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FIRST TO DIE〜真珠湾攻撃 九軍神慰霊式

2019-12-23 | 海軍

九軍神慰霊祭は、主催の青年団や地元の人たち、岩宮旅館の関係者、
自衛官(陸自隊員の姿もあった)、自衛隊OB、そして
旧軍に関心が深く遠隔地から慰霊に訪れた(わたし含む)人、
そしてごくわずかの報道関係者(産経新聞記者)、さらには
高松の金刀比羅宮で行われた掃海隊殉職者追悼式でお見かけした
戦史研究家の久野潤氏の姿もありましたが、当初想像していたよりも
ずっと小さな規模で、参加人数も決して多いものではありませんでした。

しかし、昭和41年からずっと今日まで、この慰霊祭は
途絶えることなく続いてきているのです。
わたしはその理由をこのように考えました。

 

日本が敗戦し、三机から「九軍神の聖地巡礼」の人々の姿が
かき消すようにいなくなったあとも、おそらく三机では
国のために命を捧げて散った若者たちに対する敬慕の耐えることなく、
彼らがこの小さな漁村に遺していった物語の数々は親から子へ、
子から孫へと語り継がれていったのでありましょう。

そんな三机に時は流れ、昭和40年、九軍神の遺族がこの訪れたのをきっかけに、

「広く世界の平和を呼びかける礎石とすべく」

浄財によって須賀の森の一角に慰霊碑が建立されました。

GHQによるWGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)のせいで、
昨日まで称えていた軍神を、戦犯と掌を返して罵るような風潮が日本中を席巻しても、
戦後世代が旧軍は悪とし慰霊を旧軍懐古として日本そのものを否定しても、
三机の人が、地元に伝わる軍神たちの物語を大事にしてきたからこそ、
このささやかな儀式も、ごく自然に世代を超えて受け継がれてきたのでしょう。

 

慰霊祭開始の挨拶をしたのは、青年団の責任者という人です。
出席者はおおむねスーツなどだったのに対し、青年団のメンバーは
普段のスタイルで参加しており、この催しが彼らにとって
決して特別なものではない日常の延長にあることを窺わせます。

先ほど自衛官から手ほどきを受けていた青年団メンバー二人の介助で
国旗と海軍旗の掲揚が行われることになりました。

慰霊碑横に置かれたプレーヤーから流れる喇叭譜君が代。
日の丸と旭日旗が自衛官と地元の青年の手で掲揚されます。

掲揚が告げられたとき、わたしは旭日旗のことを海軍旗でも
自衛艦旗でもなく、「鎮魂旗」と称しているのに気がつきました。

ここに揚げられているのは海上自衛隊の自衛艦旗ですが、
九軍神のみたまにとっては海軍旗と言わなければなりません。

しかし戦後の日本で自衛艦旗を「海軍旗」と称することはタブーとなっているため、
どちらでもない「鎮魂旗」という言葉が生み出されたのでしょう。

なぜタブーなのかと考える時そこに忸怩たる思いをもたずにいられませんが、
いずれにせよこの名は慰霊にふさわしいと思われました。

鎮魂旗掲揚台を寄贈した海上自衛官、そして作家であり
呉市海事歴史科学館、通称大和ミュージアムの館長、戸髙一成氏の名前も見えます。

寄贈されたのは今から11年前のこの日、12月8日でした。

続いて神主が「修祓の儀」を行いました。
修祓とは、神式の行事に先立って、罪穢れのない
清浄な世界を作り上げるための「清めの儀式」です。

罪穢を祓い去ってくれる四柱の神々を祓戸大神(はらいどのおおかみ)といい、
神官は神々に祓詞(はらいことば)という祝詞を奏上しお願いをします。

そして次に神官は罪穢れを祓い清めるため、大麻(おおぬさ)を
慰霊碑、次に神饌物(捧げ物)を振りました。
それが済むと、起立低頭した列席者の頭上で御祓が行われます。

そして、神官が九軍神となった死者の魂に「誄詞」(るいし)といって、
死者を偲び、その生前の功績をたたえ哀悼の意を表わすことばを捧げました。

この三机における慰霊祭で毎年変わらず捧げられている言葉なのかどうか、
初めて出席するわたしにはわかりかねましたが、その誄詞中の、

「誰一人結婚することなく若い命を捧げた」

ということを悼む文言は、ことにわたしの胸に刺さりました。

映画「海軍」では、艇附の下士官が最後の出撃前に妻を呼び寄せ、
狂おしく抱き合う様子が描かれていましたが、実際には全員が
独身のまま若い命をあたら散らしていきました。

