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”And Then There Were None” ミッドウェイ海戦〜スミソニアン航空宇宙博物館

2021-03-31 | 歴史

冒頭の絵画は、R.G. スミスの作品で、

「赤城への攻撃ーミッドウェイ」

というタイトルです。
スミソニアンの横の説明によるとタイトルはなぜか「ダグラスSBD−3」

スミスはリンドバーグの大西洋横断成功をきっかけに航空ファンとなり、
ダグラスエアクラフトのエンジニアとして海軍戦闘機の開発に携わった人です。

彼が関わった航空機はSBDドーントレス、ADスカイレイダー、A-3Dスカイウォリアー、
F-4Dスカイレイ、そして彼の個人的なお気に入りであるA-4Dスカイホークなど。

絵画は独学でしたが、エンジニアとして飛行機の構造と機能を知悉していた
彼は、キャンバスの中の航空機に命を吹き込みました。

絵画の正確さを確保するために、彼は目的のシーンやイベントを研究し、
あらゆる角度から被写体を観察するのはもちろん、細部にもこだわり、
航空機からペイントのかけらを収集し、場合によっては、

戦闘中や海上で実際に航空機を観察することまでしています。

戦争が始まった時、彼は海軍に入隊しようとしたのですが、
戦争遂行のためにはダグラスでの仕事の方が重要だからと当局から断られています。
そこで彼は、新しい航空機の設計のためと言い張って?
戦闘参加中の空母に乗り込むことを志望し、ようやく許可されたということです。

彼は後年まで戦争に参加できなかったことを後悔していました。

しかし、ほぼ30年後、スミスは50歳半ばになって、スケッチアーティストとして
ベトナムをツアーする機会が訪れたのですが、このとき彼には海軍から特別に

「大尉」の地位を与えられて各種「作戦に参加」することになりました。

なんと彼はアーティストとしての「勇敢な行動」によって、1973年に米国海軍の
「名誉海軍飛行士」(第10号)に指名され、
それに加えて任官までさせてもらったということのようです。

よかったね。というか、アメリカ海軍って粋なことをするなあ。

彼は海軍への貢献に対する栄誉賞を他にもいくつか授けられているほか、
名誉ブルーエンジェル」(ブルーエンジェルスの特別メンバー)
の称号も持っているということです。


2000年、スミソニアン国立航空宇宙博物館で、

「オールド・マスター・オブ・ザ・スカイ」

というタイトルによる、スミスの25枚の航空絵画とデッサンの特別展が6か月間開催されました。
この「赤城」はそのうちの一枚で、特別展の後、当館が買い取ったものと思われます。

ミッドウェイ海戦を描いたその他のスミス作品には、

「有名な4分間」「ターニングポイント」

などという、ゾクゾクするようなタイトルが付けられています。
スミス氏のその他の作品に興味がある方はここをどうぞ。

航空芸術の格納庫

 

■ VICTORY AT SEA ヴィクトリー・アット・シー

さて、スミソニアンが語るところのミッドウェイ海戦の経緯です。

最初にミッドウェイ爆撃隊が日本の空母部隊を攻撃したのはちょうど午前7時過ぎでした。
南雲忠一提督

「ミッドウェイに対し再攻撃の必要ありと認む」

という電文を艦隊司令部から受け取っていました。

そのとき彼の指揮する4隻の空母の飛行甲板は魚雷を装備し、
米空母艦隊を攻撃する態勢になっていましたが、南雲は
「しぶしぶ」(Reluctantly)ミッドウェイ島攻撃のために
それらを爆雷に換装するように命令を出したばかりでした。

ちょうどそのとき、ミッドウェイ島の攻撃部隊が日本艦隊に接近し、
給油作業と換装作業の最中である甲板に二度目の攻撃を始めたのです。

300キロメートル以上の東方へ「エンタープライズ」「ホーネット」
から飛来したアメリカ軍の戦闘機と爆撃機は、西に進行方向を変え、
敵を見つけるための3時間に及ぶ「不確実な」航行を始めていました。

”エンタープライズが攻撃準備を始める”

6月4日の朝、雷撃隊のTBD デバステーターが飛行甲板で準備を始めています。
これらの米国空母から派遣された3隻の魚雷攻撃部隊は、
日本の空母部隊への攻撃中に敵のゼロ戦闘機によって全て撃墜されました。

雷撃隊全部でいうと、41機の米国艦隊の雷撃機のうち、6機が帰還しましたが、
結論として、敵に効果的な魚雷の攻撃を与えることはできませんでした。

しかしながら、ミッドウェイを拠点とする爆撃機による、
より早い破壊的打撃に続く敵雷撃機との低高度戦闘は、
日本の戦闘機パイロットの注目を完全にここに引き付けることができたのです。

Dive-bombers attacking a Japanese ship, 1942.

