ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

衛星偵察:宇宙に浮かぶ秘密の目〜スミソニアン航空宇宙博物館

2022-03-13 | 博物館・資料館・テーマパーク

「私たちは宇宙開発に350億ドルから400億ドルも費やしてきました。

しかし、もし衛星写真から得られる知識以外に、何も得られなかったとしたら、
それは私たちにとって、このプログラム全体にかかった費用は
10倍は高くついてしまったということになるのです。

なぜなら、今夜、我々は敵のミサイルの数を知りました。
我々の推測は大きく外れていたのです。

私たちは必要のないことをやっていたのです。
作る必要のないものを作っていたのです。
私たちは、持つ必要のない恐怖を抱いていたのです。」

リンドン・B・ジョンソン大統領、1967年



スミソニアン博物館の展示から、「スカイ・スパイズ」
空からの偵察の歴史についてご紹介してきたわけですが、
衛星からの偵察のコーナーの端が宇宙開発のゾーンと物理的に重なっており、
なるほど、色々と考えているなあと感心した次第です。

宇宙開発競争、それはロケットを飛ばすことによって可能となる
高所からの敵攻撃能力の誇示であり、かつ抑止力となるもののはずでしたが、
それは同時に、高所からの偵察の「眼」を持ちうるということも意味します。

スパイ衛星からの写真は、宇宙開発競争と冷戦の重要な遺産と言えます。
なぜなら偵察は宇宙飛行の最初の優先事項とされていたのでした。

■偵察と宇宙

1950年代半ば、ドワイト・アイゼンハワー大統領は、
ソビエト連邦による奇襲核攻撃の可能性を懸念していました。

このような不安を解消するために、アメリカには2つの選択肢がありました。

一つ、ソビエトに無断でスパイ活動を行うか
一つ、互いの軍事活動を監視する協定を交渉するか


そして、アイゼンハワー大統領は、その両方を試みたのです。

彼は1955年の国際リーダー会議で、ソ連とアメリカの偵察飛行を
互いに許可し合うという「オープンスカイ」提案を行いました。
どうせどっちもやってるんだから、もうお互いオープンにしない?というわけです。

しかし当然ながら、ソ連はこれを断固拒否してきました。

というわけで、航空機や気球による偵察には限界があり、
さらには外交交渉もうまくいかなかった、という理由を得たアメリカは、
スパイ衛星という新しい技術に活路を見出し、舵を切ることになります。

偵察機U-2

これについても既にお話し済みですが、1950年代には、航空機による
ソ連領土の探査や、カメラを搭載した偵察気球も、短期間ながら活躍しました。

中でもU-2は、特に高所からの偵察任務のために設計された究極の偵察機でしたが、
1960年5月、「U-2撃墜事件」によってアメリカの偵察行動が明らかになります。

U -2のパイロット、ロバート・パワーズは捕まり、スパイ容疑で裁判にかけられ、
ソ連の裁判で有罪判決を受け、シベリア送りになりましたが、
外交交渉で捕虜交換システムによって救出され、帰国することができました。

■ 「フリーダム・オブ・スペース」
「宇宙の自由」とは

偵察衛星の開発と投入は、国際法上の微妙な問題を提起することになります。
ここで人類は、こんな疑問について自問自答せざるを得なくなりました。

「宇宙は外洋のように万人に自由なのか。
それとも空域のように一国の主権的領土の一部なのか」

アイゼンハワー大統領らアメリカ首脳陣の考えは、前者でした。
宇宙は万民に自由であり、この考えが国際国際的に広がることを望んでいたのです。

歴史的に移民を受け入れて成り立ってきたアメリカらしい考えと言えますし、
穿った見方をするなら、アメリカの技術力を持ってすれば、
たとえ宇宙がフリースペースでも、そこで常に優位に立てる、
という絶大な自信と誇りが言わせたことだったかもしれません。

「宇宙の自由」を提唱したいアイゼンハワーは、1957年の

国際地球物理年(International Geophysical Year)
(日本語では国際地球観測年とされた)

を利用して、世界的規模による地球に関する科学的研究を行い、
この先例を作ろうと考えました。

アイゼンハワーは、スパイ衛星よりも議論の矛先に上がりにくそうな科学衛星を、
アメリカにとって最初の宇宙進出の対象にすることを決定し、
これを国際地球観測年計画の一部に組み込んだのです。
(あくまでもこれらは”表向き”の動きで、アメリカが偵察衛星打ち上げに向けて
裏で色々やっていたことは歴史の示す通り)

とかなんとかやっていたら、1957年末にソ連がスプートニクを打ち上げました。

アメリカはスプートニクにショックを受けながらも、1958年1月には
科学衛星「エクスプローラー1」が打ち上げ、
「宇宙の自由」への第一歩を踏み出すことになります。

【日本と国際地球観測年】

余談です。
この年、日本はまだ戦後6年でまだ独立していませんでしたが、
国際的地位の復活のために赤道観測を行うと協力を申し出ました。

しかし体よくアメリカに断られてしまったため、日本はその代わり
南極観測を行うことにして昭和基地を建設し、観測に協力しました。

その後国の威信をかけた南極観測隊を送り、昭和基地で始まった観測は、
「観測年の間だけ」という当初の予定を大幅に超えて、現在も継続されています。


■ ディスカバー/ コロナ
アメリカ初の偵察衛星

1960年から1972年にかけて、アメリカはコードネーム「コロナ」
日常的に宇宙からソ連を撮影する偵察プロジェクトを実施していました。

きっかけは、ここで何度もお伝えしている1960年の偵察機U-2撃墜事件です。

実はこのコロナ計画、ソ連に遅れを取っていると表向きでは言いながら、
実はかなりの実質的な成果を上げていたのでした。

実際、月への人類派遣に匹敵する困難なプロジェクトだったはずなのですが、
宇宙計画と違い、いかに成功しても、事柄の性質上その実態は
決して一般に知らされることはありませんでした。

U-2偵察の時もそうでしたが、偵察活動を大々的に宣伝するわけにいきません。
特に宇宙からのスパイ活動はシークレット中のトップシークレットした。

お互い様という気がしますが、アメリカもソ連も、冷戦中
最も警戒するべきは相手の核攻撃の進捗状態です。

アメリカにしてみれば「秘密主義」のソ連の核の実態を知るには、
鉄のカーテンの向こうで何が行われているかを知らないわけにいきません。

「コロナ」はその重要な答えとなったのです。

さて、ソ連がスプートニク1号を打ち上げた数ヵ月後の1958年初め、
中央情報局(CIA)と米空軍による偵察衛星プロジェクトが承認されました。

それは、簡単にいうと、カメラを搭載した宇宙船を軌道上に打ち上げ、
ソ連を撮影し、そのフィルムを地球に帰還させるというものでした。
この秘密スパイ衛星にCIAによって名付けられた名前が「コロナ」です。

しかし、その真の目的を隠すために、「ディスカバラー」と表向きに名付けられ、
科学的な研究プログラムであるという公式発表がなされました。

この辺は英語の語感がわからない外国人としてはなんとも言えないのですが、
「コロナ」より偵察がばれなさそうな、科学的なイメージがあるんでしょうか。


このコロナシステムで、1960年から1972年の間の100回以上のミッションで
80万枚を超える写真が撮影されたと言われています。

そしてその間も休みなく向上するカメラや画像処理技術を取り入れつつ、
コロナをはじめとする高解像度の偵察衛星は、アメリカの情報分析担当者に
ますます詳細な情報を提供するようになっていきました。


■ディスカバラー(実はコロナ)13号:最初の成功

とはいえ、アメリカの宇宙打ち上げ計画は当初失敗続きだったのはご存知の通り。

一回も成功しないまま、粛々と打ち上げ数だけが増えていた
ディスカバラー/コロナ・ミッションですが、これが初めて成功したのは、
1960年8月、実に13回目の打ち上げ実験でのことでした。

この時初めてアメリカは衛星から帰還カプセルを軌道上から回収したのです。

ディスカバラー14号がカメラを軌道に乗せ、宇宙から撮影した
米国初のソ連領の写真が入ったカプセルを帰還させたのはそれから1週間後でした。


アイクとディスカバラー13号カプセル(カレー鍋じゃないよ)


ほおこれがアメリカ国旗か〜(横の軍人たちの目よ)


宇宙から撮影された米ソ初のスパイ写真



ディスカバリーという名前のコロナ計画の偵察衛星が初めて撮った、
宇宙船から撮影されたソ連軍用地の最初の写真は、
チュクチ海近くのミス・シュミッタにあるシベリアの航空基地でした。

高度160km以上から撮影されたもので、約12mの物体が写っています。
ディスカバラー14のフィルムは、それ以前に行われたU-2航空機による偵察で
得られたすべて合わせたよりも多くのソビエト領土をカバーすることができました。

「宇宙の自由」を謳うことによって、アメリカは何の気兼ねもなく?
U-2が見舞われたような国際非難とパイロットの危険もなく、
それ以上の情報を手に入れることができるようになったのです。


■コロナのミッション



冷戦時代、アメリカはソ連の核兵器の脅威について
常にを正確に把握することを至上目的としていました。

もし長距離弾道ミサイルが発射されれば破壊的な到着までわずか数分しかないため、
安全保障的に、兵器設置場所に関する正確でタイムリーな情報を
できるだけ早く入手することが必要と認識したのです。

