく、涙をためている者も。
下戸で飲めないらしい隊員は、一口だけ飲んで後を隣の者に注いでいました。

ていうか、空挺レンジャーでもお酒飲めない人がいるとは驚きです。



この隊員は、飲んだ後しばらく空を見つめていましたが、


「やっと普通の人に戻れそう・・」


とつぶやきました。
その言い方が「あまりにも普通の人」っぽいのでそっちの方が驚きです。
ただでさえ体力が常人より優れている自衛官の中でも

「あれは特別」

と言われているのがこの空挺レンジャー。
超人じみた体力の、化け物のような特別な人間だけがそう呼ばれる、
わたしたちはそういうイメージを彼らに持っているのですが、
彼らにも「そうなった瞬間」があるのです。

「最初からプロだった人間はいない」

そんな言葉が浮かびます。

 

そして、第一空挺団の隊歌が流れ、皆が手拍子で迎える中、
想定を終了した戦闘隊が凱旋帰還してきます。

全員自衛隊員なので誰も傘をさしておらず分かり難いですが、
この日の習志野はどうも雨が降っているようです。



わが征く空は紺碧に わが立つ野辺は深みどり 

この国に生きこの国を  
守らんとこそ習志野に 誓いて集う空挺団




「大空に咲け らっかさん~」

第一空挺団長はニコニコしながらリズムに合わせて首を振っています。

陸将補可愛いよ陸将補。
こんな陸将補もかつては同じ晴れがましい凱旋をしてきた日があったのです。
彼らに敬礼しながら脳裏にはかつての思い出が過るのかもしれません。 



自衛隊の幹部陸曹の教育は普通は別に行うものですが、

空挺団では全ての過程で一緒に訓練を行います。
同じ訓練を通じて互いの区分を認め合うことが
精強化につながっている、というものだそうです。

後ろにいるのは学生隊長だった幹部。
泥にまみれて眼を血走らせていたのが嘘のように爽やかな顔つき。
こざっぱりとした制服姿もまた素敵ではないですか。
因みに彼は、



「辛いと思ったことはない」

と微笑みながら答えていましたが、想定後には涙を滴らせ
うつむく姿もまたちゃんと映像に残されています。

泣いてもいいんですよ、隊長。


レンジャー訓練が終わった直後から、彼ら幹部は
教官となるための各種教育を受けます。
次回は教官として山に行くのでしょう。

教団に立っているのもかつてのレンジャー訓練参加者であり、教官です。



レンジャー徽章の中央の金剛石は「固い意志」を表し、

これを囲む月桂冠は「栄光」の象徴です。



「空挺レンジャー助教・教官として22回参加する。」


11年間の間レンジャー訓練を見つめてきた杖。




 

 



冬季遊撃レンジャーの訓練風景。


冬季遊撃レンジャーの資格は、冬季戦技教育隊で10週間の
「冬季遊撃課程教育」を修了することによって得られます。

積雪の山岳地帯における戦闘、ゲリラ戦を行う部隊で、
スキー・装具を装着してのリペリング降下訓練や、雪中内の宿営訓練、

フル装備を背負ってのスキー行進訓練、遭難者救出訓練等も行います。

訓練は北海道のニセコ山中で行われ、マイナス40度の体感温度の中、
凍ったレーションを食べるなど、壮絶を極めるものとなります。
常に凍傷や遭難の危険にさらされるため、
教官・助教も含めた教育参加隊員は命がけで訓練を行っているそうです。

ついていけない隊員は、失格となり原隊に送り返されます。



さて、訓練が終了したのち、装備を背負った学生が草原に向かいます。
杖をついて脚を引きずる者も・・。



彼らが待つのは習志野に帰るために乗るCH。
待ちきれないように皆走り出します。
そしてその機中・・・。

 

この一瞬を皆は待ち望んでいたのです。



「任務完遂」

この文字を見る瞬間を。





 

 

何も説明は要りますまい。


彼らレンジャー隊員に取ってレンジャー資格をとったことは通過点に過ぎません。
これ以降、「日本最強の精鋭部隊の一員」という重みと責任が
常に彼らの双肩にかかってくるのです。


しかし・・・。

今は存分に泣き、喜びに酔ってください。

その涙は、自分の手でつかみとった栄光を飾るにふさわしく、
まるでレンジャー徽章の中央の金剛石のように輝いています。






(シリーズ終わり)

 


空挺レンジャー~「生存自活」

2014-07-02 | 自衛隊

「生存自活」とは陸上自衛隊の用語です。

任務を完遂するためにいかなる状況でも一定期間山野に潜伏し、

そこで「生存」するために「自活」する術のことをいいます。
読んで字の通りですが、この4文字には冒頭写真のような
「蛇の踊り食い」というイメージが人口に膾炙してしまいました。

