Luna's “ Life Is Beautiful ”

その時々を生きるのに必死だった。で、ふと気がついたら、世の中が変わっていた。何が起こっていたのか、記録しておこう。

新刊書案内 2

2005年05月15日 | 一般
加藤諦三さんの新刊書が出ました。といっても、これは以前刊行された、「いじめに負けない心理学」の文庫化ですが。表題が「やさしさを強さに変える心理学」と改題されているので、よく中を見ずに買ってしまいました。500円損しました。でも、「加筆・修正したもの」だそうで、ま、いいかとあらためて読んでみようと思います。「文庫版への前書き」をご紹介します。エホバの証人の呪縛を逃れたくても、親しい人や愛する人がエホバの証人に心酔しているために離れられないとか、エホバの証人の聖書解釈が自分の肌にあってるのだけれども、いじめられていて、それがつらいとか、正規開拓まではしたくないし、それが必要だとも思わないけれど、拒むと居場所を失う、だから野外奉仕がつらくてつらくて…、一生懸命聖書を読み、エホバに日々頼っているのに、なぜかイライラする…という方々には、大きなヒントを与えてくれる内容だと思います。

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 人は自分の意志がない時には周囲の人からもてあそばれる。
 世の中には「やさしくて、意志のない人」、「やさしくて、弱い人」がたくさんいる。やさしさには「たくましさからのやさしさ」と「弱さからのやさしさ」がある。「弱さからのやさしさ」とは、「イヤだな」と思っていながら、それを言えない。弱い人は、自分の気持ちを適切に説明することができない。人から「こうでしょ」と言われると、「まあ…そうです…」と言ってしまう。他人から「これは良いものだよ」と言われれば、そう思ってしまう。しかし後になって、何かよくわからないが不快感にさいなまれる。「やさしくて、意志のない人」、「やさしくて、弱い人」は糸が切れた凧みたいなものである。あるいは「いつも宙ぶらりん」と言っても良いだろう。相手は意志を言う、こちらは意志を言わない。「お金を貸して」と言われるとイエス。「あの人は悪い人」と言われるとイエス。そういう弱い人はとにかく相手の言いなりになっている。自分がいじめられていることさえわかっていない。相手は自分を道具として使っている。それに気がつかない。それがもてあそばれているということである。

 同じことでもそれに気がついていないのが「もてあそばれた」ことであり、それに気がついた時が「いじめられた」になる。「やさしくて、意志のない人」、「やさしくて、弱い人」は、自分が「相手を嫌いだ」ということにさえ気がついていないことが多い。相手を「嫌い」と気がついたときに、「いじめられている」という感覚になる。

 おそらくそういう従順で弱い人は、恐怖の中で成長してきたのだろう。恐怖や不安というのは、たとえば親から見捨てられる不安である。具体的には「お母さん、家、出て行っちゃう」とか「あなたなんか生まれなければよかった」などというような言葉である。

 ひどい母親は、気に入らない子どもにご飯をあげない。そして父親はいつも渋面であった。よい成績でないと夜中まで叱られた。叱られたというよりもいじめられた。そして「どうしてお前は誰々のようになれないのだ?」式の言葉でいつも能力以上のことを要求された。「学年で一番になれ」という無理なことを言われる。これは父親のいじめである。

 いじめられる子は、自分がいじめられていることに気がつかないが、同時に相手の親切に気づかない。そうした恐怖の中では、極端に言えば寒さ暑さも感じないような人間にさせてしまう。恐怖の中では自分で時間を充実させることができない。

 このように不安や恐怖の中で成長すると、意志を失う。すると、「オレ、マリファナ、やってるんだぜ」という友達の後をついてゆくような子になる。そしていいように利用される子になる。友達からいじめられる子はたいてい本当の気持ちを親に言えない。そうした親子関係の中で育っている。不安や恐怖の中で生きるということは、ただ生きるだけでエネルギーを消耗してしまう、なにもしないでも疲れる。



