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spin off 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

2015年07月08日 | お日様とお月様の光と影
 7世紀、日本は髄の皇帝に対して「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや…」と国書を送った。これを読んだ髄の皇帝は怒り狂ったらしぃ…この頃より日本と中華大陸とは仲が悪いようです。
(中国と仲良くしろと言うのが無理!)
  その頃より日本は中華思想よる冊封体制より離脱してずっと東アジアに於いて独立国でした。

 日本って古来より尖っていたんですね!それが「日本らしさ」と筆者は思う!
 

 しかし日本の為政者達は歴代中華王朝に対して朝貢を行った形跡が有る様です。14世紀室町幕府三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)は明朝に対して朝貢を開始しました。けれど室町幕府の足利将軍家は後の江戸幕府の徳川将軍家より統治機構が脆弱で直ぐに朝貢を行う余裕が無くなりました。
  
  さて歴代中華王朝による中華思想の冊封体制下の冊封国とはどの様な国なのかか??東アジアに於いてのその典型例が朝鮮半島と琉球(現沖縄県)でしょう。王は存在していても中華王朝の傀儡であり財政、外交など何一つ王は自分自身の意志で決定できない存在です。ですから朝鮮半島と琉球に於いての為政者達は中華王朝に依存しているために人民に対して無責任だったと思われます
 
 
  この様な中華王朝にベッタリ依存する朝鮮半島と琉球は異例だと思われます。同じ冊封体制下の冊封国であったインドシナ半島の東南アジア諸国はベッタリ依存する体制では無かったと思われます。それは南アジアの雄インドの存在と14世紀より西洋諸国が進出して来たからでしょう。

 19世紀、中華王朝にベッタリ依存する朝鮮半島を西洋列強諸国が見逃すはずありません。19世紀中頃、イギリス・フランスと帝政ロシアとの極東における覇権紛争(クリミヤ戦争極東戦線1853-1856年)が勃発したのです。イギリスとフランス連合海軍と帝政ロシア海軍が極東で衝突した結果朝鮮半島の李氏朝鮮は自主的な開国の好機をこの時に失ったと言えます。従いまして1854年時点で李氏朝鮮にはイギリスか帝政ロシアかの「植民地化」の選択肢しかありませんでした

 さらにその頃の新興国で太平洋の覇権を掲げるアメリカ合衆国にとって“独立国とは言えない中華王朝にベッタリ依存する朝鮮半島と琉球”の領有を狙って東アジアに侵攻して来たのです。

 21世紀、現在の東アジアの混沌の根本原因は中華王朝にベッタリ依存する冊封体制下の冊封国であった朝鮮半島と琉球に有ると私は思っている。 だって朝鮮半島と琉球は自国で何も決定できない思考停止状態がたった160年で解消されるとは私は思えません! 

 自国で考えるより中国にベッタリ依存する方が楽ですもの…

 そうでしょう?ね!!

 
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 ラザフォード・オールコック~東アジアと大英帝国 ウェッジ選書 より
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より
 日本開国史 石井 孝 吉川弘文館 より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
     
コメント

19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (23)

2014年06月05日 | お日様とお月様の光と影
  17世紀、明朝は朝貢貿易政策を保護するため海禁政策(かいきん 鎖国政策と同じ統制管理貿易のこと)を実施していました。『1644年、明朝の政権交代のち清朝は海禁政策を引き継ぎさらに輸出入産品の統制を行い管理貿易を実施し海商人の海外渡航禁止を実施しました。そして清朝は大陸沿岸部の上海、広州、寧波、厦門に海関を設置して海商人と外国商船に対して税金を徴収しました。』①
  清朝の海禁政策と統制管理貿易は清国内の人、物、金が停留し国家としての発展の妨げとなりました。 

  18世紀、産業革命を成し遂げたイギリス、フランス、ドイツ、アメリカ合衆国の西洋列強諸国は次々と「自由貿易」を求めインド、インドシナ半島そして清に進出して来ました。18世紀末期、イギリスが植民地支配するインドと清との貿易が増大していました。1793年、イギリス政府は単なる清との交易ではなくイギリスと清とが国交樹立させ国どうしが通商を行う外交交渉を行いました。しかし清皇帝は朝貢貿易しかイギリスに認めませんせんでした。清とイギリスとの自由貿易交渉は決裂しこれがアヘン戦争の原因のひとつとなりました。

  アヘン戦争後、清とイギリスとが締結した南京条約(1842年)によって清の沿岸部の5港が開港しました。イギリスにとって香港・広東・厦門・福州・寧波・上海は植民地であり領土なのです。開港地といっても清と西洋諸国との貿易は全くの未経験だったので五港は未開拓の土地でした。しかも西洋人に対して「攘夷」中華思想に基ずく排外主義が清国内で吹き荒れていました。西洋列強にとって清はフロンティアでは無く身の危険を感じる異国でした。
  1844年、元外科医の経歴を持つラザフォード・オルコックは福州領事に任命され中華大陸に赴任して来ました。清の沿岸部の5港での租界地の開発と税関を造りあげることがオルコックの使命でした。『清沿岸部五港での租界地の開発や貿易港の建設それに貿易実務などなどオルコックは基礎から開発していかなければならなったのです。』②

  オルコックが福州領事に赴任した時、厦門領事館に領事館通訳ハリー・スミス・パークスも赴任して来ました。イギリス福州領事館と厦門領事館は同じ福建省にありオルコックとパークスは度々仕事で顔合わせていた様です。オルコックとパークスの二人は清と日本に駐在した外交官でイギリスの東アジアに対する外交政策に多大な影響を与えたのです
 『厦門領事館勤務を2年務めたオルコックとパークスは1846年上海に転勤となりました。その頃の上海は前任者の努力により領事館が完成しまた既にイギリスの租界地の開発が始まっていました。上海は他の港とは違い清国人のイギリスに対する排外運動や反発はほとんどありませんでした。しかしそんな上海でオルコックとパークスは大きな事件に遭遇することになります。』②


 1855年7月上旬、長崎海軍伝習所の一期生の幕臣勝海舟と中島三郎助が「伝習生募集!」広報のために江戸佐賀藩邸 外様大名 藩主 鍋島直正を訪ねました。直正は長崎海軍伝習所の構想を幕府より直接話を聞いていました。がしかし幕臣がしかも海防掛の勝が訪ねて来たと直正は近臣から聞かされ興味を持ち面会することにしたのです。

  藩邸の控えの間に控える勝と中島。少し緊張する二人そこへ鍋島直正が入って来ました。平伏す二人もちろん初対面だが直正は容赦はしなかった。直正は勝と中島に対して単刀直入に質問しました。直正が入手した情報によるとオランダ軍艦が一隻オランダ領 東インド パタブィアタから長崎に向けて出港した。幕府がオランダ王国に発注した蒸気軍艦は二隻だったはずなのに…
   
    「オランダ軍艦は本国からの命令を受け決意を持って長崎に向け出港したと思わんか!?」


 幕府はオランダ王国に対して蒸気軍艦を二隻発注していました。その上にオランダ商館長ドンケル・クルティウスは「長崎海軍伝習所」の教官にオランダ海軍士官の派遣を幕府に約束していました。
 直正の鋭い問に二人は絶句しました。中島は小声で「砲艦外交…」とつぶやく…「それは無い!」と直正は強く否定しました。

  オランダ王国は他の列強諸国とは違い幕府に対して「砲艦外交」武力威嚇などしませんでした。むしろオランダ王国は200年以上も幕府の統制管理貿易に対して忠実に従って来たのです。
  しかもオランダ王国は何度もアメリカ合衆国海軍の艦隊が日本に来航すると幕府と長崎奉行に対して警告を続けました。しかし幕府はオランダ王国の警告に対して何の海防対策をも取りませんでした。
  そんなオランダ王国より先に幕府はアメリカ合衆国、イギリスそして帝政ロシアと和親条約を締結したのです。おそらくオランダ王国は他の列強諸国より先に日本と「通商条約」を締結するため軍艦を派遣したのではないのか?と直正は二人に説いたのです
  

  しかし鍋島直正は幕府がようやく西洋式の軍制改革を実施することを評価していました。直正は藩士に対する教育を熱心に行い藩校弘道館(水戸藩の藩校と同名ですが交流は全くなかったようです)で藩士教育を義務化しました。『直正の藩士に対する教育改革は試験制度でその試験に合格しなければ藩士の給与を容赦無く大幅に削減する評価主義を取り入れました。さらに直正は役職の世襲制を廃止し西洋学を学んだ有能な藩士を藩政に参画する実績主義の人材登用を行ったのです。』③ 

