おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

風邪が抜けませんなぁ…。

2005-02-12 23:59:29 | 我思う、故に書くなりよ。
丸1日寝ていた。ゲホゲホのオエオエが止まらなくて苦しむ。

途中、目が覚めたタイミングで「おいら氏」から電話が入る。大した用事でもないが、脅迫しておいた通りにブログに書いておく…。

ここ最近、友人を脅す時の文句が固定化されている。

「ブログに書くからな。いいんだな…?」

まぁ、特別に書く事も無いのだが、ブログに有様が書かれる事を恐れているのは明らかである。

ちゃんと薬を飲んでいるので、無闇にゲホゲホやオエオエはしないのだが、寝てしまうと渇き切った口の中の違和感で起き、途端にゲホゲホ、オエオエが始まり、苦しむ。びっくりする様な熱も出ていないので、インフルエンザでは無かったらしいが、難儀な事この上無い。

そんな苦労話を電話の向こうの知人に話すと…

「かわいそー! アイスクリーム買っていってあげるね~!」

あんたがやってくる頃には治っていると想像しないのかどうか小一時間問い詰めたい所だが、一応、礼は言っておく。まぁ、バレンタインが近いので、どんなチョコレートが欲しいかと言うアンケート地味た質問が主体の電話であったが、私、個人的には装飾など無く、カカオ度が非常に高い板チョコなりつぶチョコが好みである。

「んじゃこりゃあ?!」

って言う位に甘さが無く、ビターの上をゆく感じのむしろ苦いのが好きだが、簡単に手に入る物でも無い。コンビニ等ではお目にかかれる事も無いし、デパ地下でもまれ。最近流行の専門店だと置いてあるかもしれないな。

そんなワケで、そんなのをオーダーしてみたが、バレンタインに関係なく頂いても一向に構わないし、むしろ少量であっても定期的に補充という形で配給かなんかしてくれると助かると伝えておいた。

「変人!」

帰ってきた答えがこれだから、あまり期待は出来ないけれど、毎度の事だから「へへんっ!」と遺憾の意を示しておいた。

あー。ちなみに電話の相手は「おいら氏」ではない。読み飛ばすと怪しい関係が疑われかねないので断っておくが、いつぞやか登場している「帰国子女A」(A付きになった)である。

彼女に言わせると、バレンタインは、あちら(北米)では特に何もしない方が多いとの事である。まぁ、日本のチョコレート業界が始めた風習なので、独特の物なんだと思う。それでも、あっちの日本人から徐々に広がりつつある感じもするんだとか言っていた。ただ、ちょっとしたイベントでも何かしらプレゼントする人が多いので、バレンタインだからって事は感じないそうだ。

そんな帰国子女Aから、風邪に良いとされる「しょうが湯」を教えて貰った。スーパーで売ってるとの事だったので、ドラッグストアのその辺を物色すると確かにあったので買って帰る。

んー。なんだか「くず湯」と非常に似ている感じが漂うパッケージだが、お湯で溶いて飲んでみると、まさしく「ジンジャー!」。お湯で溶いて暫くすると、木っ端みじんになったしょうがの破片が浮いてくる。ただし、かなり甘い。規定の量で溶いたが、もう少し薄めてやっと良い感じだった。

医薬品では無いので、効能とかは無いが、何となくのどが楽になった感じはする。寝る前に飲むと、暖かくなって良さそうだ。にしても、なかなか粋なデザインのパッケージだな、これ。

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旧暦のついでに。

2005-02-11 17:26:33 | 我思う、故に書くなりよ。
ちょっと興味深い新聞記事が出ていた。

「職員の手帳に六曜記載。人権に配慮欠く…」

あれ、六曜って差別用語なの? ちょっと信じがたい話なんだけれど、どうやら人権団体が抗議して六曜の載っていない手帳が配り直されるのは間違い無いらしい。

六曜って言うと判らない人も多いと思うが、「大安」やら「仏滅」やらカレンダーなんかに載っている割と頻繁に出て来るアレである。なんせ6つしかないから毎日当てはめてあれば何かしらの日に当たるワケだが、元々は中国で用いられていた「占い」であった。

これが、江戸時代の終わり頃に日本で流行って以来、暦におまけで付き始めた物だと言う。特に、明治になって、太陰暦から太陽暦に変わった後に民衆は何故かこの「6つしかないよ占い」を大事にする傾向が強く見られる様になっていったとの事らしい。

日本ではそんなに古い物でも無かったワケで、意味が判ったところで「なんじゃそりゃぁ~」って物だが、生活にはなかなか根付いている面も多い。結婚式は「大安」だろうし、葬儀なんかは「友引」にはやらなかったりする。漠然とした6つしかない占いなんだから、拡大解釈すればなんとでもなってしまう所は「占い」らしい所だと思う。

はて、なんでこれが「人権に配慮を欠く」なんだろうか? 広いネットの世界でそれとおぼしきページを見つけて読んでみたが、ハッキリと「だからこれが差別なんだ」とか「こーだから六曜はイケナイ」という点は読み取る事が出来なかった。「こういう迷信に左右されて生活するのはどーなのよ?」って節は読める。

確かに、これは無くても別に困らない。そういう時代でも無いだろう。手帳やらカレンダーでも、六曜が消えている物だって多い。太陰暦を基に生まれた物ならば、月齢から計算出来るので、月齢が載っていれば良いと言う事もある。でも、載っていて何か不都合があるのだろうか?

ふと気になって、自分の家に垂れ下がっているカレンダーを見てみる。小さくだが、載っている。オマケで年末に貰った物だから、自分で選んだ物ではない。手帳は使っていないが、洋物の電子手帳では出ていない。出そうと思えば、小さなプログラムの追加で出来ない事も無い。

んでまぁ、私が新聞記事に出ている市の職員だったとしよう。配られた手帳の中を見て、「六曜載ってるやん! これマズイやん!」って思うかと言えば、思わないと思う。思っても構わないが、その根拠が全く判らないから、そう思う事が奇異に感じる。

何か、新聞に大きく書けない様な「裏事情」が存在するのだろうか? 血液型占いの様に、人格否定に繋がる様な事なのだろうか? 「占い」って事がマズイのかな? だとしたら朝のテレビ番組なんかほとんどの番組が「マズイ…」事になりそうだぞ。

