・・・「幸福を感じる」については何もない、平和な生活を送っていると、考える機会は少ないが、最近、改めてその言葉をよく聞く機会がありました。
東北震災事故の報道を見ていて、住んでいた家や身近な人を亡くした、大変な災害を受けた人が「生きているだけで幸せだ・・・」という言葉を言われるのを、聞きました。
それを見た震災と関係のない地方の人は「震災を受けた人に比べて、毎日、不自由しない生活を送っている我々はなんと幸せなのか・・・」とコメントを発言しておられます。
・・・現役を引退して、毎日、自由気ままに生活させていただいている我々も、憧れだった生活をしながら、ともすれば、「自分には、本当はもっと幸せな生活があるのでは・・」などと考えることもあります。
・・・どうも「幸福と感じるレベル」というのは、自分の五感で感じる周りの事件と、比較して、置かれた環境が、良いか、悪いのか、ということで、「幸せと感じる」のか否か、という状況になるらしい。
最初に書いた、被災した人が「生きているだけで幸せだ・・・」と感じるのは、周りの人がみんな同じような被災者がいる環境で、自分より、もっとひどい被災にあっている人がいるから、それに比較して、幸せと感じるわけである。
同じように、震災と関係のない地方の人が、「震災を受けた人に比べて、毎日、不自由しない生活を送っている我々は、なんと幸せなのか・・・」と感じるのはテレビなどで大変な被災に合われた人たちを見て、その人たちに比べて、自分が幸せと感じるわけである。
・・・それならば、幸せと感じる感度を上げて、毎日が幸せを感じれる生活をするためには、比較する対象を知るための感度をあげて、苦労しておられる世界の人々に向かってアンテナを広げて、学ぶことによって、自分の生活の良さを感じられるのかもしれない。
また、そのほかにも自分自身の毎日の生活を質素にし、簡単にほしいものを手に入れない等の努力を実践すれば、アンテナに入ってくる比較する対象の厳しさが、自分たちの生活の素晴らしさとの比較で、幸せを感じるのではないでしょうか。
・・・そういう意味では我々の世代は、勿体ない、我慢、贅沢・・などの言葉を身をもって知っています。
そういう世代は「幸福と感じるレベル」の感度が高いのではないでしょうか。
日常の変化がない我々も、広く世間に目を開いて、いかに自分が世の中で恵まれた日常を送っているかを認識する機会を多く持つことが「幸せを感じるレベルを低く」することになるのでは・・・・・と思いました。