  直正は長崎海軍伝習所で西洋学を体系的に学ぶ教育方針を評価しました。直正は二人に長崎海軍伝習所ではどんな西洋学を学習するのか?と問いました。勝と中島は主に航海術や造船業などを学習すると答えました。直正は二人に西洋医学を学ぶ必要性を熱心に説きました。
  直正は藩に医学校を設立し西洋医学を藩士に学ばせ西洋医学教育を熱心に行っていたのです。幕末日本において天然痘、麻疹、結核、マラリアなどの伝染病が漫延し庶民は苦しんでいました。佐賀藩でも繰り返して起きる伝染病に対して衛生対策と医療対策が求められていました。
  『1846年、佐賀藩領内で天然痘のパンデミックが起きました。直正は種痘を実施することを決断したのです。1849年、直正は藩医に痘苗を輸入させ実子に接種したところ「成牛痘種痘法」が成功したのです。』④
  その後大坂適塾の緒方洪庵は佐賀藩の種痘を受け取り「成牛痘種痘法」の普及に尽力しました。これが日本において東洋医学から西洋医学に転換していく事例でした。

  
  アヘン戦争後、鍋島直正は西洋列強諸国との対外戦争危機を抱いていました。直正は幕府に対して長崎港警備強化を提案しました。がしかし幕府は財政難を理由に何の対策も取りませんでした。そこで直正は長崎港の海防強化を佐賀藩の資金で行う事を幕府に提案し幕府はそれを了承しました。『1850年、直正はオランダの技術書を翻訳させ西洋式大砲の製造のために反射炉の(はんしゃろ 鉄の精錬に使用される融解炉)製造に着手しました。』④

  直正は教育改革で西洋学を学んだ藩士を総動員させ佐賀藩“西洋式武装化”を開始したのです。直正はこの武装化計画に密貿易で得た潤沢な資金を惜しむことなく注ぎ込んだのです。佐賀藩の反射炉は失敗を繰り返しましたが佐賀城下築地(現 佐賀市長瀬町)に反射炉(4炉2基)を完成させたのです。

  『こうして佐賀藩は長崎港神ノ島(現 長崎市神ノ島)を埋め立て砲台建設に着手しました。1853年佐賀藩はペリー来航後、西洋式大砲鋳造工場を建設し幕府より洋式大砲の注文を受け長崎港神ノ島に洋式大砲を据え付け砲台の武装化を完成させたのでした。しかし佐賀藩は反射炉と大砲鋳造工場、火薬製造工場、弾薬庫、機械庫などを整備した“西洋式武装化”を行っていたのです。その事は佐賀藩の秘密主義政策によって幕府も他藩も知りませんでした。』④

  佐賀藩の役目である長崎港の警備強化するため長崎海軍伝習所に佐賀藩士を入所させる。これは鍋島直正にとって表向きのことでした直正の本音は佐賀藩独自の洋式海軍創設構想を描いていたのです。直正は日本の海防強化のために藩士を長崎海軍伝習所に入所させるのでは無かったのです。直正は勝と中島にこう言い放った。
   「佐賀藩のお役目である長崎警備強化のためである!それは幕府のためではでないのか?」

  やがて勝と中島は佐賀藩邸から出て来てました。少しの時間だったが鍋島直正に対面した二人は気疲れしていました。長崎港を洋式大砲で要塞化した佐賀藩。その大砲をどこから手に入れたのか?謎のタヌキのお殿様とウワサされていた直正。勝と中島は対面した鍋島直正の目の奥に潜む底知れない野心を見たのでした。
  

 
  1855年7月中旬、薩摩藩の桜島瀬戸村造船所より洋式帆船 軍艦 昇平丸が江戸湾に向け出港しました。昇平丸には藩主島津斉彬と西郷吉之助も乗船していました。斉彬は出港前に近臣より「オランダ軍艦が一隻オランダ領 東インド パタブィアタから長崎に向けて出港した。」と報告を受けていました。島津斉彬も鍋島直正と同様にオランダ王国は日本と「通商条約」を締結するため軍艦を派遣しのだと思うのでした。幕閣安部正弘と徳川斉昭そして海防掛がオランダ王国に対して政治的決断を下すかを斉彬は見極めようと江戸に向かうのだった。




  つづく


 『』① Wikipedia 海禁 より要約
 『』② ラザフォード・オールコック~東アジアと大英帝国~ ウェッジ選書 より要約
 『』③ 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 ~肥前の妖怪~ より要約
 『』④ 佐賀市公式web 佐賀藩の取り組み より要約


 
 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(23)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 ラザフォード・オールコック~東アジアと大英帝国 ウェッジ選書 より
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より
 日本開国史 石井 孝 吉川弘文館 より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
     
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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (22)

2014年05月14日 | お日様とお月様の光と影
 紀元前の中華大陸で誕生した儒教は東アジアと東南アジアの国々に伝わっていき儒学として根づいていきました。16世紀大航海時代、西洋列強諸国はとアジア諸国に進出して来てました。その時、東洋の儒教と西洋のキリスト教が出会いました。
 『1582年、明朝時代イエズス会のマテオ・リッチはキリスト教の布教を始めました。その時に「キリスト教の信仰を解説した「神学書籍」と科学技術を論じた書籍「西洋科学」が伝わります。以後中華大陸では多様なキリスト教宗派が伝播していき布教の盛衰を繰り返します。また中華大陸では西洋学は天文学や幾何学そして暦学などが伝わっていきます。しかし中華大陸では儒学に基づく中華思想によって西洋科学は実学として根づきませんでした。』②
 
 『朝鮮半島では中華大陸より漢訳された「神学書」と「西洋科学」が17世紀に伝わります。17世紀後半、北京のイエズス会で李承薫(イ スンフン)が洗礼受け朝鮮半島で私的に布教を行っていました。その後にイエズス会宣教師が朝鮮半島の北部でキリスト教の布教を始めました。しかし李氏朝鮮は極端な「儒教原理主義」でありキリスト教徒弾圧と西洋科学排斥とが苛烈に始まります。やはり李氏朝鮮でも極端な「儒教原理主義」によって西洋科学は実学として根づきませんでした。』③
 

 日本における儒教は8世紀平安時代より公家や武家支配層に浸透し実学として根づいていきました。また儒教の経典である四書五経(よんしごきょう)は「国家や政治」と「君主が守る志」などを説いていて公家や武家の「常識」として根づいていきました。
 
 16世紀1549年、エズス会のフランシスコ・ザビエルが布教のために鹿児島に上陸したことが日本においてキリスト教の布教の始まりとされています。『また1555年、同じイエズス会のルイス・デ・アルメイデが豊後(現大分県)に来日します。1557年、ルイス・デ・アルメイデは外科と内科の病院を開設しすま。キリスト教の布教と一体となっていましたがこれが日本において実学としての西洋医学の始まりでした。』④
 
 17世紀1600年、オランダ王国の商船リーフデ号が九州大分に漂着しオランダ王国と日本との国交が始まりました。『新興国オランダ王国は幕府に対してポルトガル人がキリスト教を布教するのは日本侵略の野心があると盛んに宣伝しました。』④
 『1637年、肥前島原(現 長崎県島原市)で重税に苦しむ百姓や浪人そしてキリスト教徒など3万人が蜂起する“島原の乱”が起きました。江戸時代初期に起きたこの大規模な反乱はオランダ王国の宣伝どうおりキリスト教徒主導の宗教反乱と幕府は認識してしまいました。』④

 1639年、幕府は島原の乱を武力鎮圧しキリスト教徒に対して危機感を感じました。そして幕府はキリスト教を禁じるためポルトガル人を長崎より追放しました。『また幕府はのキリスト教徒を取り締まるため1640年、各藩に対して「宗門改め」を命じ宗教管理政策を開始しました。以降江戸時代、武士、農民、職人、商人の職業を問わず仏教宗派に属しキリスト教徒ではない事を証明しなければならなくなりました。』⑤
 しかし宗門改めによって日本国内のキリスト教徒は消滅した訳ではありませんでした。信徒は密かにキリスト教を信じ明治時代まで信仰を守りぬきました

 1641年、幕府はオランダ王国に対して平戸の商館から人工の島“出島”に商館の移転を命じました。『出島に滞在許可を許されたオランダ商館員は男性に限られ女性の滞在は許可されませんでした。オランダ商館の役職は商館長(カピタン)副商館長(ヘルト)、調理人、荷受け人、商館医師(商館員の健康管理が任務)ほかに工作技術者がいました。また出島には日本人も働いていてその職務は貿易についての監督、指導する長崎奉行所の役人でした。中でもオランダ人との関係が深ったのがオランダ語の通訳を行う役人でした。』⑥

 18世紀8代将軍徳川吉宗はキリスト教の信仰を解説した「神学書籍」と科学技術を論じた書籍「西洋科学」を別け西洋科学書籍を解禁しました。そして吉宗は「オランダ学」を学ぶことを各藩に奨励し日本に“オランダ学”ブームが到来しました。
  政治学・法律学・天文学・暦学・医学・兵学などの西洋学を解禁して長崎で翻訳されました。やがて長崎は西洋学の発信地となっていき西洋学を学ぶ藩士や学者が長崎に集まって来ます。そして彼等によって長崎には「西洋学の知のネットワーク」が構築されていきます
 
 ユーラシア大陸に開かれた貿易港長崎は幕府の直轄地で長崎奉行所の管轄でした。この長崎警備を近隣の外様大名の佐賀藩と福岡藩が隔年交代で担当していました。この長崎警備任務は佐賀藩にとって負担でしたがしかし貿易港長崎から得られる海外情報と密貿易による利益は捨てがたい魅力でした

 1830年、鍋島直正は17歳で佐賀藩第10代藩主に就任しました。しかし佐賀藩の財政は既に破綻していたのです。前藩主父の斉直は浪費家で密貿易で稼いだ資金を湯水の様に使い果たししかも商人に莫大な借金まで作っていたのです。『直正が藩主に就任し参勤交代で江戸に出府しょうとした時に商人が借金の取り立てにやって来てずらりと並び直正の行列の出発を阻止しました。直正はこの出来事が強烈に印象に残り “もはや世の中を動かしているのは士農工商ではなく金である”と痛感しました。』⑦
 
 佐賀藩の財政問題が若き藩主鍋島直正に圧し掛かり抜本的な藩政改革と経済対策の断行を直正は求めらたのです。『まず直正は、藩の役人を大幅に削減するリストラを断行しました。父が作った借金はほとんど放棄させ残りは超長期ローンで返済を債権者の商人たちに認めさせました。そして直正は薩摩藩と同様に他藩の交流を断絶させ“二重鎖国”といえる秘密主義政策による藩政改革を開始しました。』⑦
 19世紀ヨーロッパにおいて蒸気機関が量産されて熱源である石炭の需要が高まっていました。幸運にも佐賀藩領内に炭鉱が発見され石炭の密貿易によって潤沢な藩財源を得ることができました。そして直正は陶磁器業や製茶業などの産業を興し輸出産品を増加させていきました。佐賀藩の財政は貿易によっては改善していきました。

 1823年、出島の商館医師として来日したバイエルン王国のシーボルトは長崎奉行の許可を得て長崎市郊外に鳴滝塾を開塾し諸藩の藩医や医学者に対して西洋医学を伝習しました。鳴滝塾の門下生で伊藤玄朴(いとうげんぼく)はシーボルトに師事し西洋医学を学びました。1843年、玄朴は直正の御側医となり佐賀藩は西洋医学を導入し西洋科学教育を開始しました。 この頃日本において実学としての西洋学は医学が根づいていました。がしかし江戸時代においての医療は漢方の薬物療法が普及していました。
 19世紀、世界的に伝染病が漫延し特にコレラが何度も繰り返しパンデミックを起していました。幕末日本においても天然痘、麻疹、結核、マラリアなどの伝染病が漫延し庶民は苦しんでいました。幕府と藩は繰り返して起きる伝染病に対して衛生対策と医療対策が求められていました。

 さて直正にとって1808年「フェートン号事件」は既に過去出来事でした。また1853年ペリー来航によって攘夷か!?開国か!?尊王か!?佐幕か!?国論が分裂していました。そんな不毛なこれら空論に直正は全く興味を示さないクールな近代思考を持っていました。
なぜなら直正は佐賀藩“西洋式武装化”の野心を抱いたのです。
 直正は極端な秘密主義政策によって藩西洋武装化を1850年代から開始したのです。
 

 1855年、佐賀藩の極端な秘密主義政策による西洋式武装化を開始した頃、長崎海軍伝習所の伝習生募集広報のために江戸佐賀藩邸に幕臣の勝海舟と中島三郎助が訪ねて来たのです。二人はうわさのに名高いタヌキのお殿様鍋島直正に面会したのではではなく“肥前の妖怪”に出会ってしまったのす
 


  つづく


 『』① Wikipedia 儒教 より 要約
 『』② Wikipedia 中国のキリスト教 より要約
 『』③ Wikipedia 韓国のキリスト教 より要約
 『』④ 出島のくすり 長崎大学薬学部編 より要約
 『』⑤ Wikipedia 日本のキリスト教 より要約
 『』⑥ 長崎市教育委員会発行 出島 より転載  
 『』⑦ 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 ~肥前の妖怪~ より要約

 


 
 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(22)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
      
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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (21)

2014年05月03日 | お日様とお月様の光と影
 16世紀1588年、大陸東北部を拠点とする女真族(じょしん)は後金(ごきん)を成立させ明より独立しました。『この後金の勃興に最も影響を受けたのが朝鮮半島でした。朝鮮王は明皇帝と後金との関係を“明に親しく金に背く”親明背金の二股外交を展開し後金と李氏朝鮮との関係は緊張状態が続いたのです。そしてついに1627年、後金は朝鮮半島に侵攻し“あっ!”と言う間に漢城(現ソウル)を制圧し朝鮮王に服従を迫りました。』①
 豊臣秀吉の朝鮮出兵と同じ時期に起きた後金による朝鮮半島侵攻。朝鮮民族にとっては近隣国による半島侵攻が続く受難な時代です。朝鮮王は新興国後金とどう向き合ったのか?朝鮮民族にとって信じられない結末でした。

 『17世紀1636年、後金は中華皇帝に即位し清朝を成立させました。清皇帝は朝鮮王に対して服従と朝貢(ちょうこう 中華大陸の貿易形態。中華皇帝に対して近隣の君主が貢物を捧げ中華皇帝の恩恵をあたえらること。)を要求しました。しかし朝鮮王は清皇帝の要求を愚かにも拒否しました(何で?え~っ!一般市民はどうなるの~??)。怒り狂った清皇帝は1636年に再び朝鮮半島に侵攻し“あっ!”と言う間に朝鮮王を屈服させました。こうして朝鮮王は清皇帝に服従と朝貢を行いそして中華思想に従い清の冊封国(さくほうこく)属国を選択せざるおえませんでした。』①
明朝から清朝へ中華王朝の政権交代が朝鮮王は読めなかった。ですから清皇帝は朝鮮王に対して属国という懲罰を与えのです。
  

 清朝は明朝の政治体制を引き継ぎました。『琉球(現沖縄県)・マカオ(ポルトガル領)が清に対して朝貢を行いました。またビルマ(現ミャンマー)・タイ・ベトナムなどの国々が清に対して朝貢を行いました。清はインドシナ半島そして東南アジアにおける交易ネットワークを17世紀半ばから構築してきます。』②
 中華王朝に周辺国が朝貢を行うこと=中華王朝の属国になる事でありません。中華思想の朝貢と冊封(さくほう)とは別々の中華王朝の外交政策。


 16世紀大航海時代、西洋列強諸国はインドシナ半島と東南アジア諸国に進出して来ました。西洋列強諸国は17世紀から300年かけてインドシナ半島と東南アジア諸国をゆっくりと植民地化していきます。『まずフィリピンはスペインが植民地としてマニラを拠点に1529年から19世紀末期まで領有していました。東インド(現インドネシア)はオランダ王国がパタブィア(現ジャカルタ)を拠点に16世紀より20世紀まで領有していました。』③

 17世紀1600年、イギリスはインドに東インド会社を設立しマレー半島や日本の長崎平戸に進出して来ました。しかしイギリスと日本との貿易は赤字が続き1623年平戸イギリス商館を閉鎖し日本より撤退しました。17世紀半ばイギリスはアジア貿易をインドとマレー半島に集中することになります。
 18世紀末期イギリスはインドにおける貿易を成功させるためにインドシナ半島と東南アジア諸国(現マレーシア・シンガポール・ビルマ)を次々と領有していきました。そして清のインドシナ半島と東南アジアおける交易ネットワークをイギリスが取り込んでいくのです。
 イギリスはゆっくりと着実に“眠れる獅子の清”を追い詰めていくのです。
 そして1840年イギリスと清はついに衝突しアヘン戦争が勃発しました。


