前回のハッブル望遠鏡で全部終わったと思ったスカイスパイシリーズ、
なんと、紹介し忘れていたログがありました。
最後を華々しく宇宙望遠鏡で終わるつもりが、このミスによって、
シリーズ最後に紹介するのは「机」になってしまいました。
スミソニアン博物館の「スカイスパイ」航空偵察のコーナーに、
どう見てもコクヨ製ですよね?的なスチールのデスクがあります。
このグリーンに塗装された金属製の昇降式テーブルの正体は、
940MC ライトテーブル
ボシュロム社製ズーム270光学系(S N.1651AA)
なんと、紹介し忘れていたログがありました。
最後を華々しく宇宙望遠鏡で終わるつもりが、このミスによって、
シリーズ最後に紹介するのは「机」になってしまいました。
スミソニアン博物館の「スカイスパイ」航空偵察のコーナーに、
どう見てもコクヨ製ですよね?的なスチールのデスクがあります。
このグリーンに塗装された金属製の昇降式テーブルの正体は、
940MC ライトテーブル
ボシュロム社製ズーム270光学系(S N.1651AA)
何の変哲もない写真解析デスクですが、歴史的に見ると
「ミサイル危機の遺物」と呼ぶべきものです。
ボシュロム社というと、コンタクトレンズが有名ですよね。
1653年に創業したジョン・ボシュとH・ロムの名前をとって
ボシュロム、らしいですが、アメリカの会社には珍しいネーミングです。
「ミサイル危機の遺物」と呼ぶべきものです。
ボシュロム社というと、コンタクトレンズが有名ですよね。
1653年に創業したジョン・ボシュとH・ロムの名前をとって
ボシュロム、らしいですが、アメリカの会社には珍しいネーミングです。
今でこそコンタクトレンズ会社と目されていますが、これは当社が
コンタクトレンズを発明し、特許を持っているからで、
他にもレイバンのサングラスや、シネマスコープなどを手がけています。
元々はレンズの会社で、第一世界大戦まではドイツからの輸入に頼っていた
レンジファインダーや魚雷管照準器などの光学兵器を、
ドイツに頼らず(ドイツが敵になってしまいましたのでね)
作る必要ができたことから、この方面で発展してきました。
ちなみに有名なレイバンのサングラスですが、元々は陸軍のパイロット用に
1936年に開発したデザインで、マッカーサーもご愛用でしたね。
■キューバ危機の「遺物」をめぐる不思議な物語
コンタクトレンズを発明し、特許を持っているからで、
他にもレイバンのサングラスや、シネマスコープなどを手がけています。
元々はレンズの会社で、第一世界大戦まではドイツからの輸入に頼っていた
レンジファインダーや魚雷管照準器などの光学兵器を、
ドイツに頼らず(ドイツが敵になってしまいましたのでね)
作る必要ができたことから、この方面で発展してきました。
ちなみに有名なレイバンのサングラスですが、元々は陸軍のパイロット用に
1936年に開発したデザインで、マッカーサーもご愛用でしたね。
■キューバ危機の「遺物」をめぐる不思議な物語
ところで、この写真は、1962年10月14日、偵察機U-2が撮影したもので、
場所はサンクリストバルのロス・パラシオス付近。
ちょうど画面の真ん中で「CONVOY」と示された点々は、
ソ連のMRBMの配備に近づくトラックの車列を撮影したものです。
撮影翌日に分析されたこの写真は、
キューバにソ連の中距離弾道ミサイル(MRBM)
があることを示す最初の証拠となりました。
このシリーズを始めてから、当ブログでは何度も
「写真解析者」Photo Inspectorという係?について言及していますが、
この頃の、CIAのフォト・インスペクターの職場にあったのが、
このテーブルで、彼らはここで偵察写真の解析を行ったのです。
さて、1962年10月15日月曜日の朝、そのCIAの写真解析者(PI)は、
国立写真通訳センター(NPIC)のライトテーブルを心配そうに見回していました。
それは、切迫した、不吉な雰囲気に見舞われた様子でした。
その中には、3フィートの解像度を持つ高画質な写真もありました。
この写真は、以前に当ブログでご紹介済み、リチャード・S・ヘイザー少佐が
U-2機でキューバ上空を秘密裏に飛行して撮影したものです。
この写真の鬼畜ルメイの左側の・・・・
この人ね
