goo blog サービス終了のお知らせ 

アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

無知なる釈迦が前世で覚者に足を触ってもらう

2023-05-19 06:28:39 | 人と神の「実際のところ」

◎ジャータカ釈迦前生譚

 

ジャータカ釈迦前生譚は、釈迦の無数の前世のエピソードを描いた話。

 

釈迦がまだ無知だった前世において、さる悟った人間の噂を聞き、逢いに行って、話をすることができた。

釈迦が悟った人の足に触れ身を起こすと、なんと悟った人が釈迦の足に触れているではないか。

 

釈迦が悟った人に「なぜ、無知で悟っていない私の足に触れているのですか。」と問うと、

悟った人は、「あなたの内部に隠れている本質は、既に悟っているから、それに触れているのだ。」と。

 

後に釈迦は、「当時悟った人の言うことが理解できなかったが、今ならわかる。彼は、真の私に礼拝したのだ」。

(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(9生の神秘)OSHO P233-234)

 

ジャータカは、大部なものであり、このジャータカ上の出所を捜し当てられなかった。私が小学生の時に近所の寺の住職が子供何人かを集めて、ジャータカから話をしてくれる機会があった。それはインドという亜熱帯のエキゾチックな国のことだったが、とても心惹かれる話だった。

 

これと類似のエピソードは、イエスが弟子の足を洗う話。

 

現代でも心ある悟った人なら、別れ際に未悟の人を礼拝して、どぎまぎさせることがあるのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

断碑横古路

2023-05-10 06:22:38 | 人と神の「実際のところ」

◎言葉によって表現できないものでも歴史上に現れ続ける

 

宋代の禅僧五祖法演は、潙仰宗のことを評して「断碑横古路」(壊れた石碑が、今は誰も通らない表参道にごろんと横倒しになっている)と評した。

禅は一切の分別や解釈を断つのだとして、取り付く島もないのだが、その点ばかり強調すると、最後はクリシュナムルティのように境地だけを説き、そこに至る冥想法は説かないということにもなることがある。禅僧普化の暴れぶりもそう。

 

するとそんなマスターの説は、崇高で格調高いのであるが、誰もその後を継承できなくなるということがまま起こるものである。

 

禅問答は、木で鼻をくくったようなものが多いのだが、五祖法演の公案は、一見とりつきやすいが深い味わいのあるものがある。倩女離魂(無門関第35則)牛過窓櫺(無門関第38則)がそれ。

 

神、仏、道(タオ)、涅槃(ニルヴァーナ)、空、禅の無というような言葉で表現できないものは、言葉で伝承できないのだが、なぜか歴史上には現れ続けるものだ。以心伝心といえばわかりやすいが、心そのものがわかっていない者がそれを言っても詮無い。

 

禅問答は、取り付く島もない、鉄面皮なものが多いが、そうした「石ころの心」から何かが流れ出すということは、ヒントをもらわないと気がつきにくいものだが、なぜか気がつく人は絶えないから、言葉によって表現できないものでも歴史上に現れ続ける。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書物によって悟った人は気力が弱い

2023-05-07 07:11:46 | 人と神の「実際のところ」

◎日常の事に即して悟りをつかむ

#浦和レッズ三度目のアジア制覇

 

達磨の二入四行論から。

『道を修める方法として、書物によって悟った人は気力が弱く、日常の事に即して悟りをつかむ人は気力が強い。日常の事に即して悟りをつかむ人は、どこにあっても真理を失わない。書物の文字にたよって理解した人は、実際の事件に出遇うとたちまち眼がくらむ。経典で真理を議論する人はかえって真理に疎い。

 

口で日常実際の事を語るよりも、耳で日常実際の事を聞くよりも、自分の心身で実際に体験した方がよい。』

 

ここで“すべき体験”とは、「体験とは言えない体験」であって、この二入四行論の文章の続きにあるような、強盗に物を奪われたり、他人に罵られても、殴り飛ばされても、苦しまなければ、無心になれるというのは、シンボリックな比喩なのだと思う。

達磨の直弟子の慧可や曇林が、強盗に腕を切られて無臂林と呼ばれつつ修行したことを思い浮かべるが、話の主題はひどい目にあうことではなく、知的理解の悟りでは弱く、日常の不条理、理不尽に揉まれながらもそれに影響されない自分にあること。

 

さて浦和レッズがACLチャンピオンズリーグで、三度目のアジア制覇という偉業を成し遂げた。ACLは、最初の頃は予選から中東など相手国まで行ってアウェイ戦を戦い、戻ってきてホーム戦を戦うというのが、決勝まで続いたものだ。移動の疲労で、アウェイ引き分けOKというのは、その苦闘の経験から学んだ教訓。

 

2007年の浦和レッズの最初のアジア制覇前後は、その疲労蓄積がJリーグに影響してリーグ戦は、1度しか優勝できていないことに反映されていることは、古いレッズファンなら知っている。ACLは、Jリーグカップのような単なる国内カップ戦とは比較にならないのだ。

ここ数年は、予選は東西に分かれたので、かつてほどの長距離移動の苦しみはない。

 

そして浦和レッズが、ACL決勝進出を決めた後、ユンカー、松尾佑介という強力フォワードを放出しながら勝ちを勝ち切れたのは、チーム全体に「日常実際の事で悟る」というスピリッツが定着していることが大きかったのではないか。

 

今回もACL準決勝 全北現代戦では、レッズは、前半に松尾佑介がゴールを決めて先制。後半にPKで追いつかれ延長戦に突入。

116分に想定外のゴールを奪われガックリきたものの、酒井のタックルから120分にキャスパー・ユンカーが奇跡の同点ゴールを決めて追いつき、PK戦を制して勝利したが、ACLでは、こういうぎりぎりの勝負は2、3回は必ずあるものだった。岩尾が西川のことを『理屈ではないものを見せられた』とコメントしていたが、それはそのあたりの消息なのだろう。

 

将棋などでもよく言われるが、「勝ちを勝ち切る」には、気力、定力が必要なものであって、教義・教理・理屈の知的理解の悟りでは弱いというのが改めてよくわかる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シャンバラ、アガルタ、エル・ドラド、蓬莱、桃源郷

2023-05-05 07:25:20 | 人と神の「実際のところ」

◎聖地の在り処

ニコライ・レーリッヒの神秘的な色使いでシャンバラに関心をよせた人も多いのではないか。シャンバラは、ネパールやインドの南側からヒマラヤに登っていくルートのどこかにあるのではないかとか言われ、ヒマラヤの北側に住むチベット人には、シャンバラは、ヒマラヤの奥深い谷にあると信じられている。

アガルタ、エル・ドラド、蓬莱、桃源郷でも、地上の何か秘密のルートをたどれば、現実の世界としてそのような小規模な楽園郷がある、というモチーフとしては共通している。ポイントは、現実に生き身のままでそこに入れると思い込ませるところ。

シャンバラについては、ダンテス・ダイジは、この世にはなく、霊界に存在していると断言している。中国の古典でよく出てくる壺中天や洞天も、どうも入り方がトランス経由なので、在り処はこれまた霊界なのだろうと思う。

蓬莱は、秦の始皇帝が探索船を出し、日本ではないかと言われているわけだが、現実世界の延長線上の楽園という点では、現実の日本ではなく、シンボリックな日本のこと。これまた霊界上のもの。

エル・ドラドは、ヨーロッパ人が夢に描いたものだが、実際にインカ、アステカなどで黄金を沢山手に入れたので、文字通りのエル・ドラドだったと安直に考えられているわけだが、そうではないだろう。
コロンブスが、ジブラルタルの遥か西方にあると言われた水平線が滝のように下っているという海の境目を越えてまでインドに行こうとしたのは、地上天国エル・ドラドの実在を信じたからではないか。

出口王仁三郎は、アストラル・トリップで、日本に今なお人の踏み込めない神秘の秘境があることを示している。田中陽希がGreatTraverseで日本の深山幽谷を歩いてくれているが、奥山は産廃廃棄場として使われ、いまや太陽光発電パネルが大規模に設置され、神秘の秘境どころか、人間すらも踏み込むことをためらうエリアがどんどん増殖しているのだろう。

かくして地上の隠された楽園は、GoogleMapの登場もあって存在しないことがわかったからには、地上ではないところを目指す。隠された楽園を目指すモチベーションとは、求道の動機なので貴重である。昨今貧困に苦しむ人が多いが、そうした人にとっては、自己責任という突き放した言葉よりも、シャンバラ、アガルタ、エル・ドラド、蓬莱、桃源郷といったものの方が魅力的なのは間違いない。また教祖にそうしたものを求める場合も多いが、人が死ねば、地を巡る。教祖が亡くなれば、パワースポット、聖地巡りをするのもよくあるパターンである。

(ニコライ・レーリッヒ/シャンバラへの道)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瞑想に関心があったり瞑想したりしても悟れない理由

2023-04-28 03:05:02 | 人と神の「実際のところ」

◎自分で自分をごまかす

 

世界の聖者の共通する悩みは、自分が一人でも多くの人が覚醒できるように日々がんばっているにもかかわらず、本当に悟りを得る人は、激レアなことである。

 

幸いにして現代は、冥想やスピリチュアルやニルヴァーナに関心を寄せる人が多く、宗派の別なく冥想を習慣としている人も少なくない。

 

悟りとは、生死にかかわる自分ののっぴきならない変容であって、意識の極限状態を通過しないと起こらないことが知られている。

 

旧約聖書で、ソドムのロトは、ソドムの町に正しい人が10人も見つけられなかったほどに悟っている人は少なかった。

江戸時代の禅僧正受慧端も禅の世界でもまともに悟っているひとが非常に少ないことに愕然としている。

 

現代は悟りを開いた先達の情報も多く、どういうタイミングで悟ったかの事例蓄積も沢山ある。なるほど悟りそのものは言葉では伝えられないからわかりにくいとは言っても、何千年のノウハウの蓄積がある現代においてすら、旧約聖書の時代や江戸時代と大差ない悟った人の輩出状況である。

 

何が邪魔してこうなっているのだろうか。既成宗教のノウハウの水準や現代の多層にして頻繁なマインドコントロールのせいにするにはたやすい。それは外面的な要因ではある。

 

実は内面的な悟り阻害要因は、本当に悟りを開いてあらゆる苦悩から解放されようなどと思ってはいないのに、瞑想に関心があったり瞑想したりしていることである。

 

なぜ悟れないか?それは、タイミングが悪い、自分の精神が成熟していない、冥想技法が悪い、参考にしている経典が悪い、教義が間違っている、師匠が悪い、暑い、寒い、騒音が気になる、虫がいる、隙間風が入る、体調がすぐれない、時間がないなどありとあらゆる理由がつけられる。

 

もし本当に、悟ること、タロットカードの吊るされた男になることに関心があれば、以上のような理由があっても、必ずニルヴァーナに到達し解脱することが可能のはず。

 

つまり、瞑想に関心があったり瞑想したりしている人のほとんどの人は、悟りを目指すという点において、自分で自分をごまかしているのだ。これが、悟った人が少ない理由の大半ではないかと思う。

 

すべてを棄てて、師匠のところに来たかということ。悟る直前には、そこが試されるものだ。

自分で自分をごまかさないという点において、現代の求道者は、合格者は意外に少ないのではないか。換言すれば、自分が思っているほど合格基準が甘くないのではないかと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聞く耳のある者は聞きなさい

2023-04-18 07:06:58 | 人と神の「実際のところ」

◎謙虚と信頼

 

西洋錬金術書や密教の秘密集会文献などは、故意に門外漢にはわからないように書いてある。中には、わざと間違いを書いて正統な体験をした者だけが正しい方向がどちらかわかる仕掛けをしているものまである。

 

そうした代表的な例は、中国道教の錬丹家魏伯陽が、自分と高弟達全員に致死量の毒薬を飲むように命じた事例である。これは、人民寺院のような集団自殺したカルトの話ではなく、真正の聖者魏伯陽が高弟達の成熟度を分別するために行ったテストであった。

 

マルコ福音書4-9~12では、「聞く耳のある者は聞くがよい」とイエスが唱え、12使徒がその真意を問うた。

するとイエスが言うには、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。

それは『彼らは見るには見るが、認めず、

聞くには聞くが、悟らず、

悔い改めてゆるされることがない』ためである」、と。

 

これは、例の『起こることは起きたが、何が起きたのかわからなかった』というレベルの話の伏線でもあるが、むしろ平易な言葉で高弟向けに話した言葉を高弟以外の人にそのまま話しても誤解や反感や敵意を受けることになることを言っている。果たしてイエスは十字架上で磔刑で死んだ。

 

12使徒は、イエス磔刑時に弟子であることをとぼけたりして、いわゆる神人合一体験はなかったが、ここでイエスは、12使徒は奥義を伝授されているとしているので、見神は経ていたのだろうと思う。

 

12使徒には、知識階級はいなかった。漁師、大工、徴税吏など、そしてイエスの恋人は娼婦。知識があって宗教的哲学的思弁の訓練を受けていれば、イエスの真意はある程度わかるものだ。それに対して低学歴の人たちが謎めいたイエスの言葉を理解できたのは、『謙虚さと信頼』があったからである。『謙虚さと信頼』は、浄土系の宗教が広まった原因でもある。弥陀の本願に帰依する『謙虚さと信頼』。だからイエスは愛を説いたとも言われる。

 

現代人は知的に発達したから、神の国に入るのは近いなどと言うが、最後は正師への『謙虚さと信頼』であり、神様への『謙虚さと信頼』であり、ここは理屈で説明しづらいところ。だから現代人には、『見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず』などという人が多い。

現代人にはそれが欠けているなどとも言われることがある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釈迦の中道とは無選択のこと

2023-04-02 05:47:55 | 人と神の「実際のところ」

◎選り好みをしない。選択せずに、ただ存在する。

 

釈迦のいう中道とは、一般に涅槃(ニルヴァーナ)のために役立つ八正道のこと。

 

