ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

チェロと「あなた」

2012-02-02 | 音楽

     

「もしわたしが家を建てたら~部屋には古い暖炉があるのよ~
家の外では坊やが遊び~坊やの横には~」


おおまかにいうとこういう歌詞の唄がかつてありました。
この歌の歌詞に「白いピアノを弾くのよ~」という部分があったような気がしていたのですが、
あらためてチェックすると、ピアノは出てきませんでした。
いつの間にか白いピアノを弾きながら歌っている歌手のイメージを歌詞と混同したようです。

それにしても、この歌詞、今見るとうっすら背中に粟立つような気味悪さがありませんか。
「ブルーのじゅうたん敷きつめて楽しく笑って暮らすのよ」
「そして私はレースを編むのよ」

素敵な家、乙女チックな幸せの一瞬の光景、
そういう「絵にかいたような」暮らしが、将来永劫にわたって続くものだと信じ、
あるいはその理想の生活が、あたかも
「王子様と王女様は何時までも幸せに暮らしましたとさ」というおとぎ話の如く実在すると信じる。
「ハッピーエバーアフター」症候群とでもいうべきお花畑な理想を抱く女の子の歌なのですが、
一番怖いのが、この一文。
「いとしいあなたは今どこに」

・・・・・・・うわ~。

彼氏がどこに行ったかもわからないのにこういう妄想してるんですか。
それともどこかにいってしまったからこその妄想でしょうか。
「そんな妄想語られても、オレの稼ぎで庭つきの暖炉のあるうちなんて買えるわけないだろ?」
と彼氏は逃げてしまったのかもしれません。
あるいは、いや、こちらの方が可能性大だと思えるのですが、彼女が「愛しい」と呼ぶ男性は、
彼女が勝手に思いを寄せているだけで、実は彼女のことを知らないとか。

サビ部分で「そして~わたしは~レースを編むのよ」という、
何となくメンタル的に問題のありそうなリフレインを(転調してまで)するのもかなり不思議。
実は昔から「気持ち悪い歌だなあ」と思っていたこの歌詞をあらためて見て、妙に納得しました。
本当に気持ち悪い歌であったということに。


ところで、まあここまでの激しい妄想ならずとも、
誰しも将来に思い描くビジュアル的な「幸せの構図」があると思います。

リビングルームにグランドピアノ。
皮張りの座り心地の良い椅子はドイツ製。
部屋には暖炉に火が燃え、さりげなく立てられたチェロ。
それは躾のいい端正な容姿の息子によって勉学の合間に奏でられるのだ。
彼のチェロに伴奏をつけるのは美しい彼の母親である。
彼女は音大を出て、演奏活動をしたこともあるが、
今は家庭で愛する夫と息子の身の回りを整えることに喜びを感じている。
しかし、息子の伴奏をするとき、二人はしばし音楽を媒体に親子ではなく
演奏者として真剣に向かい合う。
知人の催すパーティに、また何曲か弾いてほしいと言われている彼等は
今日もその練習に余念がない。


上記は、文中にふんだんに挟まれた形容詞を除き、嘘偽りない我が家の真実です。
言わば「冒頭の妄想ソング」に匹敵するような、わたくしがかつてうっすらと
「こんな生活があってもいいなあ」とビジュアル的に思い描いたことのある光景そのままです。

しかし、こうして書いてみてもう一度読み返すと、どうしてもうちのこととは思えません。
たしかに激しく美化している以外に嘘は一つもない。
しかし、ここから受けるようなイメージは、現実とはかけはなれている。
いかに文章表現いかんで、印象は操作されるかということでもあろうかと思います。


ところで、本日タイトルです。
チェロ始めました。

息子がついに私と身長を並ぼうとする頃、楽器を買い換えました。
冒頭左写真は、フルサイズのチェロと並べた息子の最初の分数楽器。
パリの楽器屋を歩き回って、やっと見つけた8分の1サイズです。
世の中には10分の1楽器というものも存在し、幅23センチのものらしいですが、
もうこうなるとヴィオラにエンドピン刺して使えば?というレベルですね。