写真は24時間前に撮られたばかりの、極秘も極秘、国家機密に類するもの。
この特別かつ極秘のミッションは、キューバ上空での一連の、
高高度・低高度偵察飛行の幕開けとなる快挙でした。
ヘイザー少佐は、CIAが改良したU-2を操縦して危険なミッションに参加した
2人の空軍パイロットのうちの1人でした。
彼らは、ハバナの西にある大きな「corridor(回廊)」を撮影するために、
カリフォルニア州のエドワーズ空軍基地から離陸しました。
余談ですが、先般のロシアのウクライナ侵攻で、
「人道回廊」という言葉が盛んにニュースに上がりましたね。
この回廊とこの時の回廊は同じ「コリドー」で、
ヒューマニタリアン・コリドー、(Humanitarian corridor)は、
人道上の援助、保護の対象となる通行路、という意味で使われており、この場合は、
中距離弾道ミサイルの配備のためにソ連がキューバに開いた通行路、
という意味になろうかと思います。
さて、ヘイザー少佐らが乗ったU-2に搭載されたカメラの有効範囲は75マイル。
このスパイ任務で、彼は戦闘機の迎撃や対空防御に遭遇せずにすみました。
「誰も自分の名前が第三次世界大戦の始まりのきっかけとして
歴史に残ることを望まないだろうから」
そのこと(自分がソ連に発見されず攻撃されなかったこと)が心から嬉しい、
とヘイザー少佐がのちに語った、ということも一度ここで書きました。
ロッキードU-2偵察機に搭載されていたハイコン(Hycon)B型パノラマカメラ
帰還したU-2を、フロリダ州オーランド近郊のマッコイ空軍基地に着陸させると、
露光したフィルムはワシントンのCIAに直ぐ届けるために宅配便にで送られました。
この「宅急便で送られた」というのがどうにも悠長に見えて仕方ないのですが、
もちろんこれは民間の宅配業社など使ったわけではないでしょう。
フロリダからワシントンまで、陸軍の連絡便が飛んだのではないでしょうか。
さて、それからが大変です。
その日は日曜ですが、もちろん誰も休みなんか取っている場合ではありません。
おそらくですが、その日家に帰った者はなく、なんなら徹夜もしたでしょう。
そして技術者たちは、その日の午後から夜にかけて、
透明なアセテートのポジにネガを転写する作業に集中することになりました。
月曜の朝(ほらやっぱり徹夜)、この貴重な画像はNPICの分析室に届けられ、
それから次は主任研究員たちは熱心に、そして考えうる限り丹念に、
この驚くべき写真のキャッシュを精査し、その作業はその日の夜まで続きました。
そして、その結果、
「ニキータ・フルシチョフが
キューバにミサイル発射場網を設置した」
この大胆な行動をとっていたことを示す、明確な証拠が可視化されたのです。
NPICで仕上がってきた写真を見た者は、皆、米ソの対決が目前に迫り、
冷戦のライバルである2国が核戦争の瀬戸際に立たされることを悟りました。
おそらく彼らは全員が慄然とし、次の瞬間青ざめていたことでしょう。
「サンクリストバル2号」と名付けられた発射場は、写真によると、
6台のミサイルトレーラーや積み上げられた機材、作業員用のテントなど、
建設中の痕跡をはっきりと残していたのでした。
第二次世界大戦中は海軍に所属し、日本とアリューシャン列島の航空写真を研究し、
写真解析の新しい技術を発展させたとされる、NPICの当時の所長、
アーサー・ルンダール(Arthur C. Lundahl)は、
この画像をまさにこのライトテーブルで見たという人物です。
ルンダール所長(ちなみにシカゴ大学卒)
ソ連が中距離ミサイルSS-4の準備中であることは、彼の目にも明らかでした。
「もし、私の人生で何か正しいことをしたいと思った時があったとすれば、
それはまさにこれだった」
と、ルンダールは後に述べています。
そして、彼は、この重大な情報をCIA本部に連絡したのでした。
午後8時、国家安全保障顧問のマクジョージ・バンディにも連絡が入りました。
とヘイザー少佐がのちに語った、ということも一度ここで書きました。
ロッキードU-2偵察機に搭載されていたハイコン(Hycon)B型パノラマカメラ
帰還したU-2を、フロリダ州オーランド近郊のマッコイ空軍基地に着陸させると、
