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ジョギングはシャンパンの味

ジョギング、写真、革クラフト、木工、パンつくり、日本の古代史などを趣味にして楽しんでいます。

会津大塚山古墳

2025年05月23日 18時55分52秒 | 日本古代史
町はずれの高い場所に大塚山古墳がありました。
日本古代史好きの私としては行きたくなって、急遽、この前方後円墳に寄ってきました。
大塚山古墳は会津の地を支配していた豪族の古墳で副葬品からも大和朝廷と関係があったものとされています。


小高い丘全体が市民の墓地になっています。



墓地の中央にあってきれいに保存されています。

大塚山古墳は築造年代は四世紀後半の古墳時代前期の前方後円墳で全長114mの大きさでこの時期の古墳としてはかなり大きな古墳です。

先日ここのブログで紹介させていただきました仙台平原にある雷神山古墳は東北一の前方後円墳で全長168メーターありました。

雷神山古墳は古墳時代前期(西暦400年頃)の古墳で、全国で同時期で一番大きな古墳は奈良盆地にある景行天皇陵とされている全長310メータ古墳です。
そのほかにこの時代で大きな古墳というと関東の浅間山古墳が173mぐらいで、その次くらいに雷神山古墳が大きいです。

その他の地方ではもっと小さな古墳しかなく、前期の古墳時代の段階では、大きな古墳を作っていたのは主に奈良盆地の大和朝廷の勢力範囲の近畿地方がほとんどです。

なぜ東北に大規模な前方後円墳がと思うわけですが、これについては今まで検討された資料はとても少ないです。

雷神山古墳は港に近い場所にありますので比較的都に行きやすいのですが、山の中にある会津の大塚山古墳は都から遠く、且つ、山の中にあるので何故ここに114mの大規模前方後円墳があったのか、この謎についてはとても興味深いいと感じました。

雷神山古墳に行きました

2025年05月16日 20時04分24秒 | 日本古代史
雷神山古墳は宮城県名取市にあります。
仙台空港のすぐそばです。




全長は168mあり、西暦400年頃に作られたと考えられています。



後円部の頂上には雷神さんが祀ってあり、そこから雷神山古墳と名付けられたらしいです。



頂上にある雷神さんの祠です。
古墳時代の全盛期のころに、大和王朝の影響を受けた、こんな大きな前方後円墳が仙台平野のこの場所に作られたことが驚きです。




モモは弥生時代から

2025年03月05日 14時49分56秒 | 日本古代史

上の新聞記事は「桃の実が日本で食べられたのは、考古学的には縄文時代と思われていたが、最近の科学的年代測定によると弥生時代中期からだ」という記事です。

桃の実が何時から食べられているかは、そんなに大事なことではないが、日本古代史とモモの実はかなり関係が深い。

卑弥呼がどこにいたかというのは、「邪馬台国の位置論争」で大きな課題であるが、奈良の纏向遺跡の建屋後から、大量のモモの種が出土して、呪術にたけていた卑弥呼がこの建屋で占いをしたいた証拠でないかという説もある。

その根拠は古代中国では、モモは神仙の食べ物として不老不死に結びついたものとされていたから、占いに使われ、卑弥呼は占い師であったということから来ているらしい。

それらのモモにかかわる考え方とともに、弥生時代に米作の伝来などと同じ時代に、モモは日本に伝わってきたらしい。


辰砂の古代採掘技術

2025年01月20日 20時59分00秒 | 日本古代史

今日の新聞に徳島県から古代の辰砂採掘技術を裏付ける遺跡が発見されたと報道されていた。

普通は目にとめない記事ですが、私は古代史に興味があるので、国内の古墳等に使われる朱が外国から、持ち込まれたものの他、徳島産のものがあるという内容を知っていたので、なぜ徳島産なのかと興味があった。

その裏付けの遺物が発見された記事を知って、とても興味を持って読んだ。







断夫山古墳

2024年09月18日 21時26分00秒 | 日本古代史

昨日、熱田神宮に行ったときに、道路を挟んで、西側にある神宮公園に行きました。
そこには、東海地方でも一番大きな前方後円墳があります。

上の写真は熱田の森です。

断夫山古墳の形を描いた看板が立っていました。

長さは151メートルあります。

上の写真は古墳のそばに立っている説明用の立て札です。
名古屋市はあまり、この古墳を積極的に説明していませんが、この古墳は6世紀前半の築造とされており、このころの継体天皇の奥さんの目の子姫のお父さんにあたる尾張連草香の墓という説が有力です。同時代の大きな前方後円墳としては筑紫の君磐井の岩戸山古墳が135 メートル、継体天皇の墓とされる今城塚古墳が190メートルですから大きさとしては天皇の義理の父にあたる尾張連草香の墓が適当と思われる。

