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川真田中尉の短ジャケット 

2011-05-19 | 海軍

川真田、という名前を検索すると、そのほとんどが四国の徳島に関係する人物であることに気がつきます。
明らかにこの川真田中尉の出身地に多いのです。
もしかしたら、徳島の川真田さんはほとんどが川真田中尉の血縁関係なのでしょうか。


少尉候補生の川真田中尉の写真を見つけました。
すらりとした身体に短ジャケットがおそろしく似合っています。

ここで少し軍服の話をします。
この候補生時代だけが「短ジャケットに抱き茗荷」という、兵学校と士官の間のような恰好です。
これは少尉候補生は兵学校を卒業してもまだ立場は学生だからです。

映画「連合艦隊」について書いた日、兵学校を卒業してきたばかりの息子に準士官の父親が敬礼し
「少尉候補生の方が階級は上や」
というシーンを画像にしました。
少尉候補生は学生でありながらすでにそれほど高い階級を与えられていたのです。

この少尉候補生姿で記念写真を残している軍人は多いのですが、以前ある軍事雑誌の特集記事中、
ある軍人のこの候補生姿の写真キャプションに
「兵学校の休暇であろう」
と書かれているのを見てしまったことが・・・・。
抱き茗荷と兵学校の錨マークの違いもわかっとらんのかこの解説者は!
と呆れつつ名前を見ると有名な航空作家だったりして・・・。

余談ですがこの「抱き茗荷」は通称です。
この準士官以上の軍帽前章の意匠に見られる葉っぱは、茗荷ではなく桜の葉なのです。
なぜ桜葉を茗荷と称するのか?
正確な理由は分かっていませんが、一説では、初期の海軍で力を持っていたのが佐賀藩士であったため、
その主家であった鍋島家の家紋の茗荷に呼称を因んでいるとも言われています。



ちなみに、この解説者は他にも明らかに少尉任官時に無帽で撮られた写真説明に
「兵学校の制服に身を包んだ」
と書いており、こちらにも
「少尉の襟章と兵学校の錨マークの区別もつかんのかこの解説者は!」
と呆れつつ、なぜこの解説者にわざわざこの原稿を書かせたんだ!読者をなめたらいかんぜよ○編集部!
と思わず突っ込んでしまったのですが、武士の情けでその解説者の名前は出しません。



ところでこの短ジャケットです。
これはもう何と言うか、川真田中尉のようにスマートで、
脚がすらりと長いスタイル良しには怖ろしく似合ってしまうのですが、
多少スタイルに難アリの学生には非常に着こなすのが難しいデザインといえます。

実によく考えられていると思うのは、この過酷なデザインを着用するのは、
いわばぴちぴちのヤングマン少尉候補生まで。
そう、若くないと似合わないデザインなんですね。
お腹も出てきて押し出しもよくなってくる将来に備えて、少尉任官後は長いジャケットになります。

しかし、そこは気合と言うんでしょうか、
きりりと姿勢の良い若者が着ているだけでみなそれなりに恰好よく、
おそらく着ている者の気分もさぞ高揚したのではないでしょうか。


ちなみに川真田中尉は級友の某氏に向かって一緒に写真を撮るとき
「貴様は短足でスタイルが悪いからしゃがめ。オレが立つ」
と言い放ったなかなかの・・・えー、はっきりモノをいう人物ですが、
自分でそういうだけあって、腰までしか写っていないこの写真でも、
その胴短足長体型は窺い知ることができます。
よくしたもので言われた方は

「自分がちょっと脚が長いからってそこまで言わんでもいいだろう!」

と気色ばむような性格ではなく、それどころか
「そう言ってかれは庇ってくれた」
と感謝するようなおっとりとした人物でした。
この二人は親友だったそうで、いつもそんな調子のいいコンビだったのでしょうね。

その「短ジャケットの似合う男」川真田少尉、学生のときを知る友人は
「黙っていても海軍の戦闘機乗りという感じのするスマートな敢闘精神横溢した搭乗員」
とかれをして評しています。
ふーむ、海軍の戦闘機乗りは、海軍内の人間にさえスマートなイメージを持たれていたのですね。


以前川真田中尉について書いたとき「顔が濃いので真っ先に分かってしまう」
と書きましたが、アップのこの眉毛の濃さから想像できるように、非常に髭も濃く、何とあだ名は

「ヒ ゲ マ タ」

四号のときから毎日髭をそらなくてはならないほどだったそうです。
そういえばどこにも書かれているのを見たことがありませんが、
兵学校の生徒は髭をいつ剃っていたのでしょう。
朝の忙しい時間に電気カミソリも無い時代、カミソリで悠長に剃っている余裕があったのでしょうか。


この、見るからに戦闘機乗りタイプだったという川真田中尉、
案の定というか見かけどおりというか、スポーツ万能選手。
水泳は入学時から三級、剣道も器械体操も堪能だったということですが、それだけにあらず、
実は川真田中尉のもっとも得意なジャンルは
「歌と踊り」であったそうです。


少しの酒にすぐ赤くなって山の座敷で器用な手つき、豊かな声量で踊り歌った彼だった。

山、とは海軍隠語で佐世保にある万松楼のこと。山手にあったからだそうです。
川筋にあったいろは楼は「川」と言いました。
またまた寄り道しますが、この海軍隠語における料亭の名称を少し。

横須賀のパイン(小松)が有名ですが、他にも
フィッシュ(うお勝)
グッド(吉川)
ロック(岩越)
フラワー(崋山)
ゴーイング(いくよ)
ホワイト(白糸)

などなど。
山、川以外はストレートに英訳、というのが当時の「流行り」のようです。

 


話がそれました。
このように同級生の回想する川真田中尉の姿からは、故郷では文武両道、
オールラウンドプレイヤーの神童としてスターのような存在だったであろう、
華やかで自信に満ちた若者が想像されます。


しかし・・・。
わたしは川真田中尉のことを考えると、
いつもその他多くの散華した方たちにもそうせずにはいられないように、
その最後のときに思いを馳せずにはいられないのです。

「ガダルカナル島よりショートランドに向かう輸送船団上空哨戒中、
チョイセル島北東30浬において悪天候のため雲中にて行方不明、戦死認定」



豪雨の中たったひとりで迎えたその瞬間、かれは自らの死とどう向き合ったのか。
誰のことを考えたのか。
無念ではなかったか。
怖ろしかったか。悲しかったか。
それとも傲然と、あるいは泰然と軍人としての最後を自ら選んだのか。


川真田中尉が迎えなければならなかったそのときを、なんどもなんども粛然と心に描いては
その魂の安らかならんことを心から祈るのです。









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