ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

三菱航空博物館~零戦

2012-02-27 | 海軍

明治村における野望達成の話の前に、三菱の航空博物館に行った話をします。
画像は、零式艦上戦闘機のコクピットに座った位置からの眺め。
靖国神社の遊就館にも零戦はありますが、ここは階段でこの高さに上がって、
座席に座ることもできるのです。

零戦の操縦席に座ってみたい!という方。ここおすすめです。
ここは正式には三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所といいます。
この工場では戦闘機、ヘリ、民間輸送機、そして宇宙機器などを製作しているのです。

去年の末のこと、TOは所属しているクラブで催されたここの見学ツアーに参加しました。
ところが、最初の工場見学の段階で
「オレの、オレの、オレの話をきけー!」な参加者のおじさんが、
「五分だけでもいい」どころか案内の人を食う勢いで自分の戦時中の体験談を始めてしまい、
(それはそれで興味深い話ではあったようですが)
ツアーの行程を全部消化しないうちに、帰る時間が来てしまったというのです。
それで、その結果省略されたのが

「航空資料博物館」

そう、ここです。
この零戦始め、三菱が戦時中から戦後に手掛けた航空関係の資料のある、
このツアーの目玉とも言える資料室、御一行様はを観ることができなくなってしまったと。
・・・というわけで、TOにとってはリベンジ再訪。
わたしにとってはもちろん初めての見学となったわけです。

見学には前もって予約が必要です。
常駐の解説員が説明をしてくれるからです。
この日、説明してくれたのは、元自衛隊のパイロットであったという方。
この方が現役だったときには、もう大戦経験者の旧陸海軍出身パイロットは、引退していた、
とのことです。



冒頭写真の零戦がここにあります。この資料館の目玉の一つ。(目玉は三つあります)
復元された零式艦上戦闘機、五二型。


戦後何十年もヤップ島で野ざらしになっていた零戦。
しかし、野ざらしは野ざらしなりに、現地の人が保存していたようです。
勿論、これを復元すると言っても、使える部品はごくごく一部。



成形した後、使わなかった部分や内部の部品はこうやってまとめて展示されています。
座席は(何十年とはいえ)雨ざらしになったくらいで、このようにペラペラになってしまうくらい
「薄かった」ということですね。
せめて後頭部の後ろまで高さがあれば助かった命も多かったのかもしれないと考えると、
この座席に穴まで開けられた「軽量化」が、人命軽視の象徴にすら思えないでもありません。

しかし、安全への配慮よりなにより、機能性と機動性をまず優先したこの戦闘機が、
まるで全ての俗を超越した剣豪の持つ銘刀のように思えるという一面もあります。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
この言葉に通じる、日本的な、あまりに日本的な滅びの美学。



不思議なくらいピカピカのプロペラ。展示にあたって汚れを落としたのでしょうが、
それにしても綺麗ですね。
ヤップ島の写真では、カウリングごと下に落っこちてしまっていたようです。
銃弾を(プロペラだけで)三発受けています。



右の方の小さい銃痕はともかく、この二つの銃弾は20ミリクラスの相当大きなものに見えます。
コルセアなども二〇ミリを搭載していましたが、係の方によると
「(破痕が)大きいからと言って20ミリとは限らない」ということです。


左は「三式十三耗機銃弾薬包」右は「二式十三耗気銃弾薬包」



左半分が海軍使用、緑のシールの説明が陸軍の銃弾。



二十ミリ銃弾にも99式があるとは知りませんでした。
「これは零戦の20ミリですか?」
案内の方に聞くと、なぜかもう一人のさらに年配の係の方が登場。
「99式、つまり昭和14年の制式ということは、零戦の発表前に作られたものですね」
自分で自分に確かめるように呟いたら

えらくびっくりされました。

こういうところですから、おそらく戦闘機、零戦のトリビア博士級のオタクが訪れ、
解説の方は「オレの、オレの、オレの」知識を熱く披露されることもしょっちゅうでしょう。
ですから、決してこれしきの知識にびっくりされたわけではないと思います。

さらに、出てきたもう一人の方が
「はっきりとはわかりませんが(ここにある零戦の搭載ではなく)21型のものでしょうね」
とおっしゃるので
「ああ、飴色の・・」と、ふとつぶやいたら、

さらにびっくりされました。

まあ、親子三人連れの、しかも唯一の女性である母親が他の二人を差し置いて熱心、
というのもあまりないパターンで、かれらには意外だったかもしれません。

それはともかくこの20ミリ弾は零戦に搭載するために零戦制式の一年先がけて作られた
「第一号」であった、という理解でいいですか?

ここに訪れる大きな収穫として、零戦の操縦席を間近に見ることができ、さらに運が良ければ
座ることもできる、と言うことがあります。


復元されたとはいえ、そこに座ると「この風防からどのような空が見えたのか、と
想いをはせずにはいられない操縦席。
ヤップ島にこの機が墜落した時、搭乗員がどうなったかまではわかっていないようです。

 

写真を撮っていたら「次のツアーが来るので早くしてください」と、せかされました。
どうもこの方はカメラマンのようでした。
どうして広い館内のこの写真を、しかもわざわざ人が見ているときに割り込んで撮るのか、と
少しむっとしたのですが、笑顔で交代しました。

この後、彼らは他のところの写真も時間をかけて撮りまくっていました。
次のツアーが来るのにも相当時間があり、なぜ彼らがたまたまそこを見学していたわたしを
どけてまで、このときここの写真を撮りたかったのか、全く謎でした。



零戦の試作第一号を組み立てている歴史的な写真。
なぜ画面の右上に時計があるかと言うと、これは館内に置いてあったデジタルフォトフレーム
(時計付き)で再生されていた画像だからですw





当然ですが、逐一人の手で行っています。
今、垂直尾翼をつけよう、と言うところのようですが、組み立ての工員は一人でやっていますね。
ちなみに、先ほどのジュラルミンのプロペラは、手で持つことができます。
いかに軽いか、と言うことを実感することもできるのですが、なんといっても、
「本当に戦闘に参加して銃痕のあるプロペラを触ることができる」というのは凄いですよね。
ちなみにわたしは横着して片手で持ちあげようとして
「片手じゃ無理です」と笑われました。





上の写真を正面から見たところ。
翼の下にいる背広の人が、もしかしたら堀越さんではないか?などと想像してみる。

係の方たちとは、零戦の「省エネ力」ならびに航続性について熱く語ったのですが、
やはりいかに省エネタイプの性能を備えていても、誰が操縦してもそうであるわけではなく、
やはり名人のような操縦の達人の手によって初めてキャパシティが極限まで引き出されるらしい、
そういう意味ではやはり名刀は人を選ぶと言うものだったそうです。
名器ストラディバリウスが弾き手を徹底的に選ぶのと、全く同じですね。


先日語った日航パイロット藤田怡与蔵氏が、真珠湾攻撃から帰ってきて母艦に着艦したとたん、
計器が燃料ゼロを指して止まった、と言う話をどこかで読んだ気がします。
(確認していません。違ったらすみません)
「こんな話を覚えているのですが」
と係の方にその話をすると、
「ああ、坂井三郎さんも同じようなことを書いていましたよ」
とのことです。

色々質問をさせていただきましたが、飛行機の話から話が弾んで、国防や国家意識、
果ては話題は息子の教育方針に及び、
「いや、自信を持って息子さんを立派に育ててくださいよ」
と背中をたたかれました。 (ノД`)・゜・。


ここについてはまだまだお話したいことがあります。また後日。