・・・先日、咲き誇っている曼珠沙華の花の写真を載せた。
今日は黄色の曼珠沙華を見た。
黄色の曼珠沙華は赤色ほど、色が厳しくなく、チョット豪華で良い花だと思った。
・・・先日、咲き誇っている曼珠沙華の花の写真を載せた。
今日は黄色の曼珠沙華を見た。
黄色の曼珠沙華は赤色ほど、色が厳しくなく、チョット豪華で良い花だと思った。
・・・かなり古い昔には、日本列島は元々、大陸から、剥がれた東西の二つの島に分かれていた。
二つの島の隙間に、南から押し寄せる、火山列島が二つの島の間に入り込んで、関東平野のあたりの隙間が埋まってつながり、日本列島が一つになったと勉強したことがあった。
今もなお、日本列島に、南から、寄せてくる、太平洋上の南に続く火山列島があるが、先日の新聞に、その海底火山の列島についての記事が載っていた。
太平洋上の南に続く火山列島とは、伊豆大島から、三宅島、八丈島と南につながっていて、さらにその南に最近、噴火して、新しい島が誕生し、国民の目を引いた西ノ島。
そのづっと南に、クルージングでよく話題になっている、小笠原諸島と日本にはかなり南まで、領有権が及ぶ南の島があることが分かる。
列島が二つの島に分かれていたと云われる太古の時代から、南の島はどの辺まで、あったのかとても興味深く、想像できました。
・・・テレビで、私たちが子供の頃に、遊びながら口ずさんだ歌を、話題にタレントが会話をしていた。
その中で一番盛り上がったのは、数え歌。
鬼ごっこの一種「ダルマさんが転んだ」という遊びでよく遊んだ。
「ダルマさんが転んだ」という遊びは全国的に、やっていた遊びです。
誰でも知っているように、鬼が10までの数字を数える間に、子どもたちは動いて良く、数え終わったら、停止して、動いているところを見つかると、鬼になる役を変わると云うような遊びであったと思う。
その時の数の数え方が、「ダルマサンガコロンダ」と数える数え方が、私たち関西育ちは、「ぼんさんが屁をコイタ」と数えていた、そして、この遊びを、「ぼんさんが屁をコイタ」と呼んでいた。
音声では「ボンサンガヘヲコイタ」と数えるのである。
そのことをテレビで見て、数え方を聞いていると、関西出身の私たち夫婦は色々な子供の頃のはやり歌を思い出して、しばし、この話題に話の花が咲いた。
因みに、私は、近所に住んでいた道子という女の子をからかうのに、何時も歌っていた歌「みッちゃん道々ばばこいて、紙が無いので手で拭いて、もったいないから食べちゃった」というとんでもない、大阪風の歌をなつかしく思い出す。
・・・昨日、最寄りの郵便局の局員が、私が買った通信販売の品物の配達のために、我が家に来た。
小荷物の受け渡しの後、言いにくそうに、「何時も年賀状は、如何しておられますか?」といわれた。
「私は、何時も、配達員のハガキを書いて申し込んでいます」と云うと、
嬉しそうに「それではこのハガキでお願いいたします」と私に申し込みのはがきを渡しました。
その葉書の係員の欄に配達員の名前の印鑑が押してありました。
その葉書を見て、この配達員も、きっと年賀状の販売のノルマがあって、大変だなーと思い、彼への応援のために、年賀状の申し込みをしなくてはと思いました。
私は、仕事を退職し、年金生活を送るようになって、何故か、自分が、毎日を、働かないで生活できることに、何となく、自分の心に、やましさを感じる。
また、若い人が頑張って働いているのに、出くわすと、今回のように応援したくなる。
私たちの世代は、年金を、受け取って生活できることに、何故か、後ろめたさを感じるのは、それだけ現役時代に、頑張って稼いできた時の思い出と、何もしないで生活できる今の現状とのギャップの大きさに、空しさを感じるからでしょうか。
・・・自民党や野党などの改憲派は日本国憲法は占領軍に作られた憲法だから、
日本人による憲法を改正しなくてはいけない、とか、
自衛隊が現状、存在するから、軍隊を持たない憲法条項と合わないから、憲法を改正すべきだとか云っている。本当にそうなんだろうかと疑問を持つ。