26歳の隊長、岩佐直治中佐には郷里の前橋に婚約者がいましたが、
休暇で帰郷した際、親にも相手にも理由もいわず婚約を破棄しています。
その話がなぜ今日に伝わっているのかというと、岩佐大尉は訓練時
宿泊していた岩宮旅館の女将、チヨさんに

「死んでいくのに結婚しては、相手を傷つけることになるからね」

そう打ち明けたからでした。

婚約者が理由も告げぬ突然の婚約破棄にショックを受け、一時悲嘆に暮れても、
自分が任務を果たしたとき、必ず戦死の報とともに誠意は彼女に伝わり、
やがて自分を許してくれるだろう、と思ってのことに違いありません。

しかし、岩佐大尉のように誰かに打ち明けたりしなかっただけで、
他の軍人たちも多かれ少なかれ、密かな思いを心のうちにあきらめたり
別れを告げたりして、この世との未練を断ち切って逝ったたものと思われます。

「死ぬことよりも、自分がこの世に血を残さずに往くのが辛い」

とは、「回天」乗組員が遺した言葉ですが、誄詞の一文は
それだけが心残りであろう御霊を慰撫しているように聴こえました。

参列者が順次神前に歩み出て、献花を行い、
二礼二拍手一礼を行いました。
まず青年団のメンバー。

十名の特殊潜航艇乗員が投宿していた岩宮旅館、そして
松本旅館の関係者。
右側は岩宮旅館の現女将です。

続いて自衛隊関係者、わたしを含むその他の参列者が献花を行いました。

最後に参拝を行ったのは、陸自と海自のOBからなる豫山会の皆様です。
豫山会とは、愛媛県出身の軍人会を母体として継続している
一般財団法人の団体で、明治45年創立、かつてはあの
秋山好古もその名を連ねていました。

その歴史を見ると、陸軍が中心の軍人会だったようですね。

戦後は、青少年に対する社会教育活動の振興助成や体育の奨励、
青少年の育成事業を行っているということです。

正面で参拝しておられるのが豫山会代表理事河野氏(陸自OB)
後ろの四名は全員が海自OBで、こういうときにも
最先任が中央に、つまりかつての序列通りに並んでおられます。

豫山会の方が追悼の言葉を捧げられました。
この方も海自OBです。

コメントにもありましたが、海上自衛隊の練習艦隊は、例年
江田島を出航したのち、三机にに寄港して九軍神の碑に献花を行います。

平成26年度海上自衛隊練習艦隊 九軍神慰霊碑献花式

中畑康樹海将が練習艦隊司令の時ですね。
献花式には地元の中学生も参列しているようです。

というわけで式次第は滞りなく終了しました。
再び国旗と追悼旗が降下されることになり、神主さんが
プレーヤーのスイッチを押す係に(笑)

掲揚の時と同じメンバーの手で両旗が降納されました。

最後に神職が霊前に挨拶をして慰霊式の終了です。

式終了後、皆で椅子を片付け、談笑している出席者。
だいたいここに見えているプラス数人が全出席者数となります。

例年夜夕方6時(当然真っ暗)から行われる慰霊祭が
今年昼間になったのは、12月8日が日曜日に当たったからです。
いつもは執行を行う青年団が自分たちの仕事を済ませてから準備を行っているので
夕方から始めざるを得ないということでした。

陽が沈んでからの須賀公園での慰霊祭はかなりの厳しい寒さになるらしく、
わたしは前もって防寒対策をしっかり行ってくるように、
といわれていましたが、幸いなことに晴天に恵まれた昼間だったため、
寒いどころか陽に照らされて座っていると暑ささえ感じました。

この日は直会終了後、車で松山まで帰りましたが、夕方開始のときには
ほとんどの参加者は岩宮旅館に宿泊をするのだそうです。

慰霊碑の正面にあたる岸壁から三机湾の内海を臨む。
参加していた自衛官に写真モデルになってもらいました(嘘)

いつから慰霊祭に自衛官が派出されるようになったのでしょうか。
彼らにすればこの日など休日出勤ですし、例年は残業となります。
何人かにうかがってみたところ、呉地方総監部から、あるいは
愛媛地本からきたという自衛官もいました。

さて、慰霊祭の後の直会は、先ほど待ち合わせした町民会館の集会室?
というかキッチン付きの和室で行われました。

開始前、わたしをこの慰霊祭にお誘いくださった提督が、町民会館の
二階フロアに、特殊潜航艇関係の展示があるといって
ご案内くださったのですが、驚いたのがこの写真です。

ガラスケースの上に九軍神となった若者たちの顔写真を引き延ばし、
一人ずつ額に入れて飾ってあったのです。

「普通の市民会館でこんなのはまずないでしょうね」

いずれも真珠湾の特殊潜航艇突入を扱った英字新聞です。
左の九軍神の写真を掲載した署名記事のタイトルは

「FIRST TO DIE」

死を第一義として、というようなニュアンスでしょうか。
右二つは2009年の発行で、ハワイ湾突入の「最後の一隻」の残骸を
調査潜水艇が発見した時のニュースを報じるものです。