自衛隊には「生存自活セット」というものがあります。
いかなる場所の生存自活をも可能にするための装備一式を言います。

・仮眠シート(優れた透湿防水性および保温性を備えたポンチョ形式のシート)

・2人用天幕(約4kgと軽量で、コンパクトに折り畳める)
・緊急信号セット(昼間用ミラー、夜間用指向性信号など)
・携帯浄水具(逆浸透膜で2人分の浄水が可能。)
・携帯採暖具(複数の燃種が仕様可能な、携帯コンロ)
・携帯調理具
・水嚢

Rightwingより)


仮眠シートや天幕もセットに入っていますが、この訓練での「生存自活」は、
隊員に極限を体験させるために「寝かせない」というのも含みますから、
レンジャー訓練には必要ないんですけどね(T_T)



山地潜入訓練。


山地の移動に必要な技能を身につけるために行います。
前回、ゴムボートで渓流を移動していましたが、あれはこのなかの
「水路潜入」というものです。



こちらは空路潜入のための降下誘導。
空挺部隊の主力を誘導する訓練です。



下からトランシーバーで航空機に向かって

「用意、用意、用意」
「降下降下降下」

と声をかけます。
大事なことだから三回ずつ言うんですねわかります。 


グラウンドや朝霞のフィールドに降りるのと違い、山中では
落下傘の降下は大変危険なものに違いありません。

おそらく長年積み重ねてきたここでの訓練から、比較的安全な場所を選定し、
誘導のマニュアルもある程度決まっているのだとは思われますが、
誘導が拙ければ降下するのがいくら空挺団でも、事故にも直結します。




要人の救出訓練には、ムード満点の?廃屋が舞台となります。



航空部隊隊長との打ち合わせ。
同じ陸自でもパイロットはやはりレンジャー隊員とは雰囲気が全く異なります。

そういえば岡山で会った元パイロットの1佐も、こういう雰囲気だったな。
具体的に何が違う、と聞かれると困りますが。


これは何を打ち合わせているかと云うと夜間行う飛行場襲撃想定の段取り。
敵の飛行場を襲撃する、即ちこのパイロットは敵の役のようです。




山中を黙々と行く隊列。

紺色のキャップは「気持ち!」と訓示していた偉い人ですが、
一人だけ荷物を持たず、しかも杖をついて歩いております。

とはいえ、この年齢になって30歳は下の隊員達と一緒に
山中を歩いているのですから、やはり腐っても元レンジャーです。



ぬかるんだ崖をすべりながら登り、あるときは倒木をくぐりながら、
あるときは足首まで浸かって沢を渡ります。




こんな重装備で沢で足を滑らせ転ぶ隊員もいますが、
周りは勿論本人も声一つあげません。



わずかに与えられた休息時間には無表情で濡れた地面に座り込み、
ほとんど虚脱状態で過ごします。

彼らはこわばった無表情のままで、ただこの試練が過ぎるのを待ちます。


アメリカ軍なら誰かが気の利いたジョークをかますところですが、
残念ながら日本陸軍ではその手のユーモアは伝統的に継承されていないようです。
逆に下手な冗談を言おうものならまわりから冷ややかな眼で見られるだけでなく、

下手したら上官から叱られそうな雰囲気です。

練習艦隊出航に当たって海幕長がわざわざ「伝統のユーモア精神を発揮して」
と訓示をする海自とは良くも悪くもカルチャーが違います。

まあ、カルチャー以前にやってることも全く違うんですけどね。




この訓練はまだ「生存自活」ではありません。
したがって、食事は携行食料です。
パック詰めにした「ミリめし」を袋から直接。
「砂入りのごはん」ではないことが救いでしょうか。



休憩が終わって立ち上がるときには大抵一人では無理なので、
周りが手を貸します。

この訓練の目的の一つに

「同期との絆を深める」

というものがあります。
二人一組でバディとなり、お互いを助け合って訓練に耐えます。

己が厳しい時に他者を慮んばかるのが真の勇者である。

これがレンジャーのモットーでもあるのです。



音楽がいきなり不気味になりました(おいおい・・・)

いよいよ生存自活の象徴、別名

「蛇やカエルを生で食う訓練」

が始まったのです。




これは勿論いざというときに生存するため、山中で採れるものの
見分け方(食べられるかどうか)、そしてどのようにして食べるか、
ということを実践的に学ぶための訓練なので、山菜やキノコなども食べますが、
あえて蛇やカエルに挑戦させることは、通過儀礼のようにも見えます。

