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2019年09月04日 | 命の生き方
その写真は「余命1ヶ月」という診断を受けた…と言うのが嘘のような笑顔です。余命宣告の翌日、訴えたいことがある…と受けた新聞社の取材が、注目を浴びています。

彼は昨夏、腎臓に腫瘍が見つかり、闘病生活に入りましたが、常に前向きで明るく振舞っていたと言います。明るく前向きであるという自分のイメージを保つために、自身を奮い立たせていたのだと説明しています。治療の効果が無く、緩和ケアへの移行を医師から打診されたのが今年の6月。在宅ケアにこだわると共に、死を迎えるために必要な情報を探し始めたけれど、全く見つからなかった…そうした現状を訴えたかったと彼は言います。治療が高額であることも、世間に訴えたいことの一つだとか。

彼の言を待つまでもなく、今の世の中では、「病」と言うのは雄々しく戦わねばならないものになり過ぎている気がしています。「病気」=「悪」で、病には打ち勝たねばならない、「死」=「敗北」というイメージが拭えません。勿論、医学の進歩は人類の幸せに大きく貢献しました。祈るしか術のなかった時代に比べれば、今私たちはチョットした風邪や怪我は治って当たり前とすら思っています。

けれど、どんなに頑張っても、人の命の長さは限られています。人は不老や不死に挑むべきではないし、不老不死が幸せだとも思いません。「死」が「敗北」なのだとしたら、人は負けるために生まれて来ることになってしまいます。医学というのは、今よりももっと謙虚にならなければならないのではないだろうか…と常に思っています。医学だけではないのかも知れません。世の中の全ての事に対して、私たちはもっと無力で何一つできない事を認めなければならないのかも知れません。

鹿児島県で4歳女児が、母親の交際相手の暴行で死亡した事件も痛ましいものでした。が女児は4回にわたり夜に自宅周辺を一人で歩いていて警察に保護されていました。警察から児童相談所に通告があって、児相は家庭訪問を実施しましたが、一時保護はしませんでした。女児の死について、児相は会見を開き「一時保護しなかった…という判断について、適切だった」と述べています。要は責任は無いと…。

岐阜市の高校で、生活指導を受けた生徒が、教室で首を吊って自殺した…と言う痛ましいニュースもあります。調べを進めているとの事で、詳細は報道されていませんが、いずれ学校の「責任」とやらが取沙汰されることになると思われます。

人の命は大切にされるべきです。自分の命ばかりでなく、全ての人の命がいとおしまれなければなりません。が、逆に言うならば誰一人「責任」など持てるはずも無いのに、人は社会の中で常に責任転嫁を無限に繰り返し、他人の責任追及に血道をあげています。(決して誰にも責任が無いという意味ではありません。)大切にされるべき…は、もっと根幹の「生」そのもののような気がします。

男性は取材翌日に体調を崩され、4日後家族に見守られて安らかに穏やかに息を引き取られたと言います。ご冥福をお祈りいたします。家族や友人たちの心の中で、いつまでも生き続けておられると思います。

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二重線が引けない

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