これはもう少し調べてみないと判らないなぁ。異を唱える根拠って物がありそうだが、詳しく書き記した物が少ない。国会議員の手帳には載っている様なので、全国規模での問題でも無さそうだ。国ってこういう部分は結構敏感でもあるし、票読みにも繋がりかねない。うーん。判らないなぁ。

ちなみに、本日は「先負」。朝から昼まで万事悪いが、昼過ぎから夕暮れまで障りなしって日ですが。昔の占いだから、夜はどーでもいいみたいで、どの日でもあまり触れてないねぇ。寝ちゃえばいいやって事かな。おおらかなんだろうなぁ、昔は。

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昔の携帯電話。

2005-02-10 22:21:00 | 我思う、故に書くなりよ。
が、ごろごろ出て来た。

どれもが思い入れのある物だから、出来るだけ大事に使ってきたし、とっておいたワケ。
とは言え、今更使おうかと言う気にはなかなかなれない。端末としては良い物があるんだけれど、ケータイって言うサービスがそれぞれにあって、そこに善し悪しもあるし、今の自分に合っているか否かって事も含めて「携帯電話」なんだから。

そうと判っていても、なかなか処分する気にはなれない。こうなると「コレクション」的な意味合いが強くなるが、ノキアとエリクソン以外はその価値も無いと思う。どちらも北欧の携帯先進国のデザインだけあって、使っていて「なるほど…」という感じが多々あった。特殊な機能とかはそれぞれのニーズによって変わるが、基本的な通話の機能が疎かにされていない所と全体のデザインが良かったなぁ。

特殊な機能としてはパルディオ611s。PHSだが、CFスロットがあるPCならば、そこに差し込んで通信端末として使える。まぁこれは一番ストレートな形なんだけれど、実はISDNのモデムの子機にも登録出来たりするんである。そんなワケで、現在でも親機共々復活可能だが、ADSLの基では普通の電話としての生き方が残されているってだけだが。

やっぱり、最初に手にしたTU-KAのTH151は「お気に入り」の中でも「お気に入り」。でかくて、重くて、今時の携帯と比較するのは厳しいけれど、電話そのもの…ってデザインは捨てがたい。高齢者向けに出た「ツーカーS」は、電話するって基本機能に絞られて、好評だと言う。まぁ、あれよりは機能が充実しているので、ちょっとは便利だけれど、基本的な事は変わっていない。

電話はどこまで変わるのか興味深い。高機能の弊害として、使われなくなるって事も始まりつつあるかに思える。人が携帯電話の機能に追いつけなくなっているから。人の想像する便利の全てが、人の望む便利の全てでは無い事が、少しずつ判ってきて、それが機能やデザインに反映されるとなると、また、変わっていく形が楽しみでもある。まだまだ、メーカーの実験場的な市場だから、落ち着かないけれど市場が落ち着いて、望む物の形が決まると、もっと楽しいデザインの電話が増えて面白くなるんだろうなぁ。

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明けまして、おめでとうございます。

2005-02-09 00:59:56 | 我思う、故に書くなりよ。
昨年の秋あたりから始まったこのブログも、お陰様で新しい年を迎える事が出来ました。
つたない話がボツボツと続くブログではございますが、本年もよろしくお願い申し上げます。

とか書くと「馬っ鹿じゃねぇのぅ?」って人もいそうだが、うち、旧暦なんだよ、今年から…。

そんなわけだから、新年のご挨拶は今日まで一度もしていない。晴れて、今日、正月を迎えたワケ。

まぁ日本だと1月1日が正月なんだが、世界的に見ると2月9日が正月な所も多々あるのだ。これは太陰暦が元になっているので、年によって違ってくるので、来年は1月29日だったりもする。

まぁ、これだとちょっと不便だけれど、マレーシアあたりの多民族国家なんかは、正月が4回もある。イスラム暦やらヒンズー暦なんてのも考慮しないといけないワケで、祝日だらけ。それでいて不便ではなさそうなのは、もう生活そのものなんだからって事だと思う。

とは言え、月の公転周期と地球の公転周期でズレが生じる事から、穴埋めしないと実際の季節と全然合わなくなって来る。そんなので、閏年やら閏月なんてのも間に入れて調整しないとイケナイ。

でまぁ、この閏月の調整の目安として24節気という季節の移り変わり目を決めたのだが、これは未だに良く使う。「春分」「夏至」「秋分」「大寒」なんてのがそれで、天気予報など見てると解説してたりする。当然、カレンダーにも出て来るね。

日本だって、昔は旧暦で生活していたのだが、明治になって、いきなり太陽暦を元に生活する様になった。明治5年12月3日を明治6年1月1日にしたのである。昭和から平成に変わったのはリアルタイムで知っているが、それよりも凄い事になったんだろうなぁ。

てなワケで、1月1日が正月って事は世界のどこでも同じワケじゃなかったのだ。イスラムの人達は結構厳格な太陰暦を元に生活されているから、ここ数日の盛り上がりは半端では無いかもしれない。見習って馬鹿騒ぎでもしてみようかと思うが、お巡りさん呼ばれちゃうだろうなぁ。

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Zippoハンディウォーマー その17。

2005-02-08 19:38:09 | お主もハクキンよのぉ…。
ふと思い付いて、やってみたらそこそこ便利だったので書いておく。

あー。ハクキンカイロ自体は快調そのもので何ら心配は無いのだけれど、毎日使っていると出先で燃料切れって事はままあるのだ。そのために、Zippoライター用のオイルタンクなんかを家の鍵と一緒に持ち歩いているのだが、これは容量的には「Zippo版カイロ」もしくは「3R」向けな容量。それでも規定には足らない。

愛用している「スポーツ」は24時間分の燃料がカップ3杯なワケで、万全を期すとオイルタンクでは足らない事になる。まぁ、当たり前なんだが。

で、あれやこれや丁度良いオイルタンクを探しているのだが、なかなか見つからない。Zippoオイル入れておけば満量じゃなくても持つからいいや…的なあきらめ感の漂う方向で日々を送っていたのだが、丁度良い物が目の前に転がっていた。

ドリンク剤の小瓶。(私の場合は「グロンサン強力内服液」)

風邪だか、インフルエンザだか、ノロウィルスだか知らないが、未だにゲホゲホ、オエオエしているワケで、薬もそうなんだが、ついでに買って飲んでいる栄養ドリンクがある。これが、容量30mlって程よい物だったのだ。ガラスの小瓶だから、あまり無茶は出来ないが、何かと一緒に持ち歩いて割れる事も無さそうな程度の頑丈さはあるみたいだし。