 いじめでからかわれている子は多くの場合、迎合するタイプである。いじめる側から見ると、その子は「先生には言わないだろう。仲間を作らないだろう」と思われている。いじめられる子は、やさしくて弱いからいじめられる。

 いじめる人は憎しみを持っていて、ストレス解消のためにいじめる対象の人を探している。そして害がなくて、真っ白な人を見つけていじめる。見つけると相手が嫌がることをする。その子を「臭い」とか、「汚い」とか色をつけてゆく。いじめることが自分の癒しになっている。いじめる人の安らぎは憎しみのエネルギーの発散である。憎しみのエネルギーを放熱して安らぎを得る。

 従っていつも怯えて周囲の人に迎合している子は、すぐにいじめられる。「お金もってこい」と言われて家からお金を盗む。大人で言えば、世間慣れしていない人である。いじめられる大人は、弱くて純粋な大人である。親にとって都合よい子は、やがて大人になって社会に出ても、周囲の人にとっても都合の良い子になろうとする。そして結果はからかわれるだけである。大人なのに、何か言葉を言うだけでからかわれている。



 ではたくましくなるため、強くなるためにはどうしたらいいか? 本書の第7章でも詳述するが、ここではそれとは別にあらかじめ考えておきたい。

 まず第一に自分に気づくことである。自分に気づけば強くなる。自分がわからなければ勇気はだせない。自分が怯えているときには、何をしても失敗する。その失敗を分析したら強くなれる。「ああ、こういう女にだまされたのか」とわかる。そのときにそれに気づいて「なぜ?」と分析する。すると自分の弱点が見えてくる。そして相手のずるさも見えてくる。しかし相手はこちらが気づいたことに気がついていない。そこで同じパターンを使ってくる。相手はこちらをナメている。だから相手は同じ手を使う。

 しかし自分の弱さがわかれば「ああ、これだったのか」と相手の正体にも気がついてくる。そうして相手を見ていくうちに自分の態度が自然と変わってくる。そのうちに「それはしないよ」ときっぱり相手に言うときがくる。

 強くなるということは周囲の人が見えてくることである。今まで「強い人、エネルギッシュな人」と思っていた相手が、実は「不安な人」だと見えてくるときもある。相手はエネルギッシュな人ではなく怯えているだけの人だとわかる。怯えているから自分の勢力を増やさなければ裸でいるような不安さを無意識に感じ、じっとしていられなくてエネルギッシュに動いているだけのことだとわかってくる。そしてさらに、「だからこの“弱い私”をプレッシャーによって“暗に恐喝”してくるのだ」ということがわかってくる。エネルギッシュに動いている姿だけを見て、強い人だと思っていた自分の見る目の無さがわかる。

 第二には「自分にとって大切なものは何か?」と考えることである。
 ある、やさしいが弱い若者の実例である。人の言いなりになるタイプであった。その人が結婚をして、家族ができた。山師のような知人が一発勝負のような事業で銀行から借金をしようとした。しかし、彼もついに闘った。彼は決して連帯保証人の判を押さなかった。人は大切なものを守ろうと思ったときに強くなる。守るべきものがあれば、人は強くなれる。「女は弱し、されど母は強し」という言葉がある。「この子を守らなければ」と思ったときに、「弱い女」が「強い母親」に変身する。自分に大切なものがわからないと、困難な問題は解決できない。ほんとうに大切なものが見えないと、戦う勇気が湧いてこない。 「あれもこれも両方ともほしい」というのでは、エネルギーが湧いてこない。「自分は絶対、これだ。これが絶対に必要だ」。そう決断できれば勢いがつく。迫力も違う。死ぬ気になれば相手にはっきりとモノが言える。そうなれば怖い気持ちを乗り越えて、相手を捌く方法も見えてくる。そして解決する。
正体が見えるだけでは解決しない。



 敵意を無意識に抑圧して、周囲の人に従順に振舞い、結果としてノイローゼになる人がいる。そういう人よりも、人と対立することのストレスで胃潰瘍になる人の方がまだ心理的には成長している。人と対立してもストレスをあまり感じないまでに成長している人が望ましいのはもちろんである。

