◎海王星の発見から
『ヒエログリフの解読と次の海王星の発見には似たところがある。
誰も実際に目にしたことはなかったが、この惑星の位置は当時ケンブリッジの学生だったイギリス人のジョン・アダムズが計算していた。彼の発見はロンドンの王室天文官に伝えられたものの、実際に調査されることはなかった。イギリスではよくあることだが、素晴らしい発見は応用に結びつくことなく放置された。
一方、パリのユルバン・ルヴェリエが同じような計算をして、その結果をベルリンに送っていた。ベルリンの天文官はすぐに望遠鏡を空の正しい方向に向け、その結果、1846年に正式に海王星が発見された。』
(ヒエログリフ解読史/ジョン・レイ/原書房P67から引用)
悟りのピークにある、ニルヴァーナ、宇宙意識、禅の無、タオ、古神道の天御中主神、キリスト教の父なる神、こうしたものは、ほとんどの人は実際に目にしたことはなかったが、覚者は口を揃えて、有るという。
それを見る方法は望遠鏡ではなく、冥想である。
ウパニシャッドによれば、人は冥想によってニルヴァーナに至るという。
密教文献によれば、人は観想法を中心とした冥想により、大日如来に至るという。
道教の慧命経によれば、陽神が妙道を通って虚無と化していき、ついには日も月も忘れて寂浄にして霊虚なる一円相(太乙)にたどりつくという。
禅メディテーションの只管打坐によれば、身心脱落して、すべてのすべてとなるという。
つまり海王星のように、ニルヴァーナ・大神・究極の存在は既に知られていたわけである。
それでもって、世話好きな覚者中の覚者は、これらによって至るところは同じだという。それを証明することは、暗号解読と同じ。それを解読することはできるだろう。一人ができたとしても万人がそれらメソッドで悟りに至ることを実現するのは、OSHOもぼやくように更に無謀なチャレンジにも思われる。
さて、一人の人間がそれらすべての冥想ルートを実体験したとしても、万人がそれを実体験しない限り、同じ究極を実現できる法則であると主張できはしない。また個人の体験を離れて理論で説明しようとかかっても、生の世界はいざ知らず死の世界をも包摂した説明の妥当性を検証する論理、世界観は今の時代には通用しない。
ここに望遠鏡に相当する様々な冥想手法がある。しかし手法はあるといっても、冥想道には必ず二重の不確実性(魂の経験値の問題と冥想手法とその結果がリンクしない問題)というものがある。その不確実性こそ、証明を拒むものなのであるが、その壁を突き破るものがあるとすれば、「本気で」「真剣に」「誠実に」それに取り組むということだろうか。もちろんそこでは、本気度、真剣味、誠実さの純粋無雑が問われていく。
一人が悟れば、次々に悟る・・・そういう可能性が喧伝されている以上は、まず自分から悟るチャレンジこそが最優先されるのだとも思う。