レンジャー経験者に言わせると「虫は御馳走」の範疇なのだとか。

一度こういう体験をしてしまえば大概の状況は耐えられるという効果を
期しての、つまりメンタルの訓練です。

頭を落とした蛇の一端を銜えたまま、盛んに尻尾を動かす胴体から
皮を剥いで行き、それをそのまま食す。

こんな体験をすれば、おそらくどのような食生活にも耐えられるでしょう。
ついでに日々の普通の食事に対する感謝も無茶苦茶深まりそうです(笑)


わたしの知人に元海軍軍人(学徒)を父親に持つアメリカ人がいます。
大戦中、彼の父親は、乗っていたた戦艦がUボートに撃沈されたあと、
ボートで漂流し、南米の海岸に漂着して命を長らえたのだそうですが、
そこで最初に飲んだ泥水は彼に取って


「今まで飲んだどんなものよりも甘く、美味しかった」

のだそうです。
ちなみに彼の乗ったフネを撃沈したUボートは救命筏の前に浮上し、

「やあ諸君、君たちの艦を撃沈して誠に申し訳なかった」

と律儀に敬礼していったとのこと。
敬礼の後にご丁寧にも「水は持っているのか」と聞いたそうですが、
「ない」というとそのまま去って行ったそうです。

てか、くれる気ないのなら聞くなよ。



こんな体験に比べれば、生命の危険のない訓練で鶏を捌いて食べるなど、
極限なんて言ったら罰が当たるかもしれません。

きっと鶏だって農家から盗んでくるわけではないだろうし。 



ここでの調理は「解体調理」。
後ろに火が燃えているのですが、どうも焼かないで喰らうようです。
写真ではかえるさんの頭を包丁で殴って気絶させております。

これは食用蛙なので、たぶん焼いて食べればかなりグルメ的に
イケるのではないかと思われますが、やっぱり原型のまま食する模様。

向こう側にあるのは剥いだ蛇の皮。



「これはチキン、これはチキンの手羽先だ」

自分に言い聞かせながら食べているのかもしれません。
学生は一切を無表情で黙々と口にしています。
もしわたしがこのようなものを食べねばならない状況になれば
やはり同じようになると思います。

余計な感情を一切取り払い、今このときが通過するのを待つ。

これを乗り越えて手にする栄光のためでもあり、これもそのための
試練だと最初から納得している人間の表情です。

これだけ一般人の間にも「生存自活」の何たるかが有名になり、
どんな訓練を経てそこに到達するかを知り抜いてなお、
レンジャーに挑戦する若者がいるのです。

「レンジャー」という存在が表すのは、自衛隊の精強さの象徴というだけではなく、
その高みを目指そうとする若者達がこの日本にいるという事実、
そんな彼らが我が国の防衛を担ってくれるということでもあります。



火があったのは飯盒で白飯を炊いたからであるようです。
ご飯は食べられるのですね。
砂は入っているかもしれませんが、辛うじて暖かいご飯は。

しかし、だからといって

「いや、わたしはおかずなしで結構です」

というわけにはいきません。
とにかくこういったものを口にすることに意味があるのです。

なぜならこれはイニシエーションなのですから。 



そんな皆さんにカメラを向け感想を聞く非情の映画クルー。

「とにかくきついです」

「眠くて、腹が減って、喉が渇いて・・・非情に疲れてます」


まあ、それしか感想はないでしょう。




彼の答えによると、すでにケガ人や体調を壊した学生もいるようです。
全員で卒業したいという彼ですが、果たしてどうなるでしょうか。



彼は学生隊長、つまり幹部で、次代の教官でもあります。
驚くなかれ、彼は辛いと思ったことはないので乗り切って行ける、
と笑みを浮かべて言い切りました。



一番辛いことは、と聞かれて、彼は「睡魔との戦い」だといいました。

空腹と乾きはある程度我慢できるけれど、寝られないのが一番辛い、と。

眠いと判断力が失われ、事故を起こすこともあります。
夜の想定では、前の者のヘルメットの後ろに付けられた蛍光の目印を
目印に前について行くのですが、それが一瞬で掻き消え、
次の瞬間遥か下の谷底からうめき声が聞こえて来る、
などということはしょっちゅうあるのだそうです。



平地では何でもないことも山地では思うようにいかない、

それを身を以て知ったと語る学生。

彼が手にしているのは木切れで作った箸です。

しかし、そんな辛さは彼らにとって「想定内」。
終了後、駐屯地に胸を張って凱旋すること、
そして、胸にレンジャーバッジをつけることを励みに
6想定全てを耐え抜くという決意を言葉少なに語るのでした。