 すき好んで敵を作る人は心理的に健康ではない。しかし自立して生きていくうえで、あるいは自分を見失わないで生きてゆくうえで、どうしても敵ができるときはある。そのときには、敵ができてもそれを受け入れる強さがないとノイローゼになる。敵がいるというストレスに耐えられないというなら、自分らしさ、個性を“殺す”よりしかたがない。

 たくましくなりたければ、「その時には敵と戦え!」である。その時に戦わないとノイローゼになる。そういう人は、死ぬときに「こんな死に方をするなら、あの時にもっと頑張っておけばよかった」と後悔する。死ぬときの後悔は地獄の惨めさである。

 この本には、やさしくて弱いがゆえにいろいろな形で追い詰められた人たちのストーリーが出てくる。それを読みながら、「ああ、この人たちはここで戦わなかったから、ここまで追い詰められたのだなあ」ということに着目して欲しい。なぜこの人たちは追い詰められたのか、ということに関心を持ちながら読んで欲しい。そこで必ず、「これで死んだら、この人たちの人生は何のための人生か?」と考えて欲しい。

 少なくとも対立から来るストレスを感じて苦しんでいる間は、立ち上がれないほど落ち込まない。外に向けるべき敵意を自分に向け、すべての人に迎合して、ノイローゼになる人がいる。そういう人に比べて、戦う人は心理的に成長している。ノイローゼになる人は戦うべきときに、戦うことを放棄して逃げた人である。それに比べて、人と対立するストレスに苦しんでいる人はまだ戦っている。自分を放棄していない。自分に絶望していない。

 人が戦わないのは、大切なもの、好きなものが見つかっていないからである。人は好きなものが見つかれば戦う。そして難局を乗り越えられる。そうしないと敵はあなたの一番好きなもの、大切なものを奪い去ってしまうのだから。弱い人は自分にとって一番大事なものがなんだかわかっていない。だから戦えない。戦わない人は、自分の心臓がどこにあるかがわかっていない。だから敵が心臓を持って行ってしまう。好きなもの、大切なものがわからないから戦わないというのは、自分の心臓をあけわたすというに等しい。

 「これだけは渡したくない」という気持ちがなければ、戦う気力が湧かない。また心の底から「わたしはこの人たちがほんとうに嫌いだ」と思わなければ、別れる力が出てこない。「ほんとうに嫌いだ」と思えば、関係を切断する準備を始める。弱い人は、自分がほんとうに好きなものは何かを考えないし、心の底から嫌いなものは何かも考えない。

 好きなものも嫌いなものも、理屈ではなく、感情的なものである。



 「やさしいが、弱い人」は自分がほんとうに嫌いな事に気づいて、その人またはそのグループから別離する準備を始めることである。どのくらい嫌いかは、そのグループを出た後によくわかる。出た後に、「よくあの人たちといっしょにいられたなあ」と思う。「あのグループの中によくいたなあ」と思う。強くたくましくなるために「好き」と「嫌い」を自分の中ではっきりとさせることである。



 最後に「強さ」とか「たくましさ」と言うときによく誤解がある。
 「強くなる」ということを、人はよく間違えている。「強くなる」というとすぐに、腕力があるとか、凶暴性とか、脅しができるとか、財力や権力があるとかいうように間違える。強さを誤解するから「強くなれ」というと武器を携行するようになる。

 ほんとうに強いとは、たとえば憎しみの感情を乗り越えることである。悔しい気持ちを乗り越えたときにほんとうの強さが出る。男の面子があると思って、「怖い」と言えない。それは強くないということである。自分の弱みをちゃんと言える、それが情緒的な強さである。「強くなる、たくましくなる」ということは、現実の自分に気がつくことなのである。そしてそれを乗り越えることなのである。気づかなければ乗り越えることができないのである。そうすれば、自ずと行動や態度が変わってくる。

 この本がその道案内になることを願っている。



加藤諦三

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いかがですか。
エホバの証人としての生きかたに疑問を持っておられる方々にきっと良いヒントを与えてくれると思います、この本は。
コメント (2)
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