”美しい銀色の滝”

「ヨークタウン」の戦闘機隊長、ジョン・サッチ司令官は、
日本の空母を攻撃する雷撃機隊を護衛していました。

のちに語られたサッチの証言は次のようなものです。

「何機かの零戦が雷撃機に正面攻撃をかけてきた。
そして何機かのゼロが我々の戦闘機の前に降りてきた。
まるで蜂の巣のなかにいるようだった。
あまりに敵の数が多いので、我々が全員生還することはないだろうと完全に確信した。

そのとき、わたしは美しい銀色の滝のように見える太陽の輝きを見た。
それはその場に現れた急降下爆撃機であった。

彼らはゼロと同じ方向から来たので、その動きは我々からはよく見えた。
私はそのときほど素晴らしい急降下爆撃を見たことがない。

攻撃が終わった後も、私はそこにとどまっていた。
海面には三隻の空母が残っていて、そのうち一隻は
ときおり青い炎の混じる明るいピンクの炎によって燃えていた。

炎の高さは艦体の長さと距離はほぼ同じで、
炎はそれに向かって噴き上がり、上空にはたくさんの煙があった

その場を離れる前に、三隻の空母がかなり激しく燃えているのを見た」



サッチはこの後「ヨークタウン」への日本の急降下爆撃機による攻撃も目撃しました。

「今や雷撃機が飛来していた。
私は敵にサイドから進入し、それを撃った。
左翼全体が燃え、炎を通して翼の中の構造物がはっきり見えた。

しかし、この悪魔は獲物に十分に近づいて魚雷を落とすまで
空中にで耐え続け、その魚雷は『ヨークタウン』を襲った。

この献身的な雷撃機パイロットは、飛行機が炎上して墜落寸前にもかかわらず、
一歩も引くことなく自分の任務を果たしたのである。

そして、雷撃を行った直後、艦のすぐ近くの海中に墜落した。

日本人パイロットたちは戦術に長け、なおかつ不退転の決意を持っていた。
実際、こと『覚悟』に関する限り、日本とアメリカの艦載パイロットに
全く違いはなかったし、彼ら自身にもおそらく異論はないと思う」

”運命の6分間”

マクラスキー隊が、発進後、戦闘機隊と合流できないまま索敵を行っていたところ、
空母部隊と合流しようとしている駆逐艦(『嵐』という噂もあるが当事者は否定している)
を発見し、その進行方向延長線沿いに日本艦隊を発見、という経過は
マクラスキー隊長の紹介の時にお話ししました。

ここでいう「運命の6分間」とは、10時22分「エンタープライズ」艦爆隊と
「ヨークタウン」艦爆隊の同時攻撃が始まった瞬間から、リチャード・ベスト大尉
3機が旗艦「赤城」に爆弾を命中させるまでの時間です。

そしてたった6分が、戦争のそして歴史の流れを変えたのでした。

ちなみに、もしこの攻撃が仮に5分遅かったら、日本側は換装を終え、
零戦隊が発進してこのような流れにはならなかったかもしれないという仮定もあります。

”The Hiryu Strikes Back(飛龍の反撃)”

この運命の6分間に、「飛龍」は他の3隻の空母から離れていたため、
アメリカ軍急降下爆撃機群の攻撃を受けることはありませんでした。

山口多聞少将

「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」

の命令のもと、1054、「飛龍」からは小林道雄大尉指揮の艦爆隊、零戦隊が発進。

このときミッドウェイ島の攻撃から帰還した友永丈市大尉の艦攻も
「飛龍」に帰還していましたが、友永大尉は機銃弾によって破損したタンクを
修理することなく、さらに片道燃料で出撃したといわれます。

