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生きる意味

2018年04月02日 | 命の生き方
人間は生まれながらにして「生きる勘」とでも呼ぶべきものを持っています、多分。目の前で手を叩かれると思わず目をつぶるとか、衝撃に思わず身を縮めるとか…の類の動きは、赤ん坊でも反応します。そうした勘は、とっさの時に命を救うこともありますし、危険を回避することに繋がります。

パソコン操作にも「勘」が大切だと私は思っています。1から10まで学ばないと、次が踏み出せないという方も少なくは無いのですが、ゲーム機を持った子どものように、感覚で触ってしまう事は大変強いものです。ただ残念なことに「パソコンの勘」は生まれながらにしては持ちません。それは後天的に自ら作らなければなりません。

人間はどう生きるのか…とか、あるいはどのように死んでいくのか…とか、何が正しくて、何が間違っているのか。そういった事、つまり生きていく上で自分の尺度となるべきものは、おそらく生まれながらにしては持ち合わせていません。それは後天的に学ばなければならない事なのです。

宗教を持つ国は、その尺度の基本を宗教に求めることができます。ですが日本はおそらく無宗教の国です。季節の諸行事には神道が色濃く入り込んでいますが、クリスマスを祝い、教会で結婚式を挙げて、お葬式を仏教で行う、とんでもない国です。かつて日本の国には中国から儒教が伝わり、様々に形を変えながら、それは宗教というより「学問」として浸透していきました。明治になって儒教的な道徳教育が規制されるようになって以来、日本は生きる指針を失ったと言えるのかもしれません。

現代では代わって「道徳」という時間が設けられていますが、それらは人の生きる尺度を作るほどに機能していません。教える内容に深みそのものが足りない気がしてしまいます。「いじめはいけない」とか「命を大切に」と教える事は大切です。が、そうした授業を通して「命の大切さが良く分かりました」「自分と共に相手も大切にしようと思いました」などと感想を書く子どもたちは、おそらく教わらなくても「善悪の絶対音感」を既に備えている子ども達です。本当に暗黒の中にいる生徒は、一層の疎外感を募らせているだけに過ぎないのではないかという懸念がぬぐえません。子どもは大人が思う以上に賢いものです。感想をどう述べれば、大人が納得するか百も承知しています。感想文を出させて効果があったなどと総括するのはとんでもない勘違いのような気がします。

宗教に代わるもの、儒教に代わるもの。人生の何たるかを自分の根っこに問いかけるものが必要です。スマホの画面に並ぶ文字やスタンプからは人生は学べません。

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