ピッツバーグの学校地区にある兵士と水兵のための記念館、
そして軍事博物館でもあるSSMMの展示から、最初の部屋
「ピッツバーグ・ルーム」にある展示をご紹介しています。
南北戦争のハイライトでもあるゲッティスバーグの戦いですが、
ゲッティスバーグがペンシルバニア州だったなんて、初めて知りました。
おそらくこれを読んでいる方々もほとんどは考えたこともないのではないでしょうか。
「ゲッティスバーグの間」には戦場で使われたグッズの色々が
壁に貼ったアクリルのケースの中に収められています。
記念館が開館したとき、南北戦争のヴェテランの何人かは
戦中に使用していたものを寄贈しましたが、これらもその一つです。
帽子のクロスした望遠鏡を象ったマークの下に「F」とあり、
F砲台つまり「ハンプトンの砲台」の所属という意味です。
下のバッグは同じ寄贈者からのもので、ベルトと一体にして
ベルトポーチのような使い方をしていたものと思われます。
ゲッティスバーグの戦いに参加したトーマス・ロウリー准将の肩章、
戦場に携帯するためのフォーク、ナイフ、スプーンなどです。
弾丸が埋まった民家の木材部分。
ジョージ・ミード将軍の司令部は北軍の最前線のちょうど後ろにあった
リディア・レイズナーという寡婦の家に置かれていましたが、1863年7月3日、
ピケットラインが攻撃された時に弾丸がめりこみました。
アメリカの家、特にここピッツバーグやボストンなどでは築100年の家に住む例は
全く珍しくありませんが、この家はたまたま取り壊しになった際、
銃弾の埋まった部分を当記念館に寄贈しました。
終戦直後から激戦の跡となったゲッティスバーグには、次々と
観光客が訪れたため、土産物を売る業者が現れました。
これはペン立てのついた「デスクセット」らしいのですが、
これらはリンカーンが有名な「ゲッティスバーグの演説」を行った付近や
国立墓地から勝手に拾ってきた石とか小弾丸とか木などをこのように集めて
適当に鷲のマークをあしらっています。
今はそんなものないのかもしれませんが、昔は、観光地の土産物屋に行くと、
「天橋立」とか「白浜」とか書かれた小さな札を立てた、「飾り物」
今思えばあんなもの買って何にするんだろうというようなグッズがありましたよね。
なんかこの「土産物」を見ていると猛烈にあれを思い出したのですが、
この「ゲッティスバーグ土産」も、観光に行って買ってきて、
しばらくは飾ってあるけどそのうち埃に塗れてヤードセールに出され、
というような運命を辿り四散してしまうようなものなんだろうと思います。
具体的には3インチの砲弾跡が刻まれた大理石の墓石、
2つのミニエボールの銃弾が埋め込まれた木、
キャニスターボールの破片が刻まれた花崗岩、などなどが、
馬具のかけらなどとともにリボルバーボールの上に乗っています。
制作されたのは1870年代ということで、おそらく当時は
歴史的史跡などという扱いがされていなかったため、業者が入り込んで
「お宝拾い」をしてはこうやって小銭を稼いでいたのでしょう。
北軍兵のキャップ。
こちらは南軍(コンフェデレート)兵士の使っていたドラム型水筒。
先ほどのより大きなキャニスター(砲弾)が硬い樫の木に
見事にめり込んで埋まってしまった例。
20世紀になってからゲッティスバーグで発見されました。
日本の旗のスクエアバージョンみたいなこの旗は、
ゲッティスバーグでルーサー・カルヴィン・フーストが使った信号旗です。
ルーサー・カルヴィン・フーストは現在のワシントン&ジェファーソンカレッジ、
当時のジェファーソンカレッジの20歳の学生で南北戦争に志願しました。
信号隊に配属になったフーストはゲティスバーグの戦い三日目の戦闘で
「ビッグ・ラウンド・トップ」と呼ばれる高地を
北軍が攻略した時にそこに信号兵としてそこにいました。
この旗は、フーストの記憶によると、目的の受信地に到達するまで
ステーション間で信号兵がメッセージをやり取りするのに使用された
二枚組の信号旗のうちの一枚です。
この二枚で1セットとなります。
フースト君はゲッティスバーグ三日目、このようなことを日記に書いています。
「僕たちは昨夜野営した。
今朝には午前中にかなりの小競り合いが行われることが確実になり、
正午に向けて戦いは再び激化し、最も激しく最も熱い砲撃があった。
僕の隣に座っていた男は瞬時にして砲撃で吹っ飛ばされて微塵となり、
数ヤード進むうちにこんどは馬がやられてしまった。
我々は敵のライフル弾が降ってくる中、ここ丘の上に信号基地を構えた。
敵は午前10時にはこの丘を指揮する3つのバッテリーを設置し、
我々は3回前進してそれを奪ったが、最初は撃退されてしまった。
戦いは厳しかったが、我々はそれぞれの地点で彼らを叩いた。
午後1時から2時までの間、砲弾や榴弾が降り注ぐのは目撃していない。
猛暑の間、僕はウォーレン将軍からバーニー少将、
セジウィック将軍、ミード将軍への伝令のために全部隊を回った。
わたしが行こうとすると連中はこちらに怒鳴ってきた。
『やめとけ、通り抜けるなんて絶対無理だ!』
しかし、僕はミード将軍に私の伝令を送らないわけにはいかず、
猛烈な速さで戦場を駆け抜け、でもう少しで馬を殺すところだった。
アイケンというもう一人の伝令は砲撃が収まるまで待つといい、
任務を引き受けなかった。
今日は「悪魔の巣」から狙ってくる狙撃兵によって
わが信号隊のうち7人が死傷することになった。
そして、素晴らしい武器であるはずの榴弾によって