でも、ラベル剥がしてこれだけ持ち歩いていると、すんげぇ怪しい小瓶に間違いない。シンナーだのトルエンだの合成麻薬だのって言う世界。「はくきんかいろ用べんぢん。」と書いて貼っても、いかにも信じてはくれなさそうな風情。

それでも、きっちり蓋も出来るし、カイロに注ぐのにも苦労しないし、重宝している。1本をちびちび入れ切ってもそれが24時間分なワケなので、入れ過ぎたり、余らせる事も無い所がいい。

そんなワケで、燃料切れ問題は少し解決。でもこうして1本と見ると、結構な量なんだねぇ…。オマケが2本付いたのをまとめて買ったんだけれど、気づいた今では2本しか残ってない。まぁ、あまり大量に持ち歩く必要もないし、余計に怪しさ爆発なだけだけど。もしかしたら、こういうのをこういう形で持ち歩いちゃイケナイのかな? そんな事は無いか。まぁ、カイロとセットならいいだろう…。

来シーズンまでに、もっとスマートなオイルタンクが見つかればそれに越した事も無いのだが、当面は何かの流用って事でしのぐ他に無いなぁ。市場が安定すれば、この辺の商品も世に出るんだとは思うけれど、一度は廃れ掛けた「燃料式カイロ」だからなぁ。

以上、本日のメモおしまい。

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大丈夫だから食え…。

2005-02-08 13:08:47 | 我思う、故に書くなりよ。
と、アメリカは未だに言っている。牛肉の話である。じゃあおまえら食ってみろよ…、試しに。

BSE(牛海綿状脳症)って牛の病気が人にもうつるらしいって判って、世界はおののいた。「狂牛病」とも言われているが、正確には牛が狂っているかどうかわからない…そうだ。じゃあなんで狂牛病なんて名前で広く知られたかと言うと「mad cow diseases」を直訳したからだそうで、イギリスの農民がそう呼んでいたからだと言う。

そもそも、牛は草を食べる。草だけを食べていれば、この様な病気には罹らなかった。
牛の価値を少しでも高めるために、羊の残骸を飼料として与えたところ、この羊が「スクレーピー」って言うBSEに似た病気に罹っていたのである。

で、どうやら羊からうつされて牛はBSEになった(らしい)。だが、牛からそのまま人にうつる事はそれほど高くは無い(らしい)。それでも「どうやら関係ありそうだぞ!」って判ってきたのは最近で、元々人には「クロイツフェルド・ヤコブ病(CJD)」や「クールー病」と言うBSEに似た病気があったのだ。これを研究している内に、どうやらBSEが転じてCJDになった可能性が否定できないケースが見つかったのである。これを変異型CJDとして研究が進められている。

かつては何が原因でCJDになるんだかサッパリ判らなかったので、それらしい病気で亡くなった方の病理解剖をやらなきゃいけない時は、真剣に悩んだ医療関係者は多かったと思う。でまぁ、宇宙服みたいな剖検着がポピュラーにはなったが、恐れる患者も日本にはいなかったワケだ。こっちはこんなの着てどうやって写真撮るか悩んだりしたが。

感染すると、脳の神経細胞が急速に減少して行き、脳味噌はスカスカのスポンジ状になってしまうと言う。写真等を見ると、スカスカと言うより「無い」。こうなると、記憶など消えてしまうし、人間が人間である意識や機能も失い、やがて死に至る。罹ってしまうと、治療する方法もない。日本でも昨年亡くなった方がこの病気と断定され、久しぶりに牛肉の恐怖が広まった。この人はイギリスでBSEがブレイクした頃に渡英している事が判っている。この頃は、そんな危険があるなんてしらないものだから、普通の肉に、味を良くするために脳とかを混ぜていたワケで、案の定今までで一番患者が多かったのがイギリスで、100人を超えている。後はせいぜい1人か2人亡くなっている例がほとんどで、全体でも170人位の犠牲者だから、インフルエンザの方がもっと恐ろしい病気だとも言えるし、ポピュラーなワケだ。

で、BSE(らしい)の牛が、食用に流通している事がアメリカで分かり、日本はアメリカからの牛肉の輸入を禁止している。牛丼一筋ン十年の牛丼屋が大打撃を受け、最後の牛丼を奪い合う日本人の姿が世界に広く報道されたのは記憶に新しい。競馬場では今でも食えると言う情報もあるが。

日本でもこのBSEに罹った牛が見つかったため、食用の牛は全て検査している。だが、アメリカではやってない。なぜか? 牛が莫大に多すぎてそんな事やってたら流通がダメになってしまうからである。(その後、やる業者も出て来ましたが。)当然、手間は価格にも反映されるので、生産者や加工業者もやりたくないのが実情だ。事実、ほとんどやってなかった。これでは、そんな危険かもしれない肉をおいそれと輸入出来るハズが無い。禁止するのも無理は無い。ちなみに、日本では「危険部位」とされる危ない部分は危なくない様に取り除いてから流通に乗せている。ただし、本当に「危険部位」が今取り除いている部分だけなのか? ハッキリ判っているワケではない。この病気の元である「プリオン」を見つけた研究者は、最近、他の部位にも危険がある恐れを警告している。

ともあれ、一応、やる事はやっているので、新たに感染者が増える事は無さそうだけれど、アメリカは大した根拠も無いままに「買って食え。」と言う。そもそも怪しかった牛でさえちゃんと検査したんだか、しなかったんだか? 俺達毎日食ってるから大丈夫!的な勢いらしい。正直、パックになった牛を食ってこんな病気になっても、病気と判った頃には「どこの牛だったか? どこで買ったか?」なんて覚えてないだろうし、おまけに、若い牛だとこの病気に罹っていても判別する方法が無い事が判ったし、食えば確実に病気になるのかハッキリしてるんだかいないんだかイマイチだし、ぶっちゃけどーして良いもんだか判らないのである。

取り敢えず、感染のおそれのありそうな牛は流通に乗せないって所で決着を見る様な方向で進んでいるが、日本が望んでいる「全頭検査」は結局やらないらしい。まぁ、牛の数考えたらなぁ。じゃあどーすんのってのも、さっぱりな所が困る。白黒付けにくいのも判るが、付かないまま再開ってのもねぇ。17ヶ月未満うんぬん…ってのもやらないよりはマシかとは思うが。