 同時期の日本では。『17世紀1635年、3代将軍徳川家光(いえみつ)はキリスト教を禁じるためポルトガル人を長崎より追放し東南アジア諸国との貿易を禁止しました。家光はさらに貿易相手国をオランダ王国と明としました。そして日本人の海外渡航も禁止し幕府の鎖国政策が開始されました。1641年、幕府は貿易相手であるオランダ王国の商館を長崎平戸より出島に移転させました。以後オラランダ王国は対日貿易を19世紀半ば1859年まで独占しました。』③
  日本がユーラシア大陸に対して開いた貿易港長崎。将軍家光は長崎警備を近隣の外様大名の佐賀藩と福岡藩(現福岡市)に対して命じました。

 1636年、中華大陸で明朝から清朝へと政変が起き長崎に居住していた華僑(漢民族)たちは故国に帰ることができなくなりました。やがて華僑の商人と日本の商人との密貿易が増大していきました。
 幕府は清と国交を持ちませんでした。『1688年、幕府は長崎奉行所に対して長崎での密貿易対策として唐人屋敷(現 長崎市館内町)華僑の居留地建設を命じました。1689年、2,000人の収容できる唐人屋敷が完成し長崎市中にいた華僑たちを集め強制的に居住させました。』④
 『このオランダ王国の出島と清国人の唐人屋敷の管理は長崎奉行所が管轄していました。また貿易で得た収益は長崎奉行所が管轄し幕府に収めていました。』④
  

 18世紀初頭、江戸幕府が開闢し日本国内での戦争が無くなり平和が100年以上が経過したこのころ武士はかなり厳し~ィ状況におかれていました江戸時代幕藩体制の収入源は米でした。しかしこの時期日本では収入が不安定な農業より貨幣経済の発達に伴って商業が栄えていたのでした。
 『この時期、幕府とオランダと清との長崎貿易の主要輸入品目は生糸、砂糖、毛織物、染料、薬品、ガラス品などの贅沢品がほとんどでした。それに対して日本からの輸出品は銀や銅が中心で貿易赤字した。日本の財産がどんどんと海外に流出していく状況が経済問題となっていました。幕府は長崎においてのオランダ船の入港を年一回に減らしまた貿易額の制限も行いました。』③

 『18世紀初頭の幕藩体制改革として、8代将軍徳川吉宗は幕藩体制の米に依存する財政を立て直すため改革を行いました。徳川吉宗は生糸、樟脳(しょうのう クスの木などから採取されるロウ状の結晶)、陶磁器、漆工芸品、屏風などの工芸品また食品では醤油や海産物など産業を興し輸出品の生産を盛んにする「殖産興業」を各藩に奨励したのでした。』③ 
 つまり武士は経済学を学ばなければドンブリ勘定では財政が成立しなくなっていたのです。

 19世紀初頭イギリス・フランス・帝政ロシアの艦船が日本近海に頻繁に現れる様になっていました。長崎奉行所は長崎港の警備を近隣の佐賀藩と福岡藩などと連携する指揮権を幕府より与えられていました。1808年、イギリス船による長崎出島のオランダ商館襲撃事件「フェートン号事件」起きました。長崎奉行所のイギリス船に対して警備の不備が露呈し長崎奉行松平 康英は切腹し責任を取りました。 
この「フェートン号事件」は江戸時代に於いて最も国辱の事件であった以後、国内で攘夷論が高まっていきます。 
 
 幕府はフェートン号事件の時に長崎港警備を担当していた佐賀藩に対して責任を追及し佐賀藩主鍋島斉直(おなおなり)に謹慎を命じました。そして幕府は「フェートン号事件」以降長崎警備を強化しましたそのことが佐賀藩の財政を圧迫しさせました。
 1830年、鍋島直正は17歳で佐賀藩第10代藩主に就任しました。しかし佐賀藩の財政は既に破綻していたのです。 佐賀藩の財政問題が若き藩主鍋島直正に圧し掛かりました。米以外でどの物品によって藩の収入を増加させるのか?藩財政赤字をどうやって解消するのか?藩の莫大な借入金をどうやって返済していくのか?抜本的な藩政改革と経済対策の断行を直正は求めらたのです。



 
  つづく


 『』① Wikipedia 李氏朝鮮より要約
 『』② Wikipedia 清 より要約
 『』③ 長崎市教育委員会発行 出島 より要約
 『』④ 長崎市公式web 唐人屋敷 より要約 
 


 
 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(21)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
      
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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (20)

2014年04月12日 | お日様とお月様の光と影
 中華大陸おいて歴代中華王朝による中華思想は(中華皇帝が大陸の中心だから皇帝に従属しなさい!という大陸の民族を服従させるかなり乱暴で傲慢な思想。要するに…『俺様思想と言えるwww』)長く東アジア地域の秩序を保っていました。
 18世紀後半イギリスは自由貿易を認めさせるため東アジアにも進出して来ました。そして19世紀1840年、イギリスと清との戦争「アヘン戦争」が勃発しました。結果は東アジアの強国と信じていた清がイギリスに大敗しました。これにより中華大陸における中華思想は瓦解したのです

 清はアヘン戦争後、西洋列強諸国に対してどの様に向き合ったのか?清はその後も中華思想にこだわり続け時代の激変に対応できないでいました。清において近代化思考が芽吹き始めたのがアヘン戦争後20年も経過した1860年代からでした。清の国内で頻発するテロや暴動を鎮圧するために清軍が西洋近代兵器を整えは始めてからでした。
 清の立場からすれば敵国である西洋列強諸国の近代学問を学び近代兵器を取り入れる事に抵抗を感じるのは理解できます。がしかし清の近代化スピードは遅いのではないのか?と思います。その原因として西洋列強諸国による沿岸部の植民地化が清の近代化の弊害となっていたようです。

 李氏朝鮮はアヘン戦争後、西洋列強諸国に対してどの様に向き合ったのか?中華思想に従属し清の付属国であった李氏朝鮮は独立国家ではありませんでした。朝鮮王は自ら自国の外交政策を決定できない立場にありました。また朝鮮王は西洋列強諸国に対して「中華思想に替わる新しい東アジアの外交政策」を表明していませんでした。ですから1850年代の李氏朝鮮では近代化思考の種が蒔かれてはいませんでした。
 そんな朝鮮半島をイギリスと帝政ロシアが自国の植民地として虎視眈々と狙っておりました。 


 そして日本はアヘン戦争後、西洋列強諸国に対してどの様に向き合ったのか?これまでこのコラムで語って来たように江戸幕府は清と国交は持っておらず清の中華思想に従いませんでした。日本にとってアヘン戦争は西洋列強諸国の圧倒的な国力と軍事力が脅威であることを江戸幕府に認識させました


 アへン戦争後、幕府閣僚安部正弘は『異国船打ち払い令』を遭難した船に限り薪や水また食糧などの補給を認める「薪水給与令(1842年)」に慌てて改めました。だがほとんどの大名が西洋列強諸国との主戦論を説きました。そして「尊王攘夷論」を主張する水戸徳川家水戸藩の徳川斉昭と藤田東湖をハト派の安部正弘は上手く宥めて幕政改革に取り込みました。また安部正弘は西洋列強諸国との開国論を主張する外様大名の薩摩藩主の島津斉彬を上手く幕政改革に取り込みました。

 そして江戸幕府は1854年から55年にかけてアメリカ合衆国、イギリス、帝政ロシアに対して和親条約を締結し西洋列強諸国に対して外交譲歩を示しました。 19世紀半ば、清皇帝や朝鮮王が西洋列強諸国に対して「新しい東アジアの外交政策」を表明することは有りませんでした。『もしかすると徳川将軍が西洋列強諸国に対して「新しい東アジアの外交政策」を表明し将軍の国際的地位を築くチャンスと安部正弘は考えていたのかもしれません。』①
 もし安部正弘がそう考えていたなら「甘い!」
 西洋列強諸国が日本、清、李氏朝鮮の東アジア三国をどの様に見ていたのか?また西洋列強諸国が東アジア三国に何を要求するのか?そして西洋列強諸国が東アジア三か国をどの様に支配しょうとしているのか? 19世紀半ばどの国も理解していませんでした。


 
 1855年7月、江戸幕府は鎖国政策から開国し「西洋学を学び国家の近代化を推進しょう!」という近代化思考が日本で芽吹き始めていました。幕府の近代化三点セットの一つ「長崎海軍伝習所」はオランダ王国の協力を得て年末開所に向けて建設が始まっていました。責任者に永井尚志が着任していました。

 その頃江戸では、長崎海軍伝習所の一期生の幕臣勝海舟と中島三郎助は江戸の各藩邸を周り「伝習生募集!」広報を地道に行っていました。けれどとなかなか伝習生が集まりませんでした。 勝と中島は各藩の重役に長崎海軍伝習所をこう説明していました。