露光したフィルムはワシントンのCIAに直ぐ届けるために宅配便にで送られました。
この「宅急便で送られた」というのがどうにも悠長に見えて仕方ないのですが、
もちろんこれは民間の宅配業社など使ったわけではないでしょう。
フロリダからワシントンまで、陸軍の連絡便が飛んだのではないでしょうか。
さて、それからが大変です。
その日は日曜ですが、もちろん誰も休みなんか取っている場合ではありません。
おそらくですが、その日家に帰った者はなく、なんなら徹夜もしたでしょう。
そして技術者たちは、その日の午後から夜にかけて、
透明なアセテートのポジにネガを転写する作業に集中することになりました。
月曜の朝(ほらやっぱり徹夜)、この貴重な画像はNPICの分析室に届けられ、
それから次は主任研究員たちは熱心に、そして考えうる限り丹念に、
この驚くべき写真のキャッシュを精査し、その作業はその日の夜まで続きました。
そして、その結果、
「ニキータ・フルシチョフが
キューバにミサイル発射場網を設置した」
この大胆な行動をとっていたことを示す、明確な証拠が可視化されたのです。
NPICで仕上がってきた写真を見た者は、皆、米ソの対決が目前に迫り、
冷戦のライバルである2国が核戦争の瀬戸際に立たされることを悟りました。
おそらく彼らは全員が慄然とし、次の瞬間青ざめていたことでしょう。
「サンクリストバル2号」と名付けられた発射場は、写真によると、
6台のミサイルトレーラーや積み上げられた機材、作業員用のテントなど、
建設中の痕跡をはっきりと残していたのでした。
第二次世界大戦中は海軍に所属し、日本とアリューシャン列島の航空写真を研究し、
写真解析の新しい技術を発展させたとされる、NPICの当時の所長、
アーサー・ルンダール(Arthur C. Lundahl)は、
この画像をまさにこのライトテーブルで見たという人物です。
ルンダール所長(ちなみにシカゴ大学卒)
ソ連が中距離ミサイルSS-4の準備中であることは、彼の目にも明らかでした。
「もし、私の人生で何か正しいことをしたいと思った時があったとすれば、
それはまさにこれだった」
と、ルンダールは後に述べています。
そして、彼は、この重大な情報をCIA本部に連絡したのでした。
午後8時、国家安全保障顧問のマクジョージ・バンディにも連絡が入りました。
「マック」バンディ(ボストン・ブラーミンの家系生まれ、イェール大卒。
ボストンブラーミンはイギリス入植者の子孫でボストンの上流階級)
この厳しい、そして驚くべき報告を受けたバンディは、
大統領に行うブリーフィングを翌朝まで遅らせることにしました。
なぜこんな重要なことを、という気もしますが、この時点でことを始めると
大統領初めワシントンが徹夜になってしまうと思ったのかもしれません。
今晩徹夜しても明日の朝に始めても、おそらく結論に影響なしと見たのでしょう。
知らんけど。
ボストンブラーミンはイギリス入植者の子孫でボストンの上流階級)
この厳しい、そして驚くべき報告を受けたバンディは、
大統領に行うブリーフィングを翌朝まで遅らせることにしました。
なぜこんな重要なことを、という気もしますが、この時点でことを始めると
大統領初めワシントンが徹夜になってしまうと思ったのかもしれません。
今晩徹夜しても明日の朝に始めても、おそらく結論に影響なしと見たのでしょう。
知らんけど。
さて、ケネディ大統領は案の定パジャマ姿のまま、
火曜日の朝のブリーフィングでこの写真を見ていました。
そして、おそらくはこう言われたのでしょう。
火曜日の朝のブリーフィングでこの写真を見ていました。
そして、おそらくはこう言われたのでしょう。
"大統領、ロシアがキューバに攻撃用ミサイルを保有していることを示す
確固たる証拠が、写真で示されました。"
キューバにあるソ連のミサイル基地の存在。
それはアメリカにとって実に不吉な兆候を表すものでした。
ミサイル発射場のいくつかは、2週間以内に核兵器で武装されるだろうという。
海岸からわずか90マイルのところにある発射場からミサイルが発射されれば、
10分以内に8000万人のアメリカ人が死ぬ、と専門家は警告を行いました。
このあとは歴史によく知られた話になります。
ケネディ大統領は、すぐさま特別執行委員会を組織して、
