アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

スピリチュアルの暗号解読

2023-01-04 06:24:26 | 【ニルヴァーナ】【ザ・ジャンプ・アウト-11】neo

◎海王星の発見から

 

『ヒエログリフの解読と次の海王星の発見には似たところがある。

 

誰も実際に目にしたことはなかったが、この惑星の位置は当時ケンブリッジの学生だったイギリス人のジョン・アダムズが計算していた。彼の発見はロンドンの王室天文官に伝えられたものの、実際に調査されることはなかった。イギリスではよくあることだが、素晴らしい発見は応用に結びつくことなく放置された。

 

一方、パリのユルバン・ルヴェリエが同じような計算をして、その結果をベルリンに送っていた。ベルリンの天文官はすぐに望遠鏡を空の正しい方向に向け、その結果、1846年に正式に海王星が発見された。』

(ヒエログリフ解読史/ジョン・レイ/原書房P67から引用)

 

悟りのピークにある、ニルヴァーナ、宇宙意識、禅の無、タオ、古神道の天御中主神、キリスト教の父なる神、こうしたものは、ほとんどの人は実際に目にしたことはなかったが、覚者は口を揃えて、有るという。

 

それを見る方法は望遠鏡ではなく、冥想である。

 

ウパニシャッドによれば、人は冥想によってニルヴァーナに至るという。

密教文献によれば、人は観想法を中心とした冥想により、大日如来に至るという。

道教の慧命経によれば、陽神が妙道を通って虚無と化していき、ついには日も月も忘れて寂浄にして霊虚なる一円相(太乙)にたどりつくという。

禅メディテーションの只管打坐によれば、身心脱落して、すべてのすべてとなるという。

 

つまり海王星のように、ニルヴァーナ・大神・究極の存在は既に知られていたわけである。

 

それでもって、世話好きな覚者中の覚者は、これらによって至るところは同じだという。それを証明することは、暗号解読と同じ。それを解読することはできるだろう。一人ができたとしても万人がそれらメソッドで悟りに至ることを実現するのは、OSHOもぼやくように更に無謀なチャレンジにも思われる。

 

さて、一人の人間がそれらすべての冥想ルートを実体験したとしても、万人がそれを実体験しない限り、同じ究極を実現できる法則であると主張できはしない。また個人の体験を離れて理論で説明しようとかかっても、生の世界はいざ知らず死の世界をも包摂した説明の妥当性を検証する論理、世界観は今の時代には通用しない。

 

ここに望遠鏡に相当する様々な冥想手法がある。しかし手法はあるといっても、冥想道には必ず二重の不確実性(魂の経験値の問題と冥想手法とその結果がリンクしない問題)というものがある。その不確実性こそ、証明を拒むものなのであるが、その壁を突き破るものがあるとすれば、「本気で」「真剣に」「誠実に」それに取り組むということだろうか。もちろんそこでは、本気度、真剣味、誠実さの純粋無雑が問われていく。

 

一人が悟れば、次々に悟る・・・そういう可能性が喧伝されている以上は、まず自分から悟るチャレンジこそが最優先されるのだとも思う。

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日常と冥想

2023-01-04 06:12:23 | 究極というものの可能性neo

◎冥想の未来図と現在(2010年4月現在)

 

聖書や北欧神話で預言される来るべき千年王国では、叫びのない世界であるから、すべての人が神を知る王国である。それは、少なくとも全員が神を見たことのある時代だろうから、学校教育の中で冥想という科目があるだろう。

 

クンダリーニ・ヨーガをやっていては、学校生活も含め日常生活はできないだろうから、クンダリーニ・ヨーガは遅くとも思春期までの履修科目として適当と考えられる。せいぜい低学年・中学年まで。そして思春期までにに見神・見性が起こる。

 

思春期となってからは、現実との折り合いを考えなければならないから、只管打坐しかないだろう。しかしクンダリーニ・ヨーガの素養がそこそこあるのであれば、クンダリーニ・ヨーガの特徴である精妙さ、デリカシー、クリエイティブ、科学性というようなものは、只管打坐の修行の中で生きてくる場面があるだろう。

 

こうして18歳になるまでには、かなりの人が身心脱落を経過していく。

 