そこで、釈迦の中道とは無選択だと言っているのがOSHOバグワン。

 

人は、生を選んだり死を選んだりする。あるいは愛を選んだり憎を選んだりする。生も死も愛も憎も対立する両端である。

 

その中間をとる方法を中道と呼ぶ。それは真ん中をとれということだが、言うほどに簡単ではない。

 

『要は、選択せずに中間にいることだ。中間にこそ真理はある。一方の極には死があり、他方の極には生がある。このふたつの中間に動くこのエネルギーこそが真理だ。 選択してはいけない。 選択とは、一方を他方に対立させて選択することだ。 中間にいるというのは、無選択だということだ。無選択であれば、あなたはそのすべてを去ることができる。なにも選ばなかったら苦悩することはない。

 

人は選択のせいで苦悩する。 選択せずに、ただ存在するのだ! それは骨が折れる、不可能に見える。だが試してごらん。なにかが互いに対立していたら、その中間にいるよう努めてみる。 そうすれば少しずつ、その勘どころが、その感覚がわかるようになる。そしていったん中間にとどまる感覚がわかったら―――それは微妙なものだ。ごく微妙だ。生の中でもっとも微妙なものだ ―――いったんその感覚を手に入れたら、もう何物にも乱されない、もう何物にも苦しむことがない。もうあなたは苦しみなしで存在する。

 

それがサニヤスの意味するところだ―――苦しみなしで存在する。だが苦しみなしで存在するためには、選択なしで存在することが必要だ。つまり中間にいることだ。この「つねに中間にいる」という道を、あくまでも意識的に創り出そうとした最初の人間がブッダだ。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(2源泉への道)OSHO P149-150から引用)

 

禅の三祖僧璨(ソウサン。達磨の弟子の慧可の弟子)の信心銘の冒頭にえり好みをしないとあるが、それが無選択のこと。

 

三祖僧璨は、中風を病み、臨終時は立ったままだった。仏教禁令の時代を片腕のない慧可と過ごした。

 

無選択とは、足して二で割ったものをチョイスすることでもなく、アウフヘーベンでもなく、選択しないこと、選り好みをしないことだった。

 

天意、神意を生きるとは、人為や賢(さか)しらという選択肢と天意、神意を生きるという選択肢の二つがあって、天意、神意の側を意図的に選ぶということではなく、選択しないということ。選択しない結果が天意、神意を生きるということなのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玄沙師備が石につまづいて悟る

2023-03-17 06:40:23 | 人と神の「実際のところ」

◎あわてふためき父を溺死させる

 

玄沙師備(835-908)は、福建省の漁師の家に三男として生まれた。長じて、海で父の漁業を手伝っていた。玄沙は、漁業は殺生でもあり、気に染まない生業だった。ある日、漁の最中に父が足をすべらせて水に落ちた。玄沙はあわてふためき、父を助けてあげることができず、結局溺死させてしまった。

 

この事件をきっかけに玄沙は出家し、雪峰を師として禅の修行に打ち込むこととなった。だがなかなか悟りを開くことができなかった。

 

※備頭陀:玄沙のこと。

『雪峰は、ある日おどしをかけた。

「備頭陀よ、そなたはこれまで、いちども諸方の老師を遍歴していない。ひとわたり見てまわっても、差しつかえあるまいに」

 

こんなふうに、四度も先生(玄沙)は、和尚に熱心に説かれると、和尚の言いつけ通り、旅仕度するほかはない。

 

すべてが終って、ちょうど嶺上にゆくが、石ころにつまずいて、突如として大悟する。おもわず、さけぶのである。

「ダルマも来ず、二祖も受けとらぬ(達摩不過来二祖不伝持)」

 

さらに、大樹にのぼって、江西を眺めていう。

「さあ、おまえをどうしてくれよう(奈是許你婆)」

すぐに、雪峰にひきかえす。雪峰は、かれがかえってくるのを見て、たずねた。

「きみを江西にゆかせたのに、何でそんなに早くかえってきたのか」

「いって来たのです(到了也)」

「どこにいったのだ」

先生はくわしく、前の事件をはなす。雪峰はその力をみとめて、かさねて入室の話をしてきかせる。

先生は、瓶の水をうつしかえるごとく、あまさず機微をつかんだ。 』

(純禅の時代 続 祖堂集ものがたり 柳田聖山/著 禅文化研究所P221から引用)

 

自分にしっくりこない職業に就いて世過ぎをするということはある。だが、もっと大きな力が働いて、人を本当に生きるべき人生行路に導いていくということはある。

 

それは、最初は父の溺死に無力だった自分であり、後には1個の路傍の石ころだった。

 

準備ができていたから出家し、準備ができていたから悟った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空虚の本質-2

2023-03-16 06:18:35 | 人と神の「実際のところ」

◎その心を捜しているがみつからない

 

