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「小さな戦友」戦闘機掩護〜国立アメリカ空軍博物館

2024-05-20 | 航空機

アメリカ空軍博物館の爆撃機関連展示、
今日は爆撃機を掩護した戦闘機についてです。

ところで今更ですが、戦闘機が爆撃機を守る行動のことを
「掩護」といい、「援護」とはあえて違う漢字を使うのは、掩護には
「敵の攻撃から味方を守る」という援護より狭い意味があるからです。

■ファイター・エスコート


戦略爆撃作戦の前半部分で書きましたが、この頃のアメリカ空軍は
ドイツ国内の標的を攻撃する重爆撃機に護衛戦闘機を持ちませんでした。

理由は単純で、小さな戦闘機では航続距離が短かったからです。
途中まではついてきても、肝心の敵地近く、
敵戦闘機がやってくる辺りまで来られる戦闘機がなかったのです。

その結果、重爆撃機の乗組員は壊滅的な損害を受け、
作戦そのものの継続が危ぶまれるまでになりました。

そこでアメリカが工業力と技術力を傾け開発した結果、
1944年初頭までに、P-47とP-38が改良され、
ドロッパブル(使い捨て)燃料タンク、そしてP-51が導入されます。

このことで戦闘機の航続距離の問題は解決され、
同時にアメリカ軍の重爆撃機の損失は減少。

このことはルフトバッフェの戦闘機の損失数を拡大させ、
1944年6月のDデイ侵攻に対抗することができなくなっていきます。


爆撃機編隊の上空に戦闘機が描く芸術的な白い線。
これは防御のための「傘」といわれます。


B-24爆撃機に随伴するP-47サンダーボルト
パイロットはカメラ目線ですね。

頑丈なサンダーボルトは1943年半ばにヨーロッパで就役しました。
 当初、P-47はドイツ国境を越える爆撃機を護衛するには
航続距離が足りませんでしたが、その後の改良で航続距離が伸びています。


第20戦闘航空群P-38パイロット、アーサー・ハイデン中尉と地上クルー。
「ラッキー・レディ」という彼の戦闘機のボディにはトップハット
(シルクハット)のマークがたくさん描かれていますが、
ハット一つがすなわち爆撃機の護衛任務一回を表します。

そして彼の敵機撃墜数は2(3かも)。


B-17の主翼近くを飛ぶイギリス空軍(RAF)のスピットファイア
このパイロットも写真を撮られているのがわかってこちらをみています。

1943年半ばごろのショートレンジのスピットファイアは、
このようにアメリカ空軍の重爆撃機の護衛を行いました。
アメリカ軍パイロットが操縦することもあったようです。



そして満を持して1943年末にヨーロッパで導入された
高速長距離戦闘機P-51マスタング
アメリカ空軍の究極の護衛戦闘機となりました。



有名な第4戦闘機群の司令官、ドン・ブレークスリー大佐
ベルリンへの護衛任務で使用した地図(コピー)。
ベルリンの場所は赤い星印で示しておきました。

 黒い線は爆撃機の進路を、赤い線は護衛戦闘機の進路を表しています。

全く違うところから出発してドイツ上空に入るところでランデブーし、
爆撃任務を終えたらドイツ国境を出るまで同行し、
そこから先は別れてそれぞれの基地に帰投します。

第4戦闘航空団はこのミッションで26機の敵機を撃墜したと主張しました。


ブレイクスリー大佐



第4戦闘機群パイロットのサインがされた、
スピットファイアの独特の形をしたプロペラブレードと時計。

1943年3月1日、スティーブ・ピサノス中尉が離陸しようとして、
ランディングギアを格納するのが早すぎて機体が地面を擦り、
プロペラのブレードが折れてしまいました。

翼の上にある時計は、9時8分を差して止まっています。
おそらく決められた離陸予定時間は0900だったのでしょう。

プロペラにはその時参加していた戦闘機パイロット
(多くは有名なRAFイーグル飛行隊に所属していた志願兵)
全員のサインがありますが、何が目的でしょうか。

骨折した友人のギプスに皆がサインするみたいなノリ?

戦闘機パイロットの階級はほとんどが中尉で、
キャプテン(大尉)が4名、少佐(ドン・ブレイクスリー)が1名です。

第4戦闘航空群は「イーグル飛行隊」と呼ばれ、
当初はP-47 サンダーボルトを運用していましたが、
パイロットたちは鈍重なP-47に不満を持っていました。

リパブリックP-47D

1943年4月に西ヨーロッパ上空で初の戦闘任務に就いたサンダーボルトは、
高高度の護衛戦闘機としても、低空戦闘爆撃機としても使用され、
その頑丈な構造と空冷ラジアルエンジンにより、
激しい戦闘ダメージを吸収してなお飛び続けることができました。
(ただし航続距離はない)




ダンボマーク

1943年後半までに、航空群司令官のドン・ブレイクスリー大佐は、
より軽快で機動性の高いP-51 マスタングに機材を更新します。


NMUSAのノースアメリカンP-51Dマスタング

P-51Dは1944年春にヨーロッパに大量に到着し、
アメリカ空軍の主要な長距離護衛戦闘機となります。

多用途のマスタングは戦闘爆撃機や偵察機としても活躍しました。
終戦までにマスタングは4,950機の敵機を撃墜していますが、
これはヨーロッパにおけるアメリカ空軍の戦闘機の最多記録です。



ちなみに、P-51の配備に際し、第8空軍司令部は
第4戦闘機隊のパイロットが機材を受け取ってから
24時間以内に運用が可能であることを条件にしたのですが、
ブレイクスリーはこの条件を飲み、パイロットたちに

「目標に向かいながら操縦の仕方を覚えるように」

と指示したという逸話が残っています。

んな無茶な。
余程部下の基礎能力を信頼していたってことなんだろうか。



ガンカメラのフィルム・マガジン。
ドイツ上空での護衛任務に就いたP-38ライトニングに装備されていたもので、
Bf 110の後方砲手が放った7.92mm弾に命中した痕があります。


P-38パイロットのロイヤル・フレイ中尉が任務の際に携行した、
イギリスの金属職人によって作られたナイフ。

1944年2月10日、フレイ中尉はドイツのミュンスター近郊で撃墜され、
ベイルアウトして捕虜になり、戦後アメリカに戻りました。


親も何を思って息子にRoyal という名前をつけるのか

 フレイ中尉は後にアメリカ空軍博物館のシニアキュレーターとなりました。



そのことから、当博物館に展示されているP-38Lは
フレイ中尉のマーキングで塗装されることになりました。

ライトニングが初めて大規模な任務に就いたのは1942年11月。
ドイツ軍パイロットは、早速この戦闘機に


Der Gabelschwanz Teufel
デア・ガーベルシュヴァンツ・トイフェル

「分かれ尾の悪魔」

というあだ名を付けます。


展示されているP-38Lの左側にあるトップハットのマークは、
パイロットのロイヤル・D・フレイ中尉が飛行した
爆撃機護衛任務を表しており、黄色い帽子=5回、
白い帽子=1回なので、出撃回数合計9回ということになります。


ライトニングが戦闘活動を開始した当時、これが
ドイツへの爆撃機を護衛できる航続距離を持つ唯一の戦闘機でした。

そして1943年4月18日。

太平洋戦線でこの別れ尾の悪魔の性能が遺憾無く発揮されることになります。

真珠湾攻撃の立案者であった山本五十六提督を乗せた航空機を、
P-38の編隊が待ち伏せし、これを撃墜するのに成功したのでした。



続く。