アメリカが取るべき適切な対応に対する協議を重ね、
軍事と外交の両面から、この危機を打開するための措置を試みました。
ケネディ大統領のとるべき道は、即刻ミサイル撤去を撤去させること。
このことは、アメリカ大統領として決して交渉には応じられない一点でした。
10月21日、ケネディはキューバの「quarantine」(封鎖)を命じます。
ミサイル基地への攻撃、キューバに侵攻する計画さえも否定しないという意味です。
10月22日午後7時、テレビ演説を行い、全国民に今ここにある危機を知らせました。
「キューバから西半球の国に向けて発射される核ミサイルは、
ソ連による米国への攻撃と見なし、
ソ連に完全な報復を行うことこそが、この国の政策である」
「検疫(封鎖)の強化」とは、つまり
キューバに向かうソ連船を阻止する可能性があることを意味します。
ソ連はどう出るか。
世界の命運を握るのは、どちらか一方の手に委ねられた「引き金」でした。
この危機は、10月28日、両大国が奈落の底からの一歩を踏み出すことに合意し、
終結を見ることになったのは、歴史の示す通りです。
具体的に、ソ連は、アメリカがキューバに侵攻しないということを約束し、
イギリスとトルコに配置されたミサイルを撤収するのと引き換えに、
キューバのミサイルの撤収に同意することで終結しました。
この、キューバ・ミサイル危機と呼ばれるこの未曾有の国難の震源地に、
「この」(つまりスミソニアンの)「ライトテーブル」があったのでした。
確固たる証拠が、写真で示されました。"
キューバにあるソ連のミサイル基地の存在。
それはアメリカにとって実に不吉な兆候を表すものでした。
ミサイル発射場のいくつかは、2週間以内に核兵器で武装されるだろうという。
海岸からわずか90マイルのところにある発射場からミサイルが発射されれば、
10分以内に8000万人のアメリカ人が死ぬ、と専門家は警告を行いました。
このあとは歴史によく知られた話になります。
ケネディ大統領は、すぐさま特別執行委員会を組織して、
アメリカが取るべき適切な対応に対する協議を重ね、
軍事と外交の両面から、この危機を打開するための措置を試みました。
ケネディ大統領のとるべき道は、即刻ミサイル撤去を撤去させること。
このことは、アメリカ大統領として決して交渉には応じられない一点でした。
10月21日、ケネディはキューバの「quarantine」(封鎖)を命じます。
ミサイル基地への攻撃、キューバに侵攻する計画さえも否定しないという意味です。
10月22日午後7時、テレビ演説を行い、全国民に今ここにある危機を知らせました。
「キューバから西半球の国に向けて発射される核ミサイルは、
ソ連による米国への攻撃と見なし、
ソ連に完全な報復を行うことこそが、この国の政策である」
「検疫(封鎖)の強化」とは、つまり
キューバに向かうソ連船を阻止する可能性があることを意味します。
ソ連はどう出るか。
世界の命運を握るのは、どちらか一方の手に委ねられた「引き金」でした。
この危機は、10月28日、両大国が奈落の底からの一歩を踏み出すことに合意し、
終結を見ることになったのは、歴史の示す通りです。
具体的に、ソ連は、アメリカがキューバに侵攻しないということを約束し、
イギリスとトルコに配置されたミサイルを撤収するのと引き換えに、
キューバのミサイルの撤収に同意することで終結しました。
この、キューバ・ミサイル危機と呼ばれるこの未曾有の国難の震源地に、
「この」(つまりスミソニアンの)「ライトテーブル」があったのでした。
■CIAのライトテーブル
緑色に塗装された金属製の昇降テーブル1台、940MCライトテーブル1台、
ボシュロム社製ズーム270光学系1台(Sn.1651AA)で構成されています。
1962年、NPIC内のCIAライトテーブル
1962年、ワシントンD.C.にあるCIAの
National Photographic Interpretation Center (NPIC)の内部
右側がCIA専用台
この歴史的な偵察写真を解析したというだけ、と言って仕舞えばそれまでですが、
このライトテーブルの上で、まさにその歴史は激動を始めました。
キューバ危機から10年間経っても、CIAはこの "キューバ危機の遺物 "