さらにOSHOバグワンは、空虚について説明するが、そのおおよそは以下。

 

  1. 瞑想の中で、時に一種の空虚が感じられることがあるが、それは、本物の空虚ではない。それは、数秒の間の思考の停止である。だがそれも新たな思考である。よってそれが起こっても、何もせず、ただ待つ。
  2. 最初のうち、それはどうしても発生するが、何もせずただ待つ。
  3. このことについて、OSHOバグワンは、禅語録無門関第41則の次の話を例として挙げる。

      (参照:ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)/OSHO P292-295)

 

洞窟の中で、達磨は、面壁で坐禅していた。しんしんと雪の降る中、後に最初の弟子になる慧可が切断した臂を持ってやってきた。

慧可「私の心は安心していません。師匠、私の心を安心させてください。」

達磨「お前の心をここに持って来なさい。そうしたら安心させてやろう。」

慧可「その心を捜しているが全然みつかりません。」

達磨「お前は既に安心した。」

 

 

さて、雪の降る中自分の臂を切ってマスターに見せに来るというのは、いかにも凄惨な狂気の図ではある。だが、生死を越えるとか逆立ちしてブリザードを耳で見るとかという次元であれば、そういう話は出てくるものだ。

またグロな話が嫌いな人向けには、そもそも慧可は他の弟子と修行中に強盗に臂を斬られてしまっていたという話もある(無臂林)。

 

さて「私の心」が、OSHOバグワンの言うところの本物ではない「一種の空虚」にあたる。達磨は、慧可に対して「一種の空虚」をも棄てなさいと示して、慧可は、本物の空虚を得たのだ。

 

その機微がわかる雪舟とそれを国宝として伝承してきた日本の禅者の系譜に対してはただリスペクトあるのみである。そしてそれを例として引いて来るOSHOバグワンも禅マスターである。

【雪舟 慧可断臂図】:達磨も慧可も眼球が上を向いている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空虚の本質-1

2023-03-15 07:21:24 | 人と神の「実際のところ」

◎ただひたすら空虚になること

バーナデット・ロバーツは、自分がなくなってから、しばらくその取扱に苦しんだ。

OSHOバグワンに弟子から、自分がなくなる空虚についての質問がやってきた。

『瞑想の中で、「私」が一時的に落ち、内側に空虚が生じることがあります。でもその空虚は、「未知」の訪れによって満たされることがなく、私は挫折感を味わいます。 どうしたらその空 虚とともに生きられるようになるでしょうか。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)/OSHO P287から引用)

OSHOバグワンの回答のあらましは、次のようなものだ。

1. 空虚と未知は同じもの。

2. 最初エゴ(自己)が消え、次にエゴの不在が感じられ、更に次に真の空虚になる。

3. このエゴの不在で生じた内的空間が「神」である。

4. 「神」は到来したのではなく、もともとそこにあったが、エゴという膜で発見できなかっただけ。それが今ここ。

5. だが欲求すれば、空虚は失われる。
『だからけっして、「どうしたら、空虚とともに生きることができるか」などと尋ねてはいけない。それは真の質問ではない。ただひたすら空虚になることだ。あなたはまだ空虚ではない。 
いったん空虚とは何かを知ったら、あなたはきっとそれを愛するだろう。それはエクスタシーに満ちている。それはもっとも美しい体験だ』
(上掲書P289-290から引用)

6. 空虚は最奥の中心であり、一方あらゆる行為は表層にある。たまねぎの皮をむいたら最後は何もないというシュンニャの例えがこれ。

7. 空虚は源泉なので、これに対して「神や神的な力やエネルギー」が降りてきてほしいと思うとエゴが復活する。神と言う言葉は神とは別物。

ここまで単純明快に方向性を示してくれれば、エゴがなくなったバーナデット・ロバーツも山に籠ったりして苦悩と混乱と麻痺の数か月を過ごす必要がなかったかもしれない。

まことに、悟っている導師、マスターの存在は貴重なものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代の偽予言者、エクソシスト(祓魔師)

2023-03-10 06:25:15 | 人と神の「実際のところ」

◎無意識に自分がマインド・コントローラーになっている

 

最近は、NARUTO-ナルトなどオカルト、スピリチュアルテーマの漫画も多く、偽予言者、エクソシスト、チャクラなどという、昔はテクニカル・タームだった言葉を知っている人も多い。

 

終わりの世には偽予言者がはびこるなどと若い頃に聞いてびびっていたが、最近は、数十年前にも増して偽予言者がはびこっている。

 

預言者とは、真理を語る者だが、厳しく見れば、真理を知らぬ者が真理を語った場合、たちまち偽予言者となる。つまり偽予言者とは、

特殊詐欺の犯人から、情報操作、世論操作を信じて誤った真理を書いたSNSの著者やそれに“いいね”を押した人まで、広く含まれることになる。

 