すると、消費者は「怪しいが安いアメリカ産牛肉」を取るか「検査済みだがちと高い国産牛肉」を取るかと言う選択を迫られるわけだ。おまけに、牛丼は安いアメリカ産でないと従来の提供価格を維持出来なかったワケで「牛丼を取るか?」「健康を取るか?」なんて事も有り得るのだ。

「健康のため牛丼の食べ過ぎには注意しましょう」

なんてどんぶりに書かれた日にゃ、誰も食わないだろうと思うが、カイワレ大根みたいに安全性をアピールしてどこかの大臣が牛肉食っても意味無いのだ。それは、一般的にこの病気の発症までに長く時間が掛かるからである。10代の若い患者がいた事もあるが、牛での広がり方を考慮すると、2015年辺りに人間の発症者が増えるんではないか? と言う研究もある位だから、やはり長い時間を経て発症すると見た方が自然だろう。そう。既に食っちゃった人が発症し始めるって恐怖が始まるのだよ。

あー。ちなみに、肉を焼いたり、煮たりしてもダメだそうだ。この辺も普通の病気とは違い、煮ても焼いても食えないヤツ。である。少しづつではあるが、研究も進んでいるので病気の拡散を防ぐ確実な方法も見つかるかもしれない。また、オーストラリア産の牛肉にこの病気の恐れがないのは、危険のある餌を与えていないためだそうだ。

美味しい牛肉が安心して食べられて、なおかつ安いってのが一番なのは誰もが望む所だけれど、まだまだ難しいみたいだねぇ…。疑わしきは食わず…って方向が決まれば、そんなに恐れる事も無いのだろうけれど、心情的にイヤだものなぁ。そう。ここなんだよ。病気として考えたら、他にもっと恐ろしい病気は多くて、CJDなんかよりももっと身近にあるんだけれど、「食品」「牛肉」ってポイントが恐ろしさをあたかもすぐ隣にでもある様な身近な物にしちゃっているんだと思う。そんな意味でも、やっぱり誰もが「安全」と思える決着をつけて欲しいよなぁ。

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選挙。

2005-02-07 20:12:38 | 我思う、故に書くなりよ。
隣町で選挙が行われるみたいで、ポスターが貼ってあったり、選挙事務所が潰れた店舗に出来ていたり、街頭で演説する候補者とその一味がいたりする。

ポスターを見て、随分と若い候補者だなぁと思うが、自分と同じ年だったりするので、感慨ひとしお。世が世なら有り得るシチュエーションでもあるな…。

有り得るとは思うが、国政はおろか、地元の選挙すらも参加したのは成人となって数回のみ。一切の選挙に参加はする気は全くない。まして、議員になるなら進んで他の仕事探す。投票場の入場券もらっても売るに売れないし、譲渡も出来ないし、もったいないなぁ、紙が。

「国民としての義務を放棄している!」とか「そんなんだから世の中が悪くなる!」なんて言われそうだが、政治なんか「金」でどうにでもなる事を確実に知っている。選挙で政治が変わるなんて事はあり得ない事だし、そんな事信じて選挙に参加しても無駄なワケだ。クリーンな政治、クリーンな選挙なんて物は、そもそもあり得ない。そうなるならば、とっくになっている。

そういう仕組みの中でやっている事だと、身をもって知ってからは選挙には参加していない。

もう死んじゃったが、とある政治家に大金を持参するお役目を仰せつかった。とは言え、直接議員会館を訪ねて本人に渡すなんて事はせず(そういう場合もありんす)、とあるマンションの1室に向かい、時間が来るのを待つ。時間が来ると、ドアが僅かに開くので、そこから出て来た人間の手に、荷物を渡す。顔も見なければ、言葉も交わさないが、話は出来上がっているのである。銀座のデパートの普通の大きさの紙袋にどっさりと紙幣が入っていたワケで、金額にしたら4千万位だろうかねぇ。いわゆる「裏金」ってヤツ。

「これバレたらすんげぇニュースになるんだろうなぁ…」

金額こそ微々たる物なんだろうが、そう思いながら役目を務めた。表向きに処理すれば「政治献金」なんだろうけれど、そうでは無いからこういう形でお金が渡る。誰が何に使うのかなんて事は一切判らないが、渡す方も渡される方も、普通にやりとりして問題が無い金額ではない。そんなのが度々あったっけ。まだ、生きている人も何人かいるもんだから、あまり詳しく書けないな。

「あー。こいつ金もらってんだよなぁ…」

テレビに出て来て、さも、最もらしい事を言っている政治家の顔を見るたびに思い出していた。懐かしー。

それが「政治」。大抵の事はお金で何とでも成る。何とかしないといけないと誰もが思っていても、どうにも動かない問題があるとすれば「お金」がその裏で動いていないから。それだけの話なんである。別に難しい理由なんて無い。

んじゃぁ選挙という選挙でお金が動いているのかと言うと、これはちょっと違う。流石に厳しくなったので、現金をばらまくワケには行かないし、それで議員になれても後からバレれば失職する様になったからね。事前の根回しに、今まで以上に先を見越した戦略と時間が掛かる様になっただけで、基本的にはあまり変わらないんじゃないかと思う。まぁ、お金の流れどころが変わったって事かな。

要は、議員になった後は幾らでも都合なんか付けられるって事。バレなきゃ判らないままで済んでしまうのはどこでも同じなんだな。仮に、そんな不遜な事は一切してないと言う議員がいたとしよう。いたところで政治が変わる事はない。戦後も60年経つが、変わってないんだから。

全ての議員が完璧にクリーンな議員だったとしたら、この国は回らないのよ。きっととてつもなく不便な世の中が出来上がるんだと思う。面白いねぇ。そういう仕組みで出来上がった世界なので、誰もがこれを崩してしまえばより良い社会が出来上がると思ってみても、実際にはとんでもない事になるので誰もやらないって仕組みなんだろうねぇ。

そんなワケで、誰が首相になろうとも、政権政党が変わろうとも、何も変わらないワケです。それが「安定」している社会なのですな。そんな中での「選挙」って言うのは、ものすごく真っ当な国民参加型バラエティーだと思うので、傍観していても何も悪い事はありません。むしろ、良きにしろ悪しきにしろ、何やってんだかサッパリな政党が淘汰されるって事が起きる事は事実なので、その点に置いては有益だろうとは思うけれどね。

ブラックバスもさ、もっとお金積めば除外出来たんだよ。自然だの、環境だの、そんなの関係ないもの。十分な根回しと、お金と、戦略が無いままだから、うまくやれなかった良い例だろうね。アメリカで言うところの「ロビー活動の失敗」って感じ。

こんな政治に無関心な人が大勢いたら、日本はどーなる? って心配も要らない。政治家にとっては、素人が政治に関心なんて持たれたら迷惑なだけなんである。国民の要望を全部答えてみぃ。すっげえ事になっちゃうぞ。それはそれで面白いかもしれないが…。

まぁ「世の中を変えよう!」なんて言ってんの聞いてると、そういう事言ってるヤツが一番怪しいのは間違いないってのも、昔から変わらないんだなぁ。まじめな議員さんもいるんだけれど、いたところでどーにもならないって、誰もが判っていながら何ともならない不思議な社会なんですな。はい。

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1杯のコーヒー。

2005-02-06 22:30:46 | 我思う、故に書くなりよ。
コーヒー好きなのは何度も書いていると思う。

美味しく淹れたコーヒーを飲む時、お気に入りのカップで飲んだ方がそりゃあ気分も良い。私の場合、マグカップがほとんどで、大きさやら、飲み口の口当たりやら、重さなんかを考えて、選んでいる。

値段はあまり気にしないが、マグカップなんだから500円もすれば買えるワケで、スタバなんかで売っている保温の出来るリサイクル・マグなんて言うのもあるけれど、普段は「せともの」。

で、マグカップなので、容量が多い。200ccあたりはざらにあるので、がぶ飲みするのには持ってこいなのだ。紅茶だろうがジュースだろうが、これで飲んでいた。それでいて不満は特に無い。

ところが、どうも「コーヒー1杯=120cc」と言うのが定説らしい事を最近知り、それに合うコーヒーカップが欲しくなった。つまり、普段使っているカップよりも小振りなカップと言う事である。エスプレッソ飲む時はもっと小振りなカップが喫茶店などでは出て来るが、あれはなかなか見つけるのも容易ではない。何気に飲んでいる缶コーヒーの小さい缶は180ccがほとんど。

で、買い物に出たついでに寄った100均ショップを眺めていると、実に良さそうなカップに目が止まる。ほこりにまみれちゃってはいたが、ソーサー付きで150円。いかにもコーヒーを飲んでくれ…と、言う様なデザインだし、せとものに相応しい和風な「天目」模様。大量生産品とは言え「いい仕事してるねぇ…」な逸品だと思い、2セット買ってみた。

さっそく、家に帰るなり計量カップで量ってみると、120cc。表示がしてあったわけでも、計って買ったわけでも無いが、実にピッタリ。今まで使っていたマグ・カップの方は250ccだった。

うーん。定説とは恐ろしい…。ちっとは世の中の定説って物に目を向けておくべきだったなぁ。好きな物が好きなだけ飲めるんだったら、量なんか多い方が嬉しいに決まっているんだが、世間並みの「1杯のコーヒー」って物を改めて知るのも感慨深い。

いつぞやか、好きなカップでコーヒーを飲ませてくれる喫茶店に入った事がある。その、自由に選べるカップのどれもが非常に高価で、名だたる名工の作品だったり、骨董的に価値の高い物と言う趣向なのだ。そういう目的で、そういう物の価値を判っていれば、それなりに楽しいのだろうが、全く価値が判らないと、お好きな物をお選びください…って言われても、デザインぐらいしか選ぶ基準がない。

で、まぁ好きなカップが全く無かったので、適当に選んで飲んだけれど、なんだか釈然としない気分でのコーヒー・タイムとなってしまったんである。それに比べたら、150円であっても、お気に入りのカップで味わう方は「至高の1杯」となるのであるのよ。

これ、ほっておくとその内「陶芸」にはまるんだろうと思う。もう辛抱ならなくて、自分でロクロ回して好みのカップを練り上げちゃう。造形だけに止まらず、焼きも重要な要素なので、キリが無くなってドツボにはまるんだと思うけれど、今日買って来たカップには、全く不満が無いので、当面その恐れは無いかな…。

とか言いつつも「陶芸セット」なんかをネットで探してる所が危ないなぁ…。

でも、お気に入りの物って、なかなか見つけるのも大変だし、本当に満足行くのが見つかるのも珍しい事なんだよねぇ。「こりゃ良いぞ!」って買って帰っても、何だか妙な違和感が見ている内に漂って来て結局腑に落ちない感じになってしまう事が多いんだよなぁ。

150円で、より幸せにコーヒーが味わえているんだから、やっぱり幸せだなぁ、おじたんはぁ…。

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ボディガードしてみる。

2005-02-06 13:54:14 | 我思う、故に書くなりよ。
昨日、おいら氏の訪問を受ける前に恒例の「お買い物」に出かけた。

妹と姪の買い物に付き添い、専ら「カート押し」に徹するおじたんであるが、その目は鋭い。可愛い姪の頭に包丁でも突き立てられたら、とても敵わないからだ。

まぁ、こんな事件が起きる前から、人混みに入る時はちょっと達観した感じで周りを見ながら入る事にしている。周囲にどんな人物がいるのか、ほとんど気にすることなく人混みの中で生活をしているのが普通だが、ほとんど気にしないって事が盲点だと、もうだいぶ以前から言われていながら、事件は繰り返されて起きている。

「襲ってくる者を阻止する事は出来ない。」

それが成功するかしないかは別として、襲撃自体は行われてしまう。これはどんなプロでも避けられず、要人警護でも当たり前の事実として認知されている事だ。事前に阻止出来れば超した事は無いのだが、先制攻撃出来ないとなると、受け身であるほかに術がない。

てなワケで、不審な人物からは積極的に離れる方向で買い物を見守る。妹はともかく、姪からは絶対に目を離さない。と、同時に不審な人間にも目を向けていないといけないので、案外と疲れる。売り出しという事もあるし、他のスーパーに比べても安いと言う事もあって、かなり人が多いワケだから、そりゃ大変なのだ。

目的は何だか知らないが「あんた、何でここにいるのよ?」って風体のおにいちゃん、おじちゃん、おじいちゃんが幾人かいる。買い物カゴでも抱えていれば何となく理由はありそうだが、それもない。ずっと観察し続ければ、万引きの現場にでも出くわすのだろうが、それは専門家の仕事であるので、関知はしない。妹と姪が無事ならそれでいいのだから。おばちゃん、おばあちゃんにも怪しいのはいる。

「どこ見て買い物してんだ?」ってのがそれ。商品よりも、周囲の人間に視線を走らせながら、うろうろしている人がいる。保安要員って話もあるが、彼らは背筋がピンとしているので、判りやすい。目が合うとしっかりと見返すのも保安要員ならではの、それ。それとは違った目的の視線で通路を彷徨う人が少なからずいるのだ。

目を血走らせて、包丁でも持って、なにやら叫びながらうろうろしている判りやすい人なんか、そうそうはいない。どこかで「豹変」するまでは、「普通」に思えるからこそ「危険」なのだ。

こうした怪しい人が結構多いのに、店員の数は少ない。レジの台数の倍もいれば多い方で、これは大きなスーパーでも小さな商店でもあまり変わらない。事件が起きてしまったショッピングセンターと同じ系列のSCが近所にあるが、言われているほど店員が表にいるのかどうか実に怪しい。どこでもそうだが、人件費削減って事が半ば当たり前で、広いフロアに店員がいるのかどうかも怪しい数しか置けないのが現実で、何か事件が起きても十分な対処など、望む事は出来ないのが普通だと思う。平日の昼間、時間帯によっては「貸し切り」とも思える店舗だって、実際にあるのだ。厚木のパスポートの申請が出来る所なんか、エスカレーターからフロアまで貸し切りだったしなぁ。

そんなこんなを気にかけながらも、お買い物は楽しくなければならない。姪と一緒にがしゃぽんをひねって、出て来た物に一喜一憂するのも楽しみの一つである。かえるさんのペッツとクルル曹長が今日の戦利品である。安全で楽しいお買い物は、漫然としていて成し得られる物では無くなってしまったと、考えていて良さそうなワケである。1日出歩いて、周囲にどんな人間がどんな風にいたのかを、ハッキリクッキリ覚えておくのは難しい事だけれど、そこを突いて犯罪は身に降りかかる。

積極的に逃げるってのも、ある意味「勝ち」なんじゃないだろーかねぇ。

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おいらが来たりて肩痛い。

2005-02-05 22:58:40 | 我思う、故に書くなりよ。
妄想癖で有名らしい「おいら」氏が遊びにやってきた。

まぁ、高校の後輩でもあるので、別に珍しい事でも無いが、社会人になるとなかなかおいそれと会うのも難しくなるワケで、久しぶりと言う事になる。

彼の実態を知っている身からすれば、彼のブログは大変興味深い。ちゃんとブログ向きな人格が備わっており、私の知る実態とは大きくかけ離れた物だ。んまぁ、年を経て丸くなったのか、妄想の果てにそうなったのか定かでは無いが。きょうみのある人は彼のブログも見て欲しい。

男の買い物日記 ( http://blog.livedoor.jp/oceanslowwalker1/ )

まぁ、さしたる用も無いのにやって来たわけだが、デザイン関係の仕事を目指していると言う彼の話は私にも判るし、PCの話やカメラの話を久々にして盛り上がった。

人々のほとんどがNECのPC-98というパソコンでパソコンを知る中、彼はなぜか「Mac」からパソコンを知る道を選んでいる。熱烈な信者、エバンジェリストと成るかに見える中、なぜかそうならず、一線を越える事無く淡々とPCと接する姿が奇妙だった。

そんな彼も社会人になると「Windows」を触らなければいけなくなり、不本意ながらも扱う様になる。まぁ、どっちもあまり変わらないと思うのであるが、世の中の趨勢は「Windows」。グラフィック関係やデザイン関係での趨勢は「Mac」だから、目指している方向にとっては良いのだと思う。

私も、かつてMacを使い込んでいた。とは言え、最新のスペックを求める方向性はWindowsに置いていたので、Macは興味本位って事である。だから、最初に買ったのは型落ちの在庫処分で投げ売りされていたPB150だった。まい・ふぁーすと・まっく…がPB150なので、これは未だに保存してある。次に買ったのは並行輸入のクラシック2。カラクラやSE30等も知っていたが、新品未開封で投げ売りされていた可愛いデザインに一目惚れしたワケである。

これは日本語OSも付いていない物なので、満足に動かした覚えも無い。今はどうだか知らないけれどその頃のOSって、とんでもない値段していた。その上に、既にディスコンだったので、その資金はWindowsマシンの補強に回される事になる。

ただ、面白いのは筐体のデザインだけではない。大きめの炊飯器位の大きさがありながら、これをポータブル・マシンとして使う事実があったのだ。まぁ、デスクトップとして見れば小柄な方だが、専用のバッグにキーボードやらマウス、電源コードを入れて運んで使うって時代があったワケ。当時、既にノートPCは数多く売られていたので「これは歴史的遺産だなぁ…」と思いながら、一揃え買ったのだ。
そんなオールド・マックの世界を知っている人が身の回りにいるって事も珍しくなっちゃったなぁ。

さて、程なくして彼は帰る。私は見送り、次回彼が来る時にはどちらのオールド・マックも見せられる様にしておこうと思った。そんな事を考えながら家に戻ると、左肩が重くなる。

「?」

急に動きが鈍くなり、直ぐに痛みが付いて来た。「あらら?」あれよあれよと思ううちに、どんどん鈍い痛みが強くなり、どんな体勢でも痛くなってしまう。「四十肩?」。まだ、3ヶ月ほど早いが、肩の痛みで思い出せる病名は他に出て来ない。そもそも「病名」なのかどうだかも妖しい。

あまりに痛いので、寝る事にしてみたが、収まらない。塗り薬を出して、マッサージを兼ねて塗ってみたが、スースーするだけで収まらない。常用しているハクキンカイロを痛い部分に当ててみても、気持ちは良いけど痛みは変わらない。おまけに、左手の指先までしびれて来ちゃった。

他に薬は無い物か、探してみると「鎮痛剤」が出て来た。まぁ頭痛にも歯痛にも効くし、消炎作用もあるので飲んでみようかと思うが、これは最後の手段にしておかないとイケナイ気がする。で、あれやこれや探しまくり、腰痛の時に貰って使っていなかった「湿布薬」を見つけた。

なぜ、貰って使わなかったかと言うと、痛みを抑える術が判っていたからである。椎間板ヘルニアだから、姿勢を保って、静かにしていれば収まってしまうのだ。おまけに、何故か2種類貰っている。その内の一方は使ったのだが、今回出て来たのは使わなかった物。痛い部分が限られるのに、2種類も貼る余裕は全く無いので、不思議だったし、貼ったところを日光に当てるとヤバイと、とても大きく注意書きがあったもんだから怪しくて使えなかったのだ。