最初の楽器はこのように記念として飾ってあるのですが、途中で買い替えた分数楽器は、
どれももう必要ありませんし、置き場所にも困りますので売却しました。

楽器を買いに行くとき、これは音楽界の常識のようなものなのですが、
師事している先生に楽器屋への仲介を頼みます。
いきなりお店に入って行って

「あ、大将、チェロほしいんだけど、いいのある?」
「今日はいいネタ入ってきたんですよ。
先日ヨーロッパで売りに出されたモンターニャです」
「うーん、モンターニャの気分じゃないな」
「お客さん、そう言わず弾いてみてくださいよ。もうゴリゴリ鳴っちゃいますから」
「ゴリゴリか―。ストラディないのストラディ」
「ああーストラディバリウスはさっきちょっとの差で出ちゃいまして。
なんせ元々の本数が少ないもんですから」


なんてことにならないように、前もって先生を通じて、楽器を用意してもらうのです。

ご存じのように楽器の値段は、上を見たら首の骨をいわしてしまうくらいきりがありません。
代々の息子の先生の楽器は、いずれも家一軒買える値段。
しかし、あくまでも趣味で楽しむのが目的の子供のチェロに、
そこまでの名器を与える必要はさらさらありません。
猫に小判、豚に真珠ってやつです。

当初、スズキの練習用をできるだけ安く買う、ということで楽器店に赴きました。
先生も来てくださって、次々と弾いて音をチェックし、横で聞いていて私たちは響きをチェック。
ところが、ここでもまた魔法の言葉が脳裏をよぎるのですね。

「銭ただ取らん」


練習用スズキと、練習用とはいえヨーロッパ製の中古を比べると、明らかに音が違う。
因みに、弦楽器は鳴らせば鳴らすほど音が「鳴ってくる」ので、同じレベルの楽器であれば、
古い方が値段が高くなります。

「うーん、やっとこの辺から楽器らしい音がしてきますね」
と先生がおっしゃったのは、スズキの二倍のお値段の楽器。
そして、こういうときにさりげなく、どんどんいい楽器を持ってきて、
少しでも高いのを買わせようとする業者。
何とかこれが許せるか、とドイツ製の中古を選びかけたとき、
「これも弾いてみてください」
と業者の持ってきたイタリア製。
「これくらいなら楽器としてかなり許せますね」
それはそうなんだけど、ハッと気づけばスズキの三倍のお値段。

楽器は値段に音が比例するから、高ければ高いほど欲しくなるのも事実。
しかし、息子をチェリストにするつもりもないし、当人もその気がさらさらないので、
ここでぐっと自分の「いい楽器ほしい欲」を理性で抑えました。

「ドイツ製にします」

しかしそこで終わらない楽器選び。
スズキならおまけの弓が付いてくるのですが、またここで選んで買わなくてはいけません。
「もうどーでもいい」
と思いかけたのですが、先生も業者もわたしが選ばなくては仕事が終わりません。
辛抱強く弓選びをし、しかしまたもう一つ関門が。
ケースです。

あーもー、ソフトケースでいいです、といいかけたら、先生と楽器屋さんが同時に
「いや!それはやめておいた方がいいです」
軽いがその分楽器粉砕率も高いので、持ち運ぶ可能性があるなら絶対にやめた方がいいと。
大学時代、学校の楽器を借りてソフトケースで電車に乗り、改札口で楽器を持っていることを忘れ
「ぼえーん」という派手な音をさせたこともあるわたしは、即座に納得し、
ハードケースを購入することにしました。

と   こ   ろ   が  。

ハードケースって、またお高いんです。
7万くらいのケースは重く、先生も業者も口をそろえて「本体が重いのでケースは軽い方が」
先生は使う人間のことを考えて、業者は少しでも高額商品を売るために、と、
理由は違えど、異句同様二人して「少しでも軽い高額のハードケース」を勧めてきます。