 「“日本国の海防強化”のために海軍教育と西洋科学を体系的に教え海防人材を育成する教育機関です!」

 しかしそう言うとどこの藩の重役もドン引きしました。

 そうなんです!江戸時代ほとんどの人は“日本国”という意識は無く“日本人”と言う意識もありませんでした。江戸時代の人は(それより以前の時代も)藩が独立国家であり“藩がくに”でした(薩摩人、長州人という“くに”“郷土意識”)。これが幕藩体制「連合国家」の弊害でした。日本国の海防は幕府が行う任務で藩の任務では無いとほとんど藩は思っていたようです。つまり幕府の海防任務に藩の人材を奪われると恐れたのです。
 
 
 「ナア中島!どうすれば解かってもらえるだろうねェ」
 「はァ…」
 
 幕臣 勝海舟(別名麟太郎 りんたろう)は西洋学を学びオランダ語会話のできる幕府の逸材でした。幕府が「アメリカとの国交問題」に行き詰まり幕閣安部正弘がアメリカ合衆国大統領の国書を日本語に翻訳させてアメリカとの国交問題の意見を幕臣や各藩それに一般市民から問うことしたのです。勝はこの時、海防強化の必要性を説いた意見書を幕府に提出しその意見書が安部正弘の目に止まり外交専門の海防掛に採用されました。

 また1853年7月8日、ペリー提督が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船四隻が浦賀沖に来航した時、中島はペリー艦隊に対してファーストコンタクトを行った浦賀奉行所の役人でした。中島は「英語会話の必要性」「海防強化の必要性」を体験として痛感していました。勝と中島は国難である海防強化の必要性を危機感として持っていた数少ない幕臣でした

 1855年7月初旬のある日、勝と中島は薩摩藩の紹介で江戸佐賀藩邸(現東京都港区虎ノ門)の外様大名 藩主 鍋島直正を訪ねました。

  「ここのお殿様はタヌキらしぃから気を付けなっ!!」
  と勝が中島に言いました。
  「え~!勝殿やめましょう!」
「タヌキの殿様に俺たちの誠心誠意を見せようぜ!だめならタヌキに江戸っ子の心意気を見せてやるぜ!」 
  「そんな~」

 勝のアイデンティティはこの時は未だ「江戸っ子」だったようです。江戸っ子の勝は中島の手を引っ張り強引に江戸佐賀藩邸に入っていきました。
 


 『』① 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より要約


  つづく
 

 
 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(20)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


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   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (19)

2014年04月06日 | お日様とお月様の光と影
  19世紀半ば、日本の国内には「江戸の幕府と将軍」と「京の朝廷と天皇」との異なる二つの政体が存在していました。しかも江戸時代における幕藩体制は藩という独立国家が300近く存在しその代表として江戸を領地とする幕府が存在する「連合国家」でした。それぞれの藩は好き勝手に領地を統治していて「日本国としての統治制」はありませんでした。

 この頃、300ある藩の中で一頭抜き出ていた藩が薩摩藩でした。薩摩藩は既に藩政近代化改革を推進していて西洋式関連事業を興し幕府を凌駕しょうとしていました。この薩摩藩が長州藩、土佐藩そして佐賀藩と同盟し江戸幕府を倒し「中央集権国家」を樹立させます。しかし日本が幕藩体制の「連合国家」から「中央集権国家」の明治新政府を樹立するためには国内が混乱する波乱の時代を越えて往かなければなりませんでした。

 1855年6月初旬、西郷吉之助は薩摩鍛冶屋町の実家で近所の幼なじみ大久保一蔵と再会しました。大久保と西郷は通商問題について話し合っていました。幕府はアメリカ合衆国、イギリス、帝政ロシアと和親条約を締結した。アメリカ合衆国の総領事が来年に来日するアメリカは必ず通商を求めて来るはず。江戸薩摩藩邸詰めの有村俊斎と有馬新七などの攘夷派志士たちが通商断固反対!の声を高めている。この薩摩藩攘夷派志士と精忠組(せいちゅうぐみ)が対立し薩摩藩分裂を招くと西郷は危機を感じていました。
 
 「西洋列強諸国の軍備や国力を知らずただ過激に騒ぐ攘夷派の藩士達は愚かでありそれらの者を説得するのが吉之助の役目の一つである!」と斉彬に命じられたと大久保一蔵に吉之助が打ち明けました。

 「吉之助さん我らの殿は薩摩藩の分裂を恐れておらるのでは??」

 
 斉彬は島津家当主と薩摩藩主に就任する以前に薩摩藩内で継承問題の内紛が起きました。斉彬は島津家25代当主第8代藩主重豪の影響を強く受けていて藩内の改革派と共に薩摩藩近代化政策を推進していました。一方27代島津家当主10代藩主斉興の側室であるお由羅(おゆら)の子久光を次期当主と藩主に擁立していました。斉興は斉彬派が推進する近代化は浪費と判断しなかなか島津家当主と藩主を引退しませんでした。

 『斉彬擁立派は郷中の二才たちを結集させ斉彬擁立の運動を行いました。この運動に西郷吉之助や大久保一蔵も加わり精忠組を結成しました。斉彬と異母兄弟の久光との島津家後継問題は薩摩藩内紛に発展していきました。この薩摩藩の内紛を「高崎崩れ(お由羅騒動)」と言います。』
 『久光擁立派は幕府に対して直訴する強行手段に出ました。そこで幕閣安部正弘の仲立ちもあって斉彬は1850年43歳で島津家28代当主と11代薩摩藩主に就任できました。』①
 
 『藩主に就任した斉彬はまず久光擁立派の処分を行いました。この時に大久保一蔵と父利世(としよ)は連座して職を解かれ謹慎処分となりました。職を失い大久保家は窮乏に陥りました。2歳年上の幼なじみ西郷吉之助は大久保家の窮乏を心配して西郷家も貧しいのに食糧を分け与えたりしました。また西郷は落ち込んでいる一蔵を励まして共に窮地を乗り越えて行きました。』①

 『そして斉彬は藩政改革を開始し郷中の二才たちに藩政改革の意見書提出を許可しました。歴代薩摩藩主が下士層の二才たちに意見を聞くことなどありえないことで異例な出来事でした。』
 『その頃、下士の西郷吉之助は郡方書役(おこりかたかいやく)という薩摩領内の田畑を歩き実り具合を見て年貢を決める下役人でした。吉之助は斉彬の藩政改革の意見書を何度も提出しそれが斉彬の目に止まり庭方役という役に配属し薩摩工作員として動いていました。一方大久保一蔵は斉彬が藩主になって3年後の1853年に謹慎が解かれ役職に復帰していました。』①


 また斉彬は「西洋近代科学を学びかつ産業を興しそして日本の軍政を近代化改革を行い西洋列強諸国と同等の国力を持たなければならない!」
 と吉之助に説きました。

   「我らが殿は途方の無い国家構想を考えておられる」
  「吉之助さん優れた西洋の学問を学ぶことが何の恥になりますか??」
     と大久保一蔵が吉之助に言いました。
   「実際に殿は領内に西洋式工場を建設し軍艦や武器を製造しておられる」
  「吉之助さん我らの殿はどこの藩主も成し遂げていない事業を行っておられるのです」


 そして斉彬は「我が国は産業を興し経済力を持ちさらには清・インド・ベトナムなどのアジア近隣諸国と軍事同盟を結ぶべきだ!
 と吉之助に説きました。
   「そんなことできるのかな…」
   「吉之助さん我らが殿の考えは桜島の様に雄大なのですよ!」

   西郷吉之助と大久保一蔵は“国のあり様”について時間も忘れ語り合いました。

 1855年6月中旬、蒸気軍艦スムービング号(のち観光丸)がオランダ領 東インド パタブィア(現インドネシア ジャカルタ)から長崎に向けて出港しました。スムービング号の艦長オランダ海軍ペルス・ラケイン中佐は本国からの命令を受け決意を持って長崎に向け出港しました。同じ頃、江戸では幕府の近代化三点セット「長崎海軍伝習所」と「講武所」そして「蛮書調所(洋学所)」の開設に向けて動き始めていました。


 『』① 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より要約


  つづく
 


 
 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(19)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


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 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
      
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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (18)

2014年03月31日 | お日様とお月様の光と影
 18世紀8代将軍徳川吉宗はオランダ学を解禁し日本において西洋近代科学普及が始まりました。19世紀半ば、西洋列強諸国の東アジア進出によって江戸幕府は鎖国政策から亡国感をたっぷり味わって開国し「西洋学を学び国家の近代化を推進しよう!」という危機感から近代化思考が芽吹き始めていたのです。
 19世紀半ば、東アジアにおいて知的好奇心と危機感によって 国産蒸気機関の試作や洋式帆走軍艦の製造を開始した国は日本だけでした。