嘘を言わない、正直であるというのは、人として基本だが、冥想修行者の基本でもある。スマホやPCで触れる情報がややもすれば半分以上が真実でないとすれば、そうしたもので出来上がった人物の思考や発言は、半ば偽予言者と考えられる。無意識に自分がマインド・コントローラー、つまりマインド・コントロールする側になっているわけだ。

 

つまり現代人の半分は、自覚しないまま偽予言者になってしまっていると見ることができる。これを終わりの時代と言わずして何と言う。

 

※マタイによる福音書7-15:「偽予言者を警戒せよ」

同じく24-11:「また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。」

 

古い時代にキリスト聖職者の位階にエクシソシスト(祓魔師)というのがあった。チャネラーの憑霊による発動ではないが、キリスト教でもトランスに入ることによってそういう状態になることがあったのだろう。それに加え、改宗、カルト脱会、共産主義洗脳(リフトンの研究による)など、精神の根底を不安定化される事態。そういう場合にエクシソシストが必要になる。だが除霊本とかエクソチズム本を読むと憑依された媒体の方に問題があるなどと書かれていることも多い。

 

ところが最強のそれは、冥想修行の最終段階で登場してくるものであって、大悟覚醒の最終段階でないと出てこないのは、イエスや釈迦の例にあるとおりである。それを考えると、エクソシスト(祓魔師)の位置づけが低かったのはなぜだろうかと考えさせられてしまう。

 

現代人の一半がこのような状態だから、現代のエクソシスト(祓魔師)の資格は、大悟覚醒、ニルヴァーナ体験者以外にないと言うことができるように思う。

 

『〈祓魔師〉(Exorcista) は、 文字どおり悪魔(悪霊)を祓う者のことであるが、聖職者の階級(〈品級〉Ordo, Pl. Ordines という)のひとつ。品級は、下級四段と上級三段とに大別され、前者は(下位から)守門、読師(一〇二ページ 注六)、祓魔師、侍祭の四級、後者は副助祭、助祭、司祭の三級にわかれる。これらの品級をさずける権能をもつのは、司教であって、祓魔師の授品式は、司教が受品者に祓魔のための祈禱文などを書いた典礼書を渡すことによっておこなわれた。祓魔師は、定められた祈禱文をとなえながら按手(第一巻三九三ページ注二)することによって悪魔祓いをおこなった。

 

そのほか洗礼志願者に祓魔式をほどこし、その宗教教育を受けもつことも、祓魔師の任務であった。今日では、祓魔師は、事実上司祭職に昇進していくまでの一過程というにすぎない。』

(黄金伝説 2 ヤコブス・デ・ウォラギネ/著 人文書院P274-275から引用)

 

なお、祓魔、除霊が問題になるのは、クンダリーニ系修行の場合であって、禅・只管打坐系修行にあってはそれを問題にしない。もっとも只管打坐系の覚者クリシュナムルティはそれに類したことをやっているが、真理を知る覚者だからできるということはある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つまずく石にも神の警告を感得する

2023-03-01 03:08:11 | 人と神の「実際のところ」

◎天を恐れよ、神を畏れよ

 

出口王仁三郎は、悲しみと憎悪の心が地上に地獄を現出させるものであるが、人間が冥想により悔い改めと禊の業を行なわず、邪気がどんどん天地に充満してきた際には、暴風豪雨など自然災害が起こって、結果的に邪気を払うことになるものと述べる。ところが特に日本においては、神国であるがゆえにその自然災害の発生が国難の前ぶれとなるとする。

 

SNSの発達により、前触れとなる事象は毎日毎時あまた起こっていることがわかる。そうすると前触れとなる事象が起こることそのものが問題なのではなく、前触れと感じ取る自分の敬虔さと感性の方がクリティカル・ポイントになるわけだとわかる。

 

防災用品の備蓄も重要かもしれないが、事前に災害を起こさぬようにする方法とは、微力ながら自分は善を行い悪を行わない、自分は正直にして嘘を言わないなどの積善陰徳である。そんなのは論理的ではないとか思う人も多いのかもしれないが、積善陰徳は、カルマ・ヨーガやバクティ・ヨーガの専売特許ではなく、神仏を知る人たちの基本的な行動原理である。

 

「天を恐れよ、神を畏れよ」というのは、最後の審判で地獄行きになると脅すカルトの定番のセリフではなく、神仏を知る人たちの基本姿勢である。

 