「これ(レンジャー)に憧れて、これになりたくて来ているんだから」



次回最終回に続きます。






空挺レンジャー~「きもち!」

2014-07-01 | 自衛隊

「空挺レンジャー」、続きです。

想定は全部で6つ。
基礎的なものから応用想定までが行われます。
レンジャー隊員として必要な設定を想定したものです。



戦闘隊が潜入を開始しました。
ここは敵の勢力圏という設定です。
先頭を歩いているのは「戦闘隊長」。

想定前に皆階級章を取っていましたが、それはこの
戦闘隊長の下に入る、という意思表示でもあります。



部下に指示を与えつつ進む隊長。



任務は敵の勢力圏に隠密に潜在し、補給路の遮断、
あるいは橋梁やトンネルの破壊などを行うことです。



山中に潜在し襲撃する拠点を定め、ここで作戦を確認。



この戦闘隊長もまた襟の階級章を取ってしまっています。
その代わりなのか、右腕に腕章を巻いていて、おそらくこれが
戦闘隊長の唯一の印なのではないかと思われます。

この幹部隊員は長身痩躯、しかし筋骨隆々のイケメンです。
何と言っても引き締まった体躯にきりっとした眼がよろしい。

山中深くとはいえ、隠密に行動するせいか、隊長の声は
つねにひそひそ声で、部下も周りに集まってそれを聞きます。



斥候が偵察を開始しました。
どうやら橋を爆破するため爆薬を仕掛けるようです。



橋の下でマニュアルを見ていると・・・・


「えー、爆薬の仕掛け方は、と・・・・・」

(違うと思う)



仮想敵が視察にやってきました。

なるほど、敵の役をする隊員も随行しているわけですね。

敵が通過する間、息をのんで草むらに身を隠す戦闘隊。



早速爆薬を仕掛けます。

実行は夜間です。
それまでの間、潜伏基地では状況を想定し、計画を立てます。



夜になって仮想敵がまた再び橋を渡るときを見計らって、爆破を行います。

「成功!」「成功!」「成功!」

皆が口々に叫びます。
この爆薬は本物で、一応爆発はしています。
もちろん仮想敵を本当に吹っ飛ばすわけにはいかないので、
おそらく爆薬の量で調整するのだと思いますが、それにしても
どちらにとっても危険な訓練ではあります。



おそらく真夜中だと思いますが、帰ってきて帰還報告。

このときの敬礼は、額にではなく、左手を体の反対側にやり、
掌を下に向ける変わった敬礼をしています。
隊長は普通の敬礼です。



そして、帰ってきたからと言ってすぐに寝られるわけではありません。
さっそく本日の講評が行われます。
隊長も基地に残っていたからといって寝ていたわけではなさそうです。

隊長の前にはたたみ1畳半ほどの大きさのジオラマがありますが、
これはこの宿舎に備えられているようです。
長いレンジャー訓練の歴史の中で誰か有志が製作し、
それ以来ずっと使われ続けているのでしょう。

この映画は至る所で彼らの隊内での会話が収録されていますが、
残念なことに訥々としたインタビューと違って殆どが巻き舌で、
語尾に「おい~」みたいなのが聴こえるのがわかるだけ。
あとはほとんど何を言っているのか判別不能でした。



さらに居室(板に畳を敷いてある)で想定の調整。

それが終わったら次は装備の手入れなど。
なかなか寝かせてもらえません。



タバコを吸う隊員は多いようです。

スポーツクラブなら「タバコは体力の低下が云々」なんて言われそうですが、
自衛隊ではタバコは推奨とは言わないまでもOKのようです。
まあ、もうここまで来たら吸いたいだけ吸わせてやれよ、って感じもします。

旧軍の昔から兵隊とタバコは切っても切れないもののようですが、
陸自はその傾向を引き継いでいるのでしょうか。



こうやってようやく一日目が終わりました。
誰が作ったか眼鏡をかけたてるてる坊主。
訓練のとき雨が降るのは泣きっ面に蜂というものでしょう。
できれば想定がすむまで降らないでほしい、という切実な願いです。


ところでこの宿舎は全体が写ったのを見ると学校の校舎のようです。
廃校になった校舎を自衛隊が買い上げたのでしょうか。







彼らの最大の楽しみは食事でしょう。
自衛隊の誇る野外炊事機がここにも出動して、管理班員が食事を作ります。

どう見ても手の込んだものではありませんが、これから始まる
山中でのサバイバル訓練のことを考えれば、暖かくて好きなだけ
胃の腑に食べ物を納められるというのはそれだけでどんな豪華な食事より
彼らにはありがたいものに違いありません。

想定から帰ってきた学生にはおかゆなど胃に優しいものが与えられます。



明けて翌朝、生徒隊が整列をしました。
想定出発の挨拶です。
隊長は短く「頑張ってこい」と一言。



迷彩メイクも万全です。
出発に当たっては司令官始め全員が外に出て、車に手を振って見送りをします。
勿論先ほど調理をしていた管理班の皆さんも。



さて、次の想定は?

