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通信機器とテレグラフ「真珠湾に空襲 訓練にあらず」〜メア・アイランド海軍工廠博物館

2019-12-08 | 歴史

音楽まつりの報告の途中ですが、本日日本時間の12月8日は
日本軍が真珠湾攻撃を行い、日米が開戦した日ですので、
こんなテーマを取り上げてみます。 

ちなみに、本日アップは、日本時間8日午前3時22分 、
日本海軍の航空機隊が真珠湾上空で全軍突撃を行い、
攻撃司令淵田美津雄が旗艦「赤城」に対してトラ連送、

「トラ・トラ・トラ」

つまり「ワレ奇襲ニ成功セリ」を打電した時間にしてみました。

でっていう。


さて、メア・アイランド海軍工廠に展示されていた通信関係の資料です。

わたしの最も苦手な分野なのでスルーしたいのはやまやまですが、
歴史的に意味を持つ通信機がここにあるとあっては話は別です。

珍しく機械に説明のカードが付けられていました。
今までアメリカの軍事博物館を数多く見てきましたがこれは初めてです。

まず、上段の機械。

Beat Frequency Oscillator

を日本語で調べると「BFO」て・・・。
そんなの見たらわかるつーの。

気を取り直してBFOを調べると、「うなり発振器」
余計わかりません。

受信機においてCW信号やSSB信号を復調する際に用いられる電子回路である。

CW信号もSSB信号も復調もわからないので、検討もつきません。
どれくらいわかっていないかというと、音楽に全く詳しくない人が、

「ドミナントがトニックに進行するときに導音は常に主音に解決される」

と言われるのと同じくらいわかっていないと思われます。

説明には第二次世界大戦時に使われていたものだと
(もちろんそれだけではないんですが)あります。

この機械の正式名称は

The General The General Radio 913The General Radio 913ーA
Beat Frequency Oscillator

右側のは

BC-348-3 Radio Receiver

こちらはコンパクトなタイプのラジオ受信機で、陸海軍共通の規格をもち
第二次世界大戦時航空隊によって運用されていたタイプです。

その機能については割とどうでもいいのでここでは触れませんが、
重要なことは、この受信機が航空機に搭載されていた

AN/ARC-8 システム

の一部分として、広島に原子爆弾を落としたB-29爆撃機、
「エノラ・ゲイ」に搭載されていたということです。

今日、この受信機は

ビンテージアマチュア無線愛好家

(そんな人たちがいるんだ)の垂涎の的らしいです。

このビンテージ無線愛好家の記事を少し読んだのですが、

「コンデンサの放電中、片手を必ずポケットに入れておくのが基本」

なんて書いてあります。
そうしないと感電してしまうってことですかね。

左の緑色の機械は

The model 80 Signal Generator(標準信号発生器)

The Gilfillan Brothers(ザ・ギルフィラン兄弟社)製

ギルフィラン、という名前は、例えば日本だとNHKの放送博物館で
ラッパのついた蓄音機や鉱石ラジオを見るときに認識されるでしょう。

ギルフィラン兄弟社はロスアンジェルス発祥のラジオ(のちにテレビも)
製造会社です。
ミシンのブラザーや、日本の大阪金属のように、ギルフィラン社もまた
第二次世界大戦中は軍用機器の製造を行なっていました。

ちなみに日本で現在標準信号発生器を作っているトップメーカーは
アンリツ株式会社ですが、ここでも一度述べたようにアンリツは
日露戦争の時に「敵艦隊見ゆ」を打電した三六式無線のメーカーです。

1916年には世界初の無線電話を製品化していますし、
国内初のテレビを作ったのもこの会社。
そのほかにも、国内初の公衆電話、世界で初めての光パルス試験器を開発、
と何かとすごい社です。

このギルフィランの標準信号発生器は。レーダーシステムの試験や、
あるいは主に潜水艦のサービスに搭載されていました。

右側はThe AVCO社製のラジオレシーバー&トランスミッター。
朝鮮戦争、ベトナム戦争時に運用されていたタイプです。

U.S Army Signal Corps BC-1031 Panoramic Adapter

第二次世界大戦中、連合国によって共同運用されていました。
スペクトラムアナライザの初期のタイプです。

New London Instrument Co.と製作会社の銘がありますが、
これはコネチカット州の潜水艦基地のお膝元で、
いわばコバンザメ商法というやつではないかと思われます。

 

右側の携帯用の器具は、

Wheatstone Bridge(ホイートストーンブリッジ)

といいます。
物体の歪みを測定する機器のことを

歪みゲージ(ストレインゲージ)

といいますが、ホイートストンぷリッジはこのひずみゲージの
抵抗測定に使われる回路をさします。

ちなみにこのひずみケージの世界ナンバーワンのシェアを占めるのが、

ミネベアアツミ株式会社

という長野県にある日本の会社です。

この機器の近くにあった写真は、メア・アイランドにあった
海軍のラジオ・トランスミッター・ステーションとタワーです。

外から見ると、普通のうちとなんら変わりはありませんが、
よく見るとセーラー服の水兵が警護に立っています。

イーゼルの上に丸い輪っかを乗せたような不思議な器具がありました。
その辺の床材とか、適当にものを積み重ねてあってぞんざいです。

なんの説明もありませんでしたが、こんなフダがついていました。

Direction Finder (方向探知機)

しかし、木製の台にアルミのリングと、時代的にいつのものか
全く見当がつきません。

ふと、こんな写真を思い出しました。

女流飛行家のアメリア・イアハートがおどけて顔を出しているこれ、
この方向探知機のリングアンテナですよね?