出口王仁三郎は、つまずく石にも神の警告を感得せよと人間本来の気持ちの持ちように立ち返れと次のように述べる。

『また人の心が乱れ、悲しみと憎悪に満ちているとき、すなわち愛悪の精神がみなぎつているときには、その五体から暗赤の色を放射するものである。これはつねに破壊性、殺害性の力を有するものであつて、そのために刺激をうけると、精神的にも物質的にも、生長力を阻害されるものである。人によつてなんとなく衣類器具などを汚し損する人がある。これも右のごとき破壊的色素の一つの働きである。

 

しかしてかかる愛悪の霊的色素がだんだんと天地に充満してくると、その結果、肉体的には病を発生し、精神的には不安懊悩を誘発するにいたるものである。この悪気をはらい清める行事が禊祓である。しかして禊祓にもいろいろあつて、斎戒沐浴もその一種であり、神籬による祓戸、祝詞奏上、鎮魂などすべて禊祓の一方法である。

 

しかしてもし人間が悔い改めと禊の業を修めずして、邪気いよいよ天地に充満しきたるときには、祓戸の神のご発動となつて、暴風豪雨などによつて邪気が清められるのである。神の恩寵もつとも豊かなるわが国において、とくにしかりである。ゆえにわが国においては、古来国難の当来する前においては、ことに自然界の変災が多いのであつて、これは神がとくに日本を愛したまう象徴なのである。

 

余は、最近のわが国における天災地変について議論をすることを避けたい。科学万能主義者や、過去の聖賢の言葉を否定する説に同ずる人々を、一々論難してもしかたがない。だが余は、つまずく石にも神の警告を感得する謙虚敬虔な心を持つ人は幸いである、というものである。

 

天の具象を見、地の変兆を知らされても、神を知らざる者の目は節穴同然、耳は木耳同様、まことに悲しむべき世相である。かかる世相をだれがまねいたのであろうか。余は過去の聖賢とともに「天を恐れよ、神を畏れよ」と、今の世に叫ぶものである。

(専ら天を畏れ其の啓示に心せよ、「人類愛善新聞」 昭和10年8月)』

(出口王仁三郎著作集 第3巻 愛と美といのち 自然といのち 生活と自然のリズム 天を恐れよ、神を畏れよ から引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バーナデット・ロバーツの窮極への通路

2023-02-23 06:16:03 | 人と神の「実際のところ」

◎それは見たにとどまった

 

自己喪失のプロセスを徐々に進んだバーナデット・ロバーツは、「一なること」をただ見ることしかできない状況に4か月間陥った。

 

それに至るまでの経緯は以下。

1.万物の個別性の消失と「一なること」を見た。見ることが、立体鏡をのぞいたように頭の少し前の方にあるように感じた。(最初の一年間)

2.外にあるすべてのものの脱落。これにより、「一なること」も個々のものを見る立体鏡もなくなった。「見ること」は盲目になり、内にも外にも何もない虚無という状況で生きることになった。

これは、心を何かに向けることができず何もわからない状況となったが、ここに容赦のない「見なければならない」という圧力があった。が、見れるのは虚無だけ。

この状況を彼女は「窮極への通路」と呼んだ。

3.「窮極への通路」は、本能的な危険を感じつつ、生と死と、あるいは正気と狂気とを分かつ狭い断崖をたどっていて、無自己の確固不動の静寂だけが頼りだった由。なお彼女は、その静寂は神ではないとしている。

 

「窮極への通路」は4か月間続き、彼女はその間虚無を「見ること」しかできなかったが、正常に戻ることで、元に戻った。

 

彼女は、当たり前の状態に戻ったが、禅の十牛図でいえば、見る自分を持ったままならば、それは、一円相の第八図には届いていない。虚無だけになったと言う状態は、第七図忘牛存人か。

 

原始仏教では、冥想段階を10段階でとらえるが、なにもかもなしは、7番目の不用定(いかなるものもそこには存在しないという禅定の境地)に当たるか。

 

何より「見る自分」「見ている自分」を放棄して飛び込めなかったのではないかという疑いが残る。

 

「見なければならない」という圧力は、自分に直面せよということだろうが、彼女にとってすでに自分(自己)はないという認識だったから、ここは見るべきものはなにもなかったという隘路にはまったのだろうか。

 

しかしながら、全体としてみれば、少々しみじみとしてはいるが、ぶち抜けた感動と感謝が薄いような印象を受けるのだ。

 

最終的に微笑の三態、微笑そのもの、微笑するもの、微笑が向けられたもの、この三者が相互に区別されずに、ただ「一つ」になったものを見たが、それは見たにとどまったのではないか。

つまり見神にとどまって、神人合一に至る準備は彼女にはまだなかったのではないかと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダイモンあるいはデーモン

2023-02-20 07:10:09 | 人と神の「実際のところ」

◎最初は守護霊として後には魔術の根本動因として

 