我が軍は何百人もが犠牲になることになったのである」
これは・・・榴弾が自爆してしまったってことなんでしょうか。
さて、冒頭の写真は南北戦争時代の軍楽隊、というか「太鼓隊」です。
写真を拡大してみますが、太鼓を叩いているのも、
その指揮を執っているのもせいぜい13歳くらいの少年ばかりですね。
初回に少年兵について少し書きましたが、彼らは太鼓隊に配属されることが多かったようです。
もうこの世には一人も存在していませんが、南北戦争で軍隊生活を送った者は、
この太鼓の響きをまるで心臓の音のように記憶していたことでしょう。
なぜならドラムはこの時期、起床の合図から行進の伴奏にと、
あらゆるコミュニケーションにツールとして使われていたからです。
兵士たちは(そして馬たちもおそらく)食事の合図や就寝、そして
戦闘を表す何百もの異なった合図を覚えることから軍隊生活を始めました。
ちなみに南北戦争時代のドラムは薄い素材の木に蒸気を当て曲げて作りました。
皮は文字通りのカーフスキンを張ってあります。
左:陸軍歩兵部隊の太鼓
政府の依頼でフィラデルフィアの会社が当時一個6ドル75セントで請け負ったドラム。
たった百個しか製作されなかったため、現存しているのは
非常にレアであるということになるそうです。
太鼓の上に乗っているのはビューグル(喇叭)です。
右:ペンシルバニア第6重歩兵連隊の太鼓
ほとんどのドラムには部隊の徽章が彩画されています。
左:捕獲した南軍のドラム
こういうのも「鹵獲」というんでしょうか。
南軍の兵士が使っていた太鼓ですが、その後は北軍が使用しました。
もちろん南軍のペイントは消され、上から描き直されています。
右:砲兵隊ドラム
この砲兵ドラムは、高さを約半分に短く改造してあり、
その際、鷲と13の星の絵を残すようにトリミングしてあります。
なんでそこまで面倒な改造をしなくてはいけなかったのか。
このドラムが切り落とされた理由は不明ですが、
連隊バンドがドラムラインに鋭い音を必要としたか、
このドラムを使用したドラマーが行進の時に演奏する
ケースに合わせるためドラムを切ったかのどちらかだと言われています。
しかし、今ならケースに入らなかった場合の解決法は
「ケースを買い換える」一択ですよね。
サイズが合わないからってドラムを切るなんて考えられません。
この管楽器はB フラット、ドイツ語でいうところのB管(ベーカン)の
サックスなんだそうで、いわゆる現代のサキソフォーンとのあまりの違いに
ちょっとびっくりさせられます。
戦場仕様でホーンを大きくしてあるのかな?
これは馴染みのある形のBフラット管コルネットです。
手書きの紙片がケースに楽器とともに収められており、
それにはこう書かれています。
「音楽・・・ああ! なんとかすかな弱さ
汝の魔力の前に言葉は衰退する
なぜ語りたい気持ちになるのか
彼女の魂をあまりうまく吹き鳴らせないときに」
持ち主は詩人でもあったようです。
右側はジョン・B・クラーク少佐。
アレゲニー市(現在のピッツバーグ北側)に支持者を持つ長老派大臣で、
2週間足らずで10個部隊分の志願兵を集め、
第123ペンシルバニア志願歩兵隊を形成するだけの影響力を持っていました。
この曲「凱旋行進曲」はクラーク少佐を称えて作曲されたものです。
その曲というのがですね。
この「グローリー・ハレルヤ」Glory, Hallelujah。
この曲は皆さんおそらくよくご存知です。
「グローリー、グローリーハーレルーヤー」というあれですね。
アメリカ陸軍空挺部隊では部隊歌、
日本では「太郎さんの赤ちゃんが風邪ひいた」、また近年では
大型電気店のCMソングとして知られています。
実は歌詞はこんな内容だったってご存知ですか?
John Brown's body lies a mould 'ring in the grave,
John Brown's body lies a mould 'ring in the grave,
John Brown's body lies a mould 'ring in the grave,
His soul is marching on!
(ジョン・ブラウンの身体は墓の下、彼の魂は行進する)
The stars of heaven are looking kindly forth,
The stars of heaven are looking kindly forth,
The stars of heaven are looking kindly forth,
On the grave of old John Brown!
(天の星は優しく見つめる、ジョン・ブラウンの墓を)
となっています。
ジョン・クラーク大佐を称える歌なのになんでジョン・ブラウンなんだ、
というについてはまた今度説明するかもしれません。
ちなみにジョン・ブラウンとは北軍の兵士に人気のあった
死刑廃止論者だそうです。
ピッツバーグにあった連隊旗などが収められているケースです。
画面の左側に少しだけ見えている白と金色の旗は、1948年、
戦時中に息子を失った母親で構成される組織が
パレードに掲げて行進したものです。
おそらく、戦勝パレードの類ではなかったかと思われます。
また、中央に見えるアメリカ国旗は、星が75個もあります。
「75星出征旗」(エンバーカションバナー)
といい、この旗を窓にかけると、その家の息子は出征していることを表しました。
また、旗に金の星が縫い付けられていれば、彼が戦死したことを示しました。
続く。