アジア・オセアニアNews blog ~お日様とお月様の光と影~

アジア・オセアニア地域の通信社が配信する記事から『中国の領土紛争問題』を伝え日本の安全保障などのニュースブログ。

19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (21)

2014年05月03日 | お日様とお月様の光と影
 16世紀1588年、大陸東北部を拠点とする女真族(じょしん)は後金(ごきん)を成立させ明より独立しました。『この後金の勃興に最も影響を受けたのが朝鮮半島でした。朝鮮王は明皇帝と後金との関係を“明に親しく金に背く”親明背金の二股外交を展開し後金と李氏朝鮮との関係は緊張状態が続いたのです。そしてついに1627年、後金は朝鮮半島に侵攻し“あっ!”と言う間に漢城(現ソウル)を制圧し朝鮮王に服従を迫りました。』①
 豊臣秀吉の朝鮮出兵と同じ時期に起きた後金による朝鮮半島侵攻。朝鮮民族にとっては近隣国による半島侵攻が続く受難な時代です。朝鮮王は新興国後金とどう向き合ったのか?朝鮮民族にとって信じられない結末でした。

 『17世紀1636年、後金は中華皇帝に即位し清朝を成立させました。清皇帝は朝鮮王に対して服従と朝貢(ちょうこう 中華大陸の貿易形態。中華皇帝に対して近隣の君主が貢物を捧げ中華皇帝の恩恵をあたえらること。)を要求しました。しかし朝鮮王は清皇帝の要求を愚かにも拒否しました(何で?え~っ!一般市民はどうなるの~??)。怒り狂った清皇帝は1636年に再び朝鮮半島に侵攻し“あっ!”と言う間に朝鮮王を屈服させました。こうして朝鮮王は清皇帝に服従と朝貢を行いそして中華思想に従い清の冊封国(さくほうこく)属国を選択せざるおえませんでした。』①
明朝から清朝へ中華王朝の政権交代が朝鮮王は読めなかった。ですから清皇帝は朝鮮王に対して属国という懲罰を与えのです。
  

 清朝は明朝の政治体制を引き継ぎました。『琉球(現沖縄県)・マカオ(ポルトガル領)が清に対して朝貢を行いました。またビルマ(現ミャンマー)・タイ・ベトナムなどの国々が清に対して朝貢を行いました。清はインドシナ半島そして東南アジアにおける交易ネットワークを17世紀半ばから構築してきます。』②
 中華王朝に周辺国が朝貢を行うこと=中華王朝の属国になる事でありません。中華思想の朝貢と冊封(さくほう)とは別々の中華王朝の外交政策。


 16世紀大航海時代、西洋列強諸国はインドシナ半島と東南アジア諸国に進出して来ました。西洋列強諸国は17世紀から300年かけてインドシナ半島と東南アジア諸国をゆっくりと植民地化していきます。『まずフィリピンはスペインが植民地としてマニラを拠点に1529年から19世紀末期まで領有していました。東インド(現インドネシア)はオランダ王国がパタブィア(現ジャカルタ)を拠点に16世紀より20世紀まで領有していました。』③

 17世紀1600年、イギリスはインドに東インド会社を設立しマレー半島や日本の長崎平戸に進出して来ました。しかしイギリスと日本との貿易は赤字が続き1623年平戸イギリス商館を閉鎖し日本より撤退しました。17世紀半ばイギリスはアジア貿易をインドとマレー半島に集中することになります。
 18世紀末期イギリスはインドにおける貿易を成功させるためにインドシナ半島と東南アジア諸国(現マレーシア・シンガポール・ビルマ)を次々と領有していきました。そして清のインドシナ半島と東南アジアおける交易ネットワークをイギリスが取り込んでいくのです。
 イギリスはゆっくりと着実に“眠れる獅子の清”を追い詰めていくのです。
 そして1840年イギリスと清はついに衝突しアヘン戦争が勃発しました。


