Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

ジェンダーという視点の意義

2007年07月08日 | 一般

いいかげん前のテンプレートにも飽いたので、ちょっと涼しげなのに変えてみました。ルナはますます絶好調! 今回も元気にいきます。さー、はじめよう!

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右を向いても行き止まり、左を向いても行き詰まり。にっちもさっちも行かない。そういうときにはいままで自分が立脚してきた土台あるいは拠って立ってきた前提を見直します。それまで常識だと考えていたものを見直すのです。

これがむずかしいのです。自分がいままで立脚してきた常識を批判するとなると、それは自分のアイデンティティを批判する必要に迫られるからです。ワシントン・ポスト紙に従軍慰安婦問題への反論を載せた人たち、「日本のアイデンティティ」なるもの、「戦後レジーム」を嫌い、憎む人たちは、それぞれ戦前の教育によって教え込まれた価値観や常識を棄て切れなかったのでしょう。それが彼らのアイデンティティであるからです。

また戦前の教育を受けていない人たちが「戦後レジーム」という戦後民主主義(結局未成熟なまま今日まできたのですが)の原理を憎むのは、戦後教育が真に民主主義と社会を作り上げてゆく責任を教えることを怠り、経済成長のために国家総動員体制という「戦前レジーム」を引きずってきたせいです。個人の気持ちを踏みにじり、過激な受験競争体制を生み出し、人間を心理的に孤立させてきた教育・しつけが、社会への憎しみ、反感として「投射」されたのでしょう。

わたしたちが、あたりまえだとして受けとめてきた価値観、思考のパターンを見直すための考え方に「ジェンダー」があります。ジェンダーという視点について簡潔に述べた一文を紹介します。

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「ジェンダー」とは「社会的・文化的に形成される性別」として定義されます。すなわち生まれつきである「性別」とは違い、私たちの社会にある諸々の条件、たとえば文化・宗教・民族・経済状況等によって私たちのジェンダーは形成されている、と考えます。

例をあげると、出産や授乳は(少なくとも今は)女性でないとできませんが、子守や育児は男性でもできます。しかし多くの場合、家事や育児は女性の仕事として捉えられています。つまり、家事や育児は何も女性でないとできないわけではないのに、ジェンダーという社会的な役割分担によって女性の仕事として決められているわけです。同時にたとえば「主婦」ならぬ「主夫」という用語が昨今一般的になってきたことから分かるように、ジェンダーというものは時代や場所によっても変化するのです。



ジェンダーを理解するためのもう一つの例として「女らしさ」「男らしさ」という概念について考えてみましょう。

たとえば結婚するまで処女でいることや、イスラム圏で女性が顔を隠すベールをかぶること、あるいは北アフリカで頻繁に行われる女子性器切除(女性の割礼)はそれぞれの文化で女性が「女らしい」ことであるために従うべきルールなのです。

もちろん男性に対しても同様に「男らしい」として認められるためにさまざまな儀式や生活スタイルが求められます。たとえば一家の大黒柱であること、台所に入らないこと、割礼を受けていること等があげられるでしょう。

そしてこの規範を拒否することはその社会における理想の男・女・妻・夫・母親・父親像、すなわちその社会の価値観を否定することにもつながり、その社会に受け入れられないことにもなりかねないのです。



もちろんこれだけであれば「ジェンダー」は社会を見るときに学問的な視点で終わってしまいます。問題になるのはこの視点をとおして社会を見ると、実は私たちも意識していなかったジェンダーに基づいた規範が存在していて、それが片方の性別に構造的に不利に働いているということなのです。

たとえば今は看護師や保育士といわれる「看護婦」「保母」という仕事はひと昔前の「女性らしい」仕事の代表格でした。最近はこれを職業として選ぶ男性も増えたこともあってそれぞれ「看護師」「保育士」と改称されましたが、それまでは男性が「看護婦」や「保母」を職業として選ぶのは異常なこととみなされ、結果、男性の職業選択を狭めるような社会のシステムが成立していた、と考えることができます。

このような、それまで暗黙の了解だった社会システムをジェンダーという視点は明らかにすることができ、それを改善するような制度の変更を促すことができるのです。


さて、このようにジェンダーは性別というよりも格差を生み出す社会構造に焦点を当てています。ということはジェンダーに起因する問題は理論的には同性間でも起こりうるのです。たとえば嫁と姑という役割から起因する軋轢もそれに当たります。

「ジェンダー」が男女の違いのみに焦点を当てているように見られるのは、社会制度や構造上、いちばん目立つ不平等な力関係が男女間にあるからです。そしてその力関係は多くの場合、女性に不利に働いています。そのためその不均衡を是正するために、男性の地位を落とすのではなく女性の地位を底上げするような政策・制度を整備する、というのが「ジェンダー平等」の発想です


(寺園京子/ 「国際協力の現場から」/ 山本一巳・山形辰史・編)

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いじめ自殺する子は、その子に問題があるからでしょうか。少年による「凶悪犯罪が増えた」のは愛国心がないからなのでしょうか。「モラルが低下」したのは教育基本法のせいだったのでしょうか。その「モラル」自身に人を抑圧するものはなかったのでしょうか。親が所帯を持った子どもの家庭に「親」として介入するのは「愛」なのでしょうか。女は社会で働くためのスキルが男よりも劣っているのでしょうか。家庭などのようにプライベートな人間関係にも「規律」は必要なのでしょうか。軍隊を持たないのは「普通の国」じゃないのでしょうか。

人間の良心は憲法に書き込むことによって国家統制されなければならないのでしょうか。攻撃力を持たないから日本はいまだにアジア諸国から戦争責任を問われるのでしょうか。会社のために人間の尊厳を投げ捨てるのは美徳なのでしょうか。命懸けで国家・天皇を守るのは美徳なのでしょうか、家族の精神的な必要は何ひとつ満たしてあげられなくとも、戦いで勝つことができるから好戦的な男は偉大なのでしょうか。喧嘩で相手を倒せるから男は偉いのでしょうか。上流階級の男性と結婚できたから女はグレードが上がったのでしょうか。親はなくとも子は育つのでしょうか、食べてさえいたら子どもは立派な大人になるのでしょうか。だから子どもが非行に走ったりするのは親に責任があるのではなくて、子ども自身が甘えているからなのでしょうか。

教育基本法を改訂し、さらに憲法を改訂すれば日本は住みやすくなるのでしょうか。一部の企業が十分儲けられる世の中が豊かな社会なのでしょうか。

日本を覆う閉塞状況と将来への不安にまっすぐ立ち向かってゆくためには、わたしたちがこれまで大前提としてきた価値観そのものを見直す必要があるのだとわたしは思うのです。ジェンダーという視点は今本当に必要です。食うか食われるかと言った闘争的な男性の価値観ではなく、異種の価値観と共存を図ろうとする女性的な視点、フェミニズムを政策や政治理念に導入する、定常化社会という考え方があります。あくことなく経済成長を追い求めるのではなく、人間が生きていくのに必要な経済をつくる、持続可能な社会をつくりあげてゆく、いま資本主義世界は、常識そのものを転換する必要に迫られているのだと、わたしは本当にそう思うのです。



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