おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

1杯のコーヒー。

2005-02-06 22:30:46 | 我思う、故に書くなりよ。
コーヒー好きなのは何度も書いていると思う。

美味しく淹れたコーヒーを飲む時、お気に入りのカップで飲んだ方がそりゃあ気分も良い。私の場合、マグカップがほとんどで、大きさやら、飲み口の口当たりやら、重さなんかを考えて、選んでいる。

値段はあまり気にしないが、マグカップなんだから500円もすれば買えるワケで、スタバなんかで売っている保温の出来るリサイクル・マグなんて言うのもあるけれど、普段は「せともの」。

で、マグカップなので、容量が多い。200ccあたりはざらにあるので、がぶ飲みするのには持ってこいなのだ。紅茶だろうがジュースだろうが、これで飲んでいた。それでいて不満は特に無い。

ところが、どうも「コーヒー1杯=120cc」と言うのが定説らしい事を最近知り、それに合うコーヒーカップが欲しくなった。つまり、普段使っているカップよりも小振りなカップと言う事である。エスプレッソ飲む時はもっと小振りなカップが喫茶店などでは出て来るが、あれはなかなか見つけるのも容易ではない。何気に飲んでいる缶コーヒーの小さい缶は180ccがほとんど。

で、買い物に出たついでに寄った100均ショップを眺めていると、実に良さそうなカップに目が止まる。ほこりにまみれちゃってはいたが、ソーサー付きで150円。いかにもコーヒーを飲んでくれ…と、言う様なデザインだし、せとものに相応しい和風な「天目」模様。大量生産品とは言え「いい仕事してるねぇ…」な逸品だと思い、2セット買ってみた。

さっそく、家に帰るなり計量カップで量ってみると、120cc。表示がしてあったわけでも、計って買ったわけでも無いが、実にピッタリ。今まで使っていたマグ・カップの方は250ccだった。

うーん。定説とは恐ろしい…。ちっとは世の中の定説って物に目を向けておくべきだったなぁ。好きな物が好きなだけ飲めるんだったら、量なんか多い方が嬉しいに決まっているんだが、世間並みの「1杯のコーヒー」って物を改めて知るのも感慨深い。

いつぞやか、好きなカップでコーヒーを飲ませてくれる喫茶店に入った事がある。その、自由に選べるカップのどれもが非常に高価で、名だたる名工の作品だったり、骨董的に価値の高い物と言う趣向なのだ。そういう目的で、そういう物の価値を判っていれば、それなりに楽しいのだろうが、全く価値が判らないと、お好きな物をお選びください…って言われても、デザインぐらいしか選ぶ基準がない。

で、まぁ好きなカップが全く無かったので、適当に選んで飲んだけれど、なんだか釈然としない気分でのコーヒー・タイムとなってしまったんである。それに比べたら、150円であっても、お気に入りのカップで味わう方は「至高の1杯」となるのであるのよ。

これ、ほっておくとその内「陶芸」にはまるんだろうと思う。もう辛抱ならなくて、自分でロクロ回して好みのカップを練り上げちゃう。造形だけに止まらず、焼きも重要な要素なので、キリが無くなってドツボにはまるんだと思うけれど、今日買って来たカップには、全く不満が無いので、当面その恐れは無いかな…。

とか言いつつも「陶芸セット」なんかをネットで探してる所が危ないなぁ…。

でも、お気に入りの物って、なかなか見つけるのも大変だし、本当に満足行くのが見つかるのも珍しい事なんだよねぇ。「こりゃ良いぞ!」って買って帰っても、何だか妙な違和感が見ている内に漂って来て結局腑に落ちない感じになってしまう事が多いんだよなぁ。

150円で、より幸せにコーヒーが味わえているんだから、やっぱり幸せだなぁ、おじたんはぁ…。

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ボディガードしてみる。

2005-02-06 13:54:14 | 我思う、故に書くなりよ。
昨日、おいら氏の訪問を受ける前に恒例の「お買い物」に出かけた。

妹と姪の買い物に付き添い、専ら「カート押し」に徹するおじたんであるが、その目は鋭い。可愛い姪の頭に包丁でも突き立てられたら、とても敵わないからだ。

まぁ、こんな事件が起きる前から、人混みに入る時はちょっと達観した感じで周りを見ながら入る事にしている。周囲にどんな人物がいるのか、ほとんど気にすることなく人混みの中で生活をしているのが普通だが、ほとんど気にしないって事が盲点だと、もうだいぶ以前から言われていながら、事件は繰り返されて起きている。

「襲ってくる者を阻止する事は出来ない。」

それが成功するかしないかは別として、襲撃自体は行われてしまう。これはどんなプロでも避けられず、要人警護でも当たり前の事実として認知されている事だ。事前に阻止出来れば超した事は無いのだが、先制攻撃出来ないとなると、受け身であるほかに術がない。

てなワケで、不審な人物からは積極的に離れる方向で買い物を見守る。妹はともかく、姪からは絶対に目を離さない。と、同時に不審な人間にも目を向けていないといけないので、案外と疲れる。売り出しという事もあるし、他のスーパーに比べても安いと言う事もあって、かなり人が多いワケだから、そりゃ大変なのだ。

目的は何だか知らないが「あんた、何でここにいるのよ?」って風体のおにいちゃん、おじちゃん、おじいちゃんが幾人かいる。買い物カゴでも抱えていれば何となく理由はありそうだが、それもない。ずっと観察し続ければ、万引きの現場にでも出くわすのだろうが、それは専門家の仕事であるので、関知はしない。妹と姪が無事ならそれでいいのだから。おばちゃん、おばあちゃんにも怪しいのはいる。

「どこ見て買い物してんだ?」ってのがそれ。商品よりも、周囲の人間に視線を走らせながら、うろうろしている人がいる。保安要員って話もあるが、彼らは背筋がピンとしているので、判りやすい。目が合うとしっかりと見返すのも保安要員ならではの、それ。それとは違った目的の視線で通路を彷徨う人が少なからずいるのだ。

目を血走らせて、包丁でも持って、なにやら叫びながらうろうろしている判りやすい人なんか、そうそうはいない。どこかで「豹変」するまでは、「普通」に思えるからこそ「危険」なのだ。

こうした怪しい人が結構多いのに、店員の数は少ない。レジの台数の倍もいれば多い方で、これは大きなスーパーでも小さな商店でもあまり変わらない。事件が起きてしまったショッピングセンターと同じ系列のSCが近所にあるが、言われているほど店員が表にいるのかどうか実に怪しい。どこでもそうだが、人件費削減って事が半ば当たり前で、広いフロアに店員がいるのかどうかも怪しい数しか置けないのが現実で、何か事件が起きても十分な対処など、望む事は出来ないのが普通だと思う。平日の昼間、時間帯によっては「貸し切り」とも思える店舗だって、実際にあるのだ。厚木のパスポートの申請が出来る所なんか、エスカレーターからフロアまで貸し切りだったしなぁ。

そんなこんなを気にかけながらも、お買い物は楽しくなければならない。姪と一緒にがしゃぽんをひねって、出て来た物に一喜一憂するのも楽しみの一つである。かえるさんのペッツとクルル曹長が今日の戦利品である。安全で楽しいお買い物は、漫然としていて成し得られる物では無くなってしまったと、考えていて良さそうなワケである。1日出歩いて、周囲にどんな人間がどんな風にいたのかを、ハッキリクッキリ覚えておくのは難しい事だけれど、そこを突いて犯罪は身に降りかかる。

積極的に逃げるってのも、ある意味「勝ち」なんじゃないだろーかねぇ。

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