なぜこんな大発見を日本の新聞がこれと同じような一面トップどころか
ほとんど無視し報じなかったのかが不思議でたまりません。
(もちろんその理由はわかっていますがこれは嫌味で言ってます)

真珠湾に侵入した特殊潜航艇のうち4隻は、目標に到達できず
座礁したか、沈められたか(そういうアメリカ側の報告もある)、あるいは
打ち上げられていたのを発見されたわけですが、この時発見された一隻は、
アメリカでの最近の研究によると、魚雷二本を「オクラホマ」に命中させ、
撃沈せしめたということが明らかになっています。

この日の追悼式での誄詞による文言でも、攻撃は全く成功しなかった、
というようなことがいわれていましたが、「オクラホマ」の沈没原因を
検証したうえで、アメリカの研究者がそう発表したからには、
かなりの真実に近づいた結果に違いないと少なくともわたしは信じています。

攻撃の結果は彼らに対する崇敬の念になんの変化ももたらすものではありませんが、
それにしても日本側がその研究結果にどうしてここまで無関心なのか、
わたしはこれを知った日からずっと違和感を抱き続けているのも事実です。

こちらは九軍神の慰霊を続ける三机の人々の姿を報じる新聞記事。
ちなみに朝日新聞です。

「戦死の報で真相知り涙」

というのは、岩宮旅館で彼らの世話をした岩宮旅館の、
現在の女将の伯母という人が取材に答えていった言葉です。

11月の末に休暇から戻った彼らが三机から母艦「千代田」とともに
姿を消してから3ヶ月後、大本営発表によって彼らが軍神となった、
と知ったとき、日本中の誰よりも驚いたのがおそらく
彼らの滞在した旅館の人々だったと思われます。

故人となった女将の伯母は、

「新聞の写真を見て家中で泣きました。
一人ひとりの顔が脳裏に浮かんでは消えました」

と記者に語りました。

新聞などの媒体が当時「九軍神」の遺影に使った元写真です。
海軍の報道部にとって都合のよかったのは、捕虜になってしまった
酒巻少尉は一番右(前列)にいて加工しやすかったことでしょう。

この写真は甲標的の整備員も揃って写っている貴重なものです。

同じメンバーが「千代田」艦長原田覚と写した写真。
「千代田」の先任である士官とともに岩佐大尉だけが(右から2番目)
前列に座っています。

シドニー湾に特殊潜航艇で突入した伴智久、八巻悌次、
松尾敬宇、中馬兼四大尉、そして、マダガスカル攻撃で雷撃を成功させ、
英軍艦2隻に大きな打撃を与えたものの、その後陸上で英軍と交戦、
戦死した秋枝三郎(海兵66期)が写っています。

Midget submarine crews (AWM P00325-001).jpg

wikiの鮮明な写真も貼っておきます。
各人の後ろにいるのが彼らの艇附です。

開戦2ヶ月後に撮られた第4期のメンバーです。
この中に「回天」開発の黒木弘大尉がいるのではないかと思うのですが、
(左から2番目?)名前がなかったのでわかりません。

直会は青年団の皆さんが心を込めて用意してくれた寄せ鍋でした。
冬の味覚である牡蠣まで入っています。

わたしの近くには予科練だったという92歳の方が座っていて、
皆にその元気ぶりを感心されていました。

出席者の一人、久野淳氏の竹田恒泰氏との共著、
「日本書紀入門」。

会もたけなわの頃、青年団のメンバーの一人が誕生日
(12月8日!)であるということで、身内からケーキが贈られ、
皆で「ハッピーバースデー」を歌うことになったとき、

「こんな日なのにハッピーはいいのかどうか」

という声もあがったのですが、別の人が、

「いいんだよ、ハッピーで」

とひとこというと、全員が納得していました(笑)

ホールケーキにしたかったのだけど、何しろ地元の小さなケーキ屋で
予約しないと無理、といわれてしまったのでショートケーキ詰め合わせです。
誕生日ケーキなのにサンタが乗っています。

この時の話によると地元の青年団でも若い人が少なくなって
人材不足は深刻なのだそうですが、そんな中、手作りの慰霊祭を
毎年欠かさず続けてくれている彼らの誠意には敬意を払わずにいられません。

和やかなまま直会がお開きになり、わたしはここを離れる前に
もう一度岩宮旅館によってみることにしました。

そこには九軍神始めここで訓練をしていた特殊潜航艇乗員たちの
生きた証が史料館として展示されているのです。

 

続く。