アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

文字と音

2023-03-24 06:19:59 | 覚醒のアーキテクチャー

◎マントラの前後

 

思考は言葉で行われる。

言葉とは音である。

思考で宗教、哲学、文明が構築されるが、その根底には音がある。

 

音をさらに探れば、奥底に感覚がある。人の言葉には意味があり言語となる。一方、鳥獣の発する声には言語としての意味はないが、感覚としての意味がある。母を呼ぶ、求愛など。

 

アオウエイなど特定の音には特定の感覚が結びついている。これは、出口王仁三郎の75声の一覧表や彼の〇〇言霊解などを読めばおおよそのイメージはつかめる。

 

それら各音の特定の感覚を組み合わせて世界各地でマントラが研究され創出された。

 

アーメン、カミ、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、無(禅の無字の公案)、隻手(禅の隻手の公案)等々いくらでもある。

 

マントラによってその効果は異なり、ネガティブな効果のものもあり、その辺は、覚者たちは知っているが公開するということはないことが多い。

 

出口王仁三郎はス字本義を唱え、空海は阿字本義を唱えるが、それは世界の構成原理なのだろうが、あくまで「特定の感覚」であるにとどまる。

 

言葉から、音、そして感覚に進むということは、六根(眼耳鼻舌身意)で言えば、目(視覚)から、耳(聴覚)、そして身に進むのだが、その身は触覚だけではなく、微細身の感覚まで想定している。感覚にとどまっているのでは、すべてを振り捨てて大悟覚醒には進めない。

 

よって、あくまで本来の自己、一円相、神仏を目指すプロセスにおいては、言霊、マントラすら棄てねばならないことになる。

 

新約聖書ヨハネによる福音書には、「初めに、言葉があった。言葉は神とともにあった。」などと書いてあるが、最後は言葉をも棄てないと神には行けない。

 

それを前提に、ダンテス・ダイジは、この粗雑な言葉の飛び交う現代において、マントラの精妙なニュアンスは有効とは見えないというようなことを言っている。だからマントラ禅で用いるマントラは何でもよいということまで言っているが、それは、マントラの精妙なる効果に期待しても悟るのはなかなか大変であって、むしろ最後はマントラをも棄てることで悟りに到達することを意図していたのかもしれないとも思う。

 

言葉を冥想して、その音の意味を感得し、言葉自体の不毛なところを見抜いてこだわらなければ、言葉、音、その奥にある特定の感覚からも自由になることができる。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2023年WBC決勝日本対アメリカ... | トップ | ひらがなの意味 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

覚醒のアーキテクチャー」カテゴリの最新記事