  安政の大地震の津波によって大破したロシア艦「ディアナ号」は伊豆戸田港で修理する事になりましたがしかしディアナ号は不運が重なり暴風雨によって沈没してしまったのです。幕閣安部正弘と徳川斉昭はロシア艦の造船を許可を決定しました。その際に安部は日露交渉を担当した川路聖謨に対して洋式帆船の量産を命じたのです。
 帝政ロシアの技術者指導の下で日本の船大工が造船した『“洋式帆船ヘダ号”は二本マストで全長24.6m、甲板の長さ21.8m、幅7m、深さ3mの帆船でした。』
 洋式帆船技術を取得した戸田村の船大工に対して川路聖謨は洋式帆船ヘダ号量産仕様6隻の建造を命じました。“洋式帆船ヘダ号量産仕様”は“君沢型(きみさわがた)”と呼ばれ幕府の洋式帆船の型式となりました。ちなみに君沢型とは戸田村が属していた伊豆の国 君沢郡(現静岡県 伊豆市)が名前の由来となっています。』①

  水戸藩の徳川斉昭は安部正弘の許可を得て造船技術取得のために戸田 忠太夫と安島 信立を戸田村に派遣させました。『そして幕府は石川島造船所で洋式帆船ヘダ号量産仕様 君沢型を4隻建造させました。幕府は洋式帆船ヘダ号量産仕様 君沢型を国産洋式船として10隻建造しました。』①

 九州の佐賀藩(さがはん 現 佐賀県と長崎県の一部)の外様大名 藩主 鍋島直正(なおしまなおまさ)は藩政近代化に熱心な人で藩内では蒸気機関、近代兵器、製鉄など西洋近代科学の研究と実験を行っていました。また洋式帆船技術を取得のために直正は藩士を戸田村に派遣させいました。
 また藩独自設計として伊予宇和島藩主伊達宗城の依頼で医学者二宮 敬作と大村益次郎が蒸気機関搭載の軍艦が19世紀半ば設計段階にありました。

 
 1855年6月初旬、一時帰国した薩摩藩主島津斉彬は桜島瀬戸村造船所を視察していました。薩摩藩おける集成館事業の財源となっていたのが海外貿易と砂糖専売でした。薩摩藩の支配地域は薩摩・大隅・奄美五島(現鹿児島県)・琉球王国(現沖縄県)の広大な地域を支配していました。『薩摩藩は奄美五島・琉球王国でさとうきびを栽培させ砂糖に加工し年貢として藩に収めさせました。そして薩摩藩は大坂で砂糖を売り莫大な収益を上げていました。また薩摩藩は清、ベトナム、フィリピン、カンボジアなどの海外での密貿易を藩主導で積極的に行い藩財政を支えていたのです。』③

 この様に薩摩藩は海外貿易と砂糖専売によって潤沢な財源を有し製鉄業・造船業・武器製造業などの洋式関連事業「集成館事業」を興すことができたのです。集成館事業の桜島瀬戸村造船所で「洋式帆船 軍艦 昇平丸」が竣工していました。『洋式帆船 軍艦 昇平丸は3本マストで全長31m、大砲16門を装備していました。』②
 
 また島津斉彬は蒸気機関に興味を持ちオランダの蒸気機関の書物を翻訳し国産蒸気機関開発の実験を行っていました。そして桜島瀬戸村造船所で日本国産初の蒸気機関搭載の「外輪蒸気船 雲行丸」建造に着手していました。さらに斉彬は薩摩藩專用船として軍艦2隻の建造を造船所に命じましたこうして政治的、財政的そして軍事的にも薩摩藩は幕府を凌駕しようとしていました。しかし薩摩藩の藩論は保守的で佐幕派の顔を表向き見せていましたそれは1866年まで変わる事はありませんでした

 さて薩摩藩内には独自の教育制度「郷中教育(ごうちゅうきょういく)」という制度がありました。『薩摩藩の郷中教育は地域の結社で教育機関として機能していまいた。薩摩藩内には36の郷中がありました。』③ 
 『郷中内の青少年は稚児組(ちごぐみ 6歳から13歳まで)二才組(にせぐみ14歳から20歳位まで)長老組(おせんしぐみ20歳以上)に年齢別に組織されていました 。二才組の青年が稚児組の子どもを武道や学習また生活全般にわたり指導教育を行いました。郷中教育は年齢で縦割りされた自治的な相互教育を行い共同活動を行っていたのです。 』③

 西郷吉之助の実家である鍛冶屋町郷中は藩内で最も盛んな郷中教育を行っていました。西郷吉之助は鍛冶屋町郷中のリーダー二才頭でした。江戸薩摩藩邸詰めの有村俊斎また西郷吉之助の幼なじみの大久保 一蔵(おおくぼいちぞう 後 利通 としみち)などが鍛冶屋町郷中に所属し西郷吉之助と共に学び育っていきました。

 実家に久しぶりに帰宅した西郷吉之助、両親は既に亡くなっており次男の吉二郎(きちじろう)三男の信吾(しんご のち従道つぐみち)長女琴(こと)次女鷹(たか)が一緒に生活していました。また西郷吉之助は最初の妻である須賀(すが)と結婚していたが吉之助が江戸詰めですれ違いが多く不仲でした。

 「江戸はすごい!イモではなくみんな白い米を食っている!」
 「すごい~っ!食べた~いっ!」
 


 西郷家の人々は吉之助の江戸みやげ話で盛り上がり再会を楽しみました。吉之助が帰って来たのを聞き近所の幼なじみの大久保一蔵が西郷家を訪ねて来ました。

 1855年6月初旬、オランダ領 東インド パタブィア(現インドネシア ジャカルタ)に蒸気軍艦スムービング号(のち観光丸)艦長オランダ海軍ペルス・ラケイン中佐が到着し長崎に向けて出港準備をしていました。


  つづく


 『』① Wikipedia 君沢型 より要約
 『』② Wikipedia 昇平丸 より要約
 『』③ 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より要約


 
 
 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(18)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
      
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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (17)

2014年03月22日 | お日様とお月様の光と影
  1855年5月下旬、文はいつもの様に野山獄に向かっていました。文は最近気になることが有りました。誰かに尾行されている気がする?!家を出てしばらくすると人の気配を感じ途切れるまた萩城下に入ると人の気配を感じ途切れる。文はその気配に気になっていました。その気配は杉家の人々が同じ様に感じている事でした。杉家は長州藩の佐幕派保守勢力と幕府の密偵に常に監視されていたのです。

 文はいつもの様に野山獄に着きました。すると文は「あっ!」と声を上げました。牢棟が向かい合う真中にある細長い広場に「桔梗」が咲いていたのです
 
 「桔梗だ!」 
 文は細長い広場に咲いている桔梗に駆け寄り寅二郎に声を掛けました。

 「寅兄ィ様!桔梗です桔梗が咲いております!」

 草花に詳しい囚人が桔梗の種を蒔いて芽を出し最近になって花が咲いたのです。

 「アサガオの種も蒔いたから夏には花を楽しめるよ文」
 「わ~ステキ!」

  野山獄に投獄されている囚人たちは過酷な牢生活で人間らしさを失っていました。囚人たちはひたすら罪と向き合い孤独に耐える日々を送っていました。けれど囚人たちは投獄される前は一人一人に得意分野がある武士でした。その得意分野を囚人同士で教え合う事を牢役人福川犀之助は許可したのです。野山獄の不毛で無機質な細長い広場に桔梗が咲いた。そのことで囚人たちには表情が表れ人間らしさ取り戻していました。

 文が帰りしばらくすると向かいの牢の高須久子が寅二郎に声を掛けました。
 「吉田先生!無給教師となった叔父の玉木文之進殿と吉田先生はそれからどうなったのでありますか?」

 
 『玉木のおじさんは“武士は公のために尽くす者であり私利私欲で断じて動く者ではない!”この事を吉田寅二郎に対して徹底して教え込みました。玉木文之進は幼い吉田寅二郎に対して凄まじいスパルタ教育を行っていました。吉田寅二郎は玉木のおじさんの凄まじいスパルタ教育に耐え抜いて5年後には明倫館で山鹿流兵学の教授見習いになりました。母滝は裃(かみしも 日本固有男性の正装)を作ってやり寅二郎の晴れの日を祝ってやりました。』①