そして神・仏・タオ・ニルヴャーナを知る人ばかりの世界では、そのことによる報いを期待せずに、われこそとばかりに競って自分のメリットを捨て、自分のことを犠牲にして相手に対することがマナーとなる。それが至福千年の社会。

 

しかしながら、学校でクンダリーニ・ヨーガを訓練すると必ず中心太陽への突入を起こすわけでもなく(只管打坐から身心脱落が起こったり)、同様に只管打坐を実修すると、これまた身心脱落しか起こらないかといえば、そうでもない(中心太陽突入が起こったり)。(昔から冥想フリークはいろいろな冥想を試すものである。)

 

またどちらの修行を採用しても、必ずしも悟れるわけではないという不確実性がある。これを二重の不確実性と呼ぶが、それはその人の個性によるものであるから如何ともしがたい。

 

いずれにしても、常時、社会全体で相当数の覚者を抱え続けるのが社会の純粋さのバロメーターとして機能する。そして、悟ってない人もそれに向かう日常の冥想習慣を有する社会が次の社会なのだろうと思う。

 

このような構図からすれば、現代において冥想は、お寺や教会やヨーガ・スタジオなどを除けば、人に迷惑にならないことを専一にひっそり自分の部屋で打ち込む、日陰の花みたいなステイタスであって、現代社会は冥想から遠い異常な世界ではある。

 

何より学校教育では冥想なんて科目はないし、生まれつき冥想習慣のある極くまれな人以外は、大人になってから、書店や図書館でそうしたものを知ったり、珍しく冥想修行に打ち込んでいる人に出会ったりして始めるのが通例だろう。そういう意味では、覚者の極めて出にくい冥想環境にあるのが現代社会である。更に冥想と聞けばオームの悪影響で色眼鏡で見られてしまいがちな傾向まである。

 

そんなわけで、残業も含めて一日8時間以上働く生活であれば、風呂と食事と睡眠と家事以外に自由な時間は、せいぜい1~3時間。この時間からテレビやメールやパソコンに向かう時間を差し引いた残りが冥想に充てられる時間となる。それは数分かもしれないが、毎日続ければ、冥想のリズムみたいなものが感じられてくるのではないか。

 

本来は朝と寝る前に冥想すべきであるが、最近はほとんど夜坐ることはない。坐るのは朝だけだし、ブログも朝だし、冥想のために30分なんてとても時間を捻出できない。時間がないという言い訳は冥想修行者としては甘えたっぷりだが、これも現実。

 

社会人であれば、大方のこのように冥想に充てられる時間は厳しいだろうと思うが、数分の柔軟体操を毎朝するように、数分なりとも冥想する習慣を継続することしかできないのだろう。けれども、その数分から新時代が始まるのではないか。

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悟りの実現可能性

2023-01-04 06:02:58 | 夢と真実neo

◎二重の不確実性

 

悟りとは、すべてを捨て去った後に到来する日常性からの超越である。

 

この情けない人生を超越しようとする気分の根底には、この世の不条理の徹見、つまりこの世を生きるのがつらい、生きるのが大変でどうしようもないという気分、生活実感というものがある。

 

それがなければ、そうしたジャンプをしようとまでは思わない。この辺にまず魂の経験値に個人差があり、更にそれが修行結果に反映するという絶対的な法則を見る。

 

つまり経験値が十分でなければ、まだまだ贅沢な生活や燃え上がる恋なんかに未練を残していて、あるタイミングがくれば、冥想修行へのトライなんか中途でやめてしまいがちなものだ。

 

それでは、魂の経験値の問題をクリアできたならどうだろうか。

準備ができた修行者は、ジャンプ台の上に乗っていざ滑り出したとする。やがてジャンプもした。

 

ジャンプの瞬間は、どんなものでも受け入れられる程オープンになっているので、どんなものでもやってくる。着地したところが仏の場合もあれば、運悪く?悪魔の場合もあり、大日如来との合体を目指していたのに、全く別の阿弥陀仏の慈悲の大海を見てしまうようなこともあるだろう。

 

これなども、本人の資質や、平素の行動の善悪、そして前世を含めた過去の修行の結果が反映するというところがあるのではないだろうか。

 

要するに、冥想修行となれば、ある一定の修行方法で、ある決まった結果が出るのを大前提に考えてはいるが、まずその修行が成就するかどうかは保証できるものではない。これが第一の不確実性。

 

