タイ・クーデター 反タクシン派の筋書き通りか (抜粋記事)
newsclip 2014年5月23日(金) 02時34分
【タイ】タイ陸軍のプラユット司令官は22日、クーデターで全権を掌握し、憲法を一時停止、タクシン元首相派政権を解任した。一方、選挙委員会など憲法で規定された独立組織、裁判所、上院といった反タクシン派寄りの組織は存続させた。
軍は反タクシン派の妨害などで実施が遅れている議会下院選を成功させ、民主主義を軌道に戻すという選択肢もあったが、政権追放を掲げる反タクシン派についた。今後、非民選の暫定政権を設立し、政治改革案のとりまとめを図るとみられる。将来的には、民政移管のため、議会下院選を実施するとみられるが、時期や選挙方法は不明。今回の政変を演出した反タクシン派の野党民主党は2001年以降、下院選でタクシン派に4連敗中で、政治改革では、タクシン派の復活を封じる下院改革、選挙制度改革がカギとなりそうだ。
反政府・反タクシン派デモを指揮した民主党のステープ元副首相はデモが本格化した昨年11、12月から、軍にクーデターによる政権追放を呼びかけていた。タクシン派と反タクシン派の「調停」に最近乗り出したアピシット民主党党首(前首相)は下院選の延期と上院による暫定内閣の設立、政治・選挙制度改革を提案しており、今回の流れはほぼ筋書き通りと言えそうだ。
プラユット司令官はタクシン派団体「反独裁民主戦線(UDD、通称赤シャツ)」による2010年の反アピシット政権デモの強制鎮圧を指揮し、同年、陸軍司令官に昇進した。当時の首相はアピシット党首、副首相はステープ氏で、今回の政変も、この3人がカギを握った形。
政権を失ったタクシン派にとって、反撃の手立てはUDDによる大規模な抗議集会ぐらいしかなさそうだ。実際、UDD幹部の一部はクーデターが起きた場合、内戦も辞さないとして、独自の民兵組織の創設に動いていた。こうした組織が実際にどう出るかはタクシン元首相次第とみられている。
今回のクーデターは実質的にはプラユット司令官が戒厳令を発令した20日に始まった。
プラユット司令官は戒厳令で実権を掌握すると、政治危機の解決策を探るとして、21、22日、閣僚、与党プアタイ(タイのため)と民主党の幹部、反政府デモ隊とUDDの代表を陸軍施設に呼び寄せ、会合を開いた。出席したのはプラユット司令官ら軍の代表のほか、アピシット党首、ステープ元副首相、ポンテープ副首相、チャイカセーム法相(元検察庁長官)、プアタイのプームタム幹事長、UDDのジャトゥポン会長、スラチャイ次期上院議長、選挙委員など。
消息筋によると、会合2日目の22日、反タクシン派が要求する内閣総辞職を違憲として政府が拒否すると、プラユット司令官は、「政府が譲歩しない、総辞職しないなら、全権を掌握するだけだ」と言って、話し合いを打ち切り、クーデターに踏み切った。会合参加者のうち、上院議員、選挙委員は退出を許されたが、残りは全員、軍が身柄を拘束したもよう。
プラユット司令官は同日午後、テレビ、ラジオで全権を掌握したと発表。テレビ局、ラジオ局を軍の管轄下に置き、NHK、BBC、CNNなどを含むほぼすべての番組の放送を停止させた。また、22日午後10時から23日午前5時までの夜間外出禁止令を布告。5人以上による政治集会も禁止した。
UDDが数千人規模の政治集会を行っていたバンコク西部には軍部隊を送り込み、集会を強制的に解散させた。この際、現場で銃声がしたという報道がある。
バンコク都内のラチャダムヌン通り一帯とジェーンワタナ通りの総合庁舎前の反政府・反タクシン派集会はクーデター後、散会した。
首相代行のニワットタムロン副首相兼商務相ら閣僚18人は軍への出頭を命じられた。武闘派として知られるチャルーム前労相とその息子は軍に身柄を拘束されたもようだ。
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