・・・日本の巨大古墳を墳丘長の大きさ順に並べると、
一位は通称「仁徳天皇陵」、墳丘長486m、時代は400年代前半、
二位は通称「応神天皇陵」、墳丘長420m、時代は400年代前半、
三位は上石津ミサンザイ古墳、通称「履中天皇陵」墳丘長365m、時代は400年代初頭、
四位は造山古墳、通称「吉備首長の墓」、墳丘長360m、時代は400年代初頭。
前記の四古墳を、400年代初頭の時代で、大きさで考えてみると、前記の一位と二位の古墳はまだなかったわけだから、日本列島で、一番大きな古墳は「上石津ミサンザイ古墳」で、それは大阪南部の百舌鳥にあり、それとほぼ同じ大きさの巨大古墳が「造山古墳」で、岡山の吉備平野にあったのです。
このころ、朝鮮半島では北の高句麗が力を増し、それに対応するために、半島南の百済と新羅、伽羅が倭国と組んで、高句麗と闘っていた時代です。
これらの時代を経ることによって、畿内のヤマイ勢力が朝鮮との戦いで力を持ち、400年代前半の時代に巨大な仁徳陵と応神陵を作ることになった。
このころになると、400年代初頭には、畿内のヤマト勢力と同じ大きさの古墳を作っていた吉備の勢力は発展せず、畿内より小さい。
400年代前半に於いて、吉備平野で作られた大きな古墳は、大きさ9位の作山古墳、墳丘長286mです。
そして、だんだん、それからの吉備では古墳が小さくなっていく。
具体的には、5世紀末になると、両宮山古墳、墳丘長192m、6世紀初頭には吉備の首長の古墳は100メートルくらいの大きさになってしまう。
畿内では6世紀前半でも、河内大塚山古墳、墳丘長335m、見瀬丸山古墳、墳丘長318mなどの巨大古墳が続けて、作られている。
上の図は古墳時代を前期(250年頃から380年頃)、中期(380年頃から480年頃)、後期(480年頃から)と分けて、墳丘長の大きさで古墳の絵の大きさを表し、日本を古代の国別に点線で表し、その地方の古墳の大きさを書いた。
この図からも明らかなように古墳時代の中期中頃までは吉備、畿内北部、関東等日本列島の有力な地方には、畿内ヤマトと同じ大きな古墳が造られていたが、古代大和政権が全国を統一していく古墳時代後期では圧倒的な畿内古墳と地方の古墳の大きさに差が、できてくる。
古墳の大きさを考古学的な知識で整理すると、やまと朝廷の成立の時代の日本列島が見えてくる。