この写真のキャプション、

「Amelia Earhart Holding
Bendix Radio Direction Finder Loop Antenna」

から、これがベンディックスの製品であることがわかりました。
こんなことも書いてあります。

「ヌーナンとイアハートのそれは非常に使用が困難で、
かつ彼らがモールス信号についてあまり知識もなかったことは
彼らの失踪のファクターの一つとなった」

検索すると、イアハートがこのループアンテナを気に入って?
一緒にやたら写真を撮っているようなのですが、なんと彼女は
この機械を

「積んでいたのに使えなかったことが失踪の一因となった」

ってことになるのです。

当時この機械が発明されたばかりで、電波が微弱であったことや、
連絡を取る軍艦に搭載された受信機がバッテリー切れを起こしていた、
という話も目にしましたが、このキャプションによると、

CAPTION:
Earhart's lack of familiarity with the Bendix radio direction finder
was a significant liability.

(リングで写真を撮りまくっていた割に)機械に熟知していなかったと。
つまりもし遊んでいる間に使い方をもう少しちゃんと勉強していれば、
方向探知はできたはず、ということなんでしょうか。

さて、この無線関係の機器の中で、もっとも衝撃を受けたのがこれでした。
まず、

CIH-46159 A

海軍のTCSトランスミッターと受信システムの一つです。
この機器はハミルトン・ラジオ社の製作となります。

このデスクの上の受信機&トランスミッターのシステムは
歴史的に象徴的な役割を果たしています。

冒頭の写真をもう一度見ていただけますでしょうか。

1941年12月7日の午後、ほとんど全てのアメリカ人は、日本軍の飛行機が
真珠湾を攻撃しているという知らせを自宅や職場のラジオで聴く事になりました。

攻撃が始まったのはハワイ時間の朝7時48分、例えばここカリフォルニアでは
10時48分です。

ニューヨークではWORがジャイアンツとドジャースの試合の実況を中止して、
午後2時25分東部時間にCBSがこのニュースを報じ、
CBSでは有名アナウンサーのジョン・デイリーが4分遅れで報じました。

一番最初にこれを報じたのはホノルルのKGU局でしたが、当初
まだホノルル上空を通過していく飛行機が日本軍のものであるとは
確認できない状態だったといわれています。

まだ日本軍の攻撃が続いている時、KGUラジオのスタッフは、
ビルの屋根の上に登って攻撃の様子を確認し、マイクを手にして
NBCに電話を通じて最初の目撃証言をライブで伝えました。

「戦闘はほとんど3時間続いています。
冗談ではありません!これは本当に戦争です!」

その時記者はこのように叫びました。

この時、ホノルルの電話交換手がイマージェンシーコールのために
この場に電話してきて邪魔をするという一幕もありました。

 

ところが個人的にものすごく驚いたことに、ここにあった説明には

この攻撃は、大日本帝国が、南西アジアとフィリピン諸国を
欧米列強の支配から防ぐ、という
目的を持って行われ、
航空攻撃は2波、
六隻の空母から飛び立った353機の飛行機によって行われた

と書かれていたのです。
いやー・・・・・誰が書いたんだろうこの文章。

続いて、

この攻撃によってアメリカ海軍は4隻かの戦艦を失い、
ダメージを受け、3隻の巡洋艦、3隻の駆逐艦、機雷敷設艦、
188機の航空機、死亡2402名、負傷1282名の損害をうけ、
日本側は29機の航空機と潜航艇が5隻失われただけ、
死者は65名、捕虜1名という軽微な損害に終わった

とあります。

それはともかく最後にちょっと突っ込んでおくと、

「日本軍は一人の水兵が捕虜となった」

いや、それ水兵ちゃうし。
それ海軍士官学校出の少尉(酒巻和男)だから。

で、冒頭写真の人物ですが、1941年12月7日に真珠湾攻撃の
テレグラフを受け取る、メア・アイランドのシニア通信士、
ヴァン・B・デイトン氏

今テレグラフから紙がでてきてますね。

それがこの紙(もちろん実物)です。
緑の部分には

URGENT 7 DEC 1941

FROM CINCPAC

TO PACFLT 

HOSTILITIES WITH JAPAN COMMAND
WITH AIR RAID ON PEARL TOR 1111-Y

 

 真珠湾に空襲 X これは訓練にあらず 1112Y

このテレグラフが歴史的なものになることはその瞬間からはっきりしました。
そしてメアアイランド工廠ではこの一枚の紙を後世に残すことにしたのです。