その上、結果が、その修行方法で予期された形に必ずしもなるものではないというもう一つの不確実性があるのである。つまり只管打坐メインで修行していたが、観想法もついでにやりづけた結果、クンダリーニ・ヨーガの方の修行の進境が著しかったなどどというケースがあること。

 

この二重の不確実性こそ、希望した人がすべて悟れるわけでもないし、希望した時期に悟れるわけでもない所以(ゆえん)である。

 

またそうではないと言下に否定されるかもしれないが、身心脱落などは、本当に本気になることで起きる何かだと思うが、その本気になるモチベーションがどこから来るかといえば、魂の経験値の積み上がり具合から来るものだと思う。

 

魂の経験値の積み上がり具合・成熟度は、自分で何とかできるものではないので、それを承知しているなら、悟れる悟れないについては、誰もが今生で悟れるなんて迎合的なことを言うグルはいないのではないか。

 

またこうした不確実性こそ、理性の勝った現代人が、容易に冥想修行に入らない大きな理由ともなっている。

 

そんなこんなで、今更言うまでもないが、真剣にあらゆるものを振り捨てて、神頼みしかできないような、緊迫した状態に陥らねば、人は冥想なんぞしないものだ。

天変地異などに遭遇して、初めて万人は、神頼みしかないところに追い込まれる。

 

だからといって、座して核戦争や天変地異を待つようなことは誰も考えないだろうと思う。それを予感して何をすればいいのかわからない人にとって最後に残された手段は、冥想しかないが、それを論理的演繹的に説明することなどできない。

 

それでも生き延びるため、ないしは情けなく無力で邪悪な自分を死に切るには、やはり冥想しかないことに気づくしかないのだ。

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修行の結果に個人差

2023-01-04 05:55:02 | マインド・コントロールneo

◎二重の不確実性

 

チベット密教では、数知れない観想法をこなすものだが、学者さんの書かれたものでは、その修行結果に個人差があることがしばしば指摘される。

 

つまり、カリキュラムや経典に従って、生起次第を行なっても、一時的な大日如来の円満相の示現もできないということがままあるということなのである。

 

これは今更ながら、修行者個人の準備ができていない、すなわちまだこの世の楽しみに充分な未練を残しているため、それに入る時期ではないという原因によるものだと思う。

 

円満相の示現とは、我が身が円満相そのものに成りきることで、観想法のひとつの成就だとは思う。これとて、日常の生活の次元を越えて、それらの世俗のものをすべて振り捨てて飛び込んでいくようなところがないと実現するようなものではないだろうと思う。

 

つまりまずその超越しようとする気分の根底には、この世の不条理の徹見、つまりこの世を生きるのがつらい、生きるのが大変でどうしようもないという気分、生活実感というものがないと、そうしたジャンプをしようとまでは思わないのだと考える。この辺にまず魂の経験値に個人差があり、それが修行結果に反映するという絶対的な法則を見る。

 

そしてジャンプ台の上に乗っていざ滑り出したとする。その人は魂の経験値がそこそこ積み上がっているので、やがてジャンプもした。ジャンプの瞬間は、どんなものでも受け入れられる程オープンになっているので、どんなものでもやってくる。直地したところが仏の場合もあれば、悪魔の場合もあり、大日如来との合体を目指していたのに、全く別の阿弥陀仏の慈悲の大海を見てしまうようなこともあるだろう。

 

これなども、本人の資質や、平素の行動の善悪、そして前世を含めた過去の修行の結果が反映するというところがあるのではないだろうか。

 

要するに、ある一定の修行方法ではある決まった結果が出るのを大前提に考えてはいるが、まずその修行が成就するかどうかは保証できるものではないし、その上、結果がその修行方法で予期された結果になるものではないという二重の不確実性があるのである。

 

この二重の不確実性も、理性の勝った現代人が、容易に冥想修行に入らない大きな理由と考えることができる。

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禅の究極と西方浄土・極楽

2023-01-04 03:59:23 | 覚醒のアーキテクチャー

◎目標の相違とプロセスもテクニックなぞもないこと

 

禅の究極は、一円相の涅槃。念仏の究極は、西方浄土・極楽。

 

禅の十牛図には、西方浄土・極楽はない。一方念仏側は、「死後に」最初に浄土の辺地に往生してそこで修行してよりよい浄土に移転を狙うという流れ。浄土が究極との位置づけとなろう。

