布引、新神戸駅の裏から急な登りを約100m上がると、展望台に出る。
そこは、雄滝の落ち口とほぼ同じ高さになる。 ハイキングコースはその横の門を入って貯水池へ続く。
門の脇には監視所跡がある。 昔 ( 戦前、いやもう少し前か )この先の重要な水源を守るため、不審者の侵入を監視していたらしい。 今でも犬を連れて入ってはいけない事になっている。
これと同じ監視所は貯水池を越え、更に約500m進んだ所にもあった。
上下ふたつの監視所、その間は神戸の水道の聖域。
その聖域の上流に昔、20世帯以上、50人は住んでいた集落があった。
20世紀の初め、布引貯水池堰堤の工事に従事した人達が、そのまま居ついて集落が出来たらしい。 古来からこの列島に住んでいた山民系の集落かな、思っていたが、歴史は案外新しい。
その後居留地の外人達が毎朝登山を始め、茶店も出来たのだろう。 住みついた人たちは高知の出身者が多く、村では土佐弁が飛び交っていた。
駐在所があり、百貨店の別荘もあった。 そこから幼稚園へ通う男児3人。
その一人がワタクシ、 もう一人は駐在所のムスコさん。 もう一人はよく覚えていない、 確か父子家庭の末っ子だったと思う。
50年以上前の話しだ。 当時はハイキングコースの上部を並行して通る車道はなく、通勤、通学は歩くしかない。 引っ越し時の家財道具は馬で運び上げた。
この山へ移る前、我々一家は大阪に住んでいた。 オヤジの勤め先が神戸で見つかって越してきたが、なんでこんな山の中に、と誰もが思うはずだ。
しかし、下界とは案外近い。 オヤジの勤め先がある二宮までは歩いて1時間程、昔はそれ位歩くのは苦ではなかったし、三ノ宮には叔母が住んでいた。 鈴蘭台近辺も検討したらしいが、神鉄、市電を乗り継がないと二宮へは行けない。
だが一番の理由は、手に入れることが出来る安い物件が市街地に無かったからだ。 しかもオフクロはとにかく早く、姑、小姑と一緒の生活から抜け出したかった、と言っていた。
オフクロは事前に見に行きもせず、いきなり引っ越してきて、さすがしばらくは塞いでいたらしい。
その後、オヤジはこの地で27年暮し、オフクロは51年暮し、亡くなった。 この間、それなりにお金も溜まったはずだ。
それでもこの地に留まったのは 「 ここは隣近所に気がねもなく、安気で良い」 からだ。
毎日必ず、何かのきっかけで喧嘩を絶やさなかったこの夫婦、 この評価では一致していた。
一人息子は、雨の日も風の日も毎日、麓の学校へ歩いて通っていたのに。
わざわざこの地を選んで移り住む人には、2つのパターンがあったと思う。 ここしか手に入らなかった人と、山が好きな人。
山が好きな人は、更に2タイプに分かれる。 自然を開拓し収奪するのが好きな人と、自然を守ろうとする人。
我々の数年後、隣に引っ越しして来た人は、登山が趣味。大学生の頃の立山登山の様子などを撮った8ミリ映写会を、近所の茶店でやったりしていたが、布引ウォーターを使ったマスの養殖を始め出して、今も生けすの跡が廃墟に残っている。 亡くなる前はイノシシの養殖みたいな事も、隠れてやっていたらしい。 明らかに自然を開拓し収奪していた。
片や、一人で茶店を維持していた女性と結婚し住みついた紳士は、布引ハーブ園建設の計画を知ると登山者達と一緒に反対運動をおこし、その先頭に立っていた。 ( 当時、ワタクシは関東にいて、お手伝いできなかった )
しかし、ほとんどの人は我が家と同じ、ここしか手に入らなかった、貧しい人達だったと思う。 だが、何とか街で居を見つけ、降りて行った人達も多かった。
ここの子供が急に増えたのは、小学校5年の時だったと思う。 集落の山の上に沿ってゴルフ場が出来て、その従業員が住み出したからだ。 しかしその人達も序々に街へ引っ越して行った。