もっとも本人は、敵艦までの距離が近いので帰れる、といっていたとされます。

 

そして、「飛龍」第一波攻撃隊(22機)は「ヨークタウン」を発見し、
九九艦爆8機による急降下攻撃で5機が爆弾投下に成功、爆弾3発が命中、
1発がボイラー室に火災を発生させ、「ヨークタウン」は動力を失い航行不能となりました。

そして14:30、友永大尉らの攻撃隊が「ヨークタウン」を発見、
両舷から挟み撃ちの形で投下した爆弾のうち2本が左舷に命中します。

”And Then There Were None(そして誰もいなくなった)”

南雲提督に残された最後の空母「飛龍」に、6月5日、
「エンタープライズ」「ヨークタウン」の艦爆隊が四発の爆弾を命中させ、
これを炎上させました。

山口少将は駆逐艦「巻雲」の魚雷による「飛龍」の処理を命じ、
自らは加来止男艦長とともに艦に止まって、艦と運命を共にしました。


最終的に米軍が勝利を収めた、という認識にもかかわらず、
「ヨークタウン」を失ったことを受けて、スプルーアンス少将

事実上フレッチャー少将に指揮権を委譲しました。

その理由として、彼が圧倒的な日本の戦闘部隊による夜間攻撃を恐れていたからといわれます。
そして自分の艦隊を敵艦隊から離れさせるため、深夜過ぎ、西に航路を変えました。

6月5日早朝、山本五十六大将はそれ以上の交戦が無意味と判断し、
艦隊にミッドウェイから帰還する命令を下しました。

 翌日、「エンタープライズ」と「ホーネット」の爆撃機が
約1,000人の乗員を乗せた「三隈」を撃沈し、
 日没までに、残りの日本艦隊は海域を脱しました。

 スプルーアンスの艦隊もすでに燃料は不足しており、パイロットたちは
何より3日間の連続戦闘の後、消耗し尽くしていました。

6月6日、TF16は真珠湾に戻りました。

戦いは終わりました。
そして潮目が変わったのです。

”THE OUTCOME(結果)”

ミッドウェイ海戦の結果は、日本にとって壊滅的な大惨事となりました。
数百人の経験豊富な搭乗員を擁する太平洋艦隊の空母を失い、
その莫大な犠牲に対して、1隻の空母と駆逐艦、重巡、そしてミッドウェイ基地の
41機の航空機という僅少な戦果しか得ることがなかったのです。

逆に、アメリカ側が敵艦に与えたダメージについていうと、
ミッドウェイ飛行隊の戦果は
ごくわずかでしたが、
彼らの繰り返しの攻撃によって敵に引き起こした
混乱と判断の遅れは、
空母雷撃機のそれと組み合わさって、
間違いなく
空母急降下爆撃機隊の成功に貢献したということができるでしょう。

 

”追記”

ミッドウェー海戦の「北フェーズ」は、日本にとって比較的成功を治めたといえます。
ベーリング海にある2つの不毛の島、キスカ島とアッツ島について言及しておくと、
1943年半ばまで北アメリカ大陸の最西端にありながら敵地となっていましたが、
アメリカ側は血なまぐさい戦いの後でアッツ島を奪還し、そののち、
日本軍の迅速な撤退後、キスカ島を占領しました。

 

さて、ミッドウェイシリーズはこれで終わりですが、
「空母の戦争シリーズ」は続きます。

ターニングポイント通過の後、日本本土にコマを進めたアメリカ海軍が
その攻撃を発進させたのも、また空母だったのです。


続く。

 


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4 Comments

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被爆 (お節介船屋)
2021-04-01 11:00:54
「赤城」3機の攻撃、2発命中、1発至近弾。
1発目、転舵でかわして至近弾、2発目中部エレベーターのすぐ後ろに命中、エレベーターは垂れ下がり、格納庫内で爆発、格納庫内の航空機、魚雷、爆弾が次々と誘爆、整備員等も死傷、飛行甲板上航空機、人員にも被害、この1弾が赤城の致命傷となりました。
第3弾が艦尾に命中、飛行甲板に並べられていた攻撃機をめちゃくちゃにし、舵をも破壊しました。

