◎禅の三祖僧さんの信心銘から
(2019-02-08)
『二は一に由って有り
一もまた守る莫(な)かれ
一心生ぜざれば
万法咎(とが)なし』
【大意】
『二は、一があるからある、
だがその一にもこだわってはいけない
一心が生じなければ、あらゆる事象あらゆる生物無生物に問題はない。』
このように、まずここではすべての問題の根源は一心という見ている自分であるとしている。
『咎なければ法なく
生じざれば心なく(不生不心)
能は境に従って滅し、
境は能を逐(お)って沈む』
【大意】
咎がなければ、法(ダルマ)はなく、
一心という見ている自分がなければ心はない
主観(能)は客観(境)に従って滅し
客観(境)は主観(能)を逐って沈む
前段で一心がなければ咎がないと言っているのに、それに反して咎なければ法がないなどと、咎という無明マーヤ撲滅の修行の方向をわやにする表現が出てくる。
見ている自分が残っていて初めて主観と客観が成立。
主観と客観の関係性はこれだけの表現でははっきりしないが、続く一段で明らかにされる。
『境は能によって境たり
能は境によって能たり
両段を知らんと欲せば
元もと是れ一空なり』
客観は主観があることで客観、主観は客観があることで主観たりえる。両方知ろうと思うだろうが、どっちも『空』である、ということで、この話は空の話であることが分かる。
『空』はこの一なるもの、有、アートマン、サビカルパ・サマディー、チベット密教の空性の悟り。
空もひとつの悟りだが、『空』では、なにもかもなしには届いていないと思う。