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バルジの戦いと第二次世界大戦の友軍誤射事件〜国立アメリカ空軍博物館

2024-09-12 | 歴史

昔、わたしが全くそちら方面の知識がなかったころ、
知り合いにいわゆるミリタリーオタクな人がいました。

特に親しいという関係ではなかったのに、わたしが戦争映画に
興味がないわけではない、程度の反応をしたところ、なぜか張り切って
いくつもの戦争映画DVDやなぜか小説を無理やり?貸してくれたものです。

そんな彼のミリオタっぷりは、広島に仕事に行ったとき、
泊まっていたホテルのウェイトレスのお父さんが
海上自衛隊の佐官というだけで彼女をナンパするほどでした。
(今にして思えば彼女の父上は呉勤務だったのだと思う)

別の知人とそんな彼のミリオタっぷりを話題にしたとき、わたしが、

「〇〇さん、戦争映画が好きらしいですよ」

というと、もう一人が、へー、どの辺の?と聞くので、
第二次世界大戦の、しかも日本ではなくヨーロッパの、というと、

「蛤御門の変とかじゃダメなんだ」

いや、蛤御門の変の映画はないから。

という彼が貸してくれた中にあったのが、
「メンフィス・ベル」小説版とDVD、そして「バルジ大作戦」でした。

予告編「バルジ大作戦」(Battle of the Bulge)trailer
ヘンリーフォンダ ロバートショウ チャールズブロンソン

主役ヘンリー・フォンダにチャールズ・ブロンソンとは。
当時の超人気俳優を使っていたわけですね。
ちなみに今検索したら、ドイツ軍伍長役として、当ブログで取り上げた映画、
「モリツリ」のドンキー、「戦線の08/15 Zweiter Teil」の伍長役だった、
ハンス・クリスチャン・ブレヒが出演していることがわかりました。

この映画の有名なシーンが、これ。
映画「バルジ大作戦」"BATTLE OF THE BULGE" 戦車兵の唄

「ドイツ兵が歌って元気になるシリーズ」。
装甲師団のみんなが「パンツァー・リート」で誇りを取り戻すシーンです。

このドイツ軍将校は今にして思えばパイパー少佐がモデル?

■ バルジの戦い

バルジの戦いにはよく「ヒットラー最後の賭け」というタイトルが付きます。

1944年12月16日、ドイツ軍はアルデンヌの森の守備が薄いところを狙い、
大規模な奇襲攻撃を開始しました。

後世にいう「バルジの戦い」です。

最初の7日間、霧、雲、雪により連合軍の戦術航空戦力は著しく制限され、
先鋒部隊として投入されたヨアヒム・パイパー大佐の機甲戦闘団
目覚ましい活躍などもあって、12月24日までに
ドイツ軍に西方50マイルまで侵攻を許すなど絶望的な状況に陥りました。


ヨッヘン・パイパー

ここで、航空戦力の点からこの経緯を見ていきます。

連合軍とドイツ軍の航空戦力は、12月23日に天候が回復すると、
どちらも地上部隊を支援するためにすぐさま出撃しました。

この時多勢に無勢だったドイツ空軍は主に戦闘機を出しましたが、
第9空軍は戦闘機だけでなく、爆撃機、グライダー、輸送機を投入。

マイナスDデイの時点で航空勢力が削がれていたドイツ側は立ち向かえず、
地上のドイツ軍は次第に補給を断たれ、苛烈な攻撃に後退を始めます。




12月のヨーロッパ北部の寒さは異常。

というわけで、荒れた冬の現場での飛行作業は
第9空軍の整備要員にとって厳しい労働条件となりました。

この写真では、乗組員は P-38の凍ったエンジンを外部ヒーターで暖め、
エンジンを始動できるようにしているところです。
手前に見えているダクトホースで空気を送り込むのでしょうか。

メカニックは急拵えの作業足場スタンドの上に乗って、
機首の銃の整備をしているところです。


アルデンヌの地で陸軍地上砲兵部隊と航空士官が握手する歴史的瞬間。
(多分日頃は仲が悪いに違いないのでそういう意味でも)

カリフォルニア州バークレー出身のローウェル・B・スミス少佐(右)が、
第9空軍の366FG、390FSに所属し、任務は地上部隊との協力でしたが、
このときは地上部隊からの「掩護」を受けた、という状況でした。

弾薬を使い果たして基地に帰還してきたスミス少佐は、Bf109の攻撃を受け、
味方の対空砲座の上空を低空飛行したところ、対空部隊が敵機を発見し、
数回の攻撃の末撃墜し、少佐を助けることに成功しました。

というわけで、これは少佐が礼を言いにきて握手を交わしているところです。

このときドイツ軍が「最後のサイコロ」として行った
「ボーデンプラット作戦Bodenplatte」
において、スミス少佐は近接支援任務のために15分早く離陸したところ、
Fw190とMe109が部隊空襲をしかけてきました。


スミス少佐はこのときFw190と交戦し、2機を撃墜しています。


このスキーを履いている人はP−47サンダーボルトのパイロットです。
そして後ろのテントは「ブリーフィングルーム」。

駐機場までスキーで移動する第9空軍ジョージ・ブルッキング少佐。


真ん中、ブルッキング少佐。全員パイロット。


バルジの戦いで好天に恵まれた最初の日、1944年12月23日。
第9空軍の軽・中型爆撃機に襲われたドイツ・リンブルク近郊の鉄道操車場。

鉄道車両にはジュネーブ条約に基づく攻撃制限がなかったため、
輸送中の連合軍捕虜が鉄道攻撃で命を落とすことがありました。

究極の友軍誤射、フレンドリーファイアーです。

■ 最悪のフレンドリー・ファイアー

余談ですが、第二次世界大戦中起こったアメリカ軍友軍攻撃の悲劇の一つ、
アッレローナ鉄橋爆撃について取り上げておきます。

第二次世界大戦中最悪の友軍誤射事件はイタリアで起こりました。

1944年1月28日、米空軍機がイタリア中部オルヴィエートの北にある
アッレローナの橋を爆撃し、この攻撃によって、
40~50両の列車が直撃を受け、10両が破壊され、3両が脱線し、
残りの1両はアーチの中で座屈するという大被害となりました。

米軍のパイロットが知らなかったのは、その列車には
1,000人以上の連合軍捕虜が乗っていたということでした。

捕虜の出身はアメリカ、イギリス、南アフリカなどでしたが、
今日に至るまで、何人が死亡したのか確かなことすらわかっていません。
推定死亡者数は200人〜600人と、えらく誤差がありますが、

どちらにしても結構とんでもない人数です。

近くの村に住む人々は、その処理のためにドイツ軍に駆り出され、
その結果、惨劇を目の当たりにすることになりました。

付近住民の証言によると、

「村人らが到着すると、死体の山があった。
彼らは死体を爆弾のクレーターに入れ、ガソリンをかけて火をつけた」


捕虜たちは、有刺鉄線で固定されたトラックの上部の隅に
小さな窓があるだけの家畜用車両で運搬されていました。

爆撃の後、橋の上で働いていたイタリア人がツルハシを手に、
荷車の鉄格子や錠前を壊してくれたためかろうじて助かった者、
また、トラックで現地を通りかかった南アフリカの軍人が、
爆撃の最中に列車を外から開放し、逃げることができた者もいました。

しかし、この第320爆撃群の公式戦史によると、この事件は
友軍誤射ではなく、単なる「任務成功」として讃えられています。
そこにはこう書かれているそうです。

「オルヴィエート北橋で擱座したドイツ軍の兵員列車を捕らえ、
逃げ惑う敵兵の間で爆弾を炸裂させた。」

5 Devastating Cases of Friendly Fire In WW2...

このビデオでは、第二次世界大戦の5つの友軍誤射事件を取り上げています。

1、バーキング・クリークの戦い・イギリス空軍

レーダー障害によりハリケーンを敵と認識したRAFがこれを迎撃、犠牲者二人
ちなみにIFFは当時開発中

2、生物学的ミス・日本陸軍

中国で731部隊が実験した生物兵器で大陸に住んでいた日本人が死亡

3、アンバー事件・イギリス空軍

1942年4月13日、航空デモしていたRAFホーカー・ハリケーン戦闘機が
観客にいきなり発砲、その結果25人が死亡、71人が負傷
パイロットが悪天候で観客をダミーだと誤認して銃撃したことによる

4、PT-346 誤射事件・アメリカ海軍

1944年、海兵隊コルセアがPTボート347を日本の砲艦と誤認し攻撃、
一緒にいたPT350はコルセアを零戦だと勘違いし、これを撃墜、
コルセアは飛行隊を引き連れて来襲し、珊瑚礁で立ち往生しているPTを攻撃
最終的にPT346、347、350の21名が死亡・行方不明、14名負傷、
海兵隊コルセアのパイロット2名が死亡


攻撃が終わり、漂流していた何人かは全く別のアメリカ軍機に射殺されている

5、コブラ・カラミティ

ノルマンディでの脱出作戦「コブラ作戦」中、
アメリカ軍の爆弾が友軍部隊に落下し、111人が死亡、490人が負傷

ノルマンディ関係では、この後、空挺部隊の乗った輸送機を味方が攻撃し、
しかも脱出した空挺降下中の兵を、下から撃ちまくった事件もあります。


バルジの戦いの結果は連合軍の勝利で、1945年1月末までに、
ドイツに奪われていた領土を実質的にすべて取り戻す結果になりました。


続く。