アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

道元-5-悟って後、俗世を生きる

2023-11-09 03:46:38 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-16

◎青春期の水平の道-15

 

あの道元ですら、身心脱落の体験者であっても人格的には今一歩だった。これは道元だけの問題ではなく、ニルヴァーナに入った覚者がすべて人格的に円満、成熟しているかと言えば、ニルヴァーナと人格の成熟は無関係である。

よく新興宗教の教祖が人格的に練れていて絶対に怒らないでいつもにこにこしているからすごいなどという話を聞くこともあるだろうが、その人格円満は本筋とは別の話。

この背景には、悟りの深さと高さという視点があるように思う。悟った人は、天国も地獄もクリアしているが、彼らの中には、地獄的なものに平気で応対できる人物と、それが不得手な人物がいる。前者が高さも深さもある人物であって、後者が高さだけは達している人物なのだろうと思う。そういう見方からすれば道元は後者である。

覚者でも、身心脱落しても人格的に円熟とはいえない一人として道元が挙げられると思う。ニルヴァーナの体験がなくて人格的に成熟した人ならいくらでもいるが、覚醒と人格陶冶は別物なのだ。

 

彼の弟子の玄明が北条時頼から寄進地をもらって意気揚々と永平寺に帰って来た。道元はこれを聞いてひどく怒り、玄明の坐禅の坐は破壊するは、彼が居たところの土を掘って捨てるはと、すごい剣幕であった。

道元は、弟子の名利の欲望を許すことができなかったのだが、やりすぎだろう。ここでは高弟の孤雲懐奘が出てきてとりなしてやれよ、くらいのシチュエーションである。

また彼は、正法眼蔵随聞記で、栄西の死後建仁寺の僧がセックスなどのエロ話を語るのを聞いて、はなはだあるまじきことだと言ったり、人の見ていない場所や、暗い場所であっても、陰部を隠さずさらしているのは、天にも恥じない行為であると厳しく指弾している。これもやや神経質に過ぎ、エロ系の行為や会話について過敏すぎて、コンプレックスがあるのではないかと疑われる程である。

最初の話は怒りをコントロールできなかったこと、後の段はセックスに何がしかのこだわりを残していることで、どうも人格的にはいかがなものかという印象が残る。

だからといってその身心脱落の境地の高さとは全く別のこと。大宗教教団にあっては、教祖が人格的にイマイチであることは建前として認められまいが、現代のように大衆の多くが悟るべき時代なら、個人的には、人格の成熟と覚醒は別であることを承知しておきたい。

 

ダンテス・ダイジは道元が大好きだったが、彼を「人間ドラマを演ずることのできない人」と謳っている。

悟っていない俗人が、俗世を生きるのは、大変だし、全身全霊の努力も要求される。だが、悟った人でも、煩悩まみれの俗世を生きるのに耐え得る人とそうでない人がいる。

悟った人から見れば、悟った人も悟っていない人も同じだし、まして悟った人同士の差については、婉曲にしか表現しないので、わかりにくい。

悟って後、俗世を生きるとは、煩悩を生きるということである。禅では、悟って後、煩悩の巷で生きることを聖胎長養とか、悟後の修行ともいう。

20年近く悟後の修行をやった臨済と大燈国師宗峰妙超。宗峰妙超は、鴨川の川原で、9年間も字も読めない乞食の群れで日がな過ごした。ホームレス9年はきついが、インテリで極めて精妙な感受性を持つ覚者がそこで風雨を逃れるすべもなく暮らすのはまして生きづらい。

そういう第三者が見たら全く無駄で非生産的な悟後の修行のことは、本人も言わないし、後世のライターも書かない。だから余計にわかりにくい。

こうして、悟後の修行がいまいちだったかもしれない道元のことで、ダンテス・ダイジが残した詩「人間になれなかった道元」がある。

 

その一部は

『今・吾・ここにて

道元老古仏に深く深く深く

帰依したてまつります

 

あなたは 人間になろうとして

只管打座の日々を送り

「正法眼蔵」を著述した

 

あなたの言う正法眼蔵が

人間そのものに他ならぬことを

私は知っている

 

しかもあなたは

決して人間になれなかった

 

道元よ

あなたはあまりにも弱すぎて

人間ドラマを愛することはできても

人間ドラマを演ずることはできなかった』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジより引用)

 

いまようやく正法眼蔵の意図がわかったような気がする。

コメント
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