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千の風になって~裸の王様?

2010-06-11 | 音楽

こんなことを書いてもいいものかどうか、非常に悩んだのですが、言ってしまいます。

皆さん、「千の風になって」という日本語の曲、好きですか?
いい曲だと思いますか?
残念ながらエリス中尉は力いっぱい「大嫌いです」と答えざるをえません。

この曲が、もともと誰が書いたかわからない作者不明の英語の詩を翻訳したものに作曲したということはご存知でしょうか。
何故この曲が「人生におけるワースト3」に入るくらい(えっ?)嫌いなのか。
それは、「歌詞が美しくない」からです。

この曲をこのように言うと、たちまち、そこここの善男善女から轟々たる非難を受けるかもしれません。
でも、勇気を出して言いましょう。
はっきり言って、この曲の歌詞は最低です。
メロディもかなり稚拙だと思いますが、私が最初に聴いて「信じられない・・」と呟いたのはこの部分です。

「死んでなんか~いません~」

「しん」の部分にコブシが入りそうです。
聴いていて恥ずかしいというか、よりにも選ってその言葉を選びますか?
「死んでなんか」はないだろう、と言いたい。
普通に考えても、英語歌詞を直訳しているのですから、音楽的に美しい詞などになりっこありません。
おまけにこの部分のメロディ、
レ~レレレ~~ドラミレ~
の完璧なまでのダサさ。
歌詞の救えなさをさらに助長しているとしか思えません。
どう優しく見ても、素人の仕事です。

と、かねてから思っていたエリス中尉、この記事を書くためにこの曲について調べてみました。
驚きましたね。
やっぱり素人仕事でした・・・・。

なんでも、病気で亡くなられた知人のためにわざわざ英語の詩を探し出し、それを翻訳して歌詞にした、と言うものなのだそうです。
ああ、知りたくなかった。

こういう曲にケチをつける奴って、悪人ですよね。
多少変な歌詞でも、こんないきさつがある曲は、みんな暖かく見守るべきですよね。
現に、身内を亡くした方は、この曲に感極まって泣いたりするそうじゃないですか。
そんな、アンタッチャブルな領域にこの曲は位置しているわけです。

でも言うぞ。

何年か前、某ノーベル文学賞作家の、障害を持った息子が作曲したピアノ曲が、もてはやされたことがあります。
マスコミいわく「ピュアな美しさ」「魂の音楽」云々。
私も聴きましたが、はっきり言ってこれも「素人仕事」でした。
困ったものだなあ、と思っていたら、敬愛する坂本龍一氏がこういう意図のことを言ってくれたのです。
「障害者の作る音楽だからといって持ち上げるべきではない。この音楽はそのレベルではない」
よく言ってくださった、坂本教授!
私はますます氏が好きになりました。
世界のサカモトが、王様は裸だ、と言う子供の役をしてくれたのですからね。

さて、もともとの英語の詩そのものに、手を加えず作曲を施した曲があります。
英語の歌詞についてはネイティブでないので何とも言えませんが、少なくとも音楽的なできは日本語の歌より格段に上です。
キャサリン・ジェンキンスの歌で聴きましたが、彼女の朗々としたハリのある歌声は、ともすればお涙ちょうだいで聴かれがちなこの歌に、力強さを与えています。

A thousand winds と言う題のこの曲の最初の歌詞は次の通り。    
  
Do not stand at my grave and weep,
I am not there. I do not sleep.
この歌詞の一行目、音符の数で言うと、わずか8個、4小節に納まってしまいます。

ところが、全く同じ
「私のお墓の前で泣かないでください」
になると、同じ4小節で音符使用数20。
一音に一字しか充てることのできない日本語の持った宿命です。

だからこそ、日本語の歌詞には、唯の言葉選びではない、磨き抜かれたセンスと、最少の言葉で最大限のことを語る能力が要求されるのだと思います。
名曲と言われるものの歌詞はすべからく研ぎ澄まされた言語感覚の上に成り立っているものではないでしょうか。

素人仕事でも、鑑賞に耐え得るものなら否定はしません。
しかし、そのレベルに達しないものを必要以上に持ち上げるのはいかがなものでしょうか。
ある種の「サンクチュアリ」の中で、非難するのもはばかられるような状況に祭り上げ「なんか変だよね」と言えないまやかしのベールをかけるのは、卑怯だと思います。
おそらく作ったご本人の預かり知らぬことでありましょう。
私も知人のために作った歌に込められた気持ちまで卑しめるつもりは毛頭ありません。

ただ、「立派なマントは馬鹿者には見えない」と言われて、見えるふりをしたり、見えるつもりになったりする人が世の中にはたくさんいるようですので、あえて言わせていただきます。

「王様は裸だ!」