ダイモン(daimon)は、ソクラテスの死生観を読むと出てくる守護霊のようなもの。ダイモンはローマ時代には、ゲニウス(genius、守護霊)と呼ばれていた。

 

一方デーモン(demon)とは、悟りの直前に登場する悪魔であって、イエスの時も釈迦の時も成道直前に登場している。

ダイモンとデーモンは、そもそも別物だが、自由な石屋さんなどで現実を操作する魔的なパワーの根源をダイモンと呼ぶようになったようだ。それは以下の文でわかる。

 

『ギリシア語のダイモンは、本来は神あるいは神的存在を意味する言葉であったが、やがて神(テオス)の意味領域が確立するとともに、一般には神より下位にあり、現象世界より上位にあって現象世界を動かす根源的な力、原動力を意味するようになる。

 

人間と神々の中間に位置づけられたダイモンは、ギリシア時代における密儀・魔術・医術・予言などの基本原理と理解されていた。ゲニウスは、このダイモンを継承するラテン語であり、近代ヨーロッパにおいて、万象に内在する神的な力を意味する言葉として復活するのである。

鷲の飛ぶ姿を見る時に、われわれは天才を見るのでも、守護精霊や詩魂を見るのでもない。われわれは、鷲の飛ぶ姿に顕現している神的な力を見るのである。』

(フリーメーソンと錬金術/吉村正和/人文書院P177から引用)

 

密教とは、現実を操作できる魔的、神秘的なパワーを人間のよかれと思う方向に用いるもの。カトリックでは、聖霊を非常に広い意味で用いているが、その影のような位置にあるものとして薔薇十字以降の人々はダイモンを見たのだろうと思う。

 

守護霊の位置づけについては、出口王仁三郎その役割について厳密な定義づけを行っている。『人の精霊には、別途2種の精霊が同伴しており、一体は、天国と交流している善玉精霊(正守護神)であり、もう一体は、地獄と交流している悪玉精霊(副守護神)である。』というのがそれ。

 

なお我々の天賦の霊のことを本守護神と呼び、

正守護神、副守護神と同じレベルで並べているのは意味のあることとして考えてみるべきだろう。

 

また正守護神の人間へのエスコートぶりは、ソクラテスのダイモンと同様であると思うが、チベット密教では、正守護神、ダイモンに言及がないのはなぜなのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノンデュアリティ、自分がない

2023-02-12 06:33:16 | 人と神の「実際のところ」

◎自分はなくなったものの神も見つからないという状況

 

最近のスピリチュアル系サイトでは、ノンデュアリティを語るものが多いが、その目標あるいは目指すべき境地として自分がないとか、自分がなくなるなど、ストレートに概念を持ち出すことが多いようだ。その結果、読者や修行者は冥想修行の方向性に迷うことが多いのではないだろうか。

 

自分がないということは単純に自分がなくなるということではない。自分が死んで、想像もできなかった有り様で、神なる自分あるいは仏なる自分として復活していくわけだが、そうした例として、このサイトでは、OSHOバグワンの覚醒事例や七日で悟る長沙和尚瓊禅師などの例を挙げている。OSHOバグワンも久しく自分が死んでいる状態にあった。長沙和尚は、長期間かけはしなかったが、どうしても悟れなかったので、海に身を投げて命を断とうと思い詰め自分が死んで再生した。瓊禅師は、一坐一坐、日々に微妙な境地を体得することができたと、坐れば坐るほど境地が徐々に進むことをも示す。

 

どう自分がなくなって覚醒するかについては、

禅語録はその事例の宝庫であって、頓悟要門や禅関策進はその代表的な例である。ただ修行途中でどう思ったかなどはあまり細かく書いてはいないことが多い。

 

カトリックでもアビラのテレサや十字架のヨハネの書物は闇から光への進捗を測る上で貴重なものである。

かつてキリスト教系だがバーナデット・ロバ-ツという女性が、自分はなくなったものの神も見つからないという状況に陥って、四人の子がいたが日常生活ができなくなって、一人で山に籠って長期間生活して、神らしきものに結局出会うことができたという記録もある。

 

これは、彼女のその時々の暗夜や自分もないが神もないという中途半端で危険な状態などの心理状況について詳しく述べられており、貴重なものだと思う。

 

ただし、悟りは悟りかもしれないが、いわゆる大歓喜のようなものが見られないようなところはどうなのかと思うところがある。彼女もエクスタシーとは書いてはいる。それは起きることは起きたが、それをどの程度受け入れられるキャパが彼女にあったかという問題なのかもしれない。

 

自分が準備ができているかどうかという点とそれが起きるあるいはそれと出会うタイミングは、必ずしも合致しないということだろう。

 

参考:自己喪失の体験/バーナデット・ロバ-ツ/紀伊国屋書店

神はいずこに/バーナデット・ロバ-ツ/日本教文社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする