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アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

OSHOバグワンの世間の評価

2023-01-15 03:30:03 | 人と神の「実際のところ」

◎映画Wild Wild Countryなど

 

相変わらずラジニーシ(OSHOバグワン)の崇拝者は、世界中に多い。

2018年エミー賞ドキュメンタリー部門受賞作の映画『Wild Wild Country』これは、ラジニーシ教団をテーマにしたもので、最近は、Netflixでも見れる由。

 

まだこの映画は見ていないが、

ブログ“ちょっと便利な備忘録”の「ドキュメンタリー『Wild Wild Country』徹底解説 その#1」

https://dogearmemo.wordpress.com/2018/09/26/netflix-documentary-wild-wild-country-analysis-part1/

と英語wikipediaの

https://en.wikipedia.org/wiki/Rajneesh

を読んで、いくつか気がついたことがあった。

 

OSHOバグワンは、1964年に「第三次で最後の戦争が今進行中である」と述べ、世界的な自殺を避けるために「新しい人類」を創造する必要性があると主張していた。

1980年代にオレゴンに渡ってからは、「1990年代に核戦争やその他の災害によって世界が破壊されるかもしれない」という予測を出し、

1984年3月、シーラ(教団ナンバー2)は、OSHOバグワンがエイズによる人類の3分の2の死を予測したと発表した。

 

これにより、オレゴン・コミューンが、ノアの意識の箱舟を作る場として位置づけられたらしい。つまりノアの意識の箱舟に乗るのが、新人類という選民になる。

 

人類の生存率三分の一は、当時の予言では相場と言える。新人類という選民は「悟った人」ということになる。OSHOバグワンは、何人に一人悟りを開けば、新時代がソフトランディングするみたいなことも述べていたが、オレゴン・コミューンの人口に比較しても、悟る人数は全然それには足らなかった。

 

私の見るところ、

まず、OSHOバグワンは、コミューンを作って新時代へのエンジンとしようとする志は持っていた。そして彼は、インドのプーナとオレゴンにコミューンを形成することができた。しかしながらいずれも成功したとは言い難い結果に終わっている。最後は世界中から村八分になってインドに戻ってきた。

 

その原因は、OSHOバグワンが弟子の育成にあまり熱心とは言えない雰囲気だったこととコミューン経営にあまり関心がなかった風であることだと思う。いわばコミューンさえ作ってある程度のルールを与えれば、きっと覚者も多数生まれ、コミューンも拡大していくのではないかとでも思っていたのではないか。

 

何しろ、彼は荘子の生まれ変わりであって、荘子も覚者としてのパフォーマンスを行い教えも説くが、親身な弟子の育成シーンはほとんどない。OSHOバグワンもそんなところがある。だからコミューンがああなってしまったのは必然ではあると思う。ただし、今では想像もできないかもしれないが、1980年代は、OSHOバグワン周辺のエネルギーたるや、すさまじいものがあったことは、その熱気の記憶として残っている。

 

彼の講話録を見ると、1970年代と末期のウルグアイ時代は、非常にすぐれた内容のものがある。聴衆が優秀だったのだろう。師匠も弟子も切羽詰まらないと、よいやりとりは出てこないものだ。

 

OSHOバグワンについては、「OSHOアメリカへの道」やこの映画「ワイルドワイルドカントリー」のように、彼の境涯(悟りのレベル)には、ほとんど関心を寄せず、不肖の弟子たちの行動の方に興味の主軸を置く見方もある。その一方で、全く体系的でなく、脈絡も厳しい彼の片言隻句に、とんでもない叡智があることを発見し、それを捜しまわる私のような者もいる。

 

そのように彼への見方は様々だが、七つの身体という新時代への突破口を開いてくれた功績は大きいと思う。ケン・ウィルバーの意識のスペクトルなども七つの身体論を承知して進めている。本物の覚者で、後進のまともに役に立つコアな情報を与えてくれる人は、迫害されたり、悪評ふんぷんだったり、時に大悪人みたいに書かれたり映画で描かれたりするものではある。

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執着には悲しみがペアでついている

2023-01-12 03:56:56 | 人と神の「実際のところ」

◎選り好みをすることが執着であり叫びの元

 

まず釈迦のダンマパダから

1.『怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。』

(ブッダの真理の言葉・感興の言葉/岩波文庫P41から引用)

 

この束縛が執着のことである。

 

2.イーシャ・ウパニシャッドから

『有情・非情の万有を自己となし

いたるところに万有一体の理を悟る

この覚者 この賢者に

いかなる愁い いかなる執着があろう』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P174から引用)

 

OSHOはこの経文の解説で、悲しみと執着がペアになっているのは、この二つは実は一つのものだからだと指摘する。悲しくなるのは執着の対象が失われたからであり、執着がなければ悲しみはない。悲しみは執着につきまとう影のようなもの。

 

3.禅の信心銘から

『至道無難唯嫌揀択

 

【大意】

至上の大道は、すぐそこにあって、かれこれと七面倒くさいものではない。ただえり好みしさえしなければ、それでよいのである。』

 

執着はえり好みから起きる。つまり悲しみは、えり好みが原因なのだ。

 

4.ヨハネの黙示録

『見よ。神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民になり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』

 

『悲しみも、叫びもない』というのは、その原因を断たねば実現しない。悲しみも叫びもその原因は、にわかには信じられないかもしれないが、えり好みである。

 

えり好みについては、最近の価値観の多様化が言われる以前の古代から、特に異性へのえり好みは激しいものであり、この時代は、ファッション、ブランド品、コスメから消費財一般まで、何にでもえり好みを前提にしている。

こうした気軽な消費選好というえり好みが、膨大な悲しみを呼び、叫びを引き起こしているのだ。

 

つまり『悲しみも、叫びもない時代』とは、万人がえり好みをしなくならないと来ないのである。至福千年、イエスの再臨、弥勒菩薩の出現は、万人がえり好みをしないという、現代人には全く考えられない心情の人々の世界なのだ。

 

そこで、人がえり好みをしないことを実現するには、人は冥想により、神と一体になる、あるいは仏と一体になるという、体験とはいえない体験を経ねばならない。

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雲門の日々是好日

2022-12-24 05:09:17 | 人と神の「実際のところ」
◎自分が宇宙全体に逆転した後の日々

禅僧雲門は、夏の15日間の冥想集中訓練の最終日にあたって、弟子たちにこのように述べた。
「15日以前のことは問わない。
15日以後について一言で言ってみなさい。」
すると、誰も答えないので、雲門自らが、
「日々是好日」(毎日が好い日だ)と答えた。

説明としてはこれだけだが、ネットでは、平凡な毎日でも感謝して暮らすのがよいとか、一生懸命に毎日務めて暮らすのがよいなどとあたりさわりのない説明をしているものもある。

雲門はせっかちな師匠の睦州のところで修行していた。睦州は、雲門が門をまたぐとつかまえて「さあ、仏とは何か言ってみろ。」と迫るのが常だった。言えなければ、門外に押し出された。
ある日雲門が門をまたぐと、片足が外に残ったまま睦州に門扉を閉じられて足を骨折した。雲門は、痛みで声を上げた時、忽然として大悟した。
雲門の好日は、骨折で始まった。

悟りとは、一旦自分を棄て、自分の家族や地位や人間関係やペットや財産や秘密の楽しみをすべて捨て、自分の宇宙、自分の世界を棄てて、自分が死んだ時に、世界全体、宇宙全体に逆転すること。

それは、非二元、ノンデュアリティだが、それは実際のところどんな感じ、どんな日常感覚なのかは、自分が死んで(大死一番)みるしかない。

その感じとは、
死ぬものとて
何一つない
未知なる国を
われは歩きぬ』
(ダンテス・ダイジ/戯れに冥想を)というところだろうか。
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クンダリーニのエネルギー・コードの謎

2022-12-23 06:39:42 | 人と神の「実際のところ」
◎生者の意識、死者の意識

人には、顕在意識と潜在意識があり、顕在意識は生の側であり、潜在意識は大まかには死の側である。現代の心理学は、両方とも同時に認識できていることを自明としているように思う。

七つの身体論で言えば、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体までは、個人の持ち物だが、
それら5ボディは漠然と同時に存在しているように思われているが、臨死体験やアストラル・トリップ体験を読むとボディとボディの間の移動にはトンネルがある場合があり、異なるボディはやはり別世界、別次元なのだろうと思われる。だから異なるボディ間の移動にはひょっとしたら時間がかかるのではないかとも思われる。

目覚めている日常と、大悟覚醒時の第六身体アートマンあるいはニルヴァーナの移動には時間がかかるが、第五身体コーザル体以下の異なるボディ間の移動に時間がかかるかどうかも、意識の中心の移動の所要時間とともに、
重要な研究テーマだと思う。

第六身体で今ここと言う場合、今しかないので、時間は過去も未来も含めて現在として展開する。積善を行うというのは、将来の果報の実現につながるが、過去すらも改善してしまうということは、この理屈の上からもあり得ると思う。

チャクラとクンダリーニは別物であり、一般的にはクンダリーニは、ムラダーラ・チャクラと接しているとされる。クンダリーニは、エーテル体以上に存在し、ダンテス・ダイジの図版説明では、アートマン直前まで個なるクンダリーニとしてある。その色は最初は銀だが、後に黄金に変わる。

クンダリーニで問題なのは、クンダリーニ上昇プロセスにおいて、クンダリーニはエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、アートマンと上昇していくが、
異なるボディを上昇できるクンダリーニは、自己自分なのではないかということなのである。そのクンダリーニは最初は個だが、後には、中心太陽に突入する。それが、モクシャ、ニルヴァーナに至るのかどうかはわからない。

クンダリーニが中心太陽へ向かって上昇する最終上昇ルートを、パドマサンバヴァはチベット死者の書で『無上の垂直道』と名付けている。パドマサンバヴァもよくその消息を承知しているわけだ。

時間の流れというものが、先験的に最初から絶対なものとしてあると感じるならば、意識に浮かぶ想念と想念の合間にアートマンなる宇宙全体が存在していると思うだろう。あるいは、入息と出息の間の呼吸のないところにアートマンが存在していると見るだろう。

ところが、アートマンには、時間がなく過去も現在も未来も一緒くたであるから、「想念⇒無想念⇒想念」あるいは「入息⇒無呼吸⇒出息」は、いわば同一平面上に転変するのだろうと思う。つまりアートマンから見れば生の世界も死の世界もごたまぜなのだ。

この辺の日常感覚は、悟ってみないとわからないので、禅者は、この感覚を平常心是道とか、日々是好日と言った。

また一方こうした心理状態は、現代の心理学者から見れば、変性意識とか異常心理とかに分類されるだろう。

人は、生の世界に生き、死の世界にも生きているというが、日常感覚からそこを想像するのはなかなか大変なことだと思う。
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黄泉比良坂という撤退戦

2022-10-25 07:53:11 | 人と神の「実際のところ」

◎悪をやっつけず封じ込める

 

最後の審判は、至福千年を迎えるためには、必要なプロセスであることがわかった。それでは、日本神話では最終戦争である黄泉比良坂は、なぜ撤退に次ぐ撤退を繰り返す戦になっているのだろうか。

 

黄泉比良坂はこの世とあの世の分水嶺。伊邪那岐神が霊界に入って、あらゆるあの世の悪を最初は説得するのだがうまく行かず逃げ出して、ほうほうの体で黄泉比良坂に到達し、そこに悪魔軍団が来れないように、千引の岩(動かすのに千人力を必要とするような巨石)をおいて封じ込めに成功。

 

この悪の超長期の封じ込めビジョンは、聖書はじめ諸外国の神話伝承とも共通している。

 

最近のモバゲーのように、最後は常に善が悪に勝つのであれば、悪のラスボスを退治して終わりになるので簡単だが、そうはなっていない。おまけに黄泉比良坂という最終戦争は、時間を稼いで逃亡し、時間を稼いで逃亡を繰り返しの連続。最後は堅固な国境の外に出るという華々しくない終わり方になっている。

 

万人が悟るには、時間を稼ぐ必要がある。十人でも百人でも悟った人を出すには時間がかかる。その一方で世界の腐敗、爛熟、悪化はどんどん進む。

 

悟りすました聖者覚者でも、他人を悟りに導くのは簡単ではない。馬を水辺に連れていっても馬に飲む気がなければ、水は飲まない。他人を悟りに導くことを「言向け和す(ことむけやわす)」というが、黄泉の国で、伊邪那岐神が悪の権化である伊邪那美命を言向け和すことはおろか配下の者すら悟りに導き善導できなかった姿がこの撤退戦に次ぐ撤退戦だったのだろう。

 

時間をかけた結果、悪の封じ込めには成功したが、日に千人取り殺されようが、日に千五百人産むことで、人類絶滅は回避されたとさ。

 

時間をかけたと言えば、日米は、戦後70年以上かけて中国の育成繁栄に努力したが、その親の心子知らずではないが、国力充実した中国の台湾進攻は、今年とも来年とも予想されている(米海軍制服組トップのギルデイ作戦部長は2022年10月19日、中国による台湾侵攻が起こり得る時期について「2022年や23年の可能性を排除できないと思う」と発言)。

中国による台湾侵攻が発生すれば、米軍が在日米軍基地から台湾に向け発進した瞬間に、日本は中国の攻撃目標になるから、中国は敵国と化す。時間をかけるとはそういうことのためだったのだろうか。

 

逃げ切れる日本人は何パーセントだろうか。

 

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人と神の「実際のところ」-6

2022-10-11 03:52:39 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-6

 

(原文6 完)

『人間という奴は、

つねに小便一部を残している。

それでいいんだ。

すべてがすべてになるのは、

すべてだけだ。

 

ああ、あなたはそれほどまでに

不安という観念を

愛しているのですね。

 

無駄口ばかりたたいている。

そうなっていくそれでいいというのに。

久遠の戯れは続く。

何のためでもなく・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

本来の自分、アートマン、宇宙全体、第六身体と自分が合体するのはよい。だが、自分がそれと合体したことを思い出として記憶しているし、合体から抜けて我に戻る時、他人に戻ってもいいはずなのだが、もとの自分に戻る。この辺が“小便一部”という言葉になっているように思う。

 

それを残していれば、最初は神との至福の感覚を忘れないだろうが、いつかそれを忘れ、自分というものが不安の種に変貌していくことを見るのだろうと思う。

 

老子狂言に【メシアン・ハンドブック】という詩があり、その一節に

『君は 

あらゆるものとともに死ぬ 

君も世界も 

もともとありもしないここに

あらゆるものが戯れている

 

いうなれば 

君達は

体験ではない体験

それ自身を 

再体験しようとしている』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

この『もともとありもしないここに

あらゆるものが戯れている』

に戯れの構造の解き明かしがされている。

 

戯れという言葉には、不真面目さが伴う。が、もともとありもしない今ここというニルヴァーナと、我々が実際に生きているこの生は一回きりでのっぴきならないものであるという現実とは、相容れるところがない。だから全体として見れば、戯れというある意味で気合の入らない用語を充てているのだろう。

 

『もともとありもしないここ』から帰ってきた人の生きる姿は、悪事をしない、善いことだけをする、であることも、誤解を防ぐためには忘れてはならないだろう。

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人と神の「実際のところ」-5

2022-10-10 06:42:11 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-5

 

(原文5)

『悟りという体験の思い出———

何という足かせだろうか!

 

恐怖があることを恐怖するから、

あんたは、あたりまえの恐怖を

生きられなくなっちまうんだ。

 

「どうでもいい!」と

君は本当に叫べるか?

 

悟りは、悟りとは何の関係もない。

犬が鳴いている!

ワン·ワン·ワン・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

『悟りという体験の思い出』が足かせであるとは、『悟り』があまりの愛の極み、大慈悲の極み、何ものにも例えられない心地よさの極点であるため、とても懐かしく、すてきなものであると、覚者たちは全心身の感動をもって、うっとりと思い起こすことがある。

 

それを聞いた弟子たちは、『悟りという体験』はどのようなものであるか想像すらもできないが、その覚者本人の感動の印象だけは直に伝わるので、それがなんだかとてつもなく素晴らしいものであるらしいことだけはわかる。

 

『悟りという体験』が素晴らしいものであることは、禅語録に散りばめられており、道元の正法眼蔵は、その感動が膨大な著述へと突き動かした印象を受ける。もっともその感動は、いわゆる感覚刺激に類する話なので、覚者は大げさには語らないものだし、読者もあまりちゃんと取り合わない癖がついているものなのだが、ダンテス・ダイジは、敢えて言ってみせる。

 

だが、そこを強調しすぎると、「悟りとは体験である」という体験至上論に堕し、体験する者が最後まで残る原因になったりする。よって、ダンテス・ダイジは、「悟りとは態度である」などと殊更に唱えたりしている。

 

誤解を恐れずに言えば、覚者にとって悟りとはそれほどにのっぴきならない思い出なのだ。

 

恐怖については、自分自身に向き合う恐怖。個人が全体に出会う直前の恐怖。

ダンテス・ダイジの老子狂言の【いつも私は評価する】という詩に恐怖が語られている。

 

『人が絶対の至福を求め始めた時が、

絶対の至福を失う時だ。

———それが恐怖だ!それがわけのわからぬ不可解だ!それが人間のものでない久遠の至福だ!

 

死が恐ろしいものだと誰が決めた?

——あなただ。

不安と不満と苦悩と苦痛とをいけないものにしてしまったのは誰だ?

———『あなた』だ!!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

そして「どうでもいい!」。これは、自分個人が世界全体、宇宙全体と合一したからには、どうでもよいのであって、また最初から合一しているからどうでもよいのである。

 

これは、この表現を覚者が言うなら本当だが、未悟の者が言うなら嘘になるものの一つ。

従って、悟りは、悟りとは何の関係もなく、ワン·ワン·ワン。

 

・・・人間として世界から片足を踏み外して謳っている詩ではある。

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人と神の「実際のところ」-4

2022-10-09 06:36:51 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-4

 

(原文4)

『すべては不可能であると知ること———

それが、自殺と発狂と悟りへの出発点である。

充分以上の情熱のみが、不可能と可能との区別を忘越せしめる。

 

思考は常に解答を出したがる。

たとえば「不可解」だとか「全体性」だとか。

こんなものどもは、ガラクタでさえない。

快楽こそ悟りなのだ!

 

快楽が、

あなたのものでもないように

悲しみも不安も

あなたに属しはしない。

では、あなたとは何だ?』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

人間の営為は、死によってすべて奪われる。そこまで俯瞰すれば、『すべては不可能であると』知り、絶望のどん底に叩き落され、自殺と発狂と悟りのスタート地点に立つ。

その事態に立ち至るほどの情熱がなければ、目も耳もふさぎ石のようになって、それまでの世界観に逃げ込もうとし、東日本大震災時にアメリカの覚者ケン・ウィルバーにオープン・マインドを呼びかけられたような羽目になる。

 

情熱の多寡の問題は、実は『自殺と発狂』と『悟り』の分岐の原因にもなるのだが、その点については、『充分以上の情熱』だけが『悟り』を可能ならしめると示す。

 

「不可解」とは、明治36年旧制一高の学生であった藤村操が華厳滝で投身自殺したのだが、その遺書に万有の真相は不可解だから自殺するというのがあったことが念頭にあるのだろう。

また「全体性」とは、クリシュナムルティの本に『生の全体性』というのがあり、それを指すのではないか。ダンテス・ダイジは、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」の巻頭で、クリシュナムルティの教えが世に聞き入れられるならばこの本を出す必要はなかったと呈示しているが故に。

 

そこでいきなり『快楽こそ悟りなのだ!』と故意に誤解を生む言い回し。快楽の意味は次の二つの用例でわかる。

 

『人間に与えられた

至上の喜悦は 

なにもないというなにもないという体験だ

快楽の中の快楽の中の快楽・・・

まるで、この12月の暖かい一日のよう 

まるで一目ぼれのようなもの』

(老子狂言/ダンテス・ダイジ/【なにもかもいいんだ】から引用)

 

さらに

『神秘体験はいいものよ〜〜 

すべてを越えた快楽はいいものよ〜〜

絶対無・空・解脱・ニルヴァーナ・神は、

いいものよ〜〜〜』

(上掲詩【なにもかもいいんだ】から引用)

 

すべてを越えるのが快楽。だが、その快楽はあなたのものではない。ニルヴァーナとは、なにもないこと。

 

一休は、狂雲集で自分は70過ぎていながら30代の目の不自由な森女と爛れた快楽の日々を送った。室町の当時は一休だけが悟っていた時代だが、今のあなたの快楽は、それでは許されますまい。

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人と神の「実際のところ」-3

2022-10-08 07:06:35 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-3

 

(原文3)

『私はエクスタシーである。

だからして、

私が死ぬ時

神に返さなくていいものが一つだけある。

「神様、ああ、あなたは私だったのですね」という自覚。

 

それは、そうと思えばそう思える。

こうと思えばこう思える。

すなわち『絶対の孤独』ということだ!』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

エクスタシーというのは、一般にトランスの先に見当識まで失ってしまうことを言うのだろう。またトランスと言えば、文化人類学のシャーマニズム研究だったり、テクノポップ&ダンス、催眠、自己催眠、憑依、PTSDで発生したりするが、人類の冥想の伝統では、トランスに遥かな無限の広がりを見据えている。

 

そこで『私はエクスタシーである』という場合、いわゆるpeak experienceのことを指している。世間では、それを心理的肉体的経験と思い込んでいる場合が多いが、それは、体験とは言えない体験を指す。

 

古代ローマの哲人プロティノスは、生涯に四度エクスタシーに入り、クンダリーニ・ヨーガの究極を極めたと思われる。

 

20世紀の聖者クリシュナムルティは、『思考と感情が良く育ち、そして死んでいくとき、瞑想は、時間を超えた動きになります。この動きの中にはエクスタシーがあります。』と瞑想中のエクスタシーの可能性を述べる。

 

またエクスタシーには、男女の差があることも見え隠れし、女性神秘家のエクスタシーの評価は、ニルヴァーナなのかエロティシズムの方なのか見極めが必要と思う。

 

トランスからエクスタシーに至るとは、心理的には、無意識の世界から悟りに至る道のこと。それには無数のバリエーションがあり、基本パターンを発見するのは至難ではあるが、ウィルヘルム・ライヒが、オルガスムの法則というのを出して来ており、それが将来参考になるのではないかと思う。

 

さて『私が死ぬ時』は、肉体の死ではなく、自我の死。神様が私だったのなら、返すも返さないもない。だが、その先に思いもよらぬ孤独が待っている。

 

神様が私で、私が神様であれば、家族も群衆も大衆も他人も、金持ちも貧乏人も、いじめも虐待もなく、『絶対の孤独』がある。『絶対の孤独』については、聖者、覚者はなぜか言及することは少ないが、統合失調症の人の述懐で出てくることがある。

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人と神の「実際のところ」-2

2022-10-07 08:01:22 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈-2

(原文2)
『信頼とは何だろうか?
それは、信頼なぞ 
どうでもいいということにほかならない。

低いものは
どんなに高きものも秘めている。

冥想が冥想を戯れている!
だが副主人公である
君には
戯れはないんだ。』
(上掲老子狂言から引用。)

信頼が起こるシーンはある。南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏、オームなどをマントラというが、マントラを何回も繰り返しマントラそのものに成りきり溶け込んだ時、その真心、信頼、誠意(バクティ、大慈大悲)が、心身の浄化・調整、生命力の活発化、感情の安定をもたらす。つまり、マントラシッディで、信頼が起きる。

これに対してOSHOバグワンの高弟の一人であるハノーヴァー公国の王子ヴィマルキルティは、OSHOバグワンのコミューンで病死したが、長期間そばにいながら、一度も質問にも来ないという信頼ぶりだった。

そうした美しい関係性すらもどうでもいい時節が来る。

さて、低いものは高きものも含むという表現は、錬金術文書によく出てくる言い回し。だが老子にもあり、老子は只管打坐系での大悟ながら、後世中国では、錬丹系の教祖としても祀り上げられることになってしまった。

老子第39章 昔之得一者では、『貴いものは、それだけで貴いのでなく、賤しいものがその根本を成しているのであり、高いものはそれだけで高いのではなく、低いものがその根基を為しているのである。これだから帝王たちは、自分を呼ぶのに孤(幼くして親のないもの)寡人(老いて配偶者のないもの)不轂(轂のない役立たぬ車)というようなことばを使うのである。』などと一読してわかった気分になる説明をしている。

だが、老子は無有一如の玄なる道を大前提としており、『低いものは高きものも含む』のは、その前段のシーンと位置づける。

『冥想が冥想を戯れている』は、ダンテス・ダイジの文章では、いわば最後の方に置かれる決まり文句。『冥想は世界全体にして、なにもかもなしである戯れ』であるとする場合には、君の出番はなく、そこには戯れもない。

冥想は副主人公というのは、自分が残っている冥想。主人公というのは、禅での頻出用語。

君が冥想している限りダメなのだと、やんわりと諭している。

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人と神の「実際のところ」-1

2022-10-06 06:26:23 | 人と神の「実際のところ」

◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集老子狂言に「実際のところ」という詩がある。

 

率直に言って、自分が20代の頃、彼の文章は、せいぜい三分の一しか理解できていないというのが実情だった。この詩は、当時おそらく理解できない文章の一つだったと思われる。そこで、現代の冥想とか何かまともに生きたいとか、もっとしっくり来るものを捜し当てたいという人にとっても、やはり彼の文章は取りつきにくいかもしれないので、注釈してみる。

 

(原文1)

『【実際のところ・・・】

 

実際のところ帝王とは奴隷である。

だから宇宙の奴隷になるがいい。

 

支配者はつねに

被支配者とファッキングしている。

創造主はつねにつねに

被造物とファッキングしている。

———この認識が、すでに

誰かと誰かのファッキングなのだ。

 

だから本当に

破れかぶれになればいい!

それは一つの素直さであり得る。』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)

 

金も権力も権威も得た世俗の帝王とは、聖者から見れば、何の救いもないみじめで情けない人間の一人であって、それは、アイドルやスポーツのヒーローが内心では、死におびえ、老いを恐れ、人間関係に苦悩しているのと同じ。

 

だが、帝王は奴隷あっての帝王であって、一人では帝王にはならない。また帝王は、見果てぬ夢を見ている英雄だが、その夢は必ず破れる。

そして光は闇あっての光であり、悟りも迷いあっての悟りであり、支配者と被支配者、創造主と被造物の関係も同じ。

 

だが、そういう見方は、二元を前提しており、その見方自体がトラップである。二元と言えばかた苦しいが、好きなものと好きでもないものがあること自体が、二元トラップだとは気づきにくい。『だから宇宙の奴隷になるがいい。』と是認する。

 

その二元トラップである『誰かと誰かのファッキング』を脱却する一つの手段は、『破れかぶれ』。それは、どう『破れかぶれ』なのかとか、『破れかぶれ』は、向こうから来るのか、内発的なのか、などと頭でっかちでなく、とにかく『破れかぶれ』なのだろう。でもその時、本当に『破れかぶれ』は起きるのか?

 

『破れかぶれ』は、窮極の肯定キーワード『素直さ』で裏打ちされている。

(続く)

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