 同時期の日本では。『17世紀1635年、3代将軍徳川家光(いえみつ)はキリスト教を禁じるためポルトガル人を長崎より追放し東南アジア諸国との貿易を禁止しました。家光はさらに貿易相手国をオランダ王国と明としました。そして日本人の海外渡航も禁止し幕府の鎖国政策が開始されました。1641年、幕府は貿易相手であるオランダ王国の商館を長崎平戸より出島に移転させました。以後オラランダ王国は対日貿易を19世紀半ば1859年まで独占しました。』③
  日本がユーラシア大陸に対して開いた貿易港長崎。将軍家光は長崎警備を近隣の外様大名の佐賀藩と福岡藩(現福岡市)に対して命じました。

 1636年、中華大陸で明朝から清朝へと政変が起き長崎に居住していた華僑(漢民族)たちは故国に帰ることができなくなりました。やがて華僑の商人と日本の商人との密貿易が増大していきました。
 幕府は清と国交を持ちませんでした。『1688年、幕府は長崎奉行所に対して長崎での密貿易対策として唐人屋敷(現 長崎市館内町)華僑の居留地建設を命じました。1689年、2,000人の収容できる唐人屋敷が完成し長崎市中にいた華僑たちを集め強制的に居住させました。』④
 『このオランダ王国の出島と清国人の唐人屋敷の管理は長崎奉行所が管轄していました。また貿易で得た収益は長崎奉行所が管轄し幕府に収めていました。』④
  

 18世紀初頭、江戸幕府が開闢し日本国内での戦争が無くなり平和が100年以上が経過したこのころ武士はかなり厳し~ィ状況におかれていました江戸時代幕藩体制の収入源は米でした。しかしこの時期日本では収入が不安定な農業より貨幣経済の発達に伴って商業が栄えていたのでした。
 『この時期、幕府とオランダと清との長崎貿易の主要輸入品目は生糸、砂糖、毛織物、染料、薬品、ガラス品などの贅沢品がほとんどでした。それに対して日本からの輸出品は銀や銅が中心で貿易赤字した。日本の財産がどんどんと海外に流出していく状況が経済問題となっていました。幕府は長崎においてのオランダ船の入港を年一回に減らしまた貿易額の制限も行いました。』③

 『18世紀初頭の幕藩体制改革として、8代将軍徳川吉宗は幕藩体制の米に依存する財政を立て直すため改革を行いました。徳川吉宗は生糸、樟脳(しょうのう クスの木などから採取されるロウ状の結晶)、陶磁器、漆工芸品、屏風などの工芸品また食品では醤油や海産物など産業を興し輸出品の生産を盛んにする「殖産興業」を各藩に奨励したのでした。』③ 
 つまり武士は経済学を学ばなければドンブリ勘定では財政が成立しなくなっていたのです。

 19世紀初頭イギリス・フランス・帝政ロシアの艦船が日本近海に頻繁に現れる様になっていました。長崎奉行所は長崎港の警備を近隣の佐賀藩と福岡藩などと連携する指揮権を幕府より与えられていました。1808年、イギリス船による長崎出島のオランダ商館襲撃事件「フェートン号事件」起きました。長崎奉行所のイギリス船に対して警備の不備が露呈し長崎奉行松平 康英は切腹し責任を取りました。 
この「フェートン号事件」は江戸時代に於いて最も国辱の事件であった以後、国内で攘夷論が高まっていきます。 
 
 幕府はフェートン号事件の時に長崎港警備を担当していた佐賀藩に対して責任を追及し佐賀藩主鍋島斉直(おなおなり)に謹慎を命じました。そして幕府は「フェートン号事件」以降長崎警備を強化しましたそのことが佐賀藩の財政を圧迫しさせました。
 1830年、鍋島直正は17歳で佐賀藩第10代藩主に就任しました。しかし佐賀藩の財政は既に破綻していたのです。 佐賀藩の財政問題が若き藩主鍋島直正に圧し掛かりました。米以外でどの物品によって藩の収入を増加させるのか?藩財政赤字をどうやって解消するのか?藩の莫大な借入金をどうやって返済していくのか?抜本的な藩政改革と経済対策の断行を直正は求めらたのです。



 
  つづく


 『』① Wikipedia 李氏朝鮮より要約
 『』② Wikipedia 清 より要約
 『』③ 長崎市教育委員会発行 出島 より要約
 『』④ 長崎市公式web 唐人屋敷 より要約 
 


 
 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(21)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。