 『しかし玉木のおじさんは凄まじいスパルタ教育を行うだけの人ではありませんでした。玉木のおじさんは松下村塾を五節句の日を休みとしました(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)。玉木のおじさんはこの日は畑仕事を休み、講義も休み塾生を集めて一日中遊びました。』①

 その日だけは武家も百姓も商人も無く江戸時代における封建制度が松下村塾には存在しませんでした。そして玉木のおじさんと塾生たちそして寅二郎は休日を楽しみました。この松下村塾の休み日が吉田寅二郎の心の底に存在する幼い時の原風景でした

 「日頃は厳しい玉木のおじさんがその日だけ優しくなったので印象に残っている…」
 
 「そんなものなのかね…」

 いつの間にか隣り牢の富永有隣も吉田寅二郎と高須久子との会話に入って来ました。向かい側の北棟の囚人たちも寅二郎の話しを聞いていました。また寅二郎には見えないが南棟の囚人たちも寅二郎の話しを聞いている様でした。

 『吉田寅二郎の山鹿流兵学講義は明倫館で好評になりその評判が藩主毛利敬親の耳にも入りました。そして吉田寅二郎は11歳の時に毛利敬親の御前で講義を行う機会が巡って来ました。玉木のおじさんも杉百合之助と滝も舞い上がってしまいました。玉木のおじさんは冷静になり寅二郎に講義のレジュメを作成させました。』①

 「吉田先生立派です…」

 高須久子の熱い視線を吉田寅二郎は感じたのです。

 「それからどうなったのだ!?」
 
  無粋にも富永有隣が横やりを入れた…

 『吉田寅二郎は藩主毛利敬親の御前で山鹿流兵学の戦法について講義を行いました。玉木のおじさんは無給教師として同席していました。吉田寅二郎は理論ではなく実戦的な戦法を論じたので講義を聞いた毛利敬親は感心したのです。この時から毛利敬親は吉田寅二郎を大切な家来として寵愛するようになりました。また吉田寅二郎の教師は叔父玉木文之進である事を毛利敬親は近臣から聞きました。そして無役だった玉木文之進は数年後に代官の役職を得て松下村塾を閉塾しました。』①

 寅二郎の人生を振り返り「過去の自分の問題」語ることで野山獄の囚人たちは共感し一体感が芽生えていました。この囚人たち様子を牢役人福川犀之助は見ていました。そして福川は吉田寅二郎の牢に近づきこう言いました。

 「吉田寅二郎!ここで講義を行って欲しいのだが…?」

 寅二郎は驚きました。けれど高須久子と富永有隣や野山獄の囚人たちが“吉田先生の講義を是非聞きたい!”という声が上がったのです。吉田寅二郎とって野山獄の囚人たちは同じ問題を持ち共感し合える「何でも話せる仲間たち」なのです。吉田寅二郎にとって大切な仲間たちが「講義を是非聞きたい!」と自分を認めてくれ期待してくれているのです。寅二郎はその事が素直に嬉しかったのです。そして吉田寅二郎は講演の申し入れを快諾しました。


 1855年6月初旬、薩摩藩主島津斉彬が鶴丸城本丸に入城し一時帰国しました。薩摩藩内には製鉄業・造船業・武器製造業などの洋式関連事業を集約した「集成館事業」を興していました。そして集成館事業の桜島瀬戸村造船所で「洋式帆船 軍艦 昇平丸」と日本国産初の蒸気機関搭載の「蒸気船 雲行丸 」が製造されていました。斉彬は桜島瀬戸村造船所視察のために一時帰国したのです。
  斉彬の近代国家構想である「近代科学を学びかつ産業を興しそして日本の軍政を近代化改革を行い西洋列強諸国と同等の国力を持たなければならない」は具現化され薩摩藩は藩政近代化を着々と推進させていました

 さて西郷吉之助は数日間だけ帰宅することを島津斉彬から許されました。薩摩城下の鍛冶屋町(現鹿児島市鍛冶屋町)の実家へ急ぐ西郷吉之助でした。


  つづく


  『』①文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日 (1) より要約



 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(17)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
     
コメント

19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (16)

2014年03月15日 | お日様とお月様の光と影
  1855年5月中旬、長州藩指月城本丸長州藩庁では佐幕派保守勢力の重臣である椋梨 藤太(むくなし とうた)が藩主毛利敬親に対して政務の報告を行っていました。この頃より幕府が長崎海軍伝習所の伝習生募集を各藩に広く呼び掛けていました。幕府の呼び掛けに応えて長州藩でも伝習生を藩士から人選し応募することを椋梨 藤太は敬親に伺いました。

  「そうせい!」と毛利敬親は答えました。
 敬親は部下の意見にあまり反対しない人で「そうせい公」というニックネームがありました。

  次に椋梨 藤太は難しい案件である「吉田寅二郎」の処遇の件だった。藩内の佐幕派保守勢力が吉田寅二郎を処刑すべきという意見が大きくなっていると椋梨は敬親に報告しました。
 敬親は椋梨 こう命じました。
 「吉田寅二郎は余人をもって代えがたい長州藩の宝である。野山獄を出獄すれば自宅で謹慎させよ!余の命令じゃ!」

 3年前、吉田寅二郎が諸国遊学許可を藩に伺いましたが藩からなかなか許可が下りないので脱藩しました。江戸時代「脱藩」とは藩主への裏切り行為とされ大罪でした。脱藩した寅二郎は江戸で捕縛され野山獄に投獄され家禄没収の罰を受けました。しかし吉田寅二郎の能力を高く評価していた毛利 敬親は彼に10年間の国内遊学を許可しました。
 また吉田寅二郎が密航の罪で伝場町の獄に投獄された時も藩主毛利敬親と藩庁とが動きまた江戸長州藩邸の高杉小忠太と兄杉民治が動き必死になって寅二郎を救い出しました。

 そうせい公は吉田寅二郎に甘いと長州藩の佐幕派保守勢力に不満が溜まっていました。

 さてその頃、野山獄では杉民治がいつもの様に本を吉田寅二郎の牢に届けに来ていました。幕府はアメリカ合衆国、イギリス、帝政ロシアと和親条約を締結した。アメリカ合衆国の総領事が来年に来日するアメリカは必ず通商を求めて来るはずと民治は寅二郎に伝えてました。江戸の桂小五郎の報告によれば江戸の攘夷派の志士たちが通商断固反対の声を高めていると民治は寅二郎に伝えました。 
 
 「寅!時局は動いているぞ」
 
 民治の話しを聞いて何もできいでない寅二郎は顔をくもらせました。そして民治は寅二郎に本を渡し持ち帰る本を受け取って富永と牢役人福川犀之助(ふくかわさいのしん)に挨拶して帰って行きました。

 隣り牢の富永有隣も民治の話しを聞いていました。民治が帰りしばらくすると富永は牢の壁をノックして寅二郎を呼んだ。寅二郎は牢の前に出て富永と会話し始めました。『富永有隣という人は明倫館で秀才と言われた人でそれに書道が上手かった。』①

 「吉田寅二郎お前は明倫館で兵学を講義していたとは本当なのか?」

 
 『吉田寅二郎の父百合之助の叔父吉田大之助は杉家に同居していました。寅二郎は幼い頃に吉田家の養子になりました。長州藩士の吉田家は杉家より格上の上士で代々山鹿流兵学の師範の家でした。その山鹿流兵学は基本となるのが孫子の兵法でした。寅二郎は吉田家家業の後継者として杉家で期待されて育っていきました。』②

 「まぁそれは凄い!」
 
 向かいの牢の高須久子も寅二郎と富永の会話に入って来ました。『高須久子は歳のころ30歳前後で若くして未亡人となったらしい。江戸時代において封建制度の武士階級では委託刑という理不尽な刑があったのです。家族が藩に頼み込み久子を投獄したという。その代り食費や牢生活の経費は家族が支払うことになります。』①
 高須久子の罪状をまだ彼女は野山獄の誰にも打ち明けていませんでした。

 『萩城下の郊外にある松本村は百姓村で村内には武士階級の家はほとんど有りませんでした。松本村の杉家の小さな家の近所には百姓の家しかなく民治と寅二郎の子どもの頃は近所に遊び相手はいませんでた。杉家には父百合之助の叔父玉木文之進も同居していました。杉家では玉木文之進の事を“玉木のおじさん”と呼んでいました。玉木のおじさんは無役だったので仕方無く杉家の小さな家の隣りに粗末な小屋を建て百姓や商人の子どもを集めて“松下村塾(しょうかそんじゅく)”私塾を開いていました。』②
玉木のおじさんはそれを生業としていました。ちなみに「松下村塾」は「松本村の塾」という意味で深い哲学的な意味は無いそうです。