(テーブルですが)を保存するための措置をずっと講じていたそうです。
その後1972年、危機から10周年を迎えるにあたり、CIAは
これらの遺物(写真)を31枚のパネルで特別展示したらしいのですが、
残念なことに、この展示は「非公開」であり、一般には公開されませんでした。
一体、誰に見せたかったのか、何をしたかったのかCIA。
お役所体質のため「一般」の意味を取り違えていたんでしょうか。
その後1976年、アポロ11号の宇宙飛行士で、
当時スミソニアン国立航空宇宙博物館長を務めていたマイケル・コリンズが、
当時CIAに保管されていた展示(内輪しか見られなかった)を見る許可を得ました。
宇宙飛行士特権を濫用した人
コリンズはキューバ危機に対する一般の理解を深めるための、
多くの写真やグッズ・・使用された写真のネガの複製、歴史的なU-2カメラ、
パイロットスーツ、脱出シート、生存者の装備、写真解釈装置などに
大変衝撃を受けたとされます。
そして、コリンズの訪問からわずか1ヵ月後、CIAの科学技術担当部署は、
展示品の一部をスミソニアン博物館に寄贈移管することを通知してきたのでした。
ボシュロム社製ズーム270光学系1台(Sn.1651AA)で構成されています。
1962年、NPIC内のCIAライトテーブル
1962年、ワシントンD.C.にあるCIAの
National Photographic Interpretation Center (NPIC)の内部
右側がCIA専用台
この歴史的な偵察写真を解析したというだけ、と言って仕舞えばそれまでですが、
このライトテーブルの上で、まさにその歴史は激動を始めました。
キューバ危機から10年間経っても、CIAはこの "キューバ危機の遺物 "
(テーブルですが)を保存するための措置をずっと講じていたそうです。
その後1972年、危機から10周年を迎えるにあたり、CIAは
これらの遺物(写真)を31枚のパネルで特別展示したらしいのですが、
残念なことに、この展示は「非公開」であり、一般には公開されませんでした。
一体、誰に見せたかったのか、何をしたかったのかCIA。
お役所体質のため「一般」の意味を取り違えていたんでしょうか。
その後1976年、アポロ11号の宇宙飛行士で、
当時スミソニアン国立航空宇宙博物館長を務めていたマイケル・コリンズが、
当時CIAに保管されていた展示(内輪しか見られなかった)を見る許可を得ました。
宇宙飛行士特権を濫用した人
コリンズはキューバ危機に対する一般の理解を深めるための、
多くの写真やグッズ・・使用された写真のネガの複製、歴史的なU-2カメラ、
パイロットスーツ、脱出シート、生存者の装備、写真解釈装置などに
大変衝撃を受けたとされます。
そして、コリンズの訪問からわずか1ヵ月後、CIAの科学技術担当部署は、
展示品の一部をスミソニアン博物館に寄贈移管することを通知してきたのでした。
コリンズが宇宙飛行士でなければ、もしかしたら
この件は違う道を辿っていたかもしれません。
■ライトテーブル博物館へ
1977年、博物館の倉庫に、ライトテーブルと他の14点の遺品が到着しました。
スミソニアン博物館側は、CIAとのやり取りの中で、
ミサイル危機の遺物を将来的に展示することに関心を示していたため、当初、
ライトテーブルはワシントンDCのナショナル・モールにある博物館に来ました。
しかしどうにも展示計画にライトテーブルがなじまなかったため、
1980年代半ばから2011年まで、博物館はライトテーブルを実用に使っていました。
多くのボランティアが、一連の書籍に関する資料や写真を整理する際に、
ライトテーブルをがっつり使用してそれを行ったというのです。
歴史的遺物としてCIAから譲られたのを普段使いしていたってことですね。
その結果、一連の展示物に必要な文書や写真の整理、参考文献の整理、
カセットテープのコピーなども行われましたし、アーカイブ作業を
このライトテーブルは「見守ってくれた」そうです。
スミソニアンの学芸員たちは皆、アメリカ史におけるライトテーブルの歴史的意義に
深い敬意を払い、畏敬の念さえ抱きながら毎日使っていました。
それは、彼らの仕事場に独特の雰囲気をもたらしていたそうです。
さて、ここからは、ちょっと余談めきますが、
