アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

天国と地獄の卒業-4

2023-01-22 06:32:24 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎無始無終へと跳躍していく最終地点

 

イーシャ・ウパニシャッドの経文から。

『太陽よ

世界を育み支えるものよ

空の孤独な旅人よ

ヤーマよ 太陽よ ブラフマンの太陽よ

汝の光を納め給え

いとも麗しき 善なる汝の姿を我は見る

我は日神たちと共に座す者である』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P358から引用)

※ヤーマ:死の神。

 

これは、アートマンがブラフマンに突入して起こるニルヴァーナを描写するものだが、一読して全然そのようには読めない。

文中の太陽は、ブラフマンの太陽であって中心太陽、未顕現のブラフマン、種(たね) のブラフマン。

 

OSHOバグワンの説明はこんな具合。

これも祈願文であって、修行者は、「太陽よ。その光をお納めください」と祈る。既に修行者は、生も死も、光も闇も克服済である。そこで前の段階で、黄金の覆いである光を取り払って下さいと神に祈願したのと同様の祈りを行う。

 

生も死も、光も闇も克服する方法は、二種あって、太陽が生も死も光も闇も創造している中で両方とも受け入れる方法と、太陽に祈って生も死も光も闇も創造する以前のすべてを収縮吸収した源泉の太陽の状態に戻してもらう方法である。

ここは後者を祈る。修行者が死にも闇にもこだわりがないからこのような祈りができる。

 

『それゆえに賢者は言う、「偉大なる太陽よ、ヤーマよ。あなたは生を授けるお方、生と死の均衡を計るお方。生をお納め下さい。死もお納め下さい。私は生と死を超え、生まれることも死ぬこともないものを知りたいのです。その源泉を知りたいのです。何もなかった最初の瞬間、あらゆるものがそこから生まれ出る、まったき虚空が存在した最初の瞬間を知りたいのです。 あらゆるものが再び吸収され、何も残らないその最後の瞬間を知りたいのです。あらゆるものが生まれ出るその虚空、あらゆるものが吸収されるその虚空を知りたいのです。お願いです。あなたの溢れ出る光をすべてお納め下さい」

 

確かにこれは、目に見える外界の太陽に向けられた祈りではない。これは内側の、あの場所に達した後に唱えられたものだ。その向こうには、無始無終へと跳躍していく最終地点がある。この、「太陽よ、すべてをお納め下さい」という祈りはこの時に唱えられる。そうした祈りを唱えるには、大いなる勇気、この上ない大胆さが要求される。なぜなら人は、「生と死がなくなり、偉大な太陽の光がすべて引き払われる所で、生きていられるだろうか。私も滅びてしまうのではないだろうか」と思うからだ。

 

だが、賢者の望みはこれだ―「私は生きているかもしれないし、死んでしまうかもしれない。 だが、それはもはや問題ではない。要は、常住のものを知りたいということだけだ。私は、すべてが失われすべてが滅んでも存在するものを知りたい。私まで消えてしまうかもしれないが、失われることのないものを知りたいのだ」

 

限りない年月の間に、数限りない人々がこの世で真理を捜し求めてきた。しかし、この世のどこにも、内なる世界で為されるような探求は見られなかった。この内なる世界の探求者たちが為す究極の探求、勇気を試す究極の試験、それに匹敵するような例は、この世のどこにもない。

 

私は長い間調べてきたが、真理の探求のためなら喜んで滅びようとする人を、捜し出すことはできなかった。この世には多くの真理の探求者がいるけれども、彼らは一つの条件を付ける― 「私は真理を知りたい。だが自分を生かしたままで」と。だが、「私」が保持される限り、あなたが知るのはこの世、サンサーラだけだ。なぜなら、「私」というのは、この世にとって重要不可欠のものだからだ。もし、アリストテレスとか、ヘーゲルとか、カントのような探求者に、「自分の内側を捜せば、真理を知ることができるでしょう」と言う人があれば、「何のためにそういう真理を知 るのですか。自分を滅ぼすような真理を知って何の役に立つのですか」と答えるだろう。彼らの探求には、「自分を生かしておきたい、その上で真理を知りたい」という一つの条件が付いている。

 

真理を探求しつつも、自分を保持しようとした者は、決して真理を知るに至らなかった。代わりに彼らはそれを作りだした。真理を作り上げた。だから、ヘーゲルは大著を著わし、カントは真理についての深遠で難解な定理を提示したのだ。しかし、自己を探求する姿勢のない人の著作や原理には、何の価値も意味もない。もしカントやヘーゲルに、このウパニシャッドの賢者をどう思うかと尋ねれば、「その人は気が狂っている。真理に達しても、自分を失ってしまうのでは意味がない」と答えるだろう。

 

だが、賢者の理解は極めて深い。賢者は言う、「『私』というものは、真理にあらざるものに不可欠の要素、この世の、サンサーラの一部だ。この俗世のものが去り、真理が私に訪れることを願い、なおかつ「私」がそのままに残るようにと願うのであれば、私は不可能なことを望んでいる。俗世のものをなくそうというのであれば、それは徹底されなければならない――外からも内からも。一方で外の物体が消え、他方で内側の「私」が消えなくてはならない。内にも外にも虚空だけを残し、外からも内からも形がなくならなければならない。ゆえに、真理を見つけようというのであれば、自分を失うことがその不可欠の条件なのだ。「お願いです。偉大な太陽よ、あなたのすべてをことごとく消し去り下さい。すべての広がりを納め、元の種にお戻り下さい。何もなかった場所にお戻り下さい。すべてがそこから始まるところのものを、私が知ることができますように」

 

これは究極のジャンプだ。このジャンプをしようと勇気を奮い起こす時、人は至高の真理と一つになる。自分を失わずに、この至高の真理と一つになることはできない。だから、西洋の哲学者が真理を追究しようとしても、人間を、通俗的真理を超えることはできなかったのだ。

 

彼らの探求は人間のそれであって、実存的なものではない。人間の範疇に属すものでしかない。 東洋の賢者が求めるのは、通俗的・人間的な真理ではなく実存的な真理だ。』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P364-367から引用)

 

OSHOバグワンの解説で、無始無終へと跳躍していく最終地点に立っていることはわかる。このジャンプによって自分は失われるかもしれないが、それでも飛び込んでいく。

 

光も闇も、善も悪も、生も死も超越したポイントに私はいて、私は世界全体であったはずだが、その私が更に自分が失われるかもしれないジャンプに挑む。

このシーンは、クンダリーニ上昇シーンで、アートマンがブラフマンに向かって上昇するシーンの図(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP101)を見れば、そうだとしか考えられないのだが、にわかには信じられないということもある。

どこで個なる私が宇宙全体、世界全体に転じ、さらにモクシャに進むのかというタイミングについては、このOSHOバグワンの説明でもダンテス・ダイジの解説でも不明瞭なところがある。

 

とにかく、無始無終へと跳躍していく最終地点に立ち、そこからジャンプアウトすることを神は期待しているわけだ。

 

単に、生と死の超越あるいは天国と地獄の卒業を目指してきた情熱的にして勇気ある探検者は、ついに世界の始原に飛び込む思い切りのある英雄であることを求められることになったのだ。

コメント
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