 『ところが寅二郎が五歳の頃に吉田大之助が病死しました。吉田大之助が亡くなり吉田家家業の山鹿流兵学の師範後継者が断絶する危機を向かえました。そのことを恐れた長州藩は無役の玉木文之進に吉田家の家業後見人として寅二郎の無給教師を命じたのです。』
 『玉木のおじさんは幼い寅二郎を杉家の畑へ連れ出しそこを教室としました。玉木のおじさんが畑仕事をしながら寅二郎は畑のあぜで正座さて本を開かせ玉木のおじさんが本の文章をそのとおり暗誦する。そのあとを寅二郎が朗読する寅二郎は子どもだから玉木のおじさんに逆らうことなく本を来る日も来る日も朗読を続けました。』②

 「この玉木のおじさんがすごい人で…怖かった…」

 『しかし玉木のおじさんはささいなことで容赦無く幼い寅二郎を殴り倒しひどい虐待を行った。畑で働いている父百合之助と民治も叔父玉木文之進の寅二郎対する虐待を見ていましたが藩の命令だから仕方ないと見て見ないフリをしていました。』②

 「寅!お前は公のために尽くすのだ!」 

 玉木のおじさんは幼い寅二郎に「武士は公のために尽くす者だ!」と徹底して教え込みました。
 
 しかし母滝は幼い寅二郎が玉木文之進に虐待されているのを見て心を痛めていました。
 「寅よ辛いなら辛いと言っていいのですよ…」
 滝はいつも幼い寅二郎を優しくかばっていました。

 「玉木のおじさんは…恐ろしかった…死ぬかと思った…」 

  江戸時代において封建制度の理不尽さを体験しているの野山獄の囚人たち。吉田寅二郎が自分自身の人生の振り返り高須久子と富永有隣に「過去の自分の問題」を話しはじめました。寅二郎と似たような理不尽な体験をしている二人は寅二郎の話に対して口を出さず黙って聞いていました。寅二郎はようやく「過去の自分の問題」と向き合い「現在の自分の問題」と出会うため「何でも話せる仲間」と出会うことができたのです。


 
 つづく


 『』①文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日 (2) より要約
 『』②文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日 (1) より要約





 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(16)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
     
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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した 第一章 (15)

2014年03月08日 | お日様とお月様の光と影
 1855年5月8日、プチャーチン一行はヘダ号に乗船し日本を離れ帰国の途に就きました。その頃本国ではロシア皇帝ニコライ1世が崩御しアレクサンドル2世の治世になっていました。帝政ロシアの南下政策であるクリミヤ半島獲得ためのクリミア戦争は泥沼化していて戦争継続は困難な状況となりつつありました。しかし帝政ロシアの東アジア方面南下政策は清の山東半島、遼東半島そして朝鮮半島を不凍港として獲得する野心がありました

 清は列強諸国よる植民地化が進み清国内は清朝権威失墜による民衆のテロや暴動が頻発しもはや清は国家の体を成してはおらず「民衆の狂気」が暴走していました。現在の中国にそっくりな状況でいずれ中国も歴代王朝と同様な道を辿るでしょう。
 また朝鮮半島の李氏朝鮮は国家として危機がすぐそこに迫っているにもかかわらず何の対策も取らず半島に閉じ籠り鎖国政策を続けていました

 1855年5月初旬、京の島津斉彬は左大臣近衛 忠煕とも密談しました。斉彬は左大臣近衛 忠煕に対して敬子と将軍家定との結婚問題と一橋慶喜将軍擁立を幕府に対して働きかけてほしいと依頼しました。島津家と近衛家は縁戚で近衛 忠煕は斉彬の依頼を快諾しました。
 そして5月初旬、島津斉彬は京を発ち家臣を従え西郷吉之助も同行し薩摩へ帰国の途につきました。一年半ぶりに薩摩に帰郷する西郷吉之助は胸を踊らせていました。

 さてその頃、江戸水戸藩邸中屋敷の徳川斉昭は水戸藩「旭日丸」建造の責任者である 戸田 忠太夫と安島 信立に旭日丸建造の進捗状況の報告を受けていました。1853年にペリーが来航し対策として幕府は各藩に洋式帆走軍艦の建造を許可しました。『そして徳川斉昭は洋式帆走軍艦を建造するため幕府直轄地の隅田川河口に石川島造船所(現東京都中央区佃)を1853年年末に整備しました。』①
水戸藩の「旭日丸」は石川島造船所で建造していました。ようやく船体ができて進水しましたけれど水深が浅かったために船体が横倒しになってしまいました。それでも船体を何とか復旧させました。』②

 斉昭はそのように戸田 忠太夫と安島 信立から報告を受けました。徳川斉昭は旭日丸の建造を続けるように命じました。浦賀奉行の「鳳凰丸」薩摩藩の「昇平丸」それに幕府がオランダ王国に発注した蒸気軍艦2隻これら洋式軍艦が揃えば水戸藩が途中で船の建造を止める訳にはいかないと斉昭は思っていました。斉昭は藩財政は苦しいが戸田 忠太夫と安島 信立に対して藩と幕府のために励むように労いました。

 『徳川斉昭よって創設された石川島造船所は現在はIHI(旧 石川島播磨重工業)となって造船や様々な重工業分野で活躍しています。』②
 徳川斉昭と水戸藩が植えた近代化の種は日本の近代的造船業に貢献したと筆者は思います



 『同じ頃、水戸藩邸控えの間で藤田東湖が土佐藩の山内容堂の使者小南 五郎(こみなみ ごろう)と会っていました。東湖はこの前にも土佐藩参政吉田東洋に会っていました。がしかし藤田東湖は徳川斉昭の側近中の側近であり水戸学尊王攘夷思想の論客です。対する参政吉田東洋は土佐藩主山内容堂の側近です。藤田東湖と吉田東洋この二人が出会えば話しが合いそうにもない。東洋の傲慢な態度に東湖は不快に感じ申し入れを断りました。』③

 「我が殿は藤田東湖先生に幕政改革についてご教授願いたいと申しておりまする。」

 『しかし小南 五郎は東洋とは違い傲慢ではない腰が低いのです。東湖は小南の申し入れを快諾し後日土佐藩邸に出かけました。山内容堂は東湖に師事し尊王攘夷思想を学び二人は子弟関係にありました。藤田東湖は単に水戸藩のインテリではなく胆が据わった人で酒豪でもあった。山内容堂も酒豪だったのでもちろん宴会になりました。宴席には江戸土佐藩邸詰めの家臣が並び小南 五郎も居たが吉田東洋は同席しませんでした。藤田東湖は山内容堂の近く席に居て容堂と東湖とは酒を酌み交わし二人は大いに呑みました。』③

 泥酔している容堂は東湖に「自分は戦国大名の誰に似ている?」と無粋なことを訊ねました。
 
 「…」東湖は答えません。
 
 『容堂は‘織田信長’と答えてほしいです。その答え役がいつも吉田東洋だったがこの宴席には居ない。仕方なく容堂は話題を変えました。』③

 「では東湖先生!アメリカ合衆国の総領事が来年に来日する。アメリカは必ず通商を求めて来る。日本が通商を認めればアメリカと日本の国力の差で国の財産がどんどん外国に流出しこの国は滅びる。この国難をどう対応すべきかをご教授願いたい。」

 東湖は容堂を見てニヤリと笑みを浮かべこう言い放った。 
 「もはや謀反(クーデター)しかない!」

 東湖のセリフに宴席の全員が凍りついた
 『東湖の公では避けるべきセリフにさすがの容堂も酔いも覚めビビった!』③
 しかし東湖はさらに言う
『織田信長公は足利幕府を倒幕したではないか!』

東湖の追い撃ちに宴席の土佐藩の家臣全員が完全に凍ってしまいました。

山内容堂と藤田東湖の二人は子弟関係です。二人は無言で酒を酌み交わしつづけました。

「…土佐の殿は若い…」東湖は思った。


 つづく


 ①『』旭日丸 Wikipedia より転載 
 ②『』石川島からIHIへ 石川島資料館 web 「石川島資料館とは」より参照
 ③『』文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より要約


 お日様とお月様の光と影
  ~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
   第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した

         プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
         第一章   西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(15)


   
   ≪参考文献≫ 
   
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社 より
 オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書 より 
 幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
 講談社社学術文庫 吉田薫 吉田松陰 留魂録  より


 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
 1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 より
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より

  
 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
 新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
 文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より


  突っ込みどころ満載!
   筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
 また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
     
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