◎第七忘牛存人
【大意】
『序
真理が二つあるわけではない。仮に牛を主題としただけだ。罠とうさぎが別物であるのと同じく、魚と網の別があるようなものだ。まるで純金が金鉱石から出てくるように、月が雲を抜け出るのに似ている。
一筋の透明な月の光は、遠い昔の威音王仏出現以前つまり天地創造以前のものである。
頌
牛に乗ってもう家に到着することができた、牛は空しくなり、人ものんびりしている。朝日が高く昇るころになっても、まだ人は夢を見て眠りこけている。鞭と手綱は藁屋に置きっぱなしである。』
第六騎牛帰家までは、自分と牛では自分の方が主人然として、コントロールしようと躍起になっていた。だからといって、第七忘牛存人では、自分が牛を鞭や縄で慣らしつけたから、自分の思惑どおり牛がよく馴れておとなしくしている、と読むのは間違いだと思う。
鞭や縄で慣らしつけてみたら、牛は確かに自宅にいるが、牛(世界全体、真理、有、第六身体)のことはすっかり忘れて、牛と共存することでゆったりとくつろいでいる。
よってまだ牛と人とは一体になっていない。そして見ている自分を残している。見ている自分を残しながら、世界全体(真理、有、第六身体)である牛のことも見ているが、そこに緊張感はもうなくなった。だが視点はまだ人間の側にある。だが、自分は牛であったという逆転、倒立、サプライズは発生していない。これは、十牛図の大きな特徴である。
この図は、大悟直前には、牛飼いの少年が余裕を見せて自宅でごろごろしている、という図ではない。
聖書でいえば、こういうのを、見ている自分を残しながら見るレベル
神は光を昼と名付け、闇を夜と名付けられた。
神は大空を作って、大空の下の水と大空の上の水とを分けられた。(創世記)
聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。 (ヨハネの黙示録)
【訓読】
『第七 忘牛存人
序の七
法に二法なし、牛を且(しば)らく宗と為す。
蹄兎(ていと)の異名に喩え、筌魚(せんぎょ)の差別を顕わす。
金の鉱より出ずるが如く、月の雲を離るるに似たり。
一道の寒光、威音劫外。
頌
牛に騎(の)って已(すで)に家山に到ることを得たり、
牛も也(ま)た空じ人も也た閑(しずか)なり。
紅日三竿 猶お夢を作す、
鞭縄空しく頓(さしおく)草堂の間。』
※蹄兎、筌魚:ウサギを罠で捕まえれば罠のことはすぐ忘れウサギのことしか覚えていない。魚を漁具で捕まえれば漁具のことはすぐ忘れ魚のことしか覚えていない。鞭や綱のことは忘れ去られる。