この時期、肩を晒して歩く事も無い。おまけに、痛みは酷くなる一方だから、試しに貼ってみた。

あらら。こりゃ凄いな…。貼って数分で痛みが和らぐ。とてもじゃないけど、ブログなんか打てそうも無かったのが、こうして打てる。動きが鈍いのは変わらないが、痛みがあっという間に消えてしまったのだ。指先のしびれも無い。ハイパーだ、こりゃ。

果たして、この痛みは何なのか? おいら氏が何か悪霊を連れて置いていったのだろうか? おいら氏の過去を知る限り、さもありそうだが、そのためにやって来たのだろうか? うむむ…。謎は深まる。

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おじたんレシピ。

2005-02-04 16:16:46 | 我思う、故に書くなりよ。
昨日の「鶏骨付きモモ肉」は「鶏骨付き手羽元」だった…。

何が違うのか良く判らないが、冷蔵庫に入れたままにしてもあまり良い事は無いので調理してみた。

まぁ、熱湯で臭みを取った後、包丁で切れ目を入れて、下味が馴染みやすくしておく。下味と言ってもショウガを潰した物、濃い口醤油、醤油出汁を混ぜた物に30分ほど漬けておくだけ。

下味が付いたら、小麦粉をまぶしてオイルで焼く。唐揚げっぽくなるので、そうしておく。

鶏ガラベースのスープに濃い口醤油、水、黒酢、砂糖を入れて味を調え、煮立たせる。で、この中に唐揚げっぽい「鶏骨付き手羽元」と、ぶつ切りにしたネギ、みじん切りのタマネギを入れて、煮まくる。煮詰めると言った方が正しいかもしれぬ。煮汁が無くなるまで煮ても良いが、ガス台もかかるし、スープ入れ過ぎてるので今回は半分位で止めておいた。

灰汁だのをちまちま取るのが面倒な私は、キッチンペーパーをチョキチョキして落とし蓋代わりに使うのである。

辛いのがたまらない私は大量に唐辛子を入れてみた。出来上がりはいい感じで赤くなった。

小麦粉なので、なんとなくニュルン…としていながらも、甘酸っぱ辛い手羽元がたまらなく美味しい。ネギも良い味で絡まるし、悪くないねぇ。片栗粉だともっとにゅるんにゅるんして、それはそれで面白いかもしれない。

フライド・チキンを買ってきて、同じ様に煮込んでもかなりイケルんでは無いだろうか? 肉と一緒にネギと黒酢を摂取出来るので、まぁまぁかな。おっと、手羽先なんかの肉だったりすると、コラーゲンもたっぷりだから、お肌を気にするおねいさん方にもオススメだな、これ。

結局、あっという間にしゃぶりついて完食。作るのには時間が掛かるけれど、食べるのはあっという間なんだよなぁ…。

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風呂。ポラロイド。恵方巻き。鶏骨付きモモ肉。

2005-02-03 17:54:52 | 我思う、故に書くなりよ。
朝早く目が覚めたので、風呂を沸かし、入った。

ところが、シャワーが出ない。水道管が凍結していて、給湯側から全く出ない。湯船には水が張ってあったので、これで暖まるワケだが、なんだかんだで減ってゆく事を考えると、お湯が出ないのはちょっとヤバイ。沸かしながら冷水を追加して温めれば、なんとかなるだろうと、ちろちろと冷水を足しながら何とかやっていたが、給湯に比べると全然遅いのよ、温まるのが。

かつて、気持ちよく湯船に浸かっていたら「ミシッ!」と言う妙な音が聞こえた。それほど広い湯船ではなく、むしろ狭いワケで、肘が当たっているあたりから音が聞こえてきた。何だろう? と、ちょっと体をひねった瞬間「バリリリリッ…グォオオオオ…」と言う豪快な音と共に、湯船が裂け、一瞬の内に湯が消えた事がある。シャワーでもあれば、それでも何とかなるが、付いていなかったので、後は凍える一方だった。

でまぁ、普段でも1時間はのんびり浸かっているのだが、結局3時間浸かっていた。のぼせる程、湯温が上がらないから、なんだか「生ゆで」みたいな感じで、かといって出るに出られない温まり方だし、妙な事になってしまった。

下手に出ると風邪を悪化させるかもしれない…。でも、このままふやけて行くのも忍びない…。でも、じれったい…。そんなこんなであれやこれや考えている内に、程よく温まったワケで、無事に出られた。

この冬一番の寒気ってワケでも無かったのに、今朝の凍結は頑固そのもので、午後にならないと水も出なかった。まぁ、時間的には一番気温が下がりそうな時だったからかもしれないが。むぅ…。

ポラロイドカメラを修理に出していて、見積もりが来た。案外と重傷だったみたいではあるが、思ったより安く修理出来るので「修理でGO!」なメールを返信する。あまりに高い修理費だと、思い入れがあっても直せない。いっその事、程度の良さそうな中古品をオークションで購入した方が良いワケで、その相場程度は覚悟していたのだが。

どうせなら一番新しめの680とか690がいいなぁ…とか考えてオークションを眺めていたのだが、人気があって中古品とは言え「高い」。最新機種が4~5台買えてしまう値段であったりする。流石にこれだと手が出ず、じゃあ「現行最新機種」買っちゃおうか…とも思うし、私の近辺では「プレゼントしよう」って声もある。

んが、全然欲しくないのだ。広く流通しているフィルムが使えるとしても、それは決して安くない。バンバン撮って遊ぶには勇気が要る。だからこそ、失敗の無いように「全自動」になっていて、インスタントフィルムが楽しめる事になったらしいが、そこに面白味を感じない。「全手動」だったら喜んでプレゼントしてもらうと思う。修理に出したSX-70は、言ってみれば「半手動」。超音波ソナーを切れば手動でピント合わせが出来るし、明暗と言った程度だけれど、露出の調整も出来る。全自動には無い「手の掛かる」部分が残っているのだ。だから、失敗するにも理由がちゃんとある。それを「あーでもない…こーでもない…」と、考えながら撮るって楽しみも、このカメラが未だに人気が高い理由の一つだと思う。何か大判のカメラを覗き込んで撮る時の、ちょっとした緊張感みたいな感じが似ている所も好きな理由の一つだけれど。