今の世界でも同じようなことがどこかで起こっているのかもしれない、
と思い、少しこの頃のスミソニアンでのある出来事を書いておきます。
1980年代後半、スミソニアンの航空部門の関係者は、展示の関係から
ソ連大使館のエアアタッシェメントの訪問を日常的に受けていました。
キュレーターの中にはロシアの航空史を専門にしている者もいて、
あるいはワシントンでのコネクションを作るという心算があったかもしれません。
(もちろん平時であれば、そんな大げさな、と言われそうな話ですが)
その頃、ソ連大使館の関係者たちは何かと博物館にやってきて、
話をしたり、図書館で調べものをしたり、時には昼食を取ったりしていました。
彼らがオフィスを訪れたとき、そのうち一人がキューバ危機の歴史的な遺物、
つまりライトテーブルの隣の椅子に、たまたま座ったことがありました。
そのとき、スミソニアンの学芸員はその「遺物」の何たるかを、
嬉々として説明し、ソ連の人々は興味深くそれに聞き入ったそうです。
しかし、その後、スミソニアンを訪問していた3人のエアアタッシェのうち2人は、
スパイとしてアメリカから追放されることになりました。
1962年10月にキューバ上空で撮影されたU-2写真を
CIAのアナリストが検討するために、
ライトテーブルと光学系とともに使用した昇降テーブル。
この件は違う道を辿っていたかもしれません。
■ライトテーブル博物館へ
1977年、博物館の倉庫に、ライトテーブルと他の14点の遺品が到着しました。
スミソニアン博物館側は、CIAとのやり取りの中で、
ミサイル危機の遺物を将来的に展示することに関心を示していたため、当初、
ライトテーブルはワシントンDCのナショナル・モールにある博物館に来ました。
しかしどうにも展示計画にライトテーブルがなじまなかったため、
1980年代半ばから2011年まで、博物館はライトテーブルを実用に使っていました。
多くのボランティアが、一連の書籍に関する資料や写真を整理する際に、
ライトテーブルをがっつり使用してそれを行ったというのです。
歴史的遺物としてCIAから譲られたのを普段使いしていたってことですね。
その結果、一連の展示物に必要な文書や写真の整理、参考文献の整理、
カセットテープのコピーなども行われましたし、アーカイブ作業を
このライトテーブルは「見守ってくれた」そうです。
スミソニアンの学芸員たちは皆、アメリカ史におけるライトテーブルの歴史的意義に
深い敬意を払い、畏敬の念さえ抱きながら毎日使っていました。
それは、彼らの仕事場に独特の雰囲気をもたらしていたそうです。
さて、ここからは、ちょっと余談めきますが、
今の世界でも同じようなことがどこかで起こっているのかもしれない、
と思い、少しこの頃のスミソニアンでのある出来事を書いておきます。
1980年代後半、スミソニアンの航空部門の関係者は、展示の関係から
ソ連大使館のエアアタッシェメントの訪問を日常的に受けていました。
キュレーターの中にはロシアの航空史を専門にしている者もいて、
あるいはワシントンでのコネクションを作るという心算があったかもしれません。
(もちろん平時であれば、そんな大げさな、と言われそうな話ですが)
その頃、ソ連大使館の関係者たちは何かと博物館にやってきて、
話をしたり、図書館で調べものをしたり、時には昼食を取ったりしていました。
彼らがオフィスを訪れたとき、そのうち一人がキューバ危機の歴史的な遺物、
つまりライトテーブルの隣の椅子に、たまたま座ったことがありました。
そのとき、スミソニアンの学芸員はその「遺物」の何たるかを、
嬉々として説明し、ソ連の人々は興味深くそれに聞き入ったそうです。
しかし、その後、スミソニアンを訪問していた3人のエアアタッシェのうち2人は、
スパイとしてアメリカから追放されることになりました。
1962年10月にキューバ上空で撮影されたU-2写真を
CIAのアナリストが検討するために、
ライトテーブルと光学系とともに使用した昇降テーブル。
このライトテーブルは、キューバ危機と今生きる人を具体的に結びつけています。
1962年10月15日の数時間、この何の変哲もないテーブルが、
まさに歴史の分岐点となったのです。
スカイスパイシリーズ、本当に終わり