アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

二は一に由って有り

2023-01-23 20:40:42 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎禅の三祖僧さんの信心銘から

(2019-02-08)

 

『二は一に由って有り

一もまた守る莫(な)かれ

一心生ぜざれば

万法咎(とが)なし』

 

【大意】

『二は、一があるからある、

だがその一にもこだわってはいけない

一心が生じなければ、あらゆる事象あらゆる生物無生物に問題はない。』

 

このように、まずここではすべての問題の根源は一心という見ている自分であるとしている。

 

『咎なければ法なく

生じざれば心なく(不生不心)

能は境に従って滅し、

境は能を逐(お)って沈む』

 

【大意】

咎がなければ、法(ダルマ)はなく、

一心という見ている自分がなければ心はない

主観(能)は客観(境)に従って滅し

客観(境)は主観(能)を逐って沈む

 

前段で一心がなければ咎がないと言っているのに、それに反して咎なければ法がないなどと、咎という無明マーヤ撲滅の修行の方向をわやにする表現が出てくる。

見ている自分が残っていて初めて主観と客観が成立。

主観と客観の関係性はこれだけの表現でははっきりしないが、続く一段で明らかにされる。

 

『境は能によって境たり

能は境によって能たり

両段を知らんと欲せば

元もと是れ一空なり』

 

客観は主観があることで客観、主観は客観があることで主観たりえる。両方知ろうと思うだろうが、どっちも『空』である、ということで、この話は空の話であることが分かる。

 

『空』はこの一なるもの、有、アートマン、サビカルパ・サマディー、チベット密教の空性の悟り。

 

空もひとつの悟りだが、『空』では、なにもかもなしには届いていないと思う。

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OSHOバグワン信心銘を説く

2023-01-23 20:35:20 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎そのような思いは、ついには一瞬にして止む

(2021-01-23)

 

歴史とは暴力を記録するもの。これに対し、聖者の言行録とは、言葉にできないものを言葉でなぞるもの。

禅の第三祖僧さんは、北周武帝の仏教弾圧下で、各地を漂泊せざるを得ず、その中で、達磨にも二年ほど仕えたらしい。

 

OSHOバグワンを読もうとする人ならば、数少ない大書店の精神世界コ-ナーやブッククラブ回などに行って、どれを読もうかと本を選ぶ。その中で「信心銘」は、馴染みのないことから真っ先に切り捨てられる本の一つだろう。その「信心銘」を読んでみる。

 

OSHOバグワンは、あらゆる「しなさい」「してはいけない」が人を殺すと言う。(信心銘/ラジニーシ/禅文化研究所P28)

 

つまり人は、「愛しなさい、憎んではいけない。」「平和を望みなさい、戦争と暴力はいけない。」「リラックスしなさい、緊張はいけない。」などと、いくらでも頭でやっている。

 

だが本来愛するのも簡単で、憎むのも簡単なことである。えり好み、好き嫌いが、他人を殺し、弱小民族を圧殺し、敵国を滅亡させ、自分を殺し、あらゆる狂気と暴力の巷を現出するのだ。

 

そこでOSHOバグワンは、息をすれば生命力プラーナを取り入れられるから「息を吸うだけで呼かないことにしよう」などと唱えてみる。なぜなら吸気は生で、呼気は死、一呼吸一呼吸の間に人は生死を繰りかえすから。だが、息を吸うだけで呼かなければ人は死ぬ。

 

えり好みをするというのは、そういうことだ。

どうすれば、えり好みをせずにすませるのか。

 

信心銘から、

「迷えば寂乱を生じ、

悟れば好悪無し。

一切の二辺、妄りに自から斟酌す。

 

夢幻空華、何ぞ把捉に労せん。

得失是非、一時に放却す。

眼若し睡らざれば、諸夢自から除く。

心若し異ならざれば、万法一如なり。

 

一如体玄なれば、兀爾として縁を忘ず。

萬法斉しく観ずれば、帰復は自然なり。」

 

これが、OSHOバグワンでは、こうなっている。

『安心も不安も迷いの故だ。

光明とともに、好悪は消える。

 

すべての是非は、無知なる解釈によって起こる。

夢のようなもの、空中の華のようなもの、

捕らえようとするのは愚かなことだ。

得だとか、正しいとか、間違っているとか、

そのような思いは、ついには一瞬にして止むべきものだ。

 

ーつの眼が眠らなければ、

一切の夢は自ずから止む。

想いがどんな区別もしなければ、

万物は、そのあるがままで

ただ一つの精髄の顕れになる。

この精髄を理解することが、

あらゆる混乱からの解脱だ。

一切が等しく見えるとき、

永遠の自己に到達している。

そこには比較も比喩も不可能な、

因果の絆の断たれた所だ。』

(信心銘/ラジニーシ/禅文化研究所P283から引用)

 

ここでは、悟りは光明だと謂い、万物の帰っていくところを精髄と呼ぶ。だが、光明も精髄も理解などという言葉も原文にはない。

一切が等しく見えるの「見える」という言葉もなく、「永遠の自己」という言葉もない。一如体玄には見る自分などないからである。

 

OSHOバグワンの見ているであろう英訳が結構いろいろ問題がある印象である。だがOSHOバグワンは、見る自分のない一如体玄はちゃんとわかっている。

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熟睡中に眠らなければ夢も見ない

2023-01-23 20:26:41 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎信心銘でアートマンの後先

(2019-05-24)

 

信心銘の続き。

『眼(まなこ)若し睡らざれば 諸夢 自ずから除く

心 若し異なざれば 万法一如なり

一如体玄なれば 兀爾(こつじ)として縁を忘ず

万法 斉しく観ずれば 帰復 自然なり』

 