いや、どうせ車で動くし、多少重くたって、それに所詮子供の練習用・・・・。
・・・ん?これは・・・・

「メイド・イン・コリア」

「あ、こっちにします。イタリア製の」
その文字をみたとたん、今まで渋っていた最高級品にびし!っと指さしをするエリス中尉。

先生「?」
業者「?」

「・・・・あ、いろいろあって、うちではフリーチャイナ、フリーコリアなんです」

横で見ていた息子、後から言うには
「そう言うと思った」

おかげで
チェロよりケースの方が高い
という状態になってしまいましたが、それでもこれを買ってよかったと使いはじめて実感しています。
まず、さすがのイタリア製。
コリア製の趣味の悪い色(真っ白とかオレンジ)と違い、基本黒にうっすら浮かぶレッドが粋。
部屋の片隅にあってもインテリアと違和感がありません。
(冒頭画像は、それまで使っていた2分の1楽器と並べた件のイタリア製ケース)
そして、軽い。

楽器というものは、そして今回買ったドイツ製の中古は特にやたら大きくて重いので、
わずか1キロ台のケースがどれだけありがたいかが、持ち運ぶたびにわかります。

先日、あるパーティで息子がチェロを弾いたとき、会場にいた建築家の方がケースに目を留め、
「いい素材のケースですね。カーボンファイバーですね」とおっしゃいました。
建築材料としてもこの素材は使われるようですね。

そして、今回フルサイズになったのをきっかけに、わたしもあらためてレッスンを始めました。
わたしには、大学時代、歴史に残る大チェリストに副科で指導を受けたという、
恥ずかしい過去があるのですが、それも忘却の彼方。

あらためて息子の先生にレッスンをお願いしました。
最初のレッスンで楽器を持つところからあらためてやりなおしたのですが、
大チェリストの恩師をご存じの先生が

「ここは、こういう風にするんですが・・・K先生の最初のレッスンって、どうでした?」
「・・・・・・・・・・・・全く記憶にありません」
「何をやってたんですか」
「何をやっていたんでしょうねー」

大学生当時、いかに冒頭歌のようなイメージだけでチェロという難物を選んでしまったか、
あらためて分かったような気がしました。
なんと今回、やり直してみたら1ヶ月くらいで当時の一年間よりずっと上達してしまったのです。

K先生。あのときはすみませんでした。
先生のレッスンでもほとんど遊んでた想い出しかないの。楽しかったです。

それを現在の先生に言うと
「信じられない。K先生に室内楽のレッスン受けたことがあるんですが、怖くて泣きましたよ」


というわけで、なまじ絶対音感がある者の哀しさ。
自分の奏でる音のあまりの音程の酷さに悶え苦しみながらも、楽しく練習をしています。
ところで、前述の「理想の光景」ですが、現実は・・・・


(ゲームをしている息子に)
「チェロするよ」
「えー」
「えーじゃないの。いちいち文句言わない。さっきチップス食べたでしょ。手洗ってきて」

(練習開始)
「ちがーう!そこ2の指で取らない。もう一回。あースラーでしょそこ」
「あー」
「いちいちため息つかない!もう一回ここから」
「そこさっきやった」
「できてないから練習するの。そんな早く弾いてどうする!この部分だけあと3回!」
「何で怒るの」
「怒ってるんじゃないの!指導してるの!」
「・・・・・ぐすっ」
「男が練習で泣くな!できるまで何回でも弾いて」

息子の態度とわたしの機嫌によっては、練習で親子喧嘩、なんてしょっちゅう。
これでも五嶋龍のお母さんと比べれば聖母マリアのように優しいレッスンなんですが。


ところで、冒頭の歌の作者は、万が一念願かなって現実の生活が始まったとしても、
ブルーのじゅうたんを敷き詰めたくらいでは楽しく笑って過ごせないことくらい、
常識で分かるべきだと思うのですが、どうでしょうか。