 

禅の六祖恵能が、西方浄土と禅の究極について以下のように説明している。※長官とは韻州刺史のこと。

『長官はさらにたずねていう、「わたくしは、いつも出家在家の修行者が、阿弥陀仏の名をとなえて、西方浄土に生れようと祈っているのを知っています。どうか先生、本当にそこに生れることができるのかどうか、 わたくしの疑問をといていただきたいのです。」

 

先生はいう、「長官よ 、気をつけて聞きなさい、わたしは君にいってきかせよう。釈尊は、シュラーバスティの町においでになったとき、西方浄土の方便説法をなされたのである。『経典』ははっきりと『浄土はここから遠くない』といっている。その様相をとりあげ、距離を言うなら、十万八千という数がでるのである。つまり、われら自身の十種の悪業や八種の罪について、それを遠いと言うのである。

遠いと言うのは、そうした素質の劣ったもの のためであり、近い(遠くない)と言うのは、すぐれた智者のためである。

 

人間には二つの種類があるが、おしえは二通りあるわけでない。それを見失うかめざめるかに違いがあり、めざめ方に遅い早いの別があるのである。真理を見失ったものは、念仏してそこに生れようとするが、目ざめたものは、自分で心をきよめる。そういうわけで、仏陀は言われ る、『各自の心がきよらかになるとき、すぐに仏陀の国はきよらかになる』と。

 

長官よ、東の国の人も、もし心がきよらかであれば、そのままなんの罪もない。西の国の人だって、心がきよらかでないならば、やっ ぱりあやまちがあるのである。東の国の人は罪をつくれば念仏して西の国に生れようとねがうが、西の国の人が罪をつくったら、念仏してどんな国に生れようとねがうのか。

 

愚かなものは自己自身を完成せず、わが身の中なる浄土に気づかないで、東を望み西をもとめるけれども、目ざめた人はどこにいてもおなじことである。それで、仏陀はいわれる、 『自分のおる場所のままで、いつも安楽浄土である』と。』

(世界古典文学全集36A 禅家語録1 六祖壇経P99-100から引用)

 

つまり究極とは各自の心が清らかになって、自分が、自分のおる場所のままで、いつも安楽浄土になることである(所住の処に随って常に安楽なり)。だが、素質の劣った人向けには仮に西方浄土が究極だと説明しているだけのこと。つまり究極は、西方ではなく自分のいる場所、自性、本来の自己であるということである

 

禅では本来の自己と言えば、生きているうちのことであり、西方浄土が死後を指すこととの相違は気にしている風でもない。

 

七つの身体で言えば、天国極楽は、滅びるものだから、第五身体コーザル体以下のものと考えられる。地獄も第五身体コーザル体以下と考えられる。

なお究極とは第七身体のニルヴァーナ。

 

チベット死者の書では、最初のチカイ・バルド(中有)で、原初の光または第二のクリヤーライトに出会えるチャンスがあり、これに成功すればニルヴァーナに至ることができる。しかしこれを取り逃がすと、地獄と極楽が混在するチョエニ・バルドに入って行く。つまりチベット死者の書では、窮極とはニルヴァーナであり、地獄と極楽は二義的な位置づけなのだ。

またチベット死者の書では、死のプロセスを描写しているが、チベット密教の主要な瞑想修行が、原初の光である母の光明と修行で後天的に得られる子の光明の合体であるから、生存中における大悟覚醒を意識している。つまりチベット死者の書は、生者の修行のためのガイドブックであって、死後の極楽入りを目的とする部分は記載されてはいるが、最優先は、生者のニルヴァーナとなっていると見ることができる。

 

このように、冥想修行の究極の目的は、心の安定でも、気分を転換することでも、天国極楽を目指すことでもなく、神、仏、ニルヴァーナを目指すこと。

 

だからといって、念仏をしてニルヴァーナに到達できないのかと言えば、そんなことはなく、念仏でニルヴァーナに到達した人を妙好人に見ることができる。こういうのを手段と結果の不確実性という。

 

またそういう事象を指して、プロセスもテクニックなぞもないという。

 

『プロセスもテクニックなぞもないことを体現している

あらゆるあなたたちに捧げる』

(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジの巻頭言)

 

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