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海軍パイロットとカメラ

2010-09-15 | 海軍
昭和13年、南京基地で撮られた四元(志賀)淑雄海軍中尉です。

弾けるような笑顔が何とも微笑ましい四元中尉、リラックスして飛行服のベルトをだらんと外してしまっていて、全身のシルエットがまた一段と微笑ましい(?)ですね。
このナイスショットは、田中国義一空兵の手によるものだそうです。
四元中尉の手にもほとんどシャッターに指を置いたままのカメラがあります。
お互いに撮りっこしていたんですね。きっと。

さて、今日はこの搭乗員のカメラのお話。

水交会である元大尉にお会いして、最初ロビーでお話したとき、大尉が「写真を取るのが好きで」というようなことをおっしゃっていました。
この年代の男性って、一度はカメラに夢中になっているような気がするんですよね。

そういえば、亡くなった父の遺品にライカがありました。
とてもじゃないけど家族には扱えなさそうな代物だったので、迷った末、母が売ってしまいました。
父は勿論元大尉より下の世代ですが、青年がこぞってカメラに夢中になった時期というのは結構長かったようですね。
ブームのサイクルが今と違い長かったのかもしれません。

戦闘機パイロットの話を読んだりきいたりしていると、時々このカメラについての話がでてきます。

豊田穣氏は、霞空勤務のころ写真を始めました。

「海軍67期史の笹井中尉」の日に書きましたが、この飛行学生時代には、士官生活を通じて最も精神的にも金銭的にもゆとりがあるので、高価なカメラをこの時期に購入する士官は多かったもののようです。
豊田氏のお師匠は同期で偵察に行った松岡達少尉でした。
当時5百円以上した(少尉の給料2カ月半分)ローライフレックスを持っていた松岡少尉は、レオタックスという中級のカメラを持っていた豊田少尉に暗室でよく一緒になり、「ピントが甘い。焼きがオーバーだ」などと指導してくれたそうです。

松岡少尉の玄人はだしの技術伝授のおかげで、豊田氏は戦後新聞記者としてカメラをいじる仕事に就き「どうやら紙面に使える写真が撮れた」とのことです。

芳名録にも「写真は余技の域を脱していた」と書かれた松岡少尉、偵察を志願したのはこの趣味と無関係ではなかったでしょう。
戦死しなければ戦後はその道に進まれていたのでしょうか。


当時の青年にとってカメラは「知的な玩具」ですから、学生出身の予備士官のカメラ熱はさらに盛んなものだったようです。

予備士官のH大尉の話です。
隊の生活に慣れてきたある日、分隊長の
「お前たちは学生であることを忘れるな。読みたい本があれば読め。持ち込みを許す」
という夢のようなお達しとともに
「パイロットには写真の技術も必要である」
という理由でカメラの持ち込みを許可され、使い始めたのだそうです。

大喜びで皆が隊内に持ち込んだカメラは
「ライカ、コンタックス、ローライフレックス、エキザクタ、レチナ、そしてH大尉のセミ・ミノルタ」など、非常に種類豊富で大尉を驚かせました。
「海軍にはいってよかったという実感を、みんなが持ったのではなかったろうか」
と大尉は書いています。


ここで少し寄り道をして「海軍の写真の撮られ方」の話をします。

「海軍というところは何かにつけて写真を撮るところで」
と誰かが書いていましたが、確かに当時にしては隊の写真がたくさん残されているように思います。
写真を撮るときの並び方も厳格に決まっていて、最前列で折椅子に座るのが士官、その中でも一番真ん中が階級が上で、端に行くほど下でした。
(この「折椅子」も、指揮所では士官以外は絶対座れなかったとのことです)
一番前に地べたに座らされる下士官、兵がいるときには最前列はこの人たちになります。

「大空のサムライ」で有名になった台南空の五人の写真ですが、こんな少人数でもこの法則は守られており、前列にしゃがんでいるのが二人の兵曹(太田二飛曹、西澤一飛曹)後列真ん中がこの中の最上官だった笹井中尉、その両側が坂井先任と高塚寅一飛曹長です。
海軍の写真の撮り方の縮図という感じですね。

先日、旧海軍出身者の会合に参加する機会がありました。
ここでは旧海軍での階級はまだ生きています。
全員での写真も撮ったのですが、前列中央に近いところから士官、予備士官、下士官と階級順の並びとなっており、懇親会の会場でも厳密にそれは席次に反映されていました。
勿論、たとえば海兵卒士官の中でも学年が上であれば席次は上となります。



さて、話を戻します。

士官は高給取りですし(特に少尉クラスは独身貴族多し)、予備士官ももともと大学に行けるほどには裕福な家の子弟ですから、カメラをもつことが流行ったとしても自然なことでした。

当時カメラは高級品ですから、勿論誰でも持っていたわけではありませんが、ラバウルの坂井三郎中尉は、下士官でありながら、「当時一台で家一軒買えるほどの高級品だった」ライカを所持していました。

この「家一軒」については検証していません。
そんな高価だったのか、少し疑わしいのですが、この「家一軒」の出所は小林たけし氏の戦記マンガだったりするので、ご了承ください。
ちなみに、私は小林氏のファンです。

さて、坂井さんの「大空のサムライ」の中で、全く坂井機に後ろを取られていることに気がつかない「呑気な敵機」を「いつもならライカで撮るのだが、このときは下に回ってスケッチした」という記述があります。

これを読んだとき、零戦にカメラを持ち込んで空戦のとき邪魔になったり、振動や衝撃でカメラが壊れたりしないのかなあと思ったのですが、実際はどうだったのでしょうね。

坂井中尉は昭和17年8月6日、ガタルカナル上空で怪我をし、帰国します。

坂井さんはガタル決戦の三日前、三か月滞在したラエからラバウルに移動しました。
その際、撮りためたフィルムとライカをラエに置いてきてしまったそうです。
すぐに戻ってくると思っていたからだそうですが、そのためフィルムは高価なカメラとともに戦火に消えてしまいました。


現像されることなくこの世から消えてしまったそのフィルムには、どんなラバウルの空が、そして誰が、どんな表情で写っていたのでしょうか。





「海軍予備学生零戦空戦記」土方敏夫著 光人社
「ポートモレスビー邀撃戦」小林たけし 学研
画像参考:「零戦最後の証言」神立尚紀著 光人社 より

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1 Comments

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坂井三郎海軍中尉とライカ (Akiyan)
2010-09-23 11:35:27
はじめまして。工業用ニッコールレンズ研究家の秋山と申します。
私の所属するニコン研究会では、2010年4月の例会で、
坂井三郎海軍中尉が実際に撮影したフィルムの実物を検証しました。

もしよろしければ、記事をご覧ください。

http://akiroom.com/redbook/kenkyukai10/kenkyukai201004.html

RED BOOK NIKKOR AID INTERNATIONAL代表
ニコン研究会会員
秋山満夫

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