ぱそらぼ (ぱぁと1)

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2019年09月08日 | 命の生き方
最近の世の中は後戻りをしている…と、誰もが思っていると思います。偏に、自分の身を守ることに汲々としています。人も大きなくくりでは動物の1種でありますが、人間は動物とは一線を引いて「人はもっと高尚な生き物だ」と自負していたりします。社会を作って、ルールを作って、繁栄を築いてきた…というのがその言い分でしょうけれど、最近は獣と変わらないのではないかとすら思えます。

獣は、無駄な殺生はしません。生きていくために必要な狩りをしているだけです。…が、群れを率いるボスは一番に自分の食欲を満たします。力のないものほど、食事の順は後になるわけですから、獣の世界での「力」というのは非常に大きな意味を持ちます。不謹慎かも知れませんが、実は相撲部屋はそうした「群れのルール」を残す世界のように見えます。「強くある事」は、生きていく本能の中で、多分非常に次元の高い欲求なのではないかと思います。

連日、公判の様子が報じられている「目黒5歳児虐待死裁判」では、結愛ちゃんを虐待する父親と母親の様子が赤裸々に語られています。人はどうしたら、こんな風に壊れることができるのだろうか?と思うほどですが、人も獣の一種だとすれば、「力」を誇示しなければならないという心理は、人の本能の中に刻まれているものなのかも知れません。

多分、今の世の中は逆戻りをしているのではなく、本来の姿を忠実に晒しているだけなのかも知れません。人間の本性について基本的に善であると考える「性善説」と、本来悪であるとする「性悪説」とがありますが、人の本性は善とか悪とかいう以前のものではないかと思います。「本能説」(笑)。獣が生きるために狩りをして、力のあるものが一番に空腹を満たす…というのは、善でも悪でもありません、ただの本能ですから。

人は本性をそのまま晒すだけでなく、「身を修め」て、生きていくためのもっと高次元の動機や目的に気づくことができるはずなのですが、最近の世の中は「身を修め」ることに積極的ではありません。「自分を解放する」とか、「なりたい自分になる」とか言った事がもてはやされるせいで、社会はそれぞれの「素」をなりふり構わずまき散らす方向に進んでいる気がします。

宗教だとか、哲学だとかが…いつか過去の学問になりつつあります。人がこの時代を、どう生きていくのかという根本的な問いが投げかけられなくなりました。そんなことはみんな知っている、分かっているという振りをしていますが、キット何もわかっていないのだと思います。果たして、こんな世の中を私たちは望んでいるのでしょうか。

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