「加賀」9機が攻撃、5発至近弾、4発命中。
第4弾右舷後部、第7,8弾エレベーター付近、第9弾飛行甲板中央に命中し、格納庫内部で爆発しました。
中部エレベーター付近の1弾が被害甚大で致命傷でしたが後部右舷の1弾も被害が大きく、待機中の攻撃機が破壊、多くの搭乗員、整備員が吹き飛ばされたり、叩きつけられ戦死しました。8弾目はガソリン補給車を燃焼させ広範囲に火災を生じさせ、岡田次作艦長を含め多くの乗員を戦死させました。

「蒼龍」直撃弾3発命中。
第1弾前部昇降機付近に命中、第2弾中部昇降機付近に命中、第3弾後部昇降機付近に命中、火災の回りが極めて速く、魚雷爆弾の誘爆もあり飛行甲板、格納庫、艦橋も火災に包まれました。主缶の蒸気爆発の大爆発も起こり、乗員の死傷も多数発生しました。

「飛龍」13機が攻撃、7発目まで回避、至近弾4発、4弾が続けざまに命中。来襲した機は40機で「榛名」「霧島」「利根」「筑摩」等も攻撃。
最初の1発が前部昇降機に命中、昇降機を空中に飛ばし、艦橋の前面に激突。3発も前部飛行甲板に命中、巨大な穴が開き、火災発生、20kt以上で航行するも火災沈下せず。その後B-17の攻撃もあったがかわす。

「三隈」通算10時間、延べ120機の攻撃を受ける。
第1波20機、「最上」1弾命中。

第1弾、第2砲塔命中、破片等艦橋に降り注ぎ崎山艦長瀕死の重傷その他艦橋乗員多数死傷、その後の命中弾が何発あったは正確な記録がありません。機械室も破壊され航行不能。高角砲も破壊、酸素魚雷も誘爆、満身創痍となる。救助の「荒潮」も後部砲塔に被弾したが240名収容、避退。「最上」付き添いの「朝潮」を派遣、「三隈」も乗員も発見できず。
「最上」は5発命中の被害。
参照光人社亀井宏著「ミッドウェー戦記」
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明らかに負け (Unknown)
2021-04-01 13:46:06
遭遇戦は、先に相手を見付けて攻撃した方の勝ちなので、たとえ「運命の五分間」を稼げたとしても、日本側の負けは免れなかったのではないかと思います。この後も、太平洋戦争の空母の戦い?の展示が続くとのことですが、負けてばっかりなので、あまり読みたくありません(笑)

山本五十六はハワイ作戦で、正規空母をすべて投入するくらい思い切りいいのに、このミッドウェイ作戦で、空母をすべて喪失した後、なぜ、大和等戦艦を含む有力な水上艦部隊で、ミッドウェイ島攻撃を企図しなかったのでしょう。

米軍は陸上爆撃機を空母に艦載するような根性があった。レイテ作戦の「謎の反転」でもそうですが、日本軍は残念ながら、明らかに敢闘精神で負けています。悲しいです。
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敗因 (お節介船屋)
2021-04-01 16:16:31
航空機の被害は
艦戦105機、艦爆84機、艦攻94機、艦偵2~4機
搭乗員の戦死者
艦戦18機18名、艦爆14機28名、艦攻10機30名と空母艦内での戦死者が居ました。
空母機は戦闘の機会が少ないと見越して、生産要求機数を手控えていた上に、飛行機の増産が計画通り運んでいませんでした。
この300機の欠損の痛手が癒されぬうちに、アメリカ軍のガタルカナル反攻が開始され、消耗戦にひきずりこまれていきました。

海戦そのものの敗因は
1 米空母戦力の過小評価、珊瑚海海戦を分析しておけば米空母の奮闘ぶりは目覚しく、我が空母の向かうところ敵なしの慢心では勝てないのが分かったはず。
2 米空母部隊の行動誤判断 出てこないと思い込んで戦いに臨んでいた。索敵の不備、一応しておくの考えでミッドウェー攻撃隊と同時発艦、少ない索敵機数、雲上を飛行したり、進出点まで飛行していない上に敵発見位置も誤り報告等
3 暗号の被解読による作戦企画の漏洩 海軍暗号書Dが三分の一あるいは頻度の高いものは90%解読されていたと言われます。戦前から読まれていたと意われますが16年12月一部改訂で解読不能となっいましたが12月下旬には再度読み解かれてしまったとも言われています。ウエーク島攻撃で撃沈された「疾風」等の暗号書が浮上アメリカ軍に渡ったとも言われていましが、17年1月20日ポートダウイン近くで撃沈された伊124は水深25mにあり、潜水母艦ポーランドの潜水員が艦内調査しており、この時回収されたことが信憑性があるようです。
参加部隊や行動が知られていました。

