◎ジェイド・タブレット-05-13
◎青春期の水平の道-12
道元が、弟子の質問に答えて、只管打坐は、何も得るところもなく、何も悟ることもないがそれでも坐るのだとしている。無用の用である。
〔正法眼蔵随聞記六から〕
道元が言った。
「修行の中で、最も重要なことは坐禅を第一とする。大宋国の人が、多く得道するのは、みんな坐禅の力である。
才能がなくて頭の悪い人でも、坐禅に一生懸命打ち込めば、その禅定の功徳により、多年学問をした聡明な人にも勝る。
そのようであるから、修行者は只管打坐して、他のことに打ち込んではならない。
仏祖の道は、ただ坐禅である。他のことに従ってはならない。
時に懐奘(道元の弟子)が質問した。「只管打坐と公案や禅語録を読むのとを比較すると、公案や禅語録を読めば、百千に一つくらいは、いささか納得できないこともあるが、坐禅には、ちょっと納得することも、効果もない。それでも坐禅を好むべきでしょうか。」
道元が答えて「公案や禅語録を読んで、わかったことが少しはあるようだが、それは仏祖の道から遠ざかることになってしまう。何も得るところなく、何も悟ることなく、端座(坐禅)して時を移すならば、それが仏祖の道である。
古人も公案や禅語録と坐禅の両方を勧めたが、その実は坐禅を専ら勧めている。また公案によって悟りを開いた人もいるが、それも坐禅の効果(功徳)によって悟りが開けた次第である。本当の効果は、坐禅による」
道元の一番弟子の懐奘が、坐禅はものの役に立たないと感じているのを、この言葉を聞く以前に、道元は察していたのだろうと思うが、とても情けなかったと思う。
懐奘ですら、坐禅は効果がないなどと思っているほどであるから、他の修行者は推して知るべしてある。
只管打坐というのは、漸進的な冥想手法ではなく、身心脱落するかしないかだけの冥想なので、身心脱落しなければ、まったく何も得るところも効果もないというのは、正直な感想だし、そのとおりだと思う。身心脱落しない只管打坐は、全く効果のない冥想に見える。
その効果のない冥想(只管打坐)が、ある日、身心脱落となるメカニズムは説明できないと来ていれば、理知的・論理的現代人は、そんな冥想をするのは、意味がないと結論を出すのは当然である。
翻って、「窮極の効果が、論理的な裏付けのない只管打坐によって成ることがある」などという説を誰が信じようか。でもそれは道元の側から見れば、恐らくは紛れもない真実であり、現実なのだ。
また皮肉にも、このような現実的な効果のない冥想をやれるかどうかが、この時代が生き残れるかどうかの鍵になっている訳でもあるが。
また悟れる確率について、道元だって、あの盛んな大宋国の叢林(お寺)においてすら、千人以上坊さんがいて、悟りを開いていたのは、1~2名だと見ていたので、悟り(身心脱落)が難しいのは承知の上だろう。要するに天童山(中国浙江省)でも、師匠の如浄と道元だけしか悟っていなかったということだろう。
おまけに、只管打坐では、公案や禅語録も修行の邪魔であり、役に立たないと断じているので、ますますシンプルな手法であることを露わにする。
ただただ坐禅するという簡単な手法なのに続々と開悟する人が出なかったのは、やはり身心脱落は難しいのか、道元の教育メソッドが今一つだったのか。
只管打坐が第一にして唯一ということだが、それでは、どうすれば悟れるかについて道元が回答している。
正法眼蔵随聞記第三巻に、どうすれば悟れるでしょうかという質問に対し、道元がまずは、その悟りを求める志が切実であることを求め、次に世間の無常を思うべきだと言う。
道元は、観想法などで理解するようなことでなく、これは眼前の道理だと断言する。
すなわち、他人が死ぬことを考えるのではなく、いつかは自分が老いて死ぬことをまず考えよう。いやこの道理を考えることも間の抜けたことだ。自分の命ですら、明日、急な事故や天災に巻き込まれないともしれないのだから、そんな悠長なことではいけない。
心構えは、無常迅速、生死事大であって、その危機はいつ来るかもしれないからこそ、今日ただ今しかないと心に据えて修行に励まねばならぬと説く。
修行に切実に取り組むのは当然だが、無常であることの切迫した意識は一時は持てても、常時そうなると、これは一種の強迫神経症みたいな感じであるものの、そうでもないと事は成らないということなのだろう。
そういう意識を持って、体を横にして眠る時間もなく、只管打坐を続けるのだろう。
只管打坐で悟る(身心脱落)のは、千人に一人か二人と少ないが、いつの時代も熱心に全国を回った有名禅僧の感想の中に、(只管打坐に限らず)禅で悟った人は少ないという言葉が出てくるものだ。中国唐代と日本の江戸時代の白隠の時代は例外的に悟った人を多く出した時代だったのだろう。
なお禅では、見性といって仏を見たり感じたりする究極でない中間的な体験を評価する場合がある。見性は、十牛図でいえば第三見牛であって、水平の道でいえばまだ自分が残っている有想定。道元はそうした中間段階の悟りを評価せず、究極である身心脱落しか認めないのが純粋である。