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二〇四空の「ラバウル海軍航空隊の歌」の話

2012-02-09 | 海軍

「歩かされる陸軍はご免こうむりたい」という理由で海軍に籍を置いた軍医がいます。
短期現役の二年間を過ごしたところ「海軍の捨てがたい良さにひかれてしまい」
永久制軍医科士官に志願しました。

小林勝郎軍医中佐です。

「あなたは行進曲軍艦を完璧に歌えるか」
の日に「シンコペーション」とあだ名を付けられた軍医中尉の話をしましたが、
それはこの小林軍医の若き日のエピソードです。

小林軍医は好事家を超越したアマチュア音楽家で、
大学時代はオーケストラに籍を置いていました。
自身で作曲をし、指揮をすることもできたようです。

軍艦比叡乗組みのとき、天皇陛下の御乗艦を迎えるために「栄光」という名の管弦楽曲を作曲し、
内藤軍楽隊長の提案でこれが「御前演奏」されたこともあるのです。
プログラムには「小林軍医大尉作曲」と書かれ、
陛下の侍従部官長が「本当に君が作曲したの?」とふしぎそうに聞いたそうです。

一口に管弦楽曲と言いますが、オーケストレーション(管弦楽法)は
メロディが書けるだけの人にはできることではありません。
音楽大学では対位法や和声が演奏科の学生の必須ですが、これらを勉強しても
編曲したり作曲したりはできないのが普通で、
好きでオーケストラを振っていたくらいの知識ではここまでできるものではありません。

小林軍医はまた、必ず軍楽隊の練習に立ち会い、時間があればずっと傾聴していました。
いつの間にか軍楽隊の隊員とも仲良くなり、一度は「こっそり」指揮をさせてもらったそうです。
なぜ「こっそり」であるかというと、、軍楽隊の指揮は軍人以外には決してさせない、ということが
規則で決まっていたからなのだそうで。

軍医は軍人のうちに入らなかったのでしょうか。

 

おそらくこのとき写したのであろう、軍楽隊最高位まで昇進した
内藤清伍少佐
と小林軍医大尉の、比叡甲板での写真があります。
(本日画像)
例の「栄光」は、この内藤隊長のチェックを受けたそうですが、
手直ししなければいけなかった和声や技法上の間違いはごくわずかの部分だったとのこと。


戦後、小林軍医は「医師、音楽家」という肩書で、
実に充実した二足のわらじを履きこなす日々を送ったようですが、
おそらく90歳にはなっておられる写真に覗える御尊顔すら銀髪の超ナイス。
この比叡艦上の大尉時代は、さらにすらりとした長身で髭を蓄え、なかなかの男振り。
イケメン軍医大尉(兼作曲家)だったわけですね。

小林軍医が、この比叡、そして厳島(水雷敷設艦)の乗組みを経るうち、開戦を迎えました。
昭和18年4月、軍医は第二〇四海軍航空隊軍医長に任命されます。

以下、小林軍医説明するところの二〇四航空隊です。


この第二〇四海軍航空隊は司令(大佐)以下2千名近い隊員から成っており、
医務科には私の下に分隊長、分隊士他に37名がいた。

小林軍医がラボウルに着任してほんの数日後、大変な事件が起こります。
山本元帥乗り機がブーゲンビル島のブイン飛行場に向かう途中で撃墜されたのでした。

忙しい軍医としての任務をつとめながら、マラリアにかかるなどの大変な目に会い、
それでも珍しい果物に舌鼓を打つような毎日に慣れてきた頃のこと。

そのころのラボウル周辺の空中戦は日に日に激化する一方で、二〇四空では、
歴戦の飛行士官はじめ下士官兵にもだんだんと疲労が・・・・・、
特に精神面での疲労が濃くなっていました。
月に一、二回は日本から学徒兵を主体にした若い搭乗員が補充増員されるのですが、
空中戦の経験が浅く、もしくは皆無なため、最初の空戦で散華してしまうのです。

隊全体を虚無感に近い士気の低下が色濃く包むようになってきました。
それを憂えた小林軍医は医療チーム一丸となって可能な限りの療法を試みたのですが、
なかなか良い効果は期待できない状態でした。


―勇壮な歌でも歌わせでもしたら、彼らの士気鼓舞にわずかでも役に立つかもしれない―


そんなふうに思いだしたおり、小林軍医は、海軍輸送航空隊の若い主計大尉が書いた、
ある詞を入手します。
それが「ラボウル海軍航空隊の歌」というタイトルでした。
単純かつ勇壮なその詞に、さっそくメロディを付けようと、小林軍医ははりきります。

数日間毎夜、南十字星を見上げて、歌詞を口ずさみながら
私は、芝生の上を歩きまわったのだった。
行進曲風で堂々としていて、いくらか悲壮味があり、しかも歌いやすい曲をと念じて。

 二週間かかって曲は仕上がりました。

さて、ここで皆さんがあの

「銀翼連ねて南の戦線」

というあの歌がこのように産まれたのだ、と勘違いしてしまってはいけないので説明すると、
今に残る軍歌「ラバウル海軍航空隊の歌」の作曲者は古関裕而
日本作曲界の大重鎮です。
こちらの「ラボウル海軍航空隊の歌」は、勿論のこと、そのヒットソングが生まれる以前に
作曲されています。

レコード会社専属の専門作曲家の作るものと違い、
こちらは隊付きの軍医が隊員のために、ごく私的に書いたもの。
完成後、譜面は東京の内藤少佐に送られ、少佐の指揮により、この曲は
JOAK(NHKの前身)から放送されました。
本人も作品使用料をいくばくか貰ったようです。

しかし、残念なことにいつの間にか楽譜は何処かに消えてしまい、作曲した本人ですら
始めと終わりの数小節しか思い出せない「幻の曲」になってしまったのでした。


軍医はガリ版を刷ってこの曲の譜面を印刷し、隊員に配るところまではしたようです。
しかし、その頃から戦局は一層激しさを増し、敵機の来襲も頻繁になってきて、
それをもとに歌唱練習をみんなで行う、などということは全く不可能となってしまったのでした。
隊員が口ずさむ機会があれば、生存者によってそれが伝わるというチャンスも
あったのかもしれませんが・・・・。

 

さて、こんにち「ラバウル海軍航空隊の歌」として認知されているところの「本家」ですが、
ラバウルにいた航空隊員で当時この歌を知っていた者はいませんでした。

それもそのはず、
この歌が作曲されたのは昭和19年1月。

小林軍医の所属した海軍二〇四航空隊は同年2月には第一陣がトラック島へ移動。
一カ月を待たずして2月20日、海軍航空隊はラバウルからの総引き上げを決行します。
海軍ラバウル航空隊はこのとき消滅しました。

皮肉にもこの曲が巷でヒットし、皆がメロディを口ずさむようになるのはその後のことです。

本当の「ラバウル海軍航空隊の歌」この幻の曲なのかもしれません。
少なくとも二〇四空の航空隊員たちは、この曲の楽譜と歌詞を一度は目にしたはずだからです。
中には譜面を見てこのメロディを口ずさむことのできた隊員もいたかもしれません。