その5年後の7月、集中豪雨の土砂崩れで21人が亡くなった。集落の大半が消えてしまった。
土砂崩れの原因は、山の斜面を切り開いて作ったゴルフ場にある、と言われ、当然残された犠牲者の家族には賠償金、補償金が支払われた。
そのためゴルフ場は周囲の土地を売りまくった。 オヤジも買った。叔母の知人も買った。
一番沢山買ったのはゴルフ場を許可した神戸市、つまり賠償金は神戸市が払ったようなもの、当時村のオトナ達はそんな会話をよくしていた。
犠牲者は賠償されるべきだ。 しかし、村のオトナ達は一部の村人にだけ、神戸市から大金が入った、ということばかり話題にしていた。
そしてその10年後、また補償金が出た。 今度は村人全員にだった。
新神戸トンネルが村の真下に開通した後、水源としていた湧水、井戸が涸れた。 この出来事はNHKも取り上げチョットした騒ぎになった。
神戸市は谷の本流から水を引いて村の生活水を保証した。 この時、補償金が出た。
しかし、水の保証をしていただくのは当然だが、補償金とは何に対する補償なのか。
こう言うお金はもらうべきではない、茶店の女性と結婚し住みついた紳士は、唯一異議を唱えていた様だ。 他のオトナはもらえるお金はもらえば良い、何かあれば役所は補償金を支払うモンや、以前も大金出たやないか、という人達ばかり。
ワタクシは、その紳士の言う通りだと思った。それを話すとオフクロは口の前に指を立て 「 シーッ 」 と言った。
本当の山好きは別にして、こんな山の中にしか住めない人だけが残って、住んでいた。
要するに貧しい。 もらえるモノは何でもかんでももらえば良い、「そんなンばっかりや」、よくオヤジは言っていた。
30年以上経った今も、神戸市道路公社は集落の生活水を供給している。 その給水施設の維持管理は200万程らしい。
村には給水組合があり村民は施設利用料を納めている。 しかし、給水組合から道路公社へは水道代等を一切払っていない。 それどころか委嘱報酬料が逆に支払われている。 これは村側が要求したものではないらしい。 請求書を出せ、と言われ出したら振り込まれたとか、 毎年10万程。
こんな事をするから、 役所からは、もらえるモノは何でもかんでももらえば良い、と言う文化が生まれるのだろう。
道路公社はいつまでこう言う散財を続けるのだろう。 儲かっているからいい、という問題ではないはずだ。
ここは住宅地ではない。 国立公園六甲山中だ。 偶々100年ほど前、布引ダムの工事で高知からやって来た人達が住み出した。
当時はまさに布引ウォーターの里だった。水はいたる所から湧いていて、 自分たちで水道を引いていた。これは勝手にやったことだ。
その後居留地の外人達が毎朝登山を始めるし、日本人にもハイキングが流行るので、彼らの休憩や事故の救助のため、そこへ住んで欲しい、と頼まれた訳ではない。
思えば、トンネルが出来て、水か涸れた時点で、人が暮らしてはダメな場所だと悟るべきだったかもしれない。
50年程前は50人以上住んでいた人は、約30年前には20人程に減り、今は6人程になった。
40年程前、土砂崩れで21人の犠牲者が出た後、一帯は市街化調整区域となり、家の新築、増築が出来ない場所にもなった。 今後人が増える可能性はまずない。 いずれ人が暮さなくなる場所になっていくのだろう。 山の中だから当たり前だ。
昨年、一昨年と2年かけて、大きくなりすぎたモミジの木を切ったが、今年は変な茂り方になり、紅葉も変な色になっている。
先日、蛇口からストレスなしに流れ出る“布引ウォーター”が、緑がかったコトがあった。また、木が繁りすぎ、20年以上歩いた通学・通勤路の風景も変わった事にも気付いた。
ここで暮らす事は諦めよう、と思う。
しかし、放棄はしない。 時々寝泊まりはする。 その時は誰にも、どこにも頼らないようにしたい。 まず、水の確保をどうするか、考えてみたい。