隊長の説明によると、

1、倒木によって敵の先頭車両を停止する
2、84(ハチヨン)で敵の車両を撃破
3、MGで制圧
4、対戦車地雷を埋設

ハチヨンとはおそらく84mm無反動砲
(カールグスタフM2、スウェーデン・ボフォース社製)
のことであろうと思われます。

MGとは機関銃のことで、戦闘職種、普通科始め施設科、
特に特科や戦車の情報中隊や偵察小隊、偵察隊で扱います。



夜間の想定を成功させ、またまた次の日。
肩までの草むらを歩いていたかと思ったらこんどはゴムボートの移動。



輸送ヘリの誘導も行います。
ヘリに信号を送る紅白の旗を持った信号員は、
後ろにぴったりと教官(先任?)が立ち、二人羽織のようにして
学生に指導しながら誘導を行います。

全部学生に任せて失敗があると取り返しがつかないからですね。

ヘリには学生を含め戦闘隊が皆乗り込みました。
今日はヘリで帰還する模様。



唯一、想定中笑いが漏れた瞬間。

背嚢を真ん中の学生が持ち上げて背負ったとき、付けていた小さな
招集用の鐘が「からんからん」と鳴ってしまいます。

「シマッタ」

そんな顔でにやっとした彼の元に上官がやってきて鐘をつかみ
大々的に鳴らし始めました。



するとにこりともせずに回りに立っていた学生達は何も言われないのに

すぐさま棟の方へ向かって駆け出して行きます。

これは非常呼集の合図でもあったのでした。
鳴らしてしまった学生は、ついでにちょっと叱られたようです。

相変わらず皆巻き舌で上官が全く何を言っているのか聞き取れませんでしたが。



基礎訓練で馬鹿たれ呼ばわりしていた一番偉い人の訓示。

「自分に負けるな!」

これはわかる。

「途中相反する面もあるんだけどね。
たとえばどういうことかというと、生存自活等教育受けて、
現地あるものをね、できるだけ最終両立して、
とにかく体力付けて、任務を完遂しなさい」

うーん、偉い人、わたしにはさっぱり意味が分かりませんっ!
何と何が相反するのか。
「現地あるもの」って?
「現地にあるもの」=つまり生存自活で食べる地産地消もの?

これ、皆はわかっているんだろうか。

「後それとは別にね、最初の皆のその

き も ち ! (両手を出す)

やる気を見せるように、以上!」

まあ、これも、何となくわかる。
きもちだよ、やる気のきもち。(たぶん)



なんて言うんでしょうか。
至る所で巻き舌で発せられる命令なんかを聞いていても、つくづくこの世界では
「言葉」というものが実質あまり意味を持っていない気がします。

たとえば海自などにあるのは海軍伝統に培われた行動基準、
—それを「海軍精神」とでも言うのでしょうが—
で、その規則や慣例、カルチャー
はたどって行けば全てそこに帰結するわけですが、
そういった世界が全てきっちりとした明文化が可能であるのに対し、
この山中での訓練においては行動の第一義は何をおいてもフィジカルであり、
精神性においては与えられた試練をやり遂げるための、たとえば「頑張る」とか
「耐える」、これ以外の言葉は全く意味を持っていないやに思われます。


海の上で戦う海軍は、その巨大な艦を人間の力で操作することから始まります。
一人の力ではそれを動かすことすらできないのであり、しかもその共同作業は
言葉を介在させずには何も機能せず何物も成立しません。

しかし、一人一人の肉体を武器の一つとして戦う部隊においては
むしろ言葉は不要どころか邪魔になることすらあるわけです。

大隊長の訓示から小隊長の命令にいたるまで、ここで発せられる言葉が
言っては何ですが「言葉としてあまり意味を持っていない」、
もっとはっきり言うと、口に出した瞬間それが稚拙にすら感じるのも、
彼らが「機能的に言葉を発することを任務に要求されていないから」
ということもできるかもしれません。

「陸自と空自の違い」というのを何度か、あくまでもイメージで語ってきましたが、
もしかしたらここに根源的な相違があるせいなのか、とふと思ったわたしです。 



続く。

 (注・冒頭写真は竹野内豊ではありません)