尚、目の子姫の子供は安閑・宣化天皇です。


伊勢神宮について

2024年06月17日 18時56分46秒 | 日本古代史

伊勢神宮は天皇家の氏神であります。
これは日本書紀や古事記の最初に神話として書いてあります。

しかし、そもそも天皇家が始まったのは奈良盆地の南東のあたりにある桜井市のでたりとありますが、
天皇家の発祥の地とされている奈良盆地と遠く離れている
伊勢の地で、何故、先祖(天照大神)をお祀りしたのかと古代史に興味を持つと、こんなことが疑問となります。

記紀によると、天照大神は最初は天皇のいる 宮殿にお祀りしていたそうですが 、10代の祟神天皇の頃、宮殿のある場所の少し北になる大和の 笠縫村に神社を作ったそうです。

しかし 次の垂仁天皇の頃、親王の命に指示して、他の地に移転することを考え 、近江、 美濃も探したそうですが最終的に 伊勢の地に落ち着いたそうです。

今の古代日本史の研究によると、伊勢の地に決まったのは 、天武天皇が壬申の乱で伊勢地方の豪族を頼りにしたのでその功績として 伊勢の地が選ばれたこと、 また、尾張、美濃、越前しなのより以北の地を開拓するについて 交通の要所である 伊勢湾岸の地を重要視したために伊勢神宮を置かれたとも言われています。

私が古代日本史の本を読んでいると伊勢神宮には色々と疑問があります、次に、またここで紹介したいと思います。


宝塚古墳の埴輪が国宝に

2024年03月20日 17時38分12秒 | 日本古代史

ちょうど十年前くらいに、三重県の松阪市にある有名な船形埴輪を見に宝塚一号古墳を見学に行きました。

昨日の新聞にその船形埴輪が国宝になったというニュースが載っていました。【上の写真】
古代史の中では有名な埴輪で、私が見た埴輪はとても大きく存在感のあるものでした。

そして、その見学記をこのブログに載せましたので、以下に引用しておきます。

「宝塚一号墳の船形は庭の見学記」

この古墳は五世紀の初めの築造で旧伊勢国最大の大きさです。

 

 

 全長111mの前方後円墳で、全国的な大きさから云うと大したことはないのですが、造りだしから発掘された埴輪が多彩で、全国的に有名になりました。

 
 「展示されていた本物の装飾舟形埴輪」

 

 有名なのは全長が140㎝、高さ92㎝の舟形埴輪で、とくに、装飾を極めた舟形埴輪としては全国で唯一のものです。

 

 その他にも、発掘された、多彩な埴輪が松阪市埋蔵文化センターはにわ館で見学できます。 1700年前の埴輪の実物は素晴らしいもので一見に値します。 展示されている埴輪は今まで私が、見た埴輪の中で、一番素晴らしいものでした。


初代天皇は西暦?年

2023年07月01日 17時20分05秒 | 日本古代史

私は古代スター好きですそれも古墳時代の辺りの年代は興味があります。

日本の国の歴史のスタートは史学的に言うと、詳しく書かれている魏志倭人伝に乗っている、女王卑弥呼の「邪馬台国」が一番確かな古い日本の国かと思います。【国の定義はむつかしいですが】

その他に、詳細はわからないのですが、
中国の後漢書に載っている西暦57年頃の倭の「奴国」(志賀島の金印で有名)、
同じく、後漢書に書かれている西暦107年の倭王の師升が「倭国王」と書かれている。
などが中国の史書には、倭国の国という表現がある。

日本の歴史書である、日本書紀、古事記では初代天皇は神武天皇となっている。
現在の古代史の研究では、本当に実在した天皇は、10代垂神天皇が最初の天皇、または15代応神天皇が最初の天皇、26代継体天皇が最初の天皇、などの説がある。
ちなみに、令和の今上天皇は126代天皇です。

神武天皇という記紀に書かれている内容に当てはまる天皇は、ちょっとそのままに人はいなかったと思うが、仮に初代がいたとして、日本の国の始まりの天皇の年代を考えてみると、

中国の歴史書から、年代がハッキリとわかっている歴史上の年代は、倭王武(21代雄略天皇)の上表文が中国の歴史書に西暦478年のことだと書かれている。

この年代から、初代天皇の年代を計算してみると、
日本の天皇の在位年数は歴史の統計学的な処理で4世紀~5 世紀の天皇の在位年間は10年/代とわかっている。
したがって、雄略天皇は21代天皇ですから、初代神武天皇の在位の時代は、
21代×10年=210年前となり、
初代が在位したのは、478-210=西暦268年頃となる。

面白いことに邪馬台国卑弥呼は魏に最初に使いを送ったのは、西暦239年で、最後に書かれている使者を送った年は、邪馬台国の女王が、西暦266年と中国史書に書かれている。