4 日本側の地味な偵察に熱心でない、索敵の不十分さを指摘しましたが考えも攻撃には熱心ですが索敵には水上機を多用し、空母の搭載機を割くことを嫌いますがアメリカは基地部隊爆撃機、飛行艇だけでなく、艦上爆撃機を日本とは比べ物にならないくらい多く使用しています。

5 哨戒能力の低さ 日本は光学兵器での見張りで直衛艦を限度一杯まで外側に配置し、直上も雲があれば分からないのに比べ、米側はレーダー使用、空母、巡洋艦に対空レーダー装備していました。

6 艦隊防空能力の貧弱さ、直衛艦の数が少なく、対空砲も少ない。米側はレーダー使用で日攻撃部隊を把握、無線電話で有効に迎撃機を誘導、また迎撃機が多数使用し迎撃態勢も確立していました。日本側はレーダーなし、無線電話も使い物にならない代物、米艦隊は輪形陣で密集し、対空砲集中使用。

7 分散使用、参加艦艇、航空機は米側に比べ空母8隻、戦艦11隻、巡洋艦23隻、駆逐艦65隻、潜水艦15隻、400機以上の艦載機と数倍でしたが実質戦ったのは機動部隊の空母4隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦12隻のみで分散。

8 ダメコン、日本人は防御を軽くみるし、諦めが早いのに、米側のタフさ、執念深く、可能性がある限り最後の最後まで奮戦しました。

この海戦の敗戦は以後各方面に大きな影響を与えますが全く秘匿し、600名以上の負傷者は分散され各病室は外部との連絡遮断、沈没した5隻の乗員は各兵団事に、飛行機搭乗員は鹿屋に軟禁状態とされました。首相にも2か月以上結果を伝えていません。

参照光人社亀井宏著「ミッドウェー戦記」、「写真太平洋戦争第2巻」
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北方作戦 (お節介船屋)
2021-04-03 10:18:45
比較的成功といえるか難しいかったと思います。
ダッチハーバー攻撃で第2機動部隊の航空機に被害もあり、不時着零戦がほぼそのまま米軍に渡り、性能がばれてしまいました。
また占領直後から空襲を受け、レーダーがないことで艦艇も奇襲を受け、相当な被害でした。また補給にも苦慮し、自然の脅威で配置直後に水上機が全損するなど四苦八苦でした。

昭和17年7月4日アガツ島付近で米潜水艦トライトンが駆逐艦子日を攻撃、魚雷2本で撃沈、150名が戦死しました。
昭和17年7月6日水上機母艦千代田護衛の第3駆逐隊は米潜水艦グローラーに魚雷1本ずつの攻撃を同時に受け,霞は大破、霰は沈没、不知火は中破となりましたが明らかに警戒不足でした。
そのた空襲による被害も多く、潜水艦も天候不良もあり多く損害が沈没艦数隻もありました。

この後の話題で出てくるかもしれませんが昭和18年3月のアッツ島沖海戦は「那智」「摩耶」「多摩」「阿武隈」より駆逐艦4隻で米艦隊重巡1、軽巡1、駆逐艦4隻より有力でしたが遠距離砲戦、当たらず、米巡の停止時にも水偵が報告しているにも関わらず不可解な行動をして、駆逐艦の魚雷戦も実施せず、敢闘精神欠如で避退してしまいました。

駆逐艦の対潜といい、艦隊の砲撃戦といい全くいい所なしでした。
補給も米軍の攻撃で困難となってしまい、ミッドウェーの陽動作戦が負担の多い作戦となってしまい、アッツ玉砕、キスカ撤退へとなってしまいました。
参照光人社「写真太平洋戦争第4巻」
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