アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

まるで一輪の野の花のように

2024-06-06 03:51:50 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-13

◎ニルヴァーナ-13

◎人生、輪廻転生、運命とニルヴァーナ-3

◎何もかもが 時間でない今を楽しんでいる

 

さらにダンテス・ダイジの老子狂言から。

 

『まるで一輪の野の花のように・・・

      

何が何だと言うのだ     

これはこれなんだ  

いいや、これはこれだという必要もない    

 

何もかも、何もかもいいんだ     

こんなことを言うのも愚かしい 

それ位、これはこれなんだ

      

生命はジグザグに進む  

絶対の到達点などありもしないからだ    

この静けさをわかってくれるだろうか?    

 

しかも、生命は流れる  

ニルバーナといったところで 

それもまたひとときのふるさとにすぎない

      

何もかもがすてきだ     

何もかもが  

時間でない今を楽しんでいる 

極限の極楽と     

極限の地獄とを戯れている     

 

私は何と無駄な言葉を書いているのだろう!   

とことん無駄だと知りながら・・・    

まるで      

一輪の野の花のように・・・  』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

この詩では、ニルバーナという体験とはいえない体験以前に、

『ニルバーナといったところで    

それもまたひとときのふるさとにすぎない』とか、

『何もかもがすてきだ  

何もかもが  

時間でない今を楽しんでいる』

と言うのは間違いである。

 

禅語録によく出てくるが、悟った者が御簾を巻き上げるのは正しく、未悟の者が御簾を巻き上げるのは正しくない。同様に坐禅中に悟った者が居眠りするのはよいが、未悟の者が居眠りするのはまずい。

こうした韻文は、よくよく字面の奥を考えねばならない。

 

一輪の野の花は深い。

『とことん無駄だと知りながら・・・

まるで      

一輪の野の花のように・・・  』とは、無用の用の謂いである。

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