しかし、そんなことが改憲の理由に挙げることは論点が間違っているように私は思う。
そんな中で、憲法草案を作った人の一人の女性、ベアテ・シロタ・ゴードンの履歴を調べて、日本の政治家の考えのなさに、改めて、がっかりし、彼女の考えていたことを、なぞってみた。
ベアテ・シロタ・ゴードンさんは戦後の占領軍の中で、憲法草案に携わった一人として、有名である。
1946年2月4日、ベアテを含めた民政局行政部スタッフ25人は民政局長に召集され、GHQによるモデル憲法草案起草の極秘命令を受ける。
3名で構成された人権小委員会でベアテが担当したのは、社会保障と女性の権利についての条項であった。
とりわけ「女性の権利」については、当時の世界の憲法において最先端ともいえる内容の人権保護規定をベアテが書いた。
アメリカ合衆国憲法には、60年経過した現在も「両性の本質的平等」にあたる規定が存在せず、彼女の草案が世界的に見ても画期的であり、見方を変えれば急進的であったことがうかがえる。
しかし、1990年代半ばまで、彼女自らが憲法草案に関わったことは公表していなかった。その理由について「自分の存在が改憲派の学者に、悪いように利用されると思っていましたから」という。
いま、改憲派の学者や政治家が云っているようなことを、彼女は最初から、そのことで本質的な問題をすり替えられることを予想していたようだ。
しかしながら、彼女が考えた人権規定の精神は、現行憲法では第24条、第25条、第27条に生かされることになった。
彼女はユダヤ人で、戦時中ナチスから逃れ、長らく日本に住んでいたので、自分の故郷は日本と感じていたことも伝えられている。
そして、一緒に暮らした日本人から、戦前の女性・子供の人権軽視の思想があったのを知っていたので、新憲法に女性の人権条項を盛り込もうとした。
おかげで、女性や、子どもの人権が、守られるような条項が日本国憲法に入っているのである。
日本国憲法には、より進歩的な条項が彼女によって書き込まれていたが、米軍内の男性の上司や日本の政治家につぶされ、消えてしまった人権項目が多々あった。
戦後の日本の歴史の中で、今、それらの人権条項が日本の女性の政治家や活動家、学者達によって復活している。
以上、彼女についての内容は、インタネットに書かれている文章を参考にした。
・・・今の季節、畑や道端、川沿いに曼珠沙華の花を見れます。
この花が咲いている場所は必ず、花の周囲は緑で、赤がとても映える配色になっていて、そのことがとても美しく感じる。
そして、この濃い赤色の花を見ると、夏の終わりを感じます。
・・・私の持っている、革製ペンケースと同じようなのを作ってくれという知人からの依頼があったので、製作に取り掛かった。
人に差し上げるとなると、隅々まで、丁寧に作ることになり、結果、型紙・木型を起こすところから始めて、最初のは気にいらなかったので、最終的には同じデザインを二個作ってしまた。
外革は黒色の1ミリ厚みの牛皮を使い、内皮は0.5ミリの豚床革を使いました。
内と外の間に、芯材を入れてあります。
ペンを入れるポケットは木型を作って成形しました。
一番難しいのは市販の40㎝長さのジッパーをペンケースの全周に縫い付ける作業です。
・・・最近まで、物理とか、数学で使う単語が日本語である事に、何の不思議もなかった。
先日の新聞の「学術用語の邦訳の功と罪」という記事を読んだ。
そこに、書いてあったことだが、世界中の国では、英語の専門単語を使って、物理とか、数学を学ぶ国が圧倒的に多数であると云う事です。
とくに、高等教育で使う学問の専門用語は、ほとんどの国では英語やドイツ語などで学ぶらしい。
私も、若いころ会社に入ってから、、「鉄の加工」について、勉強したが、専門用語は日本語の単語で勉強し、その学会も日本にあって、学会誌が発行されていた。
当時の近隣アジアの国、たとえば韓国などでは、世界でも高い水準だった日本の学会誌で勉強する人が多かった。
