アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

禅問答の二つの相

2024-06-26 06:11:34 | 達磨の片方の草履

◎いつまでも続けることができない

 

禅は、悟っているか悟っていないかであって、中間段階はない。そして禅問答の大半は、悟っていない弟子が悟った師に問答をしかけるが、けんもほろろに相手にされていない問答になっている。

だから退屈なのが多い。

禅の公案は、ジュニャーナ・ヨーガのネタであり、そもそも正解のない問題を「正解のない」ことを世界全体が受け容れるまでやる。

 

だが、そのような問答の中には、悟った後の世界の二重性について言及しているものがある。

 

長沙和尚の話。

『三百則下56則の「長沙刈茅割稲」の話も、自己の立場を明確に示している。

ある僧が長沙に問うた、「本来人は、一体、成仏するのでしょうか」。

長沙、「あなたは「中国の天子が茅(かや)を刈り稲を割(か)るかどうか』言ってみよ」。

僧 、「成仏するのは、誰でしょうか」。

長沙、「外ならぬあなたが成仏してるのだ。わからぬのか」。(河村本一八九頁)

出典は「円悟頌古」39則である。本来人が実体視されるのも誤りであり、自己の外にあるのも誤りである。

 

長沙は、自己について、『光明』『十方』『諸法実相』の巻に引用される『伝燈録』巻一〇で、次のように言っている。

長沙和尚は、上堂して言われた、「わたしがいちずに宗教を宣伝したら法堂の中は一丈の草が生い茂るであろう。

わたしは、だから、やむなく諸君らに言うのだ、「宇宙とぶっつづきが出家 者の眼であり、宇宙とぶっつづきが出家者の全身であり、宇宙とぶっつづきが自己の光明であり(尽十方世界是自己光明)、宇宙とぶっつづきが自己の光明の中に在り、宇宙とぶっつづきが自己でないものは一人もいないのだ」と。

わたしはいつも諸君らに言っているだろう、『過去・現在・未来の諸仏たちと全世界の衆生とが摩訶般若(偉大な智慧)の光である』と。光が発しない時は、諸君らはどこに任(まか)せるのか。光が発しない時は、まだ仏もいない衆生もいない様子であり、どこに山河国土を得ようか。」。

 

その時、ある僧が問うた、「出家者の眼とは何ですか」。

長沙、「いつまでも続けることができない」。また、答えた、「仏祖と成り続けることができないし、六道輪廻のままで続けることができない」。

僧、「一体、何を続けることができないのですか」。

長沙、「昼に太陽を見て、夜に星を見る」。

僧 「わたくしにはわかりません」。

長沙「妙高山(スメール)の色はどこまでも青い」。(四部叢刊本二丁左~三丁右)

 

自己が摩訶般若の光と説く長沙の言葉に接して、一種の驚きを感じる。一般に弥陀の絶対他力を説く浄土系の信仰に対しては、禅は自力の宗教と枠組みされる。長沙の宗教は自力といえるようなところは全くない。道元禅師の宗教も一般にいう自力と把握するのは誤りであることを、この長沙の説法は教えてくれる。』

(中国禅宗史話/石井修道/禅文化研究所P270-272から引用)

 

この『長沙、「いつまでも続けることができない」。また、答えた、「仏祖と成り続けることができないし、六道輪廻のままで続けることができない」。』(上掲書から引用)という箇所が、みじめでなさけない人間である自分と、すべてのすべてである仏である自分の二重性の実感を説いている箇所。

 

これは、ダンテス・ダイジの詩『おれは神』と同じことを言っている。

 

同様に『「仏祖と成り続けることができないし、六道輪廻のままで続けることができない」』(上掲書から引用)は、同時に二者でいられないことを示し、それは、山本常朝の葉隠の『浮き世から何里あらうか山桜』で感じとれる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする