・・・友達のブログを読んでいて、フト、世の中がバブルだった頃の事を思い出した。
友達のブログの内容は・・・・テレビで有名なハーバート大の教授の論によると、過去30年、米国では行き過ぎた市場原理主義が社会を覆い、政治が正義や平等、家族、コミュニティーの存在意義を省みなくなった、と論じている。
日本でも、先の自民党小泉政権の折、規制緩和を推し進めるという大義で、全てに競争原理をあてはめ、日本にあった古い家族主義的経営から米国流の株主利益の最大化が指向された。元を辿れば、其のことが今日の行き過ぎた格差社会を生んでいるのではないかと思われるのです。
ここからは私の論ですが、日本の社会が経済成長とともに、変な方向に進み始めた1980年代ころから、私が属していた会社の中で、最高の決断事項である、多額の設備投資の決定のプロセスに参加している中で、なんか変だなと思ったことがしばしばあった。
私が変だと思う根拠は私が育ってきた環境の中で、子どものころから見聞きしていた、大阪商人だった私の親の生き方、考え方が元に在った。
私は設備投資を社内で提案に関わる機会がしばしばあったのですが、それを指導する上司はまず投資に金を使う事ありきで、社内基準を満足していれば十分な条件を満たしていて、その投資の有効性を判断する会社への責任や失敗をした時のモラルはあまり考えていなくて、そんな仕事に消極的な私を指導していたように思う。
私が親から教わってきた考え方によれば、金を使うときには必ず最悪の時でも、投資を決めた本人が、何とかできる自信を持ってやっていたように思うが、あのころの上司はそんな考え方を否定した行動でした。
自分自身の金だったら、そんな判断しないのにと思えるような投資に、会社の資本金に相当するような投資を提案していたように覚えている。
その考え方は会社で決められた、投資回収年限や会社で決められたモラルを形式上満足していればそれで良く、一番重要な前提条件である、投資の対象市場の考え方や、技術上のポイントを自分で考え、判断しなくて、投資の提案をノルマのような仕事として、無責任な態度で投資の決定をしていた。
それを経済用語の言葉を借りて表現をすれば「市場原理主義が社会を覆い、政治が正義や平等、家族、コミュニティーの存在意義を省みなくなった。」と云う事であるように思う。
その後、私は、別の会社で経営判断をするときには、私は常に、利益が出るか否かはもちろんであるが、それ以上に、この決断に自分に自信があるか否か、もし、失敗したら、責任を負えるか、を判断基準にしていた。
自分の決断に、責任が負えるかと云う言葉の内容は、社会的に正しいか、家族や会社、それを構成している社員を考えた上での判断かと、置きかえれるように思う。
その頃の仲間の行動を振り返って考えてみるに、経営判断の決定の基準の優先順位が利益第一主義であったように思い出す。
こんな考え方か゛、所謂、「市場原理主義の重視」と云う事でしょう。
これからの社会で、政治や社会がこのような考え方を排斥して行くための方法は、「世の中の決断をする人は、その人の権力とともに、決断により発生する責任を問う事を、社会が要求するようになることにある」と思う。
今まで、私が見てきた、日本の社会は決断に責任が伴わない暗黙のルールがあるように思う。
このことが無責任で、正義を伴わない方向に日本社会が進んできた理由があるように思う。