今、英語が世界語として、若い人が学ぶようになると、今度は逆に私たちのように、学問を日本語で勉強すると、世界で、活躍する人には、英語の専門語を勉強する必要が出てくる。
日本の技術が世界のトップを走っていた、我々の頃なら、問題で無かったことが、全てが、グローバル化した今では、言葉一つでも、新しい問題が出て来ている事に気が付く。
・・・先週の台風は長い間、日本列島に被害を与えた。
我が家も少し影響を受けました。
台風が去って二日たって、私の家庭菜園に行くと、自作の農機具用の小屋の屋根材が飛ばされていた。(上の写真は屋根を飛ばされる前のものです)
早速、一日がかりで、小屋の屋根のプラスティック波板の張り替え修理をした。
今回の台風は私が思ったより、風の強さが厳しかったようです。
上は偶然、台風の数日前に撮影した田圃。 下は、台風後の同じ田圃。
昨日、久しぶりに行ったジョギングコース沿いの田圃では、シッカリ立っていた実った稲が倒れていた。
これだけ倒れていたら、稲を刈る作業は大変そうです。
・・・秋が近く感じると、旅に出たくなる。
インタネツトの広告に旅心を誘う旅の紅葉の写真がよく掲載されている。
それを見ていて、不思議に感じるのは、詳しく広告を見たくなるのは、我が町より西方面の旅の広告です。
行った回数としても、圧倒的に西が多い。
私は今、名古屋近郊に住んでいる。
そして、出身は大阪です。
何故か、静岡、東京方面は生きたいと思わない。
現役で仕事をしている時は、圧倒的に、出張する回数は東京方面が多かったのですが、
現地に行っても、東京の街は落ち着かないで、長居をしなかった。
それに比べて、大阪への出張は勿論、故郷でもあるわけで、気持ち的に、落ち着いた。
年とって、旅行の行先も、場所は東北、北海道に旅したくらいで、圧倒的に、京都、神戸、おおさか、四国、山陰、中国、九州、沖縄と云った場所は行った回数は多い。
旅行は行ったことが無い場所に行きたいのが、普通であるが、それ以上に故郷に向いた方向の場所への旅は心が、ひかれるらしい。
・・・夏の暑さを感じる機会が、段々と、少なくなってきました。
人の集まりに出かけると日本人として、必需品になるのは扇子です。
私が会社勤めしている時は、デスクの引き出しに扇子を置いていた物ですが・・・・。
今夏、使おうとすると扇子が、家に見つからないらないので、仕方なく、新しくインタネット販売で扇子を購入した。
最近購入した扇子を見て驚いたのは、送ってきたのは、MADE IN CHINA は普通の事ですが、絹製の扇子を買ったのですが、扇子の骨の片方にしか布を張っていなかった。
片方しか、紙を貼っていないものは、とても、安い物を買ったようで、がっかりとしたのですが、・・・・。
インタネットで調べたら、片方しか骨に紙を貼っていないのは、そんなにおかしい事ではなく、普通の作り方の様でした。
勿論、両面に紙を貼ったものもありますが、両面に紙を貼った扇子が当たり前ではないらしい。
扇子の歴史を調べると、その昔、片側にしか紙を貼っていない扇子は蝙蝠(かわほり)扇と云ったようです。
広げたようすが蝙蝠(コウモリ)に似ていることから蝙蝠扇とよばれるようになったといいます。
厳島神社蔵:五本骨の蝙蝠(かわほり)扇(模倣品)。
南北朝時代(1333~1392年)には、中国から両面に紙を貼った唐扇(からおうぎ)とよばれる扇が逆輸入されるようになりました。
私たちが、当たり前と思っていた両面に紙を貼った扇子は本来の日本の扇ではなかったようです。
…愛知用水の水を田に引き入れる為の用水がある。
この時期、用水側に生えている植物は茂り、用水路の水に向かって垂れ下がる。
水の流れは、私に心を落ち着かせ、花は気持ちを明るくする。
用水に垂れさがる植物の花と水路の水との組み合わせは、そんな心に与える効果と美しさが合わさって、見る人の心をホッとさせる物がある。
たくさん撮った写真の内の幾枚かを下に載せる。
この用水沿いの道は、季節の植物が色々とあり、人通りも少ないので、私のお気に入りの道です。
