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「ポンプ、ポンプ、ポンプ!」〜帆船「バルクルーサ」サンフランシスコ海洋博物館

2018-05-11 | 軍艦

サンフランシスコ海事博物館にある帆船「バルクルーサ」を見ながら、
十九世紀末の帆船で働く人々について、現地の説明ボードを元に
お話ししています。

いやー、しかし、そうではないかとは思っていましたが、
このころの船ってもうブラック企業なんてもんじゃありませんわ。

ブラック企業でも一応社員は自分の意思で入社してきた人ですが、
こちらは下手したら攫われてきて仕方なく働いてたりしますから。

「バルクルーサ」甲板から遠くゴールデンゲートブリッジを臨む。
波が全くありませんが、これはこの部分が突堤に囲まれているからです。

橋の左に倉庫のようなものが見えているかと思いますが、ここは
フォート・メイソンといい、先日ご紹介した映画「ダウン・ペリスコープ」
(イン・ザ・ネイビー)のラストシーンで、主人公たちが乗っていたディーゼル艦、
「スティングレイ」が入港した岸壁です。

映画に使われた潜水艦「パンパニート」は今いるところのすぐ後ろにある
「フィッシャーマンズワーフ」の岸壁に展示されていて、映画のために
わざわざフォートメイソンまで引っ張っていったといわれています。

この説明にある「メインロイヤル」というのは、帆船で一番上に張られる帆のことです。

一番高いところにある帆ですが、その割にこれを張る仕事は
他のいろんな船上の仕事の中でも簡単な部類に属するのだそうです。

その大きな理由は、帆そのものが一番上のなので小さいことがあげられます。

高い部分なので大抵は修行中の少年が船の動きを覚え、
できるだけ早く仕事に慣れるためにそこでまず仕事をさせられます。

「ロイヤルを畳むこと」

これが船乗りとして最初にインストールするべき基本なのです。
もちろん、いきなりそんな高いところに登らされる初心者の少年は
誰しもパニックすれすれになるくらい緊張するわけですが、
そんな彼らに対し、ベテランの船乗りはこう言い聞かせます。

「一つの手は自分のために、もう一つは船のために使え。
自分の手元だけを見て、決して下を見るな」

それでは逆に、一番船員たちに嫌われていた仕事とはなんでしょうか。

それは間違いなくこのポンプ作業だったと思われます。
このころの船は、船の水を外に出すことを人力でせねばならなかったのですが、
これは木製の船の日課といってもいい厄介な仕事でした。

午後はドッグワッチの時間、あるいはそれだけで十分でない場合、
4時間のワッチ時間の終わりにも行われました。

ポンプの仕事はハードでひどく評判の悪いものでした。
ですから、強風が隙間の詰め物が強風で飛んでいってしまったりする
木造の船に乗る人は鋼鉄の船を懐かしがったものでした。

「ポンプ、ポンプ、とにかくポンプだ。
さもなければ溺れるしかない。
波風をやり過ごすために帆をたたみ、

そしてポンプを押し続けなければならない。

船がひっくりがえって怒り狂う海に飲まれ、
時間のない世界に迷い込む前に、

とにかくポンプ、ポンプ、ポンプだ」

やってもやっても終わりがない状態の時には、無益な労働を繰り返さざるを得なかった
シーシュポスもかくやと思われる
無常感と絶望感におしひしがれたでしょう。

ただし、シーシュポスと違い、彼らの仕事には
「死なないために」という最終にして最大の目的があります。


これがポンプの断面図です。
人力で動かすしか方法がなかったというのが辛いところですね。

 

しかし「バルクルーサ」がアラスカでサケ漁を行なっていた時、
こんな事件がありました。

1904年、アラスカからサンフランシスコに向かう『バルクルーサ』は
強風に見舞われ、船内に海水が浸入して左舷側に船が傾いてしまい、
とても人力でポンプを動かしていては間に合わない、という事態になったのです。

当時、「バルクルーサ」には貨物の積み降ろしのためにドンキー・エンジン
(ここの入り口に飾ってあったあれ)が搭載されていたのですが、
この非常時に、船員はこれを使うことを思いつきました。

急遽リグでポンプのベルトを作り、ポンプをエンジンの力で回すことによって、
左傾した船体から海水を汲みだし、
無事に生還することができた、というのです。

これを思いつき、実行し、成功させた頭のいい人がいて本当によかった、
と乗員は皆胸をなでおろしたことと思われますが、
それより、急遽担ぎ出したドンキーエンジンが、あっという間にポンプのクランクを回し、
水があれよあれよと汲み出されていくのを見て、日頃ポンプ仕事を

「一番嫌な仕事」

として嫌々やっていた船員たちは、一様に

「最初からこういうの作ってくれよ・・・」

と情けない思いを抱いたのではなかったでしょうか。

だいたい、世界では(日露戦争もこの頃)石炭船が主流、
そのほかにも海底ケーブルだの無線だの科学の進歩が凄まじいこの時期、
帆船でアラスカに鮭を獲りに行かせるなどという前時代的なことを
労働者にやらせていたということ自体がブラック業界だったよね。

この上部構造物には入れないようになっていました。

ポンプの後ろにある構造物に入っていきます。
意外なくらい大きなスペースが広がっていました。

ここが昔なんだったのかはわかりません。

床はおそらく建造当時のまま。
時代を感じます。

この部屋に、「バルクルーサ」の生涯航路が地図で表されていました。

「バルクルーサ」は1886年にスコットランドで建造された船です。
1890年までは、ヨーロッパで収穫された麦をサンフランシスコに輸出していました。

その時はまだ運河が開通していないので、航路は大きく喜望峰を周り、
(ということはマラッカ海峡を帆船で超えたということですね)
太平洋を北上してサンフランシスコに到達していました。

もうこの頃には蒸気船も登場していたわけですが、優れた建造技術で
仕上げられた帆船「バルクルーサ」は、そんなことは御構い無しで
貨物を積んで世界中をまたにかけていました。

当初船員の構成は多国籍で、イギリス人が最も多く、その次に多いのがアメリカ人、
フランス人にイタリア人もいました。
アラスカでサケ漁をする頃には中国人がひどい環境で働いていたと言います。

1890年からは、「バルクルーサ」はニュージーランドにも寄港しています。
目的はイギリスのロンドンに持ち帰る羊毛と獣脂でした。

10年後には彼女はハワイ、ワシントン、オーストラリア間で
木材を主に貨物として航海を行っています。

なんども言っているように1904年からは、アラスカ・パッカーズアソシエーションが
彼女を購入し、同社のサケ漁船の一隻となり、同時に名前を

「スター・オブ・アラスカ」

と変えられました。

サンディエゴの「スター・オブ・インディア」という帆船について
ここでご紹介したことがありますが、同社のサケ漁船はその全てに
「スター」という名前がついており、自らその船を

「スター・フリート」

と呼んでいたのです。


続く。