邪馬台国の後に、古代ヤマト朝廷が出来たとすれば、その最後の使者が贈られた266 年以降となるので、上で計算した初代天皇在位期間西暦268年頃と合う。

こんな、他愛もない計算をしたのも、ユーチューブ動画で、こんな計算をしている歴史学者がいて、それを見て、面白いと思ったからです。

 


上毛野国、下毛野国

2023年06月26日 17時42分10秒 | 日本古代史

私が読む本は日本古代史の本が多いです。

今読んでいる本は「日本の古代豪族」という本です。

おおざっはに言うと日本の古代豪族と言われるのは、奈良の中央豪族の、物部、大伴、平群、葛城、三輪、中臣、蘇我などがあります。
また地方の豪族は筑紫、尾張、丹波、出雲、日向、吉備、関東の上毛野、下毛野などがあります。

ここで、以前から、私が不思議に思う事は、有力豪族がいたのは、九州から瀬戸内海、機内、伊勢湾くらいまでは、弥生時代の文化の伝来ルートなどから、理解できるのですが、
しかし、古代、機内から遠く離れ、文化の伝来ルートとも関係がない、北関東の地域の豪族【上毛野、下毛野など】がどうして古代に奈良の有力豪族と並んで大きな勢力を持っていたのか、不思議になります。

榛名山の麓のあたりは、古代から、文化が発達したのですが、今後、これらを調べたり、遺跡を訪れたいものです。


吉野ケ里遺跡の石棺

2023年05月31日 17時59分13秒 | 日本古代史

今朝の新聞で表記の「吉野ケ里遺跡の石棺」記事を発見した。

石棺というのは、この時代、死んだ人を葬るために石の板を組み合わせて作ったお棺を作りました、それを石棺と云います。
このような状態で掘り出されると、大抵は中は土で埋まっていて、更に長くかかって石棺の中を調査する必要があります。

上の写真は50センチ角ほどの大きさの石でお棺の蓋をしてあるところまで、掘り出した写真です。

そこで、新聞以上の内容を知りたくて、動画や写真を含めインタネットで調べてみた。

この記事の内容は弥生時代を通じて、人が住んでいた遺跡である吉野ケ里遺跡で、未調査地を調査していて、発見したという内容です。

吉野ケ里遺跡は全国的に有名で、この時代の遺跡としては、大きくて、良く整備されている遺跡です。
いつも話題になるのは、邪馬台国の卑弥呼の時代に近いので、ここに邪馬台国があったのではという話題でよくニュースに出てきます。

私も、10年ほど前に、吉野ケ里遺跡を訪れました。
あの地方はこれといって何もない場所なので、とても重要な観光資源となっています。
ある意味、テーマパーク以上に人を、全国的規模で、集められる施設です。

今回の石棺発見の古代史的価値は、さほど期待できるものでないと私は思っています。
しかも、石棺の蓋はまだ明けておられないだけに、この時代の石棺が見つかるのは珍しい話ではありません。

しかも、この遺跡発見の動画記者会見をしていたのは、佐賀県知事でした。
通は考古学者が記者会見するものですが、政治家が出てきたことに、不自然さを感じました。
明らかに、この遺跡を再度売り出そうとしているように仕組んでいるように思います。
知事は、石棺の蓋石は六月に入ってから開けると予告、この吉野ケ里遺跡イベントを引き続きやろうとしているようです。

 


なぜ弥生時代に人口が増えたか

2023年04月06日 22時09分07秒 | 日本古代史

弥生時代に人口が爆発的に増えたということは弥生時代に農業が始まったことと関連付けられてよく語られる。

上の図は、インタネットの記事から引用させていただいた、古代の人口推移のグラフです。

これによると、縄文晩期8万人の人口から、弥生時代の人口59万人に急へ、急に増加する。

理由としては、気候変動や、農業の開始などが主な理由として、今まで言われていた。

狩猟生活の、縄文時代から、稲作が始まった弥生時代になると、人口が爆発的に増えるのは、稲作により食料が安定的に収穫でき、多くの人口を養える量を収穫できるようになったからだと言われている。

今日は、それらとは、別の人口増加の理由を聞いた。

それは ある考古学者の話によると 人類が、稲作の開始により、コメを手に入れ、離乳食を手に入れたからだと言う。
初めて聞く人口増加の説明です。

離乳食が手に入ると、1年ごとに出産ができ 、子供が年子で、増えることができる、 これが人口増加の原因であるという。

調べると離乳食を持たない 狩獵民族では3年間隔の出生らしい。
とても興味深い人口増加の理由である。

母乳だけで育てると3年ごとの 出生というのは納得できる説明である。


江戸時代初期のイタリア地図での日本

2023年02月08日 18時13分12秒 | 日本古代史

伊能忠敬が日本地図を完成したのが、江戸時代末期なので、それまでの日本地図は不正確な地図でした。
先日、インタネットニュースに「江戸時代初期のイタリア地図での日本」が掲載されていた。

この地図を見て面白いのは、この時代に、西欧諸国が、日本のどの場所に興味をもって、情報として知っていたかという事が分かるからです。

例えば、赤い線で囲ってある場所は「江戸、都(京都)、平戸、種子島」と書いてあります。
この場所に、西洋人は興味を持っていたという事です。

また、京都は大阪湾が京都まで入り組んで、海が続いているように地図は書かれている。
これは、当時の交通は、大阪から京都に行くのは船で淀川を使って行けたから、そう地図に書いたのであろうと思われる。

また、平戸も地図上は島になっている。これも、伝え聞いて書いたから、そうなったのだろうと思われる。
種子島も鹿児島近辺で唯一地名が書かれた西洋人に知られた場所になっている。

 


古代史の本を買いました

2023年02月05日 18時03分21秒 | 日本古代史

今日は散歩の帰りに久しぶりに本屋に行きました。

家の近所にブックオフがあり、古本が売っています。
大きな本屋さんですが、コロナになってからは近付かなかったのですが、今日は久しぶりに行きました。

古代史の本が並んでいたので、その中から、三冊買ってきました。
古代史の本は、比較的、マニアックなので、高い値段から売れないので、何枚も値段札が貼ってあって安値で買えました。
新刊本なら、6千円以上したのが、安く変えたので、ろくに中身も見ないで喜んで買ってきました。

狗奴国の本は前に、図書館で一度読んでいる本で、中身は分かっています。

自宅近所の新刊書本の本屋さんは、売れないのか規模を縮小したので、こちらの古本屋の方が、内容は充実しています。

古本屋にも、時々は寄るべきと感じました。


富雄丸山古墳の疑問⑵

2023年01月31日 22時20分49秒 | 日本古代史

先日、紹介した富雄丸山古墳の疑問⑴で、この古墳はとても立派な出土品が出た古墳ではありますが、


築造された奈良盆地の場所の位置関係から、その時代の有力な古墳のグループから離れた場所に築造された、という事が疑問点としてあります、さらに、その古墳の形が前方後円墳でなくて、一般にランクの低い人の古墳である、円墳であるという別の疑問点があります。

この時代、政権につながる有力な人の墓は、前方後円型の古墳が作られます。
序列から言うと、地方の有力者の場合、墓が円墳で作られたと考えられます。
したがって、普通に考えると富雄丸山古墳は富雄川の上流を支配していた、その近辺の地方の有力者の墓と考えられます。
しかし、出土品は地方豪族にしては、かなり立派な鏡と剣です。

そして上の図に富雄丸山古墳の出土品が出た場所が記されていますが、一般にその古墳の主なる被葬者は墓の中央に棺が埋葬されます。
しかし、今回の場合、国宝級の出土品は中央でなく司祭を行うべき古墳の端の場所に埋められていました。

一般に、古墳の中央頂上でなく、古墳の端に埋葬されている被葬者は、築造された後の時代になって、一族の人が古墳を利用して端に埋葬する可能性があります。
そういう点から言えば、今回のような立派な副葬品が出ることは考えられないと思います。


なぜ国宝級の今まで出たことのない立派な鏡と大きな太刀が埋められていたのか、とても不思議です。

出土した国宝級の遺物は鏡と大きな剣ですが、いずれも国産品であることが、それを生前、所持していた被葬者を類推する一つの手掛かりかと思います。

奈良盆地で金属加工していた、この地方の有力者の首長であれば、そのような副葬品があっても、おかしくないかもしれません。
いずれにしても、とても興味のある今回の国宝級の古墳の出土品です。


富雄丸山古墳の疑問⑴

2023年01月30日 17時52分34秒 | 日本古代史

先日、新聞などで大きく取り上げられた富雄丸山古墳の出土物の「盾形鏡・大型蛇行剣」は国宝になるような貴重な発見です。

しかし、今まで、この古墳は大型円墳であるということ以外であまり注目をされていない古墳でした。
作られた時期は四世紀後半と言われているので、応神天皇の時代で、それらの古墳の主体は佐紀古墳群、馬見塚古墳群で、この古墳は、それらの古墳群から離れた位置にある。

上の図は奈良盆地の主な古墳を地図に示した資料ですが、今回の発見の前なので、ここには、富雄丸山古墳は載っていません。

富雄丸山古墳は、奈良盆地の北西の位置にある富雄川の上流にあります。
上図に私が赤線の丸で囲みました。
この時代の主な古墳は、奈良盆地の北にある佐紀古墳群(黄色の線で囲った位置)に主な古墳が集中しています。

その点から考えると、とても立派な出土品が出た富雄丸山古墳の被葬者は、その時代、主要な地位にあった人とは思えず、その時代のどういう地位にあった人かとても興味ある問題です。