・・・今回の台風では、来る前は、とても大きな台風と感じていたが、我が家の被害は、玄関前に出ていたままに、なっていた1メートルほどの高さの鉢植えの木が倒れていたのが唯一の被害だった。
台風の影響がまだ感じられない、昨日の夕方に、早めの風呂に入りながら、フト、子どもの頃を思い出した。
半世紀以上も前、私が子供のころ、台風が来る日は、親父が仕事から早く帰ってきて、台風を迎える準備をしていた。
子供だった私は、大人がする役目と思って、いつも、親父に付いて回って、その作業を見ていた。
その頃の雨戸は、木製だったので、それが飛ばないようにしたり、雨戸が無いところは、木の板を打ち付けて、窓をカバーしたりして、ひとしきり、台風を迎える準備をしていた。
それは、懐かしい子供の頃の思い出の一つです。
そんな経験があるからか、今も、台風が近づくと、何もすることが無い筈なのに、知らず内に、家の周りを点検して、飛ばされるものが無いか、点検するのが、家の主人の仕事と、やっているように思う。
今は、かなり大きな台風が来ても、家の作りはシッカリとしていて、サッシもしっかりしているので、台風が近くを通過しても、戸外が、暴風雨であっても、窓は二重ガラスで、家の中は静かなものである。
子供の頃は、強い台風だと、何事もなく、台風が行き過ぎるように、願っていたのが、嘘のようである。
・・・今年になって、日本の株価は北朝鮮のミサイルが発射されるたびに下がるのが、定常状態になっていたが、先月くらいから、反応がとても瞬間的になってきたように感じた。
特に、一昨日は午前中に少し下がっただけで、午後には株価が上がっていた。
データー好きの私としては、本当にそうなっているのか調べてみることにした。
今年になって北朝鮮のミサイル発射の一覧表を調べてみると、全部で、13回あった。
日経平均株価のグラフを調べて、発射された日にちをグラフに入れてみた。
少し、グラフが小さくてわかりづらいですが、横軸は今年の二月から九月まで、縦軸は日経平均株価です。
今年、2月から7月末までにミサイルは9回発射されていて、発射された日から4日~5日間は日経平均株価は下がり続けている。
しかし、8月からは3回発射されているが、その影響があるのは一日位で、一昨日の9/15に至っては、午前中のみになっている。
ミサイル発射だけではないが、世の中の出来事に対しての、恐ろしさの人の慣れと云うのは恐ろしいものである。
・・・何となく見ていた海外の旅番組で、オーストラリアの原住民が、5000年前に暦を持って、考えていたと云う話があった。
岩絵に星座が残されていたり、月の満ち欠けを知って、季節の果物を食べることを描いて有ったりと、ある意味の暦が、砂漠の岩に絵の具で描いて有るのを放送していた。
中国もエジプトも日本もすべて、その時代は場所によって、年代はズレルが、
古代の人は空を見て、物語を考えたり、自分たちの歴史を残したりして、星の動きや、星座、月の満ち欠けを記録し、見ていたらしい。
それは古代人たちが生きていく上での重要なこと、何時の季節に、魚が川をさかのぼってきて、どんな魚が食べれるかとか、どんな時に洪水が起きて、どんな危険が迫ってくるか・・・などを星とか月、太陽の位置、形の変化などと関係づけて学び記録し、活用していたらしい。。
私が想像するのに、古代の人は暗くなると、何もやることが無く、寝転がって空を眺めていたに違いない、そして、詩文の想像を膨らませて、星座を考えたり、歴史を星座の形で考えたりして、夜を過ごして子供たちに、その話をしていたと思う。
以前、ニュージランドに行った時に、ホテルの庭で、空の星を眺めるツアーに参加したことがあった。
人生で初めて見るような、満点の星空を見た感動したことが頭に残っている。
あれだけたくさんの星を空に見ると、その星に物語を想像して見るのはありだと実感として思った。
我々も夜、何にもすることなく、ただ黙ってじっと皆で、空の星が見れたら、もっとこの世に、星の物語が増えることと思います。