※眼(まなこ)若し睡らざれば:

熟睡中に眠らない自分。ウパニシャッドの頻出テーマ。荘子大宗師篇にも寝ても夢見ないというのがある。ケン・ウィルバーが、自分では悟ったと思っていた時期に、熟睡中に眠っている自分を発見して愕然として、修行をし直した例もある。

 

※心 若し異なざれば:

臨済録に、『如何なるか是れ心心不異の処?」と弟子が問うと臨済が云く、「あなたがこれを問おうとしていることは、既に異であって、いけない。』というのがある。これに続く言葉である万法一如(ア―トマン)と心が異なってはならない。

 

※一如体玄なれば 兀爾(こつじ)として縁を忘ず:

万法一如(ア―トマン)は、この一つながりのものであって、万物も時間も空間も物質もあらゆる生物無生物の想念も感情も意思も含まれる今ここしかない今。これが玄(神秘)なのだが、ごつごつとした石くれのように取り付くしまがなく、非人間的な乾いたもの。

そこでは、あらゆる人間ドラマを起こす原因である縁すら忘れられている。

 

※万法 斉しく観ずれば 帰復 自然なり:ここで斉(ひと)しく観ずるのは、男女、天地、有無、善悪、貧富、貴賤などあらゆる区別。万法アートマンという石ころの心から一歩出て区別がスタートしたら、以前とは別の本来のナチュラルな自分らしい自分が始まる。

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智者は無為なり愚人は自縛す

2023-01-23 20:22:29 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎信心銘から

(2019-05-23)

 

禅の三祖僧璨(ソウサン。達磨の弟子の慧可の弟子)の信心銘から。三祖僧璨は、中風を病み、臨終時は立ったままだった。仏教禁令の時代を片腕のない慧可と過ごした。

 

『智者は無為なり 愚人は自縛す

法に異法は無く 妄(みだ)りに自ら愛著す

心を将(も)って心を用う 豈に大錯に非ずや

迷えば寂乱を生じ 悟れば好悪は無し

一切の二辺は 妄(みだ)りに自ら斟酌する

夢幻虚華 何ぞ把捉を労せん

得失の是非 一時に放却す』

 

※大錯:大間違い

※寂乱:寂と乱の対立、差別

※夢幻虚華:夢と幻想と空虚な華

大意:

心をもって心を用いるのは、大間違い。心が静まったり乱れたりするのは、実体のないことで、迷うから起こるもの。男女、天地、貧富、貴賤など一切の二辺の区別は、心が起こすものであって、そうした実体のないものをことさらに追うべきではない。メリット、デメリットの判断は捨て去ることだ。

 

これを哲学と見るようなことは禅者はしない。このメリット・デメリットでの区別全盛の時代に、それをほおっておくことを求める。

 

ほおっておくためには、まずスマホを離し、イアホン・ヘッドホンをはずし、テレビ・ラジオを止めることから始めなければならない。最初は、そのこと自体が惑乱と感じる人も多いのだろう。そして坐る。

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三祖信心銘

2023-01-23 20:19:37 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎至道無難

(2011-03-16)

 

禅の三祖の信心銘の冒頭

 

『至道無難唯嫌揀択

 

至上の大道は、すぐそこにあって、かれこれと七面倒くさいものではない。ただえり好みしさえしなければ、それでよいのである。』

 

「えり好みをしない」ことほど難しいものはない。

ただ「えり好みをしない」とは、正気で意識が清明であって、来るものを拒まないこと。

 

我が無くならなければそんな風にはなるまい。

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天国と地獄の卒業-5

2023-01-23 07:46:31 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎見ている自分が残り、消える

 

イーシャ・ウパニシャッドでは、自分個人が世界全体に転換して、その次に言葉では言えないシチュエイションに飛び込むわけだが、自分個人が世界全体に転換するサプライズについては、感動を以って描かれているわけではなかった。

 

すでに非思量底の、つまり思考を超えた世界であり、無意識の世界ではシンボルで思考するなどと言うが、その思考は麻痺し、その場では立ちすくむばかりで、ただ見ているばかりなのか?見ている自分と見られるものが合体する瞬間。

 

第一、イーシャ・ウパニシャッドの経文の

『いとも麗しき 善なる汝の姿を我は見る

我は日神たちと共に座す者である』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P358から引用)』

この一節の前半では、見ている自分が残り、後半では見ている自分は残っていないかのようである。よってこの一節だけが、個から全体への逆転だとして、そのサプライズの動揺も記述がなく、その変化が当たり前のことのように淡々と描かれている。

まるで「体験した者だけがこれをわかる」という風である。

 

天国と地獄を卒業すれば、非二元、ノンデュアリティの世界に入るはずが、そのメカニズムはそう単純明快なものではなく、人間の現実認識のあり方からすれば容易に具体的に描写できる代物ではないようだから、このようなわかったようなわからないような記述になるのだろう。

 

禅の信心銘で、自分と世界全体についての言及がある。

『真如法界 他無く自無し

急に相応せんと要せば 唯(ただ)不二と言う

不二なれば皆同じ 包容せざる無し』

(大意:過去現在未来を含む世界全体には、他も自もないが、どうしても言葉にするならば、非二元(不二)である。不二はすべてを含む。)

 

これも、『悟りを開けば、世界はあなたと私は一緒の非二元』みたいな単純な物言いを避けた表現となっており、そこにこそ秘儀、神秘が隠されているのだろうと思う。

 

人はいろいろと願望がありすぎて見込みのないことばかり望み続けるものであり、本当に追い込まれてどうしようもなくならないと『現実を受け容れない』あるいは『真理を受け容れない』ものである。その先に真如がある。

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