全自動兼全手動…ってのが出たら、結構おもしろいと思うけれど、35mmの一眼レフほどに簡単には行かないんだろうなぁ。

近所の方から「太巻き」を頂いた。「恵方巻き」って節分の風習だと思うが、その年の恵方を向いて、無言で太巻きをもくもくと食べるのである。そんな習慣が近所にあったなんて、生まれて初めての事だったが、どうやら「コンビニ」の戦略で全国に広まっているらしい。

ちゃんとパッケージに「今年の恵方は西南西です。」と書かれており、今まで「南」と信じていたのが毎年違う事も初めて判った。とは言え、西南西と言われても「だいたい、あっち…」位にしか判らず、だいたいあっちの方を向いて食べてみた。TVと90度反対の方向だったので、なんだか妙な感じだったし、お世辞にも美味しいって物ではない。中位の大きさとは言え、1本だし…。

食べながら、千葉で漁師をやっていた親戚の家の事を思い出した。遙か昔に疎遠となってしまったが、遊びに行くと必ず「太巻き」が出た。半端でなく太いし、酢飯の酢が効いていて、むせそうになる。おばさんの名物料理だったわけだが、子供の口には剰りにも大きく、せっかく巻き込んである「具」がボロボロ落ちてしまうのだった。

「あれで、これやったら、ギブだな…。」

やさ男の二の腕はある程の太巻き。今もあるとすれば、さぞ豪快に見えるんだろうなぁ。

スーパーで安かったから、鶏骨付きモモ肉を買い込んだ。買っている時には漠然と「唐揚げ」を想像していたのだが、帰ってきて考えるとあまり面白くない。そもそも油があまり無い。さて、どーしたものか。

お酢のCMか何かで、手羽先の唐揚げみたいなのをお酢で煮込んだ様なのを食べていたのを思い出す。あれはなかなか美味そうだなぁ。でも、唐揚げだしなぁ。適当に焼いて、黒酢と醤油と砂糖で煮込んだら美味そうだよなぁ…。あー。あれはいいなぁ…。これにしよう。

と、考えている内に面倒になり、ラーメン作って食べてしまったので、未だに鶏骨付きモモ肉は手つかずとなっている。ネギとショウガもあるから、明日には作ってみようかな。そもそも、ここ数日は、風邪薬を飲むために何か食べている…という状態。取り敢えず「食後30分以内」は守るのだ。だから、それほど食欲も無いのに半ば付き合いで食べている状態とも言える。手軽に食べられるラーメンは時間も掛からないし、調理と言ってもお湯を沸かすだけだしねぇ。

ま、そんなこんなだな。

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一太郎。

2005-02-02 12:43:15 | 我思う、故に書くなりよ。
久々に日本語入力をATOKにしてみる。

とかなんとかやっていたら、一太郎、花子の販売禁止の司法判断が出たっていうニュースが…。

一太郎との付き合いはVer3の頃からだから、MS-DOS時代からである。今でもちゃんと正規ユーザーとしての登録が生きていて、バージョンアップのご案内が届いているし、届いたばかりだったので、ちょっと驚いた。途中、マックを使っていた時代もあり、この時も「ことえり」よりは「ATOK」な私だったが、ここ数年はOS付属の日本語入力で間に合っていたし、ユーザーIDやらパスなんか書かれたカードがどっかへ行ってしまったので、再インストールするのが面倒だったので。

それ位に、OS付属の日本語入力も悪くなくなって来た…という事でもある。普通にテキストに打ち込んで行くのに、不自由は無い。ちなみに、ワープロソフトってのも面倒なので使わず、テキストエディタを使っている。

最初の頃は、新しいバージョンが出る度に買い換えて、一太郎なりワードなり、使っていた。まぁ、今でもワードは使わないこと無いが、作文するのに使うわけではない。ワードなりエクセルなりで開いた方がスムーズな物もあるからね。しかしながら、ブログに使うには重たいし、面倒だし、余計だし、ウザイんである。昔はどちらもシンプルで良かったのになぁ…。

そんなワケで、ワープロってソフトは要らなくなった。ただし、日本語入力って物は欠かせないワケでこれには拘っている人も多いと思う。私もかつては自分なりの辞書を作ってみたり、カスタマイズに明け暮れて、悦に入っていたりもしたが、自然とそのパワーはどこかほかの部分に流れ、普通に使っている。これといった妙ないじくりもしていない。そうしなくても良くなった、良くなっていた…って事の方が大きいのかな。

で、バージョンアップのお知らせを読みながら、何となくATOKに切り替えてみた。これはこれでまた良く出来ており、ストレス無く文字が入れられる。何か特殊な作業をしなくても、ちゃんと変換もしてくれるし、必要とあらばいたれり尽くせりの機能が裏側で控えてくれている。

一太郎の研修会で一太郎の由来を聞いた事があったが、うろ覚え…。太郎が日本で1番になったから「一太郎」で、確か太郎は社長の家庭教師時代の教え子の名前だったとかなんとかだった気がする。パソコンで日本語が不自由なく使える事は、今でこそ当たり前だが、昔は「マシン語」なんて言う言語を習得しなければパソコンそのものが扱えない時代だった。そんな中で生まれた「一太郎」だし「ATOK」なんだが、これが無かったら、今のパソコンが欠かせない時代が来なかったかもしれない。

まぁ、他にも考えて作り出す人はいただろうけれど、「一太郎」なり「桐」なりに積まれた「日本語入力」って物が無ければ、こんなには便利な時代がやって来なかったかもしれないし、もっともっと遅れていたかもしれない。格好良く言えば「黎明期から続く進化を受け継いだソフト」が一太郎であり、ATOKでもあると思う。

正直、今回の裁判騒動を良く読んでみても、さっぱり解らない。松下の言い分がその通りだとすると、他のソフトメーカーだって抵触する恐れがありそうだし、そうなると、便利なソフトがおいそれとは作られなくなってしまう。特許を取ったもん勝ちってのはこれはこれで仕方ないが、それがユーザーにとって不自由な環境を生み出してしまう様ならば、残念でならないし、パソコンがタンスの肥やしに戻ってしまう事にも繋がりかねないと思う。どちらもいい形で収拾してくれればと思うねぇ。

さて、さも当たり前って感じなソフトに何某かの対価を支払う事に抵抗を覚えなくも無いのだが、久々にバージョンアップしてみようかと思っている。しなくても不便はどこにも無いほどに完成された物だと思うが、ブログ書くのに何か便利な事があるかもしれないし。無くても、まぁ日本語入力位は最新の物でも悪くないかなぁ。

さて、ユーザーカードは何処へ? 探し出さないとなぁ…。困ったもんだ…。

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