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再開

2011-05-16 | 日本のこと

あの日から60日。

読んで下さっている皆様も、もはや震災前までと同じ生活を続けてはおられないのではないでしょうか。
幸いにして災害に遭わず生活そのものは変わらないという方であっても。
あの災害は私たちのあらゆる価値観を、未来への信頼を、根本から覆してしまいました。

奇しくも一月十七日にわたしが遭遇した阪神大震災について書きましたが、
まだしもあの震災には、起こってしまった後は復興に向かって突き進んでいけばよい、といった
「明日への希望」がありました。

ブログ記事中何度か書きましたが、わたしの居住地は関東地域にあり、今回、災害の被害は軽微でした。
自宅は長い揺れを感じたものの安定の悪い置物が棚から一つ落ちただけ、入れたばかりの紅茶が揺れたカップからこぼれただけで、何の被害も蒙ることはありませんでした。

しかし、その後の原発事故です。
自宅は関東地域の中では放射線の影響は少ないと言われる地域ですが、それでも前代未聞の事態にどう対処していいか分からず、事故発生直後から関西に子供を連れて避難していました。

最寄駅からチケットを購入し、新幹線駅のコンコースに到着するとそこは凄まじいばかりの人。
皆チケットを買うために窓口に並ぶ人です。
そのときすでに指定席は満席。
通路には立っている人もあり、車内には外国人の駐在社員とその家族、そして中国人の観光客が目立ちました。
息子のクラスメートのお母さんに連絡を取ってみると、何家族かは京都や大阪に避難していたようです。
自国に帰った駐在家庭もありましたし、関空から台湾やハワイに避難したクラスメートもいました。

後から分かったように、政府は情報を全く公開していませんでしたので、それこそ海外まで脱出するべきなのか、
などと悩んだのですが、米軍基地内に知人がおり、彼が
「アメリカ政府はいざとなったら退避命令を出す。
しかし今のところ(三月時点で)『家族は退出させたほうがよい』という退避勧告程度のものなので、
まだ大丈夫ではないか。もし命令が出れば真っ先に連絡する」
と言ってくれていたので、それを信頼して子供とともに関西の親戚に身を寄せていました。
四月第二週になり、学校が再開したので関東に帰ってきたというわけです。
それでもしばらくは恥ずかしながら怖くて週末ごとに関東から離れていました。

当初驚いたのですが、こちらに帰ってくると、皆全く普通の生活をしています。
しかし、先の見えない原発事故の収束を気に病むよりはと関西に移住を決める人が多いことも分かってきました。
実家のある関西の某市には、被災地東北ではなく、東京を中心とした関東からの転居者が一時なだれ込み、
役所が大忙しになったという話も聞きました。

この事故以来、わたしたちが安全と安心を現実の生活とどのように折り合わせていくのかが、
一つの重い課題として関東一円に住む一人一人に突きつけられている気がします。

関東から逃げるのか。
家族だけでも逃がすのか。
何が起こっても仕方ないと割りきり住み続けるのか。
現実に阻まれて逃げられないならば諦観するのか。
安全であるという政府東電の発表を信じるのか。

いまや選択が全くの自己責任に委ねられています。
こうしなさいと言われて従うのに慣れてきた、快適な社会生活に浸かりきった私たち日本人に
いきなり突きつけられた初めての難題と言えるのかもしれません。

実は我が家は実家が関西にあるため、現在移転も視野の範囲に入れて様子を見ながら検討中です。
もし成長期の子供がいなければまた違った判断をすることもあるのでしょうが・・。
さらに今二か月目を迎えて問題になってきているのは内部被曝の問題。
すでに狭い日本では西日本であろうと流通や、あるいは「被災地の牛を引き受ける」「がれきの焼却を負担する」
などという動きの下に、どこにいっても安心安全とは言えなくなってきました。

加えて地震後囁かれるようになった今後の地震や火山噴火などの恐怖。
知人の一人は「あなたも来週にでも日本から離れた方がいい」と空港から電話をしたきり、
突然夫君の祖国であるケープタウンに行ってしまいました。
今日本は、のみならず世界中の海岸沿いの都市は先日の地震の影響で地盤が不安定になっているので、
何処にいても大津波に襲われる可能性があり、なかでも日本は近々連動して大地震が起こり得るので
非常に危険であると彼女は言うのです。

すぐにでもボストン内陸に行こうかと思ったくらい怖かったのですが、今となってはどこにいても危険ならば、
何もよりにもよって犯罪率の異常に高い都市に行かなくても、なんて思っています。
そもそもケープタウンで万が一大災害に遭遇してしまったとしたら?
そのとき先日の地震後の日本のような秩序の中にいられるとは到底思えません。

放射線や放射物質の被害についてですが、妊婦、幼児、成長期の子供のそれは神経質になるべきでしょう。
しかし、今まで添加物や保存料、エアスプレーや殺虫剤、芳香剤、染毛料などの化学物質、
喫煙や電子レンジ使用も含める生活上の有害物質をさんざん吸収をしてきた人たちにとっては、
はっきりいって「なにをいまさら」というものではないかと思います。

ケミカルをたっぷり含んだ中国の毒野菜やコンビニ弁当、カップラーメンの常食の方がよっぽど
「ただちに影響はないが確実に将来健康に影響を及ぼす」のです。
無製白米やみそなどという日本古来の質素な食伝統を重んじ、甘いものを控え水に気をつけていれば、
つまり正しい食生活さえしていればもともと発がんの危険性はかなり抑えられるのです。
あと、身体は勿論、居住空間を清潔に保つこと(拭き掃除はかなり有効という話です)。

つまり、いままで健康であるためにしてきたことを、防御のためにより強固に実践すれば、
あてもないのに慌てて移転するほどのことはないのではないでしょうか。
勿論今より状態が悪化しなければ、というただし付きです。

実際問題として問題解決に何の糸口も見えず、土壌や海水が物凄いレベルで汚染されていきつつある現状では、
明日もこのままで無事でいられるか、そして生きていられるかすらわかりません。
ただ、まさに未曾有の国難に今立ち会っているという事実におののくばかりです。


さて、今回の災害後、私も個人的に海外からのお見舞いを受けました。
夫が留学していたアメリカの大学からは
「我々はわが校の卒業生が世界のどこにいようと、いつも見守っている」
というメッセージ。
メキシコシティの息子の同級生のお父さんからは何度か「大丈夫か」というメールチャット。
「何かあったらうちに来ていいよ」
というアメリカ在住の友人。

皆、一様に「日本は強い国だから必ず立ち直れる」と言う一文を添えてくれていました。
中でもサンフランシスコで毎年お世話になるアパート管理会社の社長のメッセージはこのようなものでした。

「我々は報じられる日本人の災害に対しても冷静でお互いを助け合う態度に心から感嘆しています。
大変残念なことながら、もしアメリカでこのような災害があったとしても、
我々が日本人のように振る舞えるとはとても思えません」

大東亜戦争中、海軍で特攻を命じられながらも生き残った方たちのことを聞きました。
彼らは今回の災害に際し、事故収束のため身の危険を顧みず任務を志願した自衛隊員、消防士、
そして原発作業員たちに自らを重ね合わせ、より強い結束の気持ちを持っておられるそうです。

危険の可能性を知りながら関東全域で「いつものように」働き続ける人たちも、理由はそれぞれであっても
「私より公」をまず第一にする日本人であると思わされます。
恐怖に浮足立ってすわ移転か?移住か?とばかりに全てを放り出して逃げてしまうことを潔しとしない、
というのもまた日本人の気高いメンタリティであろうと思います。

しかし、そういった国民を信頼せずパニックを恐れて情報を隠蔽した政府の対応は許されるべきではありません。
さらに児童の放射線被ばく許容量の限界値を引きあげる、などと言う政府の対処からは、
直ちにに影響が出ない事象であるのをいいことにできるだけ責任を回避し問題を先送りしようという魂胆が見え、
暗澹たる思いになります。
及ばずながら私もこの基準値を撤回させるための運動に署名しました。
該当する地域の住民、特に子供を持つ親がなぜ暴動を起こさないのかが不思議なくらいです。

東電がメルトダウンをようやく認めました。
国民への情報の隠蔽と問題解決への後手に回る対処は、まるであの戦争を見ているがごときです。
初期段階から疑われていたメルトダウンと言う言葉をあくまでも避けていたのは、国からの支援体制が整うまでそれを認めたくなかったということで、それはあたかも旧軍が全滅を「玉砕」と言い換えるがごとし。
政府、東電の情報の隠蔽ぶりはあたかも大本営発表そのもの。
欲しがりません勝つまでは、ぜいたくは敵だ!とばかりに計画停電や節電強要。

ただし学童を疎開させただけ現政府よりは旧軍の方が人道的、と言えるかもしれませんが。



さて、今日久しぶりにブログを覗いてみました。

あまりの災害の大きさと、わたし自身の状況が
「それどころではなかった」のと、まずページを開けるような精神状態ではなかったせいで、
自分のブログでありながらほぼ二カ月放置していたのですが・・。
さぞ過疎していると思ったのですが、何故か毎日アップしていた頃と読者数がほぼ一緒で驚きました。
過去ログを見てくださる方も毎日一定数おられると知り、なんだかしみじみしてしまった次第です。

二ヶ月経ち、地に足をつけた生活を営むことこそ復興への近道、と自分に言い聞かせるべく、
また再開させていただくことにしました。
震災までに書きためていた海軍記事を、毎日ではありませんがときおりアップしていきます。

五月一五日現在、少なくとも状況は全く良くなっているとは言えませんし、いまだ「非常事態」であることは紛れもない事実なのですが、今のところこれ以上の「不測の事態」になる可能性はないと信じて。

・・・いや、もうとっくに最悪のの事態は起こっていたということを知った、というべきなのでしょうが。



今年もまたマンション敷地内の桜がみごとに咲いてくれました。
この木の横にある部屋はこの季節花の色で夜でも明るく感じられるのです。
来年もこの桜に照らされた部屋で目覚められることを願うばかりです。