このため、「コロナ・カメラ計画」が発動されました。


ロケットで軌道上に打ち上げ、目標地域の上空に送った衛星に
ソ連の施設の画像を撮影し、送信するようにカメラを仕込むのです。

プロジェクトの目標は、軌道上から地球の広い範囲を詳細に撮影することでした。
そのためには、プロジェクトチームがクリアする必要があったのは
3つの大きな技術的課題でした。

1、時速27,000kmで移動しながら、地表から高度160km以上から
高画質な写真を撮影できるカメラを設計すること

2、カメラを安定させなければいけない 特定の場所を鮮明に撮影すること

3、撮影したフィルムは地球に持ち帰ること

割と当たり前のことばかりですが、それが簡単にできれば誰も苦労しません。
それを達成するために、コロナの技術開発・運用には、
実に数十社の企業と数千人の人々が秘密裏に取り組んでいました。


■コロナのカメラ

カメラは回転することで高解像度のパノラマフィルム画像を生成しますが、
当時はまだ取得した情報を利用するためには、
露光したフィルムのリールを回収して処理する必要がありました。

そのため、パラシュート型のノーズコーンにフィルムを収納し、
大気圏に突入してから空中にあるうちに確保していました。

このように、技術的にも戦略的にも大変複雑なものでしたが、
これらは功を奏し、1959年から1973年までの間に、
何百回ものフライトによってソ連の活動を知ることができました。

戦争につながるかどうかという不確実性から緊張を緩和することができたのです。


コロナカメラシステムの本体の向こうには、
アイゼンハワーが宇宙から戻ったディスカバラーを開けるお馴染みの写真が・・・。

このお釜は、「ディスカバラー計画」の回収されたリターンカプセルで、
つまりコロナ計画の原初的な作戦として、ソー・アジェナロケットで打ち上げられた
わずか750kgの人工衛星でした。

この頃の「失敗」は、つまり大気圏突入後の回収がほとんどで、
機密保持のためにカプセルはしばらくしたら水没する仕組みになっていました。

ソ連もどういうわけかこの情報を知っていて、
カプセル落下地点で潜水艦が待ち構えているのがわかると
直前で中止されるなど、お互いそれこそ水面下での熾烈な戦いがありました。

カメラの説明は以下の通り。

「KH-4B カメラは1967年から1972年までコロナ衛星に搭載されて
世界各地の偵察写真を撮影し続けた」

カメラ製造元 Itek
フイルム持ち帰りカプセル製造元 ゼネラル・エレクトリック
打ち上げ機 ソー・アジェナ(Thor-Agena)
打ち上げ機製造元 ダグラス(ソー)ロッキード(アジェナ)


まずはコロナを打ち上げたKH-4Bコロナ衛星です。
KHはKey Holeのことで、鍵穴=「覗き見る」からだとか・・・。

中が覗けるキーホールなんておそらく当時はもう存在しないんですが、
まあ隠喩的というかこの言葉が「覗き見」のイメージなんでしょう。

そしてこの衛星の先っぽの部分が、目的たるカメラです。



(先端から左回りに)
#1 フィルム返還カプセル
#2 フィルム返還カプセル
コンスタントに回転しているステレオ・パノラマカメラ
フィルム補充カセット
フィルム通路


この、「コンスタントに回転するパノラマカメラ」というやつが
どう回転するのかわからんのですが、まさか360度回転?


スミソニアンHPのもう少し詳しい図



この部分なんですけど、どうも複雑な回りかたをするようです。


スミソニアン協会の国立航空宇宙博物館にあるこれは、
現存する唯一のコロナカメラです。
(コロナカメラと打とうとすると、途中でコロナ禍と出てしまう今日この頃)

スミソニアンはこのカメラの評価と保存を請け負うことになり、
パーツをまず分解した後、フィルムキャニスター、ノーズコーン、
フィルム搬送装置、熱シールドが、処理前にスタジオで調査されました。

その後、掃除機と中性洗剤で汚れを除去し、
その際腐食した材料は除去され、保存処理がなされました。
劣化した金属も、金属光沢剤と腐食防止剤で慎重に処理され、
バッテリーの端子は洗浄し、劣化が進行しないように分離。

金メッキされたノーズコーンは、クリーニングと研磨が行われ、
熱シールドは洗浄、安定化、充填、インペイントが行われました。

ちなみに、このカメラで撮影した写真には、地表の2mの物体も写ります。
今ではそんなの当たり前どころかもっと小さなものも写りますが、
最初のこの技術があったからこそ、現代の技術へと繋がっているということを
我々は忘れてはいけないかもしれません。(適当)

処理された部品は、博物館に戻され、
クライアントによって処理されたフレームに再び設